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市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編
 ▼論考 ーーよみがえる古代

古代の琴(こと)

正倉院の和琴(わごん)への飛躍

増田修

一 はじめに

 和琴は、神楽笛・笏(しゃく)拍子などと共に、神楽歌・久米歌・東遊・大和歌・大歌・誄(るい)歌といった我国古来の歌曲の伴奏に使用されている。そして、和琴は、我国固有の楽器であるという。現在の和琴の制は、平安朝末期に固定化し今日に至っているが、その直接の祖型は、正倉院御物の六絃の和琴にある。
 ところが、古墳時代の埴輪の弾琴像や埴輪の琴は、四絃または五絃で、六絃のものはない。近畿地方から出土した埴輪の琴も、五絃である。また、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から出土した木製の琴は、絃が残存していないため、尾部の突起の数や形状・埴輪の琴との比較などから推測せざるを得ないが、四絃または五絃である。六絃と明確に断定できるものはないといってよいであろう。
 しかも、『隋書』(魏徴、貞観一〇年・六三六)倭国伝は、「楽に五絃の琴、笛有り」という。そして、倭国の聖地沖ノ島からは、遺棄されたような状態にあった五絃の琴の雛型が二面出土している。この雛型琴は、七世紀末葉から八世紀初葉に位置づけられるものと考えられている。一方、古墳時代の関東地方には、四絃の埴輪の琴が濃密に分布している。しかし、正倉院には、四絃や五絃の琴はない。
 琴は、元来、王者の宝器で祭祀に用いられる神聖な楽器であった。琴の絃数の相違は、異なる幹音数で異なる音域の音楽を演奏していたことを証明している。これらの事実は、古代日本には、祭祀に当って異なった音楽を用いる異なった祭祀圏=政治圏が、存在していたことを示唆している。また、大和朝廷によって、七世紀末から八世紀初にかけての頃、琴制に大変革が加えられたことを暗示している。
 そこで、多元史観の立場をとる古田武彦氏の研究成果に依拠しながら、古代の琴の構造・特徴、その使われ方、四絃の琴と五絃の琴の出土の分布の意味するところなどについて検討してみよう。

二 出土した古代の琴

 第二次世界大戦前は、埴輪の琴については、昭和六年後藤守一氏が、群馬県剛志村上武士所在の前方後円墳から出土した弾琴像と栃木県大内村所在の鶏塚古墳から出土した弾琴像を報告しているほか、相川考古館所蔵の弾琴像などが知られている位であった。木製の実物の琴は、昭和二六年黒沢隆朝氏が、昭和一八年登呂遺跡から出土した用途不明木製品中から、発見したのが最初である。
 第二次世界大戦後は、復興・経済成長の波に乗ってあらゆる内容・規模の開発事業が全国的に行なわれるようになり、埋蔵文化財の発掘調査が激増した。その結果、現在では木製の琴や埴輪の琴の出土例は、五〇例以上に達している。そして、発掘調査報告書と研究論文が、次々と発表されている。
 そこで、それらの報告・論文および『月刊文化財発掘出土情報』などに紹介された、古代の琴のリストを掲げておこう。リストは、出土地・種類(木製・埴輪弾琴像・埴輪片・須恵器装飾・金属製)・形状(箆形・台形・棒形、長方形は省略)・突起数(括弧内は推定)・絃数(線刻・粘土紐・隆帯、括弧内は推定)・張絃状態(木製は集絃口、埴輪は放射状・平行)・共鳴器(木製は槽、埴輪は左右腋板)・考古学年代(縄文時代〜奈良時代)・所蔵または管理者(教育委員会は教委と省略)・備考の順に記載した。不明な項目は記載していない。

1 福岡県八女市岩戸山古墳 埴輪 五絃線刻 放射状 五二七年頃 八女市中央公民館
2 福岡県春日市辻田(つじばたけ)遺跡 木製一号琴 六突起 集絃口槽 弥生後期 福岡県教委 他に木製琴断片三点出土
3 福岡県大島村沖ノ島五号遺跡 金銅製一号・二号 五絃放射状 槽 七世紀末〜八世紀初 宗像大社宝物館 鴟尾型
4 鳥取県倉吉市野口一号墳 須恵器装飾 三絃線刻 平行 六世紀後半 倉吉市教委
5 岡山市南方釜田遺跡 木製 六突起 集絃口 槽 古墳前期前半 岡山市教委
6 兵庫県春日町山垣遺跡 木製 四突起 集絃口 奈良前半 兵庫県教委
7 兵庫県篠山町葭池北遺跡 木製棒形 五突起 集絃口 古墳中期 篠山町教委
8 京都府大宮町正垣遺跡 木製 三突起残 集絃口 弥生後期 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
9 大阪府東大阪市巨摩廃寺遺跡 木製 一突起残 財団法人大阪文化財センター
10 大阪府新家遺跡 木製 三突起残 財団法人大阪文化財センター
11大阪府野々井遺跡 弾琴像 五絃線刻 平行 左右腋板 古墳 大阪府教委 頭部に集絃口様のものあり
12 奈良県天理市森本寺山一二号墳 埴輪 五絃粘土紐 放射状 五世紀末 橿原考古学研究所
13 天理市荒蒔古墳 埴輪 (一絃) 粘土紐 六世紀前半 天理市教委 弓琴であろう
14 天理市布留遺跡 木製 六突起 集絃口 奈良 天理参考館
15 奈良県橿原市四条大田中遺跡 木製棒形二面 五突起 古墳中期 橿原市教委
16 滋賀県草津市中沢遺跡 木製 一突起残 槽 弥生後期 草津市教委
17 滋賀県守山市服部遺跡 木製 六突起 槽 古墳中期 滋賀県教委
18 守山市赤井野遣跡 木製 三突起残 槽 古墳前期 滋賀県教委
19 滋賀県野州町市三宅遺跡 木製 三突起残 槽 五世紀中期 野州町教委
20 滋賀県新旭町森浜遺跡 木製棒状一号琴(五突起) 古墳中期 滋賀県教委 他に木製二号・三号(三突起残 槽)出土
21 滋賀県彦根市松原内湖遺跡 木製箆形 (四絃) 縄文晩期 滋賀県教委 他に木製箆形(二絃)出土
22 三重県津市納所遺跡 木製箆形(二絃) 弥生前期 三重県教育委 他に木製台形(五〜六絃・平行)出土(木枕か?)
23 石川県金沢市西念・南新保遺跡 木製 三突起残 槽 弥生後期 金沢市教委
24 新潟県刈羽村刈羽・西谷遺跡 木製 三突起残 槽 弥生末期〜古墳前期 新潟県教委
25 静岡市登呂遺跡 木製 六突起 弥生後期 登呂博物館
26 静岡市小黒遺跡 木製 六突起 集絃口 弥生終末期〜古墳前期 登呂博物館
27 神奈川県横須賀市蓼ケ原古墳 弾琴像 四絃粘土紐 放射状 横須賀市自然人文博物館 鴟尾型
28 千葉県木更津市 木製棒形 五突起 集絃口 古墳後期 金鈴塚遺物保存館
29 千葉県芝山町姫塚 弾琴像 四絃線刻 平行 古墳後期 芝山町はにわ博物館
30 千葉県芝山町殿部田一号墳 弾琴像 四絃線刻 平行 古墳後期 芝山町はにわ博物館 鴟尾型
31 埼玉県東松山市 埴輪 五絃粘土紐 平行 国学院大学 櫛の可能性大
32 埼玉県川本町舟山 弾琴像 四絃線刻 放射状 古墳後期 埼玉県立博物館 鴟尾型
33 埼玉県熊谷市女塚一号墳 埴輪 四絃隆帯 放射状 五世紀末 熊谷市教委 琴以外の可能性あり
34 埼玉県行田市稲荷山古墳 埴輪 四絃隆帯 放射状 五世紀末 さきたま資料館
35 行田市瓦塚古墳 弾琴像 四絃線刻 放射状 六世紀中葉 さきたま資料館 鴟尾型 他に埴輪の琴(五絃線刻)出土
36 行田市奥の山古墳 埴輪 四絃線刻 放射状 六世紀後半 さきたま資料館
37 群馬県前橋市朝倉 弾琴像 四絃粘土紐 放射状 左右腋板 古墳 相川考古館 鴟尾型
38 群馬県赤堀町 埴輪 五絃線刻 放射状 古墳後期 相川考古館 鴟尾型
39 群馬県赤堀町 弾琴像 四絃粘土紐 放射状 古墳 西村一明 鴟尾型
40 群馬県境町剛志上武士 弾琴像 (四絃?) 粘土紐 放射状 左右腋板 東京帝室博物館(現在は所在不明)
41 栃木県佐野市羽田 弾琴像 四絃粘土紐 放射状 左右腋板 古墳後期 八王子市郷土資料館
42 栃木県真岡市鶏塚古墳 弾琴像 五絃線刻 平行 古墳後期 東京国立博物館 鴟尾型 琴頭に鈴が三個あり
43 茨城県土浦市都和 埴輪 五絃線刻 放射状 左右腋板 古墳後期 瀬良陽介 群馬県出土ともいう
44 茨城県石下町篠山稲荷山古墳 埴輪 五絃線刻 放射状 古墳 井上昇三 鴟尾型
45 茨城県岩瀬町 弾琴女性像 昭和三三年「はにわ展」(ブリジストン美術館)に出品(現在は所在不明)
46 茨城県 弾琴像 五絃粘土紐 放射状 左右腋板 古墳 井上広明 鴟尾型
47 茨城県筑波郡荒川沖 埴輪 五絃線刻 放射状 古墳後期 八王子市郷土資料館 鴟尾型
48 茨城県茨城町駒形 埴輪 五絃線刻 放射状 古墳 東京国立博物館 鴟尾型 
49 福島県泉崎村原山一号墳 弾琴像 四絃線刻 放射状 五世紀末〜六世紀初 福島県立博物館
50 青森県八戸市是川中居遺跡 木製箆形 (二絃) 縄文晩期 是川考古館 一九本出土
51 青森県木造町亀ケ岡遺跡 木製箆形 (二絃) 縄文晩期 慶応大学
52 北海道小樽市忍路土場遺跡 木製箆形 (四絃?) 縄文後期〜晩期 財団法人北海道埋蔵文化財センター

三 古代の琴の構造と特徴

 それでは、古代の琴の構造と特徴を木製・金属製・埴輪の順に解説しよう。
 (1)木製の琴
 1). 形状 その外形から、岸辺成雄氏によって、箆形・棒形・台形・長方形の四種に分類にされている。
 箆形には、八戸市是川遺跡・青森県亀ケ岡遺跡・津市納所遺跡・小樽市忍路土場遺跡・彦根市松原内湖遺跡から出土した箆状木器がある。是川遺跡から出土した箆状木器には、頭部に二個の突起がある。先端が完形のものは、先端が三つに分れているか、あるいは先端近くに二個の小孔が並列して存在する。松原内湖と納所出土のものは、先端近くに一個の小孔がある。そこで、これらの木器は、二絃の琴と考えられている。松原内湖出土の他の一本は、剣身状のものが三段重ねになって、頭部に二個の突起があり、先端近くに四個の小孔が並列している。したがって、四絃の琴とされている。忍路土場遺跡のものは、剣身が四段重ねで、先端は欠けているが、松原内湖出土の四絃の琴に似ている。
 これらの箆状木器は、納所遺跡出土のものが弥生時代前期であるほか、縄文時代後期から晩期の所産で、縄文琴といわれている。ただし、箆状木器自体の情報(例えば、絃を張った痕跡がないこと)からは、これを絃楽器と理解することはできない、という反論がある。なお、是川遺跡の箆状琴は、木更津市菅生遺跡出土の棒形の琴と類似しているという指摘がある。
 棒形には、滋賀県森浜遺跡の一号琴・檀原市四条大田中遺跡の二面・兵庫県葭池北遺跡出土琴・菅生遺跡出土琴の五面がある。
 これらは、琴尾寄りの裏面には抉りを入れて琴尾に向って次第に薄く仕上げ、三角稜を作り出している。琴板の裏面は、肉厚で舟底形または三角形に膨らんでいる。琴尾の突起は、いずれも五本と推定されている。和琴の祖型の変型ともみられている。
 台形には、津市納所遺跡出土の木製品がある。左右均斉・台形の板で、形状は和琴とは全く異なっている。両側縁に二列の対称的な配置をとっている三角孔が絃を張る構造に適していること、台形で共鳴器を持つ韓国の洋琴に似ていること、などから琴と推定されている。しかし、洋琴は時代的に後のもので、納所遺跡の一列のみから琴とみるには問題があろう。
 長方形には、以上の箆形・棒形・台形を除く矩形のものが入る。和琴の祖型と考えられている。時代的には、弥生時代中期から古墳時代後期にわたる。長さも、登呂遺跡出土琴の四一センチから滋賀県市三宅遺跡出土琴の六一センチのものまで様々である。古いものでも共鳴槽を有するものがある一方、時代が下っても一枚板のものもある。一枚板から共鳴槽を有する琴へと発展したのではあるまい。共鳴槽の有無は、使用目的・地域などの差による相違であろう。

是川箆状木器(『是川遺跡出土物報告書』より)
松原内湖出土の縄文の四絃琴(『月刊文化財発掘出土情報』49号より)
木更津市菅生出土(『大場磐雄著作集五』より)
春日市辻田一号琴(『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』12より)

是川箆状木器、松原内湖出土の縄文の四絃琴、木更津市菅生出土、春日市辻田一号琴

 

 2). 絃数
 木製の実物は、絃が消失しているので、絃数の決定は困難である。尾部の突起の各々に絃を結びつけたり引掛けたりするのか、あるいは突起と突起との間から絃を出すのかによって、絃数が異なってくる。
 守山市服部遺跡出土琴は、突起は六本ある。ところが、表板の両端の突起が、共鳴槽の先端と重なって厚くなっているため、絃を結びつけるのに適していないこと、および琴柱(ことじ)が琴の下から四点出土していることから、四絃と推定されている。しかし、絃を突起と突起の間から出す五絃の琴であろう。
 その理由は、 (一) 服部遺跡出土琴の琴柱は、元々四点かどうか不明であること、 (二) 突起に絃を結びつけても、突起の間から絃を五本出せること、 (三) 絃の先端を輪にして突起の根元に引掛けて、突起ごとに絃を出す方法では、調絃が困難なこと、 (四) 突起の先に絃を引掛けるときは、金沢市西念・南新保遺跡出土琴のように突起の先にV字型の切り込みを作り出して、これに絃を引掛けていたと考えられること、 (五) 埴輪の琴には、絃が突起の間から出ているものがかなりあること、 (六) 近畿地方出土の埴輪の琴も、二面は五絃であること、 (七) 後に述べるように北九州は、五絃の琴が支配的な地域であって、春日市辻田遺跡出土の一号琴は六突起であるが、五絃と考えられること、などである。
 なお、正倉院の和琴は、六突起で六絃である。しかし、これは突起の中央に穴を明けて絃を通しており、絃を単純に突起に結びつけたり引掛けているわけではない。むしろ、突起の先のV字型の切り込みの代わりに、穴を明けたものとみることができる。また、完形の木製の琴は、五突起または六突起であって、七突起のものはない。さらに、完形で出土したものには、集絃口がみられ、基本的には、絃を放射状に張っていたものと考えられる。

 3). 共鳴器
 共鳴槽が付いたまま出土したものは、服部遺跡出土琴のほか僅かしかない。しかし、辻田遺跡出土一号琴のように左右腋板を嵌め込むための溝が表板の裏に切り込んであったり、左右腋板を結びつけるための小孔が表板の縁辺に沿って明けられている(結びつけるための樹皮が残っている例がある)ことから、共鳴器を持っていたかどうか判断されている。ただし、この方法では、底板の有無は分らない。

 (2) 金属製の琴
 沖ノ島五号遺跡から金銅製雛型琴が二面発見されている。いずれも五絃で共鳴槽を持つ。頭部は、先端方向に撥状に開いた、鴟尾琴の形を残している。『倭名類聚抄』(源順、九三〇年頃)には、「倭琴、首造鴟尾之形也」とある。『延喜式』(藤原時平・忠平ほか、延長五年・九二七)でも、伊勢大神宮の神宝のいわゆる鴟尾琴について「頭鴟尾」という。現在では、和琴の鴟尾は突起を指している。しかし、古代の琴では、頭の撥状に開いた形を、鴟尾と呼んでいたと考えられる。
 この雛型琴は、尾部が若干破損したり銹化欠失しているので、突起の有無は分らない。しかし、頭部寄りの鴟尾の根元の中央付近に並行して開けられた五個の絃孔から、尾部に向って放射状に絃が張られていたと推定される。一号琴の五点の琴柱は、上部に穴があいており、その穴に絃を通す構造になっているのが注目される。これに対し、出土した木製の琴柱は、上端中央が凹んでおり、そこに絃を置く構造である。

沖ノ島雛形琴一号〔『宗像・沖ノ島』I より)

沖ノ島雛形琴一号


 (3) 埴輪の琴
 埴輪は、省略したり強調したりしている部分があるので、必ずしも実物の琴をそのまま縮小して作られているわけではない。しかし、演奏者・演奏法・絃数・絃の張り方など出土した木製の琴では知ることのできない情報を提供してくれる。

 1). 演奏像
 埴輪の弾琴像から演奏者をみると、一例を除き男性である。わずかに、茨城県岩瀬町出土の弾琴像が、頭部のマゲからみて、女性と判断される。弾琴像は、椅子に腰かけているものとあぐらをかいているものがあり、琴を膝の上に乗せている。そして、尾部の突起を左手側、頭部を右手側に置いている。ただし、右の女性弾琴像は、下肢が不自然に横向きに付いており、尾部の突起が右手側にある。この女性弾琴像は、胴体から上の部分と下肢・椅子の部分が異なるものを、合成した疑いがある。
 演奏者は、王・武人あるいは楽人と思われる。埴輪の弾琴像は、死せる王の地位を、新たに承継する祭式で琴が弾かれている場面であると考えられている。
 演奏像は、両手で絃を弾くような姿をとっているものが多い。千葉県殿部田一号墳および行田市瓦塚古墳の弾琴像は、右手に匙状の撥(ばち)を持っている。八女市岩戸山古墳からは、埴輪の琴片のほか、埴輪の撥が出土している。また、福島県原山一号墳からも、弾琴像のほかに、琴軋(ことさき)のようなものを持つ右手が出土している。更に、横須賀市蓼ケ原古墳出土の弾琴像は、両手指で絃を弾いているような手つきをしているが、右手指で小さな琴軋をつまんでいる。
 古墳時代の琴は、両手指で弾くほか、撥や琴軋で演奏していた。現在の和琴は、箆状の琴軋で弾ずる。

 2). 絃数
 埴輪の琴の絃は、多くは琴頭寄りの集絃口から尾部の突起に向けて放射状に、粘土紐または線刻で描かれている。平行に表現されているものもある。
 絃数は、次の一面を除き、四絃または五絃である。六絃のものはない。倉吉市野口一号墳出土の装飾付台付壼に付いていたと推定される装飾用琴は、三絃の線刻がある。この琴は、極めて小さく絃数を正確に表現しているかどうかは、疑問である。
 埴輪の琴は、尾部の突起が破損しているものが多く、突起の数と絃の数とを比較することができないものが多い。瓦塚古墳出土の弾琴像と埼玉県舟山出土の弾琴像の琴は、完形で、明瞭に五本の突起の間から四本の絃が出ているように描かれている。突起の数と絃の数が同数のものでも、絃の大部分は突起と突起の間から出ているように描かれており、絃を突起に引掛けたり、結びつけたりした表現のものはない。
 蓼ケ原古墳出土の弾琴像の琴は、四絃の粘土紐が四突起の先まで張り付けてある。このような場合、実物では西念・南新保遺跡出土の木製の琴のように、突起の先にV字形の切り込みがなければ、絃は不安定となる。埴輪の琴は、そこまで表現していないのではないかと思われる。

 3). 共鳴器
 埴輪の琴にも、左右腋板が表現されているものが幾つかある。しかし、左右腋板が表現されていない場合でも、埴輪の性格上、一枚板の琴とは断定できないであろう。

 4). 鴟尾
 埴輪の琴には、頭部が鴎尾型のものが多い。特に、茨城県出土の埴輪の琴は、岩瀬町の女性弾琴像が不明であるほか、他の五面はすべて、頭部が鴟尾型である。

 5). 琴柱
 殿部田一号墳と千葉県姫塚出土の弾琴像は、絃の上に粘土の円形薄片を張りつけている。また、岩戸山古墳出土の埴輪の琴片には、二絃・五絃の上に円を描いている。その部分には、絃の線はない。これらの円形は、琴柱を表現したものであろう。『塵袋』(編者不詳、文永・弘安の頃(一二六四〜一二八八)には、次のような記事があるからである。「琴は玉の琴柱ありと聞く・・・琴には玉の琴柱に穴を明けて絃を貫ぬきたるとかや・・・この朝には是を用ゐず常の琴柱を立つ」。沖ノ島の雛型琴の琴柱も、玉の琴柱であることを表現しているのではなかろうか。

44 茨城県篠山稲荷山古墳出土 ハニワ琴
ハニワ弾琴像

茨城県篠山稲荷山古墳出土ハニワ琴、ハニワ弾琴像

 

 (4) 六絃の琴
 岐阜市坂尻一号墳(四世紀後葉)の主体部に副葬されていた六個の琴柱形石製品と呼ばれる碧玉製品は、琴柱に酷似している。水野正好氏によって、六絃の琴の存在を示す資料とされている。
 金沢市西念・南新保遺跡(弥生後期)出土の木製琴は、四突起が残存しているが、琴板の横幅からみて、両端にもう一突起ずつあったと推定できる。この琴は、突起の先がV字型に切り込まれており、そこに絃を掛けたと思われる。突起の先がV字型に切り込みが作り出されている木製琴は、他に新潟県刈羽・西谷遺跡(弥生末期〜古墳初期・三突起残存)と京都府正垣遺跡(弥生後期・三突起残存)出土のものがある。
 以上が六絃の琴であれば、銅鐸国家の琴制ではないか、と想定している。

四 古代の琴の使われ方
 ここでは、古代の琴が我国の古典にどの様に登場してくるか、主要なものを取り上げよう。次に、古代の琴はどの様な音階であったか、そして、中国の古代の琴との関係について一望する。

 (1) 古典に現われる琴
  『古事記』には、大国主命が須佐男命のもとから須世理[田比]売を背負って、生大刀・生弓矢と天沼琴を取り持って逃げ出したという説話がある。天沼琴については、通説は天詔琴という。しかし、応永の古写本にいう天沼琴、すなわち瓊(ぬ)=玉で飾った琴という説が正しいのではあるまいか。天沼琴は、統治権と司祭権を象徴する神器の一つであろう。

須世理[田比]売の[田比]は、JIS第三水準、ユニコード6BD7

 『古事記』には、また、神功皇后が筑紫の詞志比宮で熊曽国を撃とうとする時に、仲哀天皇が琴を控き、建内宿禰が祭の庭にいて神命を請うと、皇后に神懸りして神の教えを述べたという記事がある。『日本書紀』では、神功皇后がみずから神主となり、武内宿禰に琴を撫かせ、中臣鳥賊津使主を審神者にして、神勅を乞うた場面となっている。琴は、祭祀に用いられ、神を呼ぶ神聖な楽器であった。演奏者も、王者・高位者、すなわち政治的・宗教的権威を有する人々である。
 『風土記』には、常陸国風土記の行方郡の条に、建間借命が国巣を討伐するとき、天之鳥琴・天之鳥笛を鳴らして七日七夜歌を唱い舞い続けて遊び、敵を油断させた説話がある。肥前国風土記逸文も、歌垣の際、士女が酒を携え琴を抱き、杵島嶽に登り、楽しく飲み歌い舞うという。『風土記』においては、琴は王者の持物である場合のほかに、宴飲歌舞や恋の小道具にも用いられていた。
 なお、天之鳥琴は、いわゆる鴟尾型の茨城県出土の埴輪の琴のような形状であったのではなかろうか。
 『万葉集』では、琴は主として恋の歌に現われる。日本琴に寄せた「膝におく玉の小琴の事なくはいとここだくはわれ恋ひめやも」(一三二八)という一首のように、その大きさは、埴輪の弾琴像が膝に乗せていたのと同じようなものであったことがわかる。
 そして、琴は、天平元年(七二九)大伴旅人が対馬の結石山にあった桐の古木で琴匠に作らせた日本琴一面を、藤原房前に贈った際の謹状にあるように「君子左琴」の目的物となっている。このことは、小治田朝臣安萬侶の墓誌(東京国立博物館蔵)に添えられた副板二枚の「左琴神亀六年二月九日」。「右書神亀六年二月九日」という銘文にもうかがえる。七二九年(神亀六年八月三日天平元年と改元)には、和琴は神事に使用されてはいたものの、貴族がその教養を示すための道具としての面が、強く意識されるようになっていたと思われる。

 (2) 古代の琴の音階
 昭和六二年、比較音楽学者山口庄司氏は、古代の琴の構造を分析した結果、古代の旋律と音階を検出した。
 山口氏は、殿部田一号墳と姫塚から出土した弾琴像(四絃)を観察し、琴柱を表わしている円板が、外側が最も琴尾(突起)に近く、順に琴頭寄りに並んでいることに着眼した。すなわち、この円板の位置は、外側の開放絃が最も長く低い音を発する第一絃、次が第二絃、次が第三絃、手前奏演者側が最も短かく高い音を発音する第四絃を表わし、これは、琴箏の世界史に一致する配列であるという。そして、日本は五音音階、ペンタトニック圏に位置するから、可能な四音音列中、日本人が古来から好んでいた律音階の祖型とみなされる「ドレファソ」(移動ド)の音階と推定した。
 五絃の琴については、ヨリ一層律音階に近づく「ドレファソラ」(移動ド)の音階が妥当であるという。六絃の和琴については、弘仁年間(八一〇 ー 八二四)に成立したといわれる『琴歌譜』(多安家書写、天元四年・九八一)を分析した結果、黄盤壱平の四音音階を以って六絃に分配していることなどから、壱越調徴音階がふさわしいという。すなわち、第一絃から順に、「ソミレラソレ」という四音音階を推定した。
 山口氏は、また、縄文の四絃琴の音階も解析した。松原内湖遺跡から出土した四絃の木製琴を、古代中国の音律計算法「三分損益法」で鑑定した結果、日本の音階のルーツ、完全一二度「ドレファソラドレファソ」(移動ド)の律音階を得た。

 (3) 古代中国の琴との関係
 山口氏によって析出された我国の古代の琴の音階は、中国の琴の音階によって強い影響を受けていることを示している。
 我国の「コト」の名称は、言(コト)から出たという説がある。しかし、呉音の琴(コン)は、その音声から出たという。そして、黒沢隆朝氏は、呉音のコンからコトになったという。音(オン)がオトになったように。
 ところで、中国における琴(きん)の起源は、神話の時代に遡る。伏羲あるいは神農が琴を作ったとか、舜が五絃琴を創作したという。そして、周の文主・武王が一絃ずつ加え七絃としたともいう。琴は、廟楽における聖なるものと考えられ、政権譲受の表象とされていた。また、『呂氏春秋』(泰の呂不韋編)には、「炎帝朱襄氏の世、多風にして陽気が蓄積し、万物散解して果実は実らないので、士達というものが五絃の瑟(しつ)という楽器を作って、天の気を和らげることができた」、という説話がある。すなわち、瑟によって天下を治めたことがうかがわれる。そして、孔子(前五五二〜前四七九)が、七絃琴を愛好したことから、七絃琴は君子の必須の教養の一つとなった。
 七絃琴は、原則として第六・七絃が、第一・二絃のオクターヴ上であるから、実際には、五音音階で成り立っている。この五音は、三分損益法で求められている。なお、中国には六絃琴は存在しない。
 ところで、我国の古墳から大量に出土する神獣鏡には、伯牙弾琴像が描かれているものが多数あり、「白牙挙楽」の銘文があるものも少なくない。伯牙は、春秋時代の人で、琴を弾いて天地を魅了した楽聖として、中国の古典に名高い。
 こうしてみると、古墳時代の我国の各地の王や豪族は、中国の琴についての知識を有していたこと、そしてその知識は、我国の古代の琴のあり様に影響を与えていたように思われる。しかし、中国の琴箏瑟が我国の琴に影響を与えたのは、もっと古い古い時代のことのように思える。中国では、周の時代すでに七絃琴となっているのに、倭国の五絃の琴は、中国の源初の琴瑟の絃数を固守していたように見えるからである。もっとも、我国の五絃の琴は弥生時代以降のものしか出土していないし、絃を放射状に張ったり頭部を鴎尾型とすることは我国独得の構造であるし、中国では箏瑟にしか使用されない柱(じ)を我国では琴にも用いるなど、中国の琴とは異なった点が多いことは、確かだが・・・。
 縄文の四絃琴は、亀ケ岡文化圏に属するもので、中国の古代の琴との関係は、不明である。また、高勾麗の玄琴、新羅の伽耶琴は、中国や我国の琴の様式とは異なり、それらは朝鮮・韓民族独得のものであるといわれている。

五 古代の琴の出土分布

 最後に、古代の琴の出土分布からみて、古代日本には少なくとも二大祭祀圏が存在したが、大和朝廷によって統一されたことを論じることにしよう。
 (1) 九州王朝の五絃の琴
 五絃の琴は、九州では、岩戸山古墳と沖ノ島から出土している。
 岩戸山古墳は、筑後国風土記にいう筑紫君磐井の墓墳である。古田武彦氏によると、磐井は九州王朝の王者で、継体二二年(五二八、古田氏によると五三一)大和朝廷の継体天皇側の反乱軍によって斬られたという。そして、沖ノ島は九州王朝の聖地で、九州王朝が七世紀末に滅亡した時、大量の財宝が沖ノ島にひそかに遺棄された。五絃の琴の雛型も、遺棄された財宝の中の一つであるという。
 古田氏によると、倭国=九州王朝は、弥生時代大国主命から国譲りにより葦原中国の統治権を獲得し、卑弥呼の邪馬壱国、倭の五王の倭国、筑紫君磐井、日出づる処の天子多利思北弧のイ妥*国を経て、筑紫君薩夜麻が白村江の戦(六六三)に惨敗し、六七〇年近畿天皇家による日本国(『三国史記』の新羅本紀中、文武王」一○年の項に、倭国が終り日本の国号が始まった旨の記事がある)の創建により滅亡する。
 そうすると、五絃の琴は九州王朝の宝器であって、春日市辻田遺跡出土(弥生時代後期)の六突起の木製琴も五絃で、岩戸山古墳出土の埴輪の五絃の琴、沖ノ島出土の雛型の金銅製の五絃の琴へと、連綿とその伝統が続いていたのではなかろうか。その間、倭の五王の一人である倭王讃は、義煕九年(四一三)晋の安帝から細笙と麝香を賜わっている。倭王讃は、この細笙と五絃の琴などを合奏して楽しんだと考えてもよいのではあるまいか。

イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

 (2) 関東王朝の四絃の琴
 四絃の埴輪の琴は、福島県一面、群馬県三面、栃木県一面、埼玉県四面、千葉県二面、神奈川県一面と、関東一円から出土している。他の地方からは四絃の埴輪の琴は、出土していない。
 その中で最も注目されるのは、行田市稲荷山古墳から出土した四絃の琴の埴輪である。古田氏によると、稲荷山古墳は鈴鏡に象徴される関東王朝の中枢部に存在する。この稲荷山古墳出土の鉄剣に刻された一一五の黄金文字中のカタシロ大王(通説はワカタケル)は、関東王朝の王者である。そして、鉄剣の銘文中のカタシロ大王の斯鬼宮は、栃木県藤岡町字磯城宮にある大前神社(延喜式以前の名称は磯城宮)の地にあったという。
 そうすると、四絃の琴は関東王朝の王者の宝器であったといってよいだろう。
 稲荷山古墳の王者を補佐する権力者の墓と考えられている、埼玉古墳群の中の瓦塚古墳からは四絃の弾琴像と五絃の埴輪の琴が出土し、奥の山古墳からは四絃の埴輪の琴が出土している。
 五絃の埴輪の琴は、群馬県一面、栃木県一面、埼玉県二面、茨城県五面と出土している。これは、関東王朝を支持する勢力には、九州王朝の系譜を引く豪族達が、関東一円に存在していたことを示しているように思える。
 ところで、茨城県は五絃の埴輪の琴が、五面出土しながら、四絃の埴輪の琴は出土していない。関東では、九州王朝の五絃の琴が優勢な地域である。古田氏は、常陸国風土記において、常陸国の周縁を巡狩する倭武天皇は、倭の五王の中の倭王武ではないかという。常陸国風土記は、九州乙類風土記(県風土記)と極めて近似した記述方法(例えば、四六駢儷体、「県」の散見など)がとられている。古田氏によると、風土記撰上の発せられた和銅六年(七一三)には、「郡」の制度となっているので、「県」風土記は、大和朝廷に先在した九州王朝が作った風土記であるという。そうすると、常陸国風土記は、九州王朝によって作られた県風土記の常陸国の条を加除改変したものである可能性がある。また、福島県・茨城県を中心に関東から東北地方にかけて分布する装飾壁画古墳は、九州装飾壁画古墳地帯の一端に位置し、九州から伝播したとみられる。そうすると、常陸国は九州王朝の直轄領であったと考えることもできよう。
 なお、関東の四絃の琴は、九州の五絃の琴の形状・構造を受容しながら、四絃の縄文琴の伝統を承継発展させたものではないだろうか。

 (3) 大和朝廷の六絃の和琴
 山口氏によると初期の六絃の和琴は、四音音階で、二絃は同音を重複させる役割しかなく、かつ、二列右肩下がりの調絃(ソミレラソレ)という和琴だけで琴箏史に例がない配列をとっていたという。この新しい特徴は、六絃の和琴が、大和朝廷により新たに制定されたことを決定するものといえよう。その時期は、六七〇年近畿天皇家が日本国を創建し、次々と新しい制度を制定した頃であろう.
 ここで刮目すべきは、その六絃の和琴=やまとごとが、関東王朝がとっていた四音音階で構成されていたことである。和琴の別名を「あづまごと」とは、よく言ったものである。そして、「あづま」は和琴の惣名であるという。これは、大和朝廷が日本国創建に当り、関東王朝の少なからぬ援護を受けたことを物語っているように思える。すなわち、防人の派遣による九州の鎮護、蝦夷征討による陸奥国経営と、巨大な軍事力の提供を受けている。そして、和銅二年には上毛野氏は、五位以上の殿上人を五人出し、大和朝廷の中枢で重要な地位を占めていた。関東王朝は、白村江の戦で王者上毛野君稚子とその軍勢を失ない、大和朝廷に臣従するようになったのであろう。
 なお、古墳時代の近畿地方の琴をみると、天理市森本寺山一二号墳出土の埴輪の琴と大阪府野々井遺跡出土の埴輪の弾琴像は、五絃である。近畿の豪族達も、九州王朝の系譜を引く祭祀圏の中にあったと思われる。そして、この事実は、大和朝廷は、日向国から出発した神武が大和に侵入し、その後発展したもので、九州王朝の分流であるという古田氏の説を裏書きしているようにみえる。

六 おわりに

 大和朝廷が六七〇年日本国を創建し、諸制度を整備・制定する中で、琴制については六絃の和琴の制がとられるようになった。
 九州王朝の五絃の琴・関東王朝の四絃の琴その他の古代の琴は、その基盤を失い、奈良時代には歴史の霧の中に消えてしまった。雅楽用楽器・祭祀用楽器としての地位は、六絃の和琴に取って替わられ、再び歴史の表舞台に登場することはなかった。わずかに、毎年一一月二三日の夜、出雲大社で執行される「古伝新嘗祭」の神事の一つ「百番神舞」において、六人の神人が柳の細い撥で打ち鳴らす「琴板」によって、ありし日の面影を偲ぶことができるだけである。絃を失った「琴板」は、大国主命の天沼琴の変り果てた姿であろう。

 この論文を書くに当っては、「市民の古代研究会」の会員である大芝英雄・斎藤隆一・橋本信子・丸山晋司・横山妙子の各氏の協力により文献資料を収集することができた。特に、横山氏の協力に負うところが多い。また、関東一円の博物館・資料館などにおける調査に当っては、多くの方々にお世話になった。心から感謝する次第である。

古代の琴に関する収集文献目録

(1).栗田寛「楽器考」(『栗里先生雑著』一三、一九〇一年)
(2).神宮司庁『古事類苑』楽舞部二四・二五、一九一〇年
(3).田辺尚雄「倭琴の起原と其の系統に就て」(『東洋学芸雑誌』四二 ー 一、一九二六年)
(4).杉山寿栄男「石器時代有機質遺物の研究概報」(『史前学雑誌』二 ー 四、一九三〇年)
(5).後藤守一「埴輪の意義」(『考古学雑誌』二一 ー 九、一九三一年)
(6).佐藤行哉・後藤守一「鶏塚古墳発見の埴輪」(『考古学雑誌』二一 ー 九、一九三一年)
(7).館山甲午「上代に用ひられし楽器と出土品に就て」(『上毛及上毛人』二三七、一九三七年)
(8).岸辺成雄「口絵解説」(『東洋音楽研究』一〇・一一合併号、一九五二年)
(9).芝祐泰他三名「昭和二十五・二十六年度正倉院楽器調査概報」(『書陵部紀要』二、一九五二年)
(10).日本考古学会『登呂(本編)』、一九五四年
(11).森貞次郎「筑後風土記逸文に見える筑紫君磐丼の墳墓」(『考古学雑誌」四一 ー 三、一九五六年)
(12).三木文雄『はにわの美しさ』朝日写真ブック二八、一九五六年
(13).林謙三「和琴の形態の発育経過について」(『書陵部紀要』一〇、一九五八年)
(14).森豊『写真・登呂遺跡』現代教養文庫一九六、一九五八年
(15).日本経済新聞社・ブリジストン美術館『日本の美 はにわ展』図録、一九五八年
(16).清水潤三『亀ケ岡遣跡 ーー青森県亀ケ岡低湿地遺跡の研究』、一九五九年
(17).今井通郎「和琴考」(『国学院雑誌』六一 ー 六、一九六〇年
(18).多摩考古学会『井上コレクション考古学資料図録』、一九六二年
(19).田辺尚雄『日本音楽史』、一九六三年
(20).滝口宏・久地岡榛雄『はにわ』、一九六三年
(21).林謙三『正倉院楽器の研究』、一九六四年
(22).吉川英士『日本音楽の歴史』、一九六五年
(23).清水潤三『是川遺跡』、一九六六年
(24).坂名井深三「『琴』の古儀私案」(上)・(下)(『神道宗教』四九・五一、一九六七・六八年)
(25).正倉院事務所『正倉院の楽器』、一九六七年
(26).西田守夫「神獣鏡の図像 ーー白牙挙楽の銘文を中心として」(『MUSEUM』二〇七、一九六八年).
(27).樋口清之「日本音楽ことはじめ ーー考古学から見た原始音楽」(『雅楽界』四九、一九六九年)
(28).宗像神社復興期成会『沖ノ島I 宗像大社沖津宮祭祀遺跡』、一九七〇年
(29).佐田茂「沖ノ島発見の雛形琴について」(一)・(二)(『西日本文化』八二・八三、一九七二年)
(30).亀井正道「琴柱形石製品考」(『東京国立博物館紀要』八、一九七二年)
(31).八戸市教育委員会『是川遺跡出土遺物報告書』、一九七二年
(32).黒沢隆朝『図解世界楽器大事典』、一九七二年
(33).市村宏「万葉集と芸能」(『雅楽界』五一、一九七三年)
(34).木更津市教育委員会他『上総菅生遺跡昭和四七年度第一期調査速報』、一九七三年
(35).森豊『弥生の琴』、一九七三年
(36).林謙三『東アジア楽器考』、一九七三年
(37).大場磐雄「菅生発見の『やまとごと』」上・下(『どるめん』一・二、一九七三・七四年、『大場磐雄著作集』五、一九七六年に再録)
(38).水野正好「埴輪弾琴像幻想」(『月刊文化財』一六九、一九七七年)
(39).兼康保明「古代の琴 ーー森浜遺跡出土などの遺品をめぐって」(『月刊文化財』一六九、一九七七年)
(40).服部遺跡を守る会事務局「滋賀県守山市服部遺跡の調査」(『考古学研究』二三 ー 四、一九七七年)
(41).荻三津夫『日本古代音楽史論』、一九七七年
(42).佐瀬仁「和琴と『邪馬台国』に関する九章」(『国立音楽大学五十周年記念論文集』一九七八年)
(43).小池史哲「辻田遺跡の発掘調査」(『ふるさとの自然と歴史』八六、一九七八年)
(44).滋賀県教育委員会『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書』V 本文編・図版編、一九七八年
(45).吉川英史「原始時代のコトを考える」(『季刊邦楽』一八、一九七九年)
(46).水野正好「『琴歌譜』以前のコト」(『季刊邦楽』一八、一九七九年)
(47).水野正好「碧りに輝く琴柱」(『美濃の文化』四、一九七九年)
(48).水野正好「日本古代琴資料集成(昭和五四年度)」(『奈良大学紀要」八、一九七九年)
(49).佐瀬仁「弥生時代古代和琴のResonator(共鳴器)について」(『国立音楽大学研究紀要』一三、一九七九年)
(50).生田紀明「布留遺跡たより(一) やまと琴」(『天地』二 ー 七、一九七九年)
(51).第三次沖ノ島学術調査隊『宗像 沖ノ島』I 本文・図版、一九七九年
(52).菅生遺跡調査団『上総菅生遺跡』、一九七九年
(53).滋賀県教育委員会他『服部遺跡発掘調査概報』、一九七九年
(54).福岡県教育委員会『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』一二、一九七九年
(55).財団法人大阪文化財センター『爪生堂遺跡巨摩廃寺遺跡現地説明会資料』、一九七九年
(56).水野正好「琴の誕生とその展開」(『考古学雑誌」六六 ー 一、一九八○年)
(57).佐田茂「古代琴雑考」(『考古学雑誌」六六 ー 一、一九八○年)
(58).椙山林継「『やまとごと』の系譜」(『国学院雑誌』八一 ー 一一、一九八○年)
(59).西弘海「近年発掘された弥生時代の楽器」(『季刊邦楽』二三、一九八○年)
(60).石守晃「原始・古代楽器の考古学的一研究」(『長野考古学会誌』三七、一九八○年)
(61).佐瀬仁「和琴の初期年代に関する『上記』(古代史文献)に基く一試論」(『国立音楽大学研究紀要』一四、一九八○年)
(62).篠山町教育委員会『古代祖先のあゆみ』、一九八○年
(63).浜名徳永『上総殿部田古墳・宝馬古塚』芝山はにわ博物館研究報告六、一九八○年
(64).三重県教育委員会『三重県埋蔵物文化財調査報告』三五 ー 一・納所遺跡、一九八○年
(65).第四回神奈川県遺跡調査・研究発表会準備委員会『第四回神奈川県遺跡調査・研究会発表会発表要旨』、一九八○年
(66).埼玉県教育委員会『埼玉稲荷山古墳』、一九八○年
(67).東京国立博物館『東京国立博物館図版目録』古墳遺物篇(関東1)、一九八○年
(68).山上伊豆母「五世紀王朝と日本琴」(『講座日本の古代信仰』五、一九八○年)
(69).佐瀬仁「和琴のルーツ ーー男王天照大神と六絃弓琴」(『国立音楽大学研究紀要』一五、一九八一年)
(70).岸辺成雄「近年発掘されたコト(琴)」(『季刊邦楽』二六、一九八一年)
(71).岸辺成雄「和琴の祖型 ー 出土品を中心に」(上)・(中)・(下)(『雅楽界』五六・五七・五八、一九八一・八二・八三年)
(72).福島県教育委貝会『原山一号墳発掘調査概報』、一九八二年
(73).檀原考古学研究所附属博物館『特別展 音の考古学「古代の響」』図録、一九八二年
(74).熊谷市教育委員会『めづか』、一九八三年
(75).兵庫県教育委員会『山垣遺跡』、一九八四年
(76).檀原考古学研究所附属博物館『特別展 大和の埴輪』図録、一九八四年
(77).奈良国立文化財研究所『木器集成図録』本文・図版 近畿古代篇、一九八五年
(78).大塚初重・森浩一『登呂遺跡と弥生文化』、一九八五年
(79).山上伊豆母『古代祭祀伝承の研究』、一九八五年
(80).埼玉県立さきたま資料館『瓦塚古墳』埼玉古墳群発掘調査報告書 四、一九八六年
(81).鈴木克彦「亀ケ岡文化圏の様相」(『月刊文化財』二八一、一九八七年)
(82).竹原一彦「京都府正垣遣跡出土の弥生時代木製琴」(『考古学雑誌』七二 ー 四、一九八七年)
(83).乗岡実他二名「南方釜田遺跡出土の古墳時代琴」(『考古学雑誌』七二 ー 四、一九八七年)
(84).江坂輝弥「縄文時代遺跡発見の木製遣物の発見史と今後の研究への展望」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(85).細川修平「松原内湖遺跡出土の箆状木製品」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(86).種市幸生・三浦正人「小樽市忍路土場遺跡出土の木製品」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(87).金井塚良一他五名『討論 群馬・埼玉の埴輪』、一九八七年
(88).川島達人『埴輪の微笑』、一九八七年
(89).山口庄司「琴箏の源流と古代の楽理」(一) ー (三)、(四)、(五)〜(十)、(十一)〜(十六)(『楽道』五五二〜五五四、五五五・五六一〜五六六、五六七〜五七二、一九八七・八八・八九年)
(90).先史文化研究グループ『とやま古代のロマン』、一九八七年
(91).増田修「古代の楽器二題」(一)〜(四)(『市民の古代ニュース」五七・五八・五九、六〇・六一合併号、一九八八年)
(92).山口庄司「弥生・古墳時代の琴箏と音楽」(上)(中)(『季刊邦楽』五六、五八、一九八八・八九年)
(93).山口庄司「日本最古の木製絃楽器の発掘」(『季刊邦楽』五七、一九八八年)
(94).横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』二三(第一分冊)蓼ケ原、一九八八年
(95).埼玉県立さきたま資料館『特別展 はにわ人の世界』図録、一九八八年
(96).朝日新聞社他二『日本列島発掘展』図録、一九八八年
(97).柴田南雄『音楽史と音楽論』改訂版、一九八八年
(98).柴田南雄「古代の楽器遺産」(岩波講座『日本の音楽・アジアの音楽』五、一九八九年)
(99).ジャパン通信社『月刊文化財発掘出土情報』6、26、49・50・61、66・70・71、一九八三・八七・八八年

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(注)
 「古代の琴」は、そのご研究を続け、「研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型」と題する論文になり、『芸能史研究』第144号(芸能史研究会・1999年1月)に掲載されました。
 「芸能史研究会」は、林屋辰三郎先生が会の代表者をしていた、芸能史の研究会です。
 事務所は、「京都市上京区河原町荒神口上生洲町221キトウビル303号室」にあり、電話・FAXは(075)251−2371です。
 これも、読むように、(注)を最後に入れて頂ければ、うれしいのですが・・・。それはともあれ、一度読んで頂ければ幸いです。

追伸
 増田修氏より、うえのような連絡をいただきました。
            2007年12月29日  インターネット事務局 横田


『市民の古代』第11集』 へ

研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型(『藝能史研究』No. 144)へ

『常陸国風土記』に現われた楽器(『市民の古代』第13集)へ

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