『市民の古代』第15集』 へ

お断り:ホームページ内には、「続・九州を論ず」はありません『九州王朝の論理』(明石書店)をご覧ください。


市民の古代第15集 ●1993年 市民の古代研究会編
  ●「九州」の成立

九州を諭ず

国内史料にみえる「九州」の変遷

古賀達也

はじめに

 九州。
 日本列島におけるこの地名は、不思議な歴史の光を帯びている。この用語は、ただ州が九つに分かれているというのではなく、古代中国における“天子の直接統治領域”を示す、いわば政治用語である。そして、その名を冠した地域が日本列島にあり、二〇世紀の今日にまで至っている。
 通説では、現在の九州の名称は律令時代以来、その地が九国に分かれていたから、とされているが、いつごろから誰によって、九州と呼ばれはじめたのかは明らかにしえていないようである。(1) 一方、九州王朝説を唱えられた古田武彦氏は、九州島の地名を九州王朝の天子による直接統治領域に由来するものとし、命名の時期を隋書イ妥国伝に記された“阿蘇山の国”、そのイ妥国王がみずからを「日の出ずる処の天子」と称した七世紀初頭とされたのであった。(2)
 列島の代表者、九州王朝(倭国)が北部九州に存在したとする古田説によれば、九州という地名が、その論証上のキーワードとなりうること自明であろう。よって、限られた史料状況ではあるが、国内史料にみえる「九州」の史料批判により、その背景と九州の成立時期について考察を加え、一試論として提出したい。本稿をもって爾後の九州王朝論争の発展に寄与できれば幸いである。

1 九州の論理

 「九州」という用語は、古代中国における「天子の直接統治領域」を意味する政治用語である。その用例は中国の古典、代々の典籍のいたるところに存在する。たとえばつぎのとおりだ。
 ○禹、九州を分かつ。(尚書、禹貢)
 ○凡そ九州、千七百七十三州。(礼記、王制)
 ○天に九野有り、地に九州有り。(呂覧、有如)
 ○禹の九州を序する、是なり。(史記、[馬芻]椹伝)
 ○今、魏、九州に跨帯す。(蜀志十四)

     [馬芻]椹の[馬芻]は、JIS第三水準、ユニコード9A36

 古代中国の伝説の聖天子、禹はみずからの直接統治領域を九つの州に分けて統治したという。したがって「九州」といえば、そのまま天子の支配領域を意味し、必然的に九州には天子が君臨していることとなる。九州と天子のワンセット、この語義本来の論理性を突き詰めれば、近畿天皇家にとってみずからの全支配領域、すなわち日本列島を、あるいは近畿こそ九州と称すべき地域であった。すくなくとも、中心領域から離れ、かつ一支配領域にすぎない西海道を九州と命名するはずもなければ、他者が勝手に称することを許すはずもない。これこそ九州の語義がもつ政治性であり、論理性といえよう。
 事実、近畿天皇家の正史「六国史」にみえる「九州」はいずれも日本国全体をさし、九州島をさした例はない。

 ○詔曰、朕、九州君臨、字養万姓、〜
          (続日本紀、聖武天皇天平三年〈七三一〉)
 ○詔曰、〜仁襟被九州而有餘。
          (三代実録、清和天皇貞観十四年条〈八七二〉)
 ○詔曰、〜夫以、九州雲樓。百郡星連。
          (三代実録、陽成天皇元慶元年条〈八七七〉)

 以上の三例はいずれも天皇の詔勅にみえる「九州」だが、その文脈から、すべて天皇家の支配領域を意味すること明白であろう。すなわち、「九州の論理」にしたがって使用されているのだ。一方、「六国史」にあらわれる九州島の呼称は、筑紫・九国・大宰管内諸国・鎮西・西海道などであり、九州と表記されることはない。ここでもまた、「九州の論理」は貫かれている。しかし、平安後期(十二世紀初頭)になると、それがゆらぎはじめるのだ。

2 国内史料の九州

 九州島が九州と称される歴史上の有名な事例は、足利尊氏によって設けられた「九州探題」であろう。鎌倉幕府も同様の役職をおいたが、それは「鎮西探題」と呼ばれている。しかしながら、史料上は鎌倉時代すでに「九州」といえば、それは九州島をさすのが一般的といえるほど、ポピュラーに使用されている。古代から鎌倉時代までの国内史料にみえる「九州」の用例を管見のおよぶ範囲で収集したので参照していただきたい
 (表『国内史料にみえる「九州」表記一覧・古代〜鎌倉時代』、論文末尾に掲載)。
 鎌倉時代、幕府による公文書に九州が頻繁に使用され、それらはいずれも九州島を意味している。「九州の論理」からすれば、大義名分の逆転現象がみられるのである。例外として『平家物語』や「法勝寺八講表白案」などには、日本国としての「九州」表記がみられるが、『平家物語』の当該部分(南都牒状)は平安時代(治承四年〈一一八○〉)の出来事として「九州」が記されており、鎌倉時代の実用例としての公文書とはいささか史料性格が異なるようである。また、「法勝寺八講表白案」は、法勝寺が京都の寺ということもあってか、近畿天皇家の大義名分に立った「九州」の使用例である。しかし、鎌倉時代の大勢として「九州」は九州島に対して使用されていたといえる。
 そうすると、鎌倉幕府が九州島を九州と命名したのだろうか。史料によれば平安後期にすでに九州島を九州と記したものがあることから、鎌倉幕府もまたそうした先例を追認したと考えざるをえない。管見によれば、嘉承三年〈一一〇八〉の太政官符案(観世音寺文書)にみえる「九州」が九州島を指すものとしては現存最古のようである。

○太政官符案(『平安遺文』一六八八)
 太政官符 大宰府
  應令観世音寺別當傳燈大法師暹宴、修造當寺金堂廻廊中門等事、
 右、得彼府去三月廿日解状稱*、得彼寺所司等解状稱*、請被殊任道理、且奏聞、公家、且言上院廳、依其成功、申充勧賞、當(寺別当)暹宴大法師或既改造、或又欲営作當寺内破壊顛倒堂舎佛像等子細状、右三綱等謹檢案内、當寺者、天智・天武・聖武・三代之御願也、灰津久換、効果験猶新、然則傳彼東都三戒壇、移此西府之靈砌、誠是九州無雙之勝地、一府第一之壇場也、
 (以下略)
  嘉承三年六月廿一日〈一一〇八〉

稱*は、禾編の代わりに人編。JIS第三水準、ユニコード5041
  
 このような「九州」の用例が近畿天皇家の公文書である太政官符にみえることは、「九州の論理」からすればありえないことだが、当該記事部分が観世音寺所司の解状からの引用文であることから、観世音寺側が自称した「九州」を太政官が事実上追認使用したと考えられるのである。この時期、別の観世音寺文書にも「九州」を自称した例がみえる。

○筑前観世音寺所司解(『平安遺文』補三一九)
 観世音寺所司等解 申請 府裁事
 (中略)
  大石・山北・把岐三箇所司等解状
 右、謹檢案内、當寺者、是九州之大厦、五代之御願也、尋草創者則天智天皇之聖代、終土木者亦天武皇帝之明時也、(以下略)
  康治三年正月日〈一一四四〉

 この解にみえる「當寺者、是九州之大厦、五代之御願也、」の九州が九州島をさすこと、つぎにしめす同時期の文書の用例からして明白であろう。

 ○重検案内、件塔婆者、先帝之御願、西府之大厦也、
  嘉承元年五月廿五日〈一一〇六〉
   (太政官符案『平安遺文』一五六七・一五六八)
 ○重検案内、件塔婆者、先帝之御願西府之大厦也、
      (大宰府政所牒案『平安遺文』一六五九)
 ○重検案内、件塔婆者先帝之御願、鎮西之大厦也、
  元永二年三月廿七日〈一一一九〉
  (筑前國観世音寺三綱等解案『平安遺文』一八九八)

 これらの文書の西府や鎮西が九州島を意味していることはいうまでもないが、同類の文脈で使用されているさきの「九州之大厦」も九州島とみなさざるをえないのである。
 これらの史料から、平安後期にいたって、観世音寺側、すなわち九州島現地で「九州」を公然と自称しはじめたことがうかがえるのだが、その一方で平安中後期において近畿天皇家もひきつづき自らの大義名分に立って、日本国を「九州」と称していたことが別の太政官符案にみえる。

 ○太政官符東海東山道諸国司(『本朝文粋』巻第三)
  応抜有殊功先輩加不次賞事  尾張言鑑
 右平將門、積悪弥長、宿暴暗成。狸招烏合之群、只宗狼戻之事。冤国宰而奪印鑑、領県邑而事抄掠。(中略)抑一天之下、寧非王土。九州之内、誰非公民。官軍鮎虜之間、豈無憂国之士乎。(後略)
  天慶三年正月十一日〈九四〇〉

 ○太政官符案(『平安遺文』二八六七)
  雑事伍箇条
 一應令国司、且従停止、且録状言上、神社佛寺院宮諸家 新立庄園事、
 右、九洲之地者、一人之有也、王命外何施私威、(後略)
   保元二年三月十七日〈一一五七〉

 このように平安後期から末期にかけて、近畿天皇家の公文書に二種の「九州」が混在していることは興味深い。おそらく、平安後期における律令体制の形骸化と武士階級の台頭により、近畿天皇家の権威と「九州の論理」がゆるぎはじめたのであろう。しかしそれだけでは、九州島現地が「九州」を自称するための必要条件ではあっても十分条件とはいえない。なぜならば、天皇家の権威没落のみであれば、あらたな権力者、鎌倉幕府こそ天皇家に替わって「九州」を自称できるというだけのことだからだ。しかし歴史はそうは進まなかった。鎌倉幕府は九州島現地が九州を自称することを認めているのだ。史料事実にもとづくかぎり、そのように事態は推移したのである。
 こうした史料情況を説明しうるケースが一つだけある。それは、過去において九州島が「九州」と称された歴史事実があり、そのことが平安・鎌倉時代においても記憶されていたという場合である。「九州の論理」を直視するかぎり、このケース、すなわちある歴史的時間帯において九州島に「天子」が君臨し、みずからの直接当地領域を「九州」と呼んだ、という仮説(九州王朝説)しか、後代史料にあらわれた「九州」の情況を説明できないのではあるまいか。

3 九州の成立

 「九州の論理」を無視、あるいは軽視して成り立っている通説によれば、律令時代に九州島内で成立した九国が、後に「九州」と称されたとしているが、その九国の成立時期を七世紀後半から八世紀初頭としているようである。その根拠として、『日本書紀』『続日本紀』などにみえる九国の初出記事としてつぎの例をあげている。

1). 肥後国六九六年 (持統十年) 『日本書紀』持統十年四月条
2). 筑前国六九八年 (文武二年) 『続日本紀』文武二年三月条
3). 豊後国六九八年 (文武二年) 『続日本紀』文武二年九月条
4). 日向国六九八年 (文武二年) 『続日本紀』文武二年九月条
5). 豊前国七〇二年 (大宝二年) 豊前国戸籍
6). 薩摩国七〇二年 (大宝二年) 『続日本紀』大宝二年十月条
7). 筑後国七〇七年 (慶雲四年) 『続日本紀』慶雲四年五月条
8). 大隅国七一三年 (和銅六年) 『続日本紀』和銅六年四月条
9). 肥前国七四〇年 (天平十二年) 『続日本紀』天平十二年十月条
(井上辰雄「筑紫の大宰と九国三島の成立」『古代の日本・3九州』所収)

 これらの「初見史料」にもとづいて、九国の成立を持統十年(六九六)ころから、そして最終的には大隅国が置かれた和銅六年(七一三)としている。しかし、史料事実に即してみるならば、こうした立論は不当である。なぜならば、「筑紫大宰」の初見史料として有名な『日本書紀』推古十七年四月条に「肥後国」の名がみえるからである。

〇十七年の夏四月の丁酉の朔庚子に、筑紫大宰、奏上して言さく、「百済の僧道欣・恵彌、首として、一十人、俗七十五人、肥後國の葦北津に泊れり」とまうす。(『日本書紀』推古十七年条)

 また、持統紀四年十月条にも「筑後国」を記す一本が存在する。(3) すくなくとも推古紀にみえる「肥後国」を無視して、他の都合のよい部分だけを「初見史料」として立論することは、学問の方法論としていかがなものであろうか。(4) さらに『続日本紀」慶雲三年(七〇六)七月条に、「九国三嶋」という表記がみえ、この時期、九州島はすでに九国に分国していたことがうかがえる。

○大宰府言さく、「所部の九国・三嶋・亢旱し台風ふき、樹を抜きて稼を損ふ」とまうす。
          (『続日本紀』慶雲三年条)

 ここでも、通説ではこの「九国」の表記を「誤り」あるいは「追書」として無視しているのだ。律令体制以前の九州にこうした律令制的な分国があるはずがないとする通説は、史料事実ではなく、テンノロジーに依拠しているといわざるをえない。(5)
 それに対して、私の立場は異なる。推古紀の「肥後国」も、『続日本紀』の「九国」も、いずれも大宰府からの「発言」記事中にあらわれるのであり、これらは大宰府側の認識をあらわした貴重な断片史料と考えられるのである。したがって、推古の時代すでに九州島内は筑紫の大宰府を中心に肥後国などの分国が成立していたと思われる。こうした史料状況は、九州王朝の天子と大宰府を中国のミニチュア版とされ、この時期に倭国(九州王朝)はみずからの直接統治領域を九州と呼んだ、とする古田説と一致する。かつ、後代史料にあらわれる「九州」の変遷状況から、古代において九州島が「九州」と呼ばれていたとする本稿の考察と符合するのである。

4 九州の分国

 九州という名称とその条件について、なお厳密にいうならば、かならずしも九つの分国を前提とはしない。たとえば近畿天皇家の場合、「五畿七道」を「九州」と称しているのもその一例である。したがって、九州王朝がみずからの直接当時領域を実際に九分割していたかどうか、九州という現存地名だけからは断定できない。しかしながら、九州島が現実に九国に分割されている歴史事実を重視すれば、やはり九州王朝により九国に分割されていたと考えてみたい。しかも分割の「方法」は、筑紫・肥・豊が「前・後」に分けられ、日向・大隅・薩摩はそれぞれ一国というのも不自然ではあるまいか。(6) このように不自然な分国の結果、偶然に九国になったと考えるよりも、最初から意図的に九国に分割するための措置とみるのが穏当のように思われるのである。みずからの政庁を中国風に太宰府と命名した九州王朝であれば、さらに直接統治領域を九分割した上で九州を自称したと考えてもよいのではないだろうか。
 たとえば『風土記』には、筑紫・肥・豊がそれぞれ「前・後」に分割されたことを記されているが、その時期や誰によって分割がなされたのかは記されていない。

○豊後の國は、豊前の國と合せて一つの國たりき。(中略・地名起源説話がつづく)因りて豊國といふ。後、両つの國に分ちて、豊後の國を名と為せり。
   (『豊後國風土記』總記)
○肥前の國は、本、肥後の國と合せて一つの國たりき。(中略・地名起源説話がつづく)因りて火の國といふ。後、両つの國に分ちて、前と後とに為せり。
   (『肥前國風土記』總記)
○公望案ずるに、築後の國の風土記に云はく、築後の國は、本、筑前の國と合せて,一っの塵たりき((中略・地名起源説話が続く)因りて筑紫の國と曰ひき。後に両つの國に分ちて、前と後と為す。
   (「筑後國風土記逸文」『繹日本紀』巻五)

 こうした史料状況は、「分国」が近畿天皇家でなく九州王朝によりなされたことをしめしているように思われる。地名の起源はそれこそ千差万別であろうが、もともと一国であったものを「前後」に分割命名するというのは、分割された国はもとより、それらを含むさらに広範囲の地域の政治的権力者の存在を想定せざるをえない。そうすると、九州島内の国々において筑紫・肥・豊の三国のみが「前後」に分割されていることから、その三国に対して相当の影響力をもった権力者がいたこととなろう。そのような人物を想定することは次の『日本書紀』の記事からも可能である。

○是に、筑紫國造磐井、陰に叛逆くことを謀りて、猶預して年を經。事の成り難きことを恐りて、恆に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、秘に貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの國におそひ據りて、使修職らず。(『日本書紀』継体二十一年条)

 継体紀にみえる筑紫国造磐井が九州王朝の王であったとすれば、その最直轄支配領域が筑紫・火・豊であったことが、近畿天皇家側からも認められていることをこの記事は指し示している。このように九州王朝はみずからの最直轄領域をそれぞれ「前・後」に分けることにより、九州島内を意図的に九国に分国したのではあるまいか。

5 九州王朝の「五京制」

 以上、論じてきたとおり、古代・中世史料にあらわれる「九州」の史料状況や、『日本書紀』『風土記』などの考察から、九州の地名が九州王朝による自称であった可能性は高いといわざるをえない。そしてひとたび本稿の仮説、すなわち九州島内における九州・太宰府などの現存地名が古代九州王朝の痕跡であったことが承認されれば、他の政治的意味あいが強い地名も、同様に九州王朝との関連において検討されてもよいと思われる。たとえばつぎの地名だ。
 ○宮處郡(現福岡県京都郡)「豊前國風土記逸文(中臣祓氣吹抄)」
 ○宮處郷(佐賀県・所在地不明)『肥前國風土記』神崎郡条
 ○隈府(熊本県菊池市)

 「みやこ」や「府」を含む、これら九州島内の地名の淵源を考察する際、「九州王朝淵源」説も一つの作業仮説として検討に値するのではないか。もとより、地名比定やその歴史的考察は「恣意性」がつきまとうであろうが、九州王朝説によってはじめて穏当な理解がえられるケースもある。本稿の「九州」や古田氏が論及された「太宰府」などがその好例だ。よって、作業仮説の段階ではあるが、これらの地名に対して「九州王朝の五京制」という概念を提起してみたい。
 古代東アジアにおいて、首都とは別に複数の「都」がおかれた例がある。いわゆる「五京制」「五都制」は魏(三国時代)、新羅、渤海などが採用しており、東アジアの国々において採用された政治的システムのようだ。もちろん、国々において採用した事情やそのあり方には差があるようだが、メインの首都とは別に四つの「都」がおかれるという点では各国共通している。また、同列にはあつかえないが、百済は国が五部に分かれていたこともあってか、滅亡後は唐により五都督府がおかれた。
 ○魏(長安・洛陽・許昌・業*・[言焦])
 ○新羅(金城・北原小京・金官小京・西原小京・南原小京)
 ○渤海(上京龍泉府・中京顕徳府・東京龍原府・西京鴨緑府・南京南海府)
 ○百済(熊津、馬韓、東明、金漣、徳安)
 
     業*は、業に邑篇。JIS第4水準、ユニコード9134
     [言焦]は、JIS第3水準、ユニコード8B59

 おそらくは中国も影響を受けて、周辺諸国も五京制を採用したものと思われるが、なかでも新羅が7世紀後半に百済と高句麗を滅ぼして半島を統一した後、全国を九州に分割したことは注目される。(7) こうした東夷における中華思想ミニチュア版を九州王朝が模倣しなかったとは考えにくい。古代アジアの状況からも、九州島内の「みやこ」「府」などの地名の淵源を九州王朝によるものとする「九州王朝の五京制」説は成立の余地があるように思えるが、いまはその比定地推定とともに作業仮説として判断を留保しておきたい。

おわりに

 九州出身の私は、故郷の地名が古代中国に淵源をもつ政治的名称であったなどということを古田史学に出会うまで知らなかった。まして、九州に天皇家に先住した天子がいたことなども。古田氏ご自身も、邪馬壹国の研究から九州王朝説へと考究を進められるなかで、「九州」という地名のもつ歴史的背景に気づかれたようである。その古田氏よりはるかに早く、九州島における天子の存在を質された先覚者がおられる。灰塚照明氏(市民の古代研究会・九州の会常任幹事)、この人である。氏は少年時代、九州というにも天子がいたのではないかと質問された。戦中の軍国主義時代のこと、灰塚少年に返ってきたのは質問の答えではなく、「馬鹿野郎」の怒声と鉄拳であったという。
 しかし、いかなる権力も暴力も人間のもつ「不思議に思う心」を奪い尽くすことはできない。ましてや「真実は頑固である」(古田武彦)。そして歴史の真実を守り通すことは、忘却との闘いであり、それは多くの場合、民衆による闘いとなる。ながくつづいた近畿天皇家の列島支配の中にあって、九州王朝が滅んだ後でも九州島を「九州」と頑固に呼びつづけた民衆が一片の真実を伝えきったのである。これが本稿の結論だ。
 最後にいう。本稿で試みたことは、九州島の名称が史料的にどの時点までさかのぼれるか、そして「九州の論理」がいきつくところはどこか、これであったが、その探求を支えたものは「不思議に思う心」と「なっとくする心」であった。灰塚少年の問が発せられて約半世紀が過ぎたいま、郷土の先達に畏敬の念を表しつつ本稿の結びとしたい。

〈注〉
(1)井上辰雄「筑紫の大宰と九国三島の成立」(『古代の日本・3九州』所収、角川書店)。
(2)古田武彦『邪馬一国への道標』講談社。
(3)岩波古典文学大系『日本書紀』はこの「筑後国」を採用し、国史大系本は「筑紫国」とする。
(4)たとえば、倉住靖彦氏「筑前国司をめぐる若干の検討」(『九州歴史資料館研究論集13』所収)では、推古紀の「肥後国」の表記を「それぞれ追記であることは論をまたない」とされている。
(5)近畿天皇家一元史観にもとづく、論証抜きの断定をテンノロジーと古田武彦氏は命名された。
(6)同様の指摘が古田武彦氏によりすでになされている(古田武彦『邪馬一国への道標』講談社)。
(7)『三国史記』新羅本紀第八・神文王五年条(六八五)に「はじめて九州が備わる」とある。
(8)古田武彦編『倭国の源流と九州王朝』新泉社。

国内史料にみえる「九州」表記一覧・古代〜鎌倉時代

No.

西暦 年号 史料名 対象地域 記 事 跋 文 出 典 備 考
1 731

天平三年
一二.二一

続日本紀 聖武天皇詔 日本国 詔曰、朕、君臨九州、字養万姓、日仄忘膳、夜寐失席。 『続日本紀』 『続日本紀』成立は七九七年。
2 814 弘仁五年 高士吟(賀陽朝臣豊年) 日本国? 一宝何堪掃。九州豈足歩。寄言燕雀徒。寧知鴻鵠路。 『凌雲集』  
3 827 天長四年 入山興(空海) 中国? 君不見々々々。九州八嶋旡量人 。 『経国集』 九州を日本とする説あり。
『遍照發揮性靈集』に同文あり。
4 872 貞観一四年四・九 三代実録 清和天皇詔 日本国 詔曰、〜仁襟被九州而有餘。 『三代実録』 『三代実録』成立は九〇一年。
5 877 元慶一年
四・六
三代実録 陽成天皇詔 日本国 詔曰。〜夫以。九州雲樓 『三代実録』 樓を国史大系では接に改める。
6 940 天慶三年
一・一一
太政官符 日本国 抑一天之下、寧非王土。九州之内、誰比公民。 『本朝文粋』
巻第三

『本朝文粋』編者: 藤原明衡
(?ーー一〇六六)

7 922-982   字訓詩(源順) 日本国 官舎飽門館、三刀幾九州。 『本朝文粋』
巻第一
 
8 1004頃 寛弘一年頃 勧学会於法興院賦世尊大恩詩序一首(高階善徳) 日本国 況乎九州之地、逓有盛衰。当其衰也、其事不建。 『本朝文粋』
巻第十
 
9 1108 嘉承三年
六・二一
太政官符案 大宰府 九州島 誠是九州無雙勝地、一府第一之壇場也。 『平安遺文』
一六八八
東京大学所蔵観世音寺文書
10 1144 康治三年
筑前観世音寺所司解 九州島 當寺者、是九州之大厦、五代之御願也。 『平安遺文』
補三一九
筒井寛聖氏所蔵文書

11

1157 保元二年
三・二七
太政官符案 日本国 右、九洲之地者、一人之有也、王命外何施私威、 『平安遺文』
二八七六
書陵部所蔵
壬生家古文書
12 1185 文治一年
三・九
吾妻鏡 九州島 今又可入九州之由有其聞、四國事者義經奉之、九州事者範頼奉之処、 『吾妻鏡』 『吾妻鏡』の成立は一二六六。
13 1187 文治三年
八・二
源頼朝感状寫 九州島 仍任累代之旨、九州前三ケ國之事、 『平安遺文』
二五一
解説・偽文書
14 1189 文治五年
三・一〇
関東御教書寫 九州島 、 九州鋳物師政所職者、宛給者也 、 『平安遺文』
三七一
名古屋大学眞継文書
15 1189 文治五年
源頼朝下文 九州島 於九州惣政所者、充給者也 『平安遺文』
四〇三
筑後梅津文書。解説:検討の余地あり
16 1190? 建久一年頃 平治物語 中国 九州の主に成べしとして、御門より三度までめさるるなり。 『平治物語』
金刀平本
陽明本には見えない中国故事として引用
17 1197 建久八年
大隅國圖田帳寫 九州島 九州之内一國令其案内候在廳仁仰付、    
18 1220? 承久二年頃 平家物語 南都牒状 日本国 九州を統領し、百司を進退して、奴碑みな僕従となす 『平治物語』 成立年は群書類従年表による。
19 1229 寛喜一年
一〇・三
公文所下文 九州島 始九洲正八幡佐宮而、爲正大宮司 『平安遺文』
三八七二
築後鷹尾文書
20 1244 寛元二年
法勝寺八講表白案 日本国 誠是百王鎮護之道場、九州帰依之仁祠者與、 『平安遺文』
六三三七
春華秋月抄本十一
(京都)
21 1247 寶治一年
一一
薩摩新田宮所司等重申文 九州島 八幡三所神明之垂跡、九州五所別宮専爲第一、 『平安遺文』
六九〇八
神代三陵志
22 1275 建治一年
一〇・二九
将軍源惟康家政所下文案 九州島 筑後河神代浮橋、九州第一之難處、 『平安遺文』
一二〇七八
解説:疑うべし。
高良神社文書
23 1276 建治二年
大宰府下文案 九州島 粗訪鎮西神社造営例、宇佐宮者九州被宛之 『平安遺文』
一二二一二
 
24 1276 建治二年
義伊肥後大渡橋勧進疏 九州島 鎮西肥後州大渡者、九州第一難處之也、 『鎌倉遺文』
一二三四八
肥後大慈寺文書
25 1284 弘安七年
九・一〇
北条尚時書状 九州島 以九州所領、相分三方也、 『鎌倉遺文』
一五三〇二
 
26 1284? 弘安七年
関東評定事書 九州島 九州爲宗寺社、〜爲九州官軍、〜九州守護〜、 『鎌倉遺文』
一五三六五
近衛家本追加
27 1286 弘安九年
良忠譲状 九州島 愚老九州下向之時 『鎌倉遺文』
一五九七〇
相模光明寺文書
28 1288 正應一年
一〇
大神貞行申状案 九州島 九州筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向〜 『鎌倉遺文』
一六八〇一
豊前小山田文書
29 1288 正應一年 島津荘官等申状 九州島 九州二島課役、正八幡宮者、三州所役也、 『鎌倉遺文』
一六八四三
薩摩舊記前編七
志布志鹿屋権兵衛
兼治蔵書
30 1289 正應二年
經妙申状案 九州島 宇佐九州一同之大営、 『鎌倉遺文』
一六九四六
豊後柞原八幡宮文書
31 1193 正應六年
関東評定事書 九州島 九州爲宗寺社、〜爲九州官軍、〜九州守護〜、 『鎌倉遺文』
一八三一六
近衛家本追加
32 1300? 正安二年
頃か
八幡愚童訓 九州島 天平勝寶元年造営宇佐宮。世三年必造替奉。九州平均課役也。 『群書類従』
巻一三
岩清水八幡にて成立
33 1301 正安三年
七・二九
後宇多上皇院宣 九州島 三間圓通之霊砌者、九州肥前之勝地也、 『鎌倉遺文』
二〇八三〇
肥前圓通寺文書
34 1304 嘉元二年
一二・三一
千竃耀範覆勘状 九州島 被結番九州於五番、内一番筑前國役、 『鎌倉遺文』
二二〇六九
筑前中村文書
35 1309
延慶二年

肥前武雄社大宮司藤原國門申状案
九州島 九州宗社、〜爲九州宗社随一、〜當社者爲九州五社之内、 『鎌倉遺文』
二三七二一
肥前武雄神社文書
36 1310 延慶三年
五・二〇
鎮西過所寫 九州島 右、九州津〃關泊、 『鎌倉遺文』
二三九九五
肥前東妙寺文書
37 1313 正和二年
一〇・一二
鎮西下知状案 九州島 爲九州沙汰、案文仁對裏者也、 『鎌倉遺文』
二五〇一五
豊前到津文書
38 1313 正和二年
八幡宇佐宮御託宣集 九州島 出北闕向西鎮、遭悪風奉念八幡神之時、有順風令著九州津之間 『八幡宇佐宮御託宣集』
巻一二
 
39 1313 正和二年
八幡宇佐宮御託宣集 九州島 自稱國王押領九州發謀叛、 『八幡宇佐宮御託宣集』
巻一四
 
40 1316 正和五年
七・一七
六波羅御教書案 九州島 可被相觸九州地頭御家人等、 『鎌倉遺文』
二五八九一
大友文書
41 1321 元亨一年
一二・三
薩摩天満宮国分寺所司神官寺申状 九州島 任関東御事書旨九州大社以下修造 『鎌倉遺文』
二七八九一
薩摩国分寺文書
42 1321 元亨一年
一二・六
関東御教書案 九州島 爲九州役終其功畢、伽就彼官符、 『鎌倉遺文』
二七九一〇
豊前益永文書
43 1331 元徳三年
八・三〇
関東御教書案 九州島 可被相觸九州地頭・御家人等之状、 『鎌倉遺文』
三一五〇三
彌寝文書
44 1333 正慶二年
四・一
鎮西御教書案 九州島 九州士卒事、宜随分國守護人催促之處、 『鎌倉遺文』
三二〇七七
島津家文書
45 1333 正慶二年
四・一
薩摩守護島津貞久施行状案 九州島 九州士卒事、宜随分國守護人催促之處、 『鎌倉遺文』
三二〇七八
島津家文書
46 1333 正慶二年
後醍醐天皇軍法案 四海・九州・東關・西國各令承知、敢勿違越、 『鎌倉遺文』
三二一二五

伊勢光明寺残篇

※本表作成にあたり、中小路駿逸(追手門学院大学教授)・安田陽介(京都大学院生)両氏の御教示を得た。


『市民の古代』第15集』 へ

ホームページへ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“