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古代出雲の再発見ー神話と銅と鉄(『古代の霧の中から』)へ


『市民の古代』第13集 1991年 市民の古代研究会編
 ◆一特集・風土記の新局面ー

出雲王朝の「五種の神宝」

『出雲国風土記』の分析

藤田友治

 奪われた神宝

 出雲王朝が近畿天皇家とは別の神話体系や王権を持っていたことは『古事記』や『日本書紀』(以下、それぞれ『記』・『紀』と省略する)を通じても明確に認められる。「国譲り」は譲るべきや領土主権があるからに他ならない。古代王権は「神宝」を持っていた。例えば、九州王朝の「三種の神器」や継体天皇の「二種の神器」である。出雲王朝も「神宝」を持っていたことは『紀』において明確にわかる。

六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔己酉(ついたち つとのとのととりのひ)に、(一四日)群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命(たけひなてるのみこと 注略)の、天(あめ)より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む、是(これ)を見欲(みまほ)し」とのたまふ。則ち矢田部(やたべ)造の遠祖(とほつおや)諸隅(もろすみ 一書略)を遣して献(たてまつ)らしむ。是(こ)の時に當(あた)りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり。(『紀』崇神紀)

 出雲臣の祖神である武日照命が天より将来してきた神宝は出雲大神宮の蔵にあった。この出雲大神宮とは出雲郡の杵築神社とする説が多い。だが祖神から伝えられた神宝だから、出雲臣がいた意宇郡の熊野大社(島根県八束郡八雲村熊野)であろう。この神宝を崇神天皇は「見(みま)(ほ)し」として皇命を下して、献上させたのである。『紀』は神宝の顛末(てんまつ)を載せる。次のようである。
 出雲臣の遠祖の出雲振根(ふるね)が神宝を管理していたのだが、振根が筑紫国に行っていた時に、振根の弟飯入根(いいいりね)が天皇の命に従って、神宝を献上してしまった。振根が筑紫より帰って来ると、すでに献上した後であり、弟の飯入根を責めて「数日待つべきであった。何を恐れて、軽く神宝を許したのか」といった。これによって、幾年月を経ても振根は弟に恨(うらみ)を懐(いだ)き、やがて弟を殺そうと思うに至った。そして、弟を欺(あざむ)いて木刀を真刀(またち)に似せて取り換えさせ、ついに撃(う)ったのである。歌が一つ。

や雲立つ 出雲彙師(たける)が 侃(は)ける太刀 黒葛多巻(つづらさはま)き さ身無(みなし)に あはれ

 この事情は詳細に朝廷に報告された。朝廷は吉備津彦(きびつひこ)と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを派遣し、出雲振根を殺害してしまった。出雲臣等はこの事を畏(おそ)れて、出雲大神を祭らないで時を経た。
 この神話は『記』には全く現われない。『記』と『紀』を比較して、一方に出現しない話は「紀の編者の挿入」と見なすことができよう。この論理は古田武彦氏が「景行天皇の九州遠征」説話で九州王朝の発展史を近幾天皇家のそれと換骨奪胎したと説くものである(『盗まれた神話』)。したがって、この説話の「朝廷」は近畿天皇家ではなく、吉備王朝側の歴史であった可能性は高い(この点の分析は古田武彦氏『古代史を疑う』「疑考・「古代出雲」論」参照)。
 私が問題とするのは王朝であった限り、主権を持ち、古代国家特有の「神宝」を持つはずであるが、それがどのようなものであり、また、果たして何種あったのかということである。
 古代人の意識は王権が「神宝」によって護(まも)られ、「神宝」を持つことでその王権が正統化される。それ故、王の死に際しても墓に「神宝」を埋蔵し、死後も護ろうとしているのである。先の説話は出雲王朝の「神宝」が結局取り上げられてしまう、つまり王権喪失談である。出雲王朝の神宝を追求することは、一方では出雲の悠遠なる歴史を解明すること、他方では出雲と他の王朝(九州・近畿・吉備)との区別や独自性を明らかにすることとなろう。
 そして、この神宝は『記』『紀』、とりわけ『出雲国風土記』の分析を通して、手掛りが得られるのである。

 最古の神宝

 「天より将(も)ち来れる神宝」とは何か。『紀』崇神紀には、神宝を奪われた後日談が“不思議”な説話として記載されている。
 出雲臣等が大神を祭らなくなってからしばらくして、丹波の氷上(ひかみ)の人で名は氷香戸辺(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(いくめのみこと)に次のように曰(もう)したとある。

「己(やつかれ)が子、小児(わかご)(はべ)り。而(しかう)して自然(おのづから)(まう)さく、玉萋鎮石(たまものしづし)。出雲人の祭(いのりまつ)る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振(はふ)る、甘美御神(うましみかみ)、底宝御宝(そこたからみたから)主。山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)。静桂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主(ぬし)」。

 この話は皇太子から天皇(崇神)へ報告された。天皇は詔(みことのり)して祭らしめた。
 問題のポイントは、「神がかりした小児の言葉」にある。この言葉は「小児」に託され、出雲王朝側の神宝を奪われた怨念に満ちたものである。したがって、そのことに気づいた崇神天皇は勅を発して、出雲側の怨念を鎮魂させようと祭ったのである。つまり、出雲の神宝がいかなるものか、その手掛りを与えてくれているのだ。それ故、一つ一つ分析しよう。
 まず、「玉萋鎮石(たまものしづし)」とは何だろうか。本文注に「萋、此をば毛(も)と云ふ」とあるところから、「玉のような藻(も)の中に沈んだ石」であろう。形容語を取り去ると、残るのは「石」である。では、どのような石か。海底に横たわる石はどこにでもある。そのようなどこにでもある石だろうか。そうではあるまい。
 「天より将(も)ち来れる神宝」である。出雲にとって、「天」とはどこか。『出雲国風土記』の分析によれば、「隠岐の『海士(あま)』(島前、中の島)」を原点とする概念であろう。そして、隠岐島は黒曜石の産地である。つまり、神宝は「黒曜石」であろう(この点、先行説に古田武彦氏「疑考・「古代出雲」論」『古代史を疑う』がある。ただし、「黒曜石に関するものであったかもしれない」という表現であり、風土記との関連や分析はのべられていない)。
 次に、「真種(またね)の甘美(うまし)鏡」は「本物の素晴らしい鏡」である。「押し羽振る」のオシは力を示す美称であり、ハフルは羽を振るように活力を持つ意味で、「力強く活力を振る」となり、「甘美御神」を形容している。「山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)」のミククルは「水が流れていく」意味と考えられ「御魂」に掛かかる。「タマ」は「鏡」を指示するという説(岩波古典文学大系注解)もあるが、「玉(たま)」として、冒頭の「玉萋鎮石」の形容としたほうが全体として話がつながると同時に、後にのべるように古代出雲の(勾玉を含む)信仰を表現している。「静掛(しづか)かる」は火中に沈んで掛っているという意味で、「御神」のミは美称、神は「鏡」を指示していると思われる。したがって、ここでの神宝は「鏡」と「玉」(勾玉)である。
 「小児」の言葉(「神託」)を手掛りとして、まず「石」(黒曜石)、「鏡」、「玉」(勾玉)の三つの神宝を分析した。出雲の神宝はこれで全てであろうか。次に、『出雲国風土記』を中心に分析をすすめてみよう。

 玉(勾玉)尊重の出雲

 出雲王朝が玉(勾玉)をたいへん尊重したことは『出雲国風土記』を読めばすぐに解ることである。意宇郡の条に、次のようにみえる。

天の下造(つく)らしし大神、大穴持命(おおあなもちのみこと)、越(こし)の八口(やくち)を平(ことむ)け賜(たま)ひて、還(かえ)りましし時、長江山(ながえやま)に来まして詔(の)りたまひしく、「我(あ)が造(つく)りまして、命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命(みこと)、平(たひ)らけくみ世(よ)(し)らせと依(よ)さしまつらむ。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山(あおがきやま)(めぐ)らし賜ひて、玉珍(たま)(お)き賜ひて守らむ」と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)といふ。

 この『出雲国風土記』は『記」や『紀』と比較すると本来全く異なる神話体系を持っていたことがわかる。冒頭の一句、「天の下造つくらしし大神」は「大穴持命(おおあなもちのみこと)」であると誇らしげに宣言されている。「大穴持命」とは『記』では大穴牟遅神、『紀』では大己貴命と書かれ、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名とされている。この「大穴持命」が出雲を「我が造りまして、命しらす国」とし、「我が静まります国」とし、「青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ」とした国であると主張する。つまり、主権者であった(過去形)というのだ。そして、神宝として「玉」を置いて、出雲国を神の霊代(よりしろ)としての「玉」で守護しているという。
 もとより、『出雲国風土記』に述べられている時点でも「主権者」であるといっているのではない。「皇御孫の命」が統治権を奪ったからである(『記』『紀』は「国譲り」と主権の禅譲のように記してはいても、本質上は“奪取”されたのである)。だが、「国譲り」後もなお、出雲は「玉」を神宝とし、神の霊代として主権の標識を「玉」に託して持ち続けたようである。『出雲国風土記』を調べると、次のようにおびただしく玉作(たまつくり)に関連がある神社、玉を祭神とする神社がある。
 一、玉作湯の社(八束郡玉湯村の玉作温泉)
 一、速玉の社 (熊野大社の下の宮)
 一、玉結(え)の社(美保関町総津の玉結神社)
 一、玉作の社 (仁多町の亀高町の東方、玉峰山にあったが、今は所在不明)
なお、これらの神社の他にも玉作街・玉造川・玉作山・玉作湯社などの「玉作」地名が存在するが、これらも玉作集団に源流を持つものであろう(この点、水野祐『勾玉』参照)。古代出雲と玉(勾玉)との関連を否定する論者はまずいないであろう。
 「出雲国造の神賀詞(かむよごと)」(『祝詞(のりと)』)に「神宝」として「白の大御白髪まし、赤の御赤らびまし、青の水の江の玉(後略)」とあり、献上する神宝によせて祝の言葉(祝詞)をのべている。『延喜式』の臨時祭の条に、「六十八枚(赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚)」とあるのに対応している。

 神財(かむたから)の弓矢

 出雲王朝が悠遠なる歴史を持つことを示す神宝は「弓矢」である。旧石器・縄文時代から使用されてきた。鏡・剣等の弥生期のそれとは、はるかに時間軸をへだてるものである。『出雲国風土記』にはそれが出現している。嶋根郡の加賀の神埼(かんざき)の条に窟(いはや)があり、そこには次のような説話がある。

(い)はゆる佐太(さだ)の大神の産(あ)れまししところなり。産(あ)れまさむとする時に、弓箭(ゆみや)(う)せましき。その時、御祖(みおや)神魂命(かむむすびのみこと)の御子、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)、願(ね)ぎたまひつらく、「吾(あ)が御子、麻須羅神(ますらかみ)の御子にまさば、亡せし弓箭出(い)で来(こ)」と願(ね)ぎましつ。その時、角(つの)の弓箭水の隋(まにま)に流れ出でけり。その時、弓を取(と)らして、詔(の)りたまひつらく、「此(こ)の弓は吾が弓箭にあらず」と詔りたまひて、擲(な)げ廃(う)て給ひつ。又、金(かね)の弓箭流れ出で来(き)きけり。即ち待(ま)ち取らしまして、「闇欝(くら)き窟(いはや)なるかも」と詔りたまひて、射通(いとほ)しましき。即(すなわち)、御祖(みおや)支佐加(きさか)比売命の社(やしろ)、此処(ここ)に坐(ま)す。今の人、是この窟(いはや)の辺(ほとり)を行く時は、必ず声(こえ)磅[石蓋](とどろ)かして行く。若(も)し、密かに行かば、神現(あらは)れて、瓢風(つむじ)起り、行く船は必ず覆(くつが)える。

 この説話の「麻須羅神(ますらかみ)」というのは、雄々しく武勇のすぐれた武の霊力を持った神をいうのであろう。動物を躬(い)て食料とした縄文時代から弓矢は貴重なる武器であったことは疑いない。そして、「角(つの)の弓箭(ゆみや)」とは弓矢の矢じりに獣角を用いて、より多くの獣を射ることが出来るようにと願ったものであろう。この説話は弥生時代であるということが次にわかる。「角の弓箭」は投げ廃(う)てられて、「金(かね)の弓箭」、つまり金属(鉄等)で出来た弓矢が登場し、それが暗き洞窟をも射通す力があると讃(たた)えられているからである。そして、弓矢は縄文時代に源流をもち、弥生時代を通じて金属が加わり、「霊力」を持ちつづける貴重な宝であったことがこの説話によってわかるのである。
 弓矢が神宝であったことは、『出雲国風土記』の大原(おおはら)郡、神原(かむはら)の郷(さと)の条でも裏づけられる。

神原(かむはら)の郷(さと) 郡(こほり)家の正北(まきた)九里なり。古老の伝へていへらく、天の下造らしし大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処(ところ)なり。即ち、神財の郷と謂(い)ふべきを、今の人、猶(なほ)誤りて神原の郷といへるのみ。
屋代(やしろ)の郷 郡家の正北(まきた)一十里一百一十六歩なり。天の下造らしし大神の[土朶](あむづち)立てて射(ゆみい)たまひし処(ところ)なり。故、矢代(やしろ)といふ。神亀三年、字を屋代と改む。即ち正倉(みやけ)あり。
屋裏(やうち)の郷 郡家の東北のかた一十里一百一十六歩なり。古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神、矢を殖(た)てしめ給ひし処(ところ)なり。故、矢内(やうち)といふ。神亀三年、字を屋裏(やうち)と改む。

[土朶](あずち)は、土編に朶。JIS第3水準、ユニコード579C

 注釈が重要である。神亀三年(七二六)に「屋代(やしろ)」、「屋裏(やうち)」と字を改めたが、元来は「矢代(やしろ)」、「矢内(やうち)」とそれぞれをいっていたのである。いずれも、天の下造らしし大神(出雲の神)が「矢」を射ったところから地名説話となったものである。「[土朶]立(あむづちた)て」とは土を盛り上げて弓の的を置くようにした所であり、「矢を殖(た)てしめ」とは弓射る訓練をしたところであり、いずれも「矢」と地名とが結びつけられている。
 この説話の中で、「御財(みたから)」、「神財(かむたから)」と明確に「矢」が「神宝」であったことがわかるのである。

矛(ほこ たて)の神宝

 さらに『出雲国風土記』より神宝を追求しよう。楯縫(たてぬい)郡に次の説話がある。

楯縫(たてぬい)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、神魂命、詔(の)りたまひしく、「五十(いそ)足る天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の拷(たく)縄持もちて、百結(ももむす)び結び、八十(やそ)結び結び下さげて、此の天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまひて、御子(みこ)、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)と為(し)て天下し給ひき。その時、退(まか)り下(くだ)り来まして、大神の宮の御装束(みよそほい)の楯を造り始め給ひし所、是(これ)なり。仍(よ)りて、今に至るまで、楯(たて)・桙(ほこ)を造りて、皇神等(すめがみたち)に奉(た)てまつる。故、楯縫(たてぬい)といふ。

 この説話は「楯縫」の名前がどうしてついたか、その由来をのべている。日本古典文学大系の『風土記』(秋本吉郎校注)の注(一六七頁)では、「神魂命」を「かむむすびのみこと」と訓じているが、『紀』の神代紀の「高皇産霊 タカミムスビ」の神名に合わせようとして無理な読み方をしている。「魂」はタマであり、玉(タマ)を霊力とした出雲の神で「神魂命 カミタマノミコト」と素直に訓じるべきだろう。『紀』でいうと第六の一書にある大国主神の別名大国(おおくにたま)神、顕国(うつしくにたま)神の玉である。「神霊」も「ミタマ」と訓んでいるのと同様にすべきである。
 「千尋(ちひろ)」の「尋(ひろ)」は大人が両手を伸した長さで、今日でも釣り等で使用されている。概数を知るのに便利な単位である。長い縄で「天の日栖(ひすみ)の宮」の縦横を計測して、「大神の宮」を造れというのである。天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)として大神の宮に納める調度の品として楯(たて)と桙(ほこ)を造って、皇神等(すめがみたち)に奉ったので楯縫(たてぬい)というのである。
 この文章の「皇神」はもとより近畿天皇家の皇祖神ではない。出雲郡の杵築郷の場所で、「天の下造らしし大神の宮を造り奉(まつ)らむとして、諸(もろもろ)の皇神等、宮処に参(まい)集りて、杵築(きづ)きたまひき」にある皇神等と同じである。つまり、出雲王朝の神々であり、『出雲国風土記』の段階においても、なお天皇家と同じ「皇神(すめかみ)」を使用しているのは注目される。「国譲り」後もなお“王朝の風格”が感じられる。そこに“出雲王朝”の独自性、輝きがなお残光を放っている(元来、「皇」は輝きである)。
 この古代王朝の輝きは、最近の「銅剣」の発見によっても裏づけられる。出雲の斐川町の荒神谷(こうじんだに)遺跡から「銅剣」三五八本、銅鐸六個、銅矛一六本が出土し、非常な注目を集めたのは記憶に新しい。通説では三五八本の「銅剣」と呼んでいるが、「剣」と「矛」の区別は学説上、高橋健自氏の『日本青銅文化の起源』による。「元の方が袋になって柄を挿し込むに適した形式を矛といい、同じ元の方が普通の刀剣のように、茎(なかご)になって、前者と反対に、その茎が柄の中へ挿し込まれるようにできているのを、剣ということにしている」とあり、考古学上の「便利」性から区分されたものである。これに対して根本的な問題提起が古田武彦氏によってなされ、接着技術でもって剣と矛を区別して古代人の意識を規定するのはおかしいというものである(「古代出雲神話の層位学」『銅剣三五八本・銅鐸六個・銅矛一六本の謎に迫る』、『古代の霧の中から ーー出雲王朝から九州王朝へ』)。
 『記』『紀』や『出雲国風土記』を分析すればハッキリするように「八千剣(やちけん)の神」とか「ヤチツルギの神」などの名称は一切なく、むしろ「八千矛(やちほこ)神」(『記』)とか「八千戈(やちか)神」(『紀』の一書)となっている。それ故、古代人の意識からすれば、三五八本ものおびただしい「矛」は「八千矛」と呼ばれるにふさわしく、今後の出土可能性を含め考古学上の遺跡と文献上の命名とが一致した命名として「八千矛」、「出雲」(古田氏)と呼ばれるべきである。なお、埋納についての驚くべき事実を補記でのべる。
 『紀』の神代紀第八段の第六の一書に出雲国の神、大国主神の亦(また)の名に「八千戈神(やちほこのかみ)」とあるのが出雲王朝の独自性を物語る。

草薙剣(くさなざのつるぎ)

 素戔嗚尊(スサノオノミコト 『記』では須佐之男命、以下スサノオと略す)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から得た剣を天神に献上して、「三種の神器」の一つになったものが草薙剣である。スサノオが出雲国の肥(ひ)の河上(『紀』では簸(ひ)の川上)で上流より箸が流れてきたのを見て、川上を尋ねると老夫と老女が泣いていた。自分の娘・奇稲田姫(くしなだひめ)を八岐大蛇に差し出さねばならないという。スサノオは奇稲田姫を櫛に化けさせて(呪術であろう)髪に刺し、八つの酒ダルを用意させ、八岐大蛇が酒を飲んだところを十握剣(とつかのつるぎ)で切りつけた。尾の中から不思議な剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたので天照大神に献上したという。そうして、スサノオは奇稲田姫と出雲の清地(すが 『記』では須賀すが)の地で宮を造り結婚した。スサノオの有名な歌が次だ。

八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(やへがき) 妻篭(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣を

 この八岐大蛇神話は『出雲国風土記』にはスサノオのこととしては一切記載されていない。この点は留意されなくてはならない。「天の下造らしし大神」は出雲国を造った最高の神である大穴持命(おおあなもちのみこと)であり、スサノオではないのである。八岐大蛇の場所も『紀』の本文と一書の第一は「出雲国の簸(ひ)の川上」であるが、第二は「安芸(あき)国の河愛の川上」と伝え、また、第三は場所を記載せず、「剣は吉備の神部に在り」という。
 つまり、人物(主人公)は二通り。
 (1)、大穴持命・・・『出雲国風土記』。
 (2)、スサノオ・・・『記』、『紀』。
 
 八岐大蛇の場所は三通り。
 (1)、越の八口(やくち)・・・『出雲国風土記』。
 (2)、出雲国の簸(ひ)の川上(肥の河上)・・・『記』。『紀』本文、第一の一書。
 (3)、安芸国の河愛の川上・・・『紀』の第二の一書。
 
 さて人物であるが、『記』ではイザナギの命の子としてスサノオの命、スサノオの命の「六世の孫」は「大国主神」となり、「大国主神」=「大穴持命」となり、スサノオと大穴持命はつながることになる。ところが、『出雲国風土記』では「天下大神」(三五回出現)は大穴持命であり、スサノオの命とつながらず、むしろ対立的でさえある。これは一体どうしたことだろうか。ここに『出雲国風土記』の根本的な特徴があるのである。
 『出雲国風土記』は巻末に「天平五年二月三十日勘造(略)出雲臣広島」とあるので「天平五年」(七三三)の編述である。これに対して『記」』は七一二年、『紀』は七二〇年の成立であるから、『記』が最も古いのであるが、だからといって先のスサノオと大穴持命の説話に関して、『記』の方が正しいといえるだろうか。
 『風土記』は官命に応じて各国庁で編述し、中央へ進達した報告文書であるが、少なくとも二種のものが存した(日本古典文学大系『風土記』解説)。
 (1).中央へ進達した公文書正文
 (2).地方国庁に残存した副本または稿本
 そして、『出雲国風土記』のみが巻首の総記と各郡記と巻末記の三部をともに残す唯一の完本となっている。しかも、その内容は『記』『紀』と比較しても、それらより古い伝承、神話を独自に伝えているものがある。志賀剛氏の『日本の神々と建国神話』も「風土記の神話や歴史の素材は四世紀から六世紀にかけてのもの、すなわち前期古墳から後期古墳時代にかけてのものが多い。これを奈良時代から平安中期にかけて編修したものが風土記なのである」という通りである。
 したがって、『出雲国風土記』の「天の下造らしし大神」として大穴持命の説話は本来形であり、『記』ではスサノオの命の「六世の孫」として「大国主神」、つまり大穴持命と付会されたものである。決して、その逆ではあり得ないのである。
 出雲における本来の説話はあくまで大穴持命の越の八口を平定したものであるが、そこに『記』『紀』のスサノオの説話が接続されたものなのである。
 武力平定は猛烈な威力を持った「蛇」に対する平定とつながり、「蛇」は水神であり、雨乞いとしての水神信仰とつながる。『記』の一書の草薙剣の「本(もと)の名は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居る上に、常に雲気(くも)有り。故以(も)て名づくるか。日本武皇子(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ」とある。稲作文化に欠かすこことの出来ない水を雲が運んで欲しいという願望が「天叢雲剣」なのである。つまり、「叢雲」→雨→大蛇→水神信仰→雨といずれも「雨」に集約される。誠に稲作文化に欠くことが出来ない神宝である。

大国主神の別名・・・“五種の神宝”

 出雲の最も古い神宝は黒曜石であった。石信仰は我が国では根本的である。「君が代」の根源もそれであった(古田武彦ら共著「『君が代』うずまく源流」『市民の古代』別冊3)。縄文時代に威力を発揮したであろう黒曜石も、やがて青銅器(矛、剣)に取って代わられる。金属器に代わる説話として媒介的な位置に弓矢があった。出雲ではその弓矢を神宝に残すことでよく伝承を保存している。
 時代順に整理すると次のようだ。

  黒曜石→ 弓矢 →矛→鏡
       玉(勾玉) 剣

 神宝は本来、人間の生活において具体的有用物であり、それは貴重なものであった。黒曜石の矢じりを矢の先につけ、弓を引くと動物を獲得し、幸(さち)を得ることが出来た。長い石器時代は石の有用性だけではなくて、玉(勾玉)に対して生産、豊穣への祈りが込められ、生命としての魂(タマ)をも含めるようになっていった。具体的有用性から抽象化、普遍化がなされていく。それは矛、剣、鏡を見ても、具体的有用性からどんどん離れ、祭器として大型化し、やがて神宝化するのである。
 出雲の神宝にはこの神宝としての歴史、過程が実によく保持されている。そして、この“五種の神宝”は大国主神の“別名”の中に残されていた。

大国主神、亦(また)の名は大穴牟遅(おおあなむち)神(注略)と謂(い)ひ、亦の名は葦原色許(あしはらしこ)男神(注略)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこ)神と謂ひ、亦の名は宇都志国玉(うつしくにたま)神(注略)と謂ひ、井(あわ)せて五つの名有り。(『記』)

 この大国主神の別名は神宝とつながるキー・ワードでもあった。次の対応関係である。

『記』の神名→神宝
(1)、大国主神→玉(勾玉)
(2)、大穴牟遅神→弓矢
(3)、葦原色許男神→剣
(4)、八千矛神→矛
(5)、宇都志国玉神→鏡

 次にその理由をのべよう。『出雲国風土記』において「玉珍置(お)き賜」いて出雲を護るとあるように「玉」は貴重であるだけではなくて、主権の標識である。『紀』では七つの名を持つが、『記』と『紀』を比較すると、『紀』の二つは「大物主」と「大国神」であり、この二つが『記』よりも多い。そして、この二つの神名は、「大国主神」を拡大し、出雲で重要視された「玉」に本名(もとのな)を求めることができよう。つまり、大国主神は玉(勾玉)が本体である。
 「大穴牟遅神」は日本古典文学大系『風土記』の注解では「名義未詳」とするが、『出雲国風土記』を分析すると、神埼の条で窟(いはや)が穴(あな)であり、その穴に弓箭(ゆみや)を射る説話がある。つまり弓矢である。
 「葦原色許(あしはらしこ)男神」は日本古典文学大系の『風土記」では「醜みにくい男」と解するが、シコは善きにも悪しきにも使われ、ここでは醜みにくい意味ではなく、頑丈で強い男の意味にすべきで、醜い男なら神の美称とは決してならないであろう。「色許(シコ)」は頑丈で強い、つまり「草薙(クサナギ)」のクサ(臭クサシ)に通じ、ナギの蛇のようなすさまじいという状態を意味し、結局、「葦原色許(あしはらしこ)男」は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と同じ意味をもっているのである。
 次いで、「八千矛(やちほこ)神」は字の通り、矛(ほこ)であり、八千(やち)は多いという意味で、出雲から出土した三五八本の“出雲矛”に見る通りである。
 最後に、「宇都志(うつし)国玉神」とは鏡を意味する。「宇都志」はウツシ(写し)であり、「玉」は魂(タマ)であり、魂を写す、つまり鏡である。
 以上でわかるように、大国主神の“別名”は“五種の神宝”をそれぞれ意味していたのである。
 これらの“五種の神宝”は私自身が恣意的に解釈したものだろうか。次に史料上の根拠を見い出した。

 『類聚国史』十九国造の天長七年(八三〇)四月二日条に「皇帝(淳和)御大極殿、覧出雲国々造出雲臣豊持所五種神宝、兼所出雑物」とある。これによれば、ハッキリと“五種の神宝”である。もとより、淳和天皇は大極殿で出雲国の国造出雲臣が献じた“五種の神宝”を見たはずであるが、具体的にはそれが何であったかは記録されてはいない。
 だが、冒頭でふれたように「献上」ではなく、奪われたものである。それは“五種の神宝”という具体的な物を奪っただけではなくて、神宝にこめられた出雲王朝の独自性、主権、歴史、その一切を奪ったのである。『記』『紀』では「国譲り」ではあるが、『出雲国風土記』では、“不当な纂奪”への抗議が秘められていたのである。

 補記
 出雲の荒神谷遣跡の埋納の意味について
 本年夏、昭和薬科大学諏訪校舎でおこなわれた「『邪馬台国」徹底論争』のシンポジウムにおいて、パソコン通信で馬淵久夫氏(東京国立文化財研究所保存科学部長)と古田武彦氏や講師陣とリアルタイム会議をもった。馬淵氏は鉛の同位体分析で著名な方である。荒神谷の三五八本の「銅剣」は中国の物が主で、一本だけ朝鮮半島の鉛があり、製作地は出雲の荒神谷付近、と氏は推定された。鉛の同位体比の分析によると、三五八本の並び順に、相関関係があったからである。従来、埋納の意味が不明で諸説あったが、この分析から“特定の意味をもった埋納のされ方である”ことが判明した。詳細は別に記す。


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