増田修
『令集解』巻三・職員令・中務省・陰陽寮の条には、陰陽頭(かみ)の職掌として、「天文、暦数、風雲の気色、異あらば密封奏聞することを掌る」とある。その暦数の注釈をみると、『令義解』の分注からの引用は、「暦数は、日月の度数を計りて、而して暦を造り、時を授くるなり」と、一般的・抽象的な定義をしているに過ぎない。
ところが、「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差(たが)ひ、正月を反て二月と為す。未だ九年に盈(みた)ざるに、巳に、三月を校(かぞ)へ、則ち春を以て夏と為す、未だ十七年に盈(みた)ざるに、則ち六月差校し、便(すなわ)ち春を以て秋と為す。」と注釈している。「古記」は (1) 一九年を一章とし、その間に閏月を七回置くという、章法に基づく暦法を説き、(2) 閏月を置く基準として、一章の中の第何年目に閏何月を置くという型を示し、(3) そして、もし閏月を置かなければ、季節が定まらず、年月が整わないという、不都合が起こるという。「古記」は暦数の注釈を、具体的な暦法でもって説明しているのである。
「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国では、儀鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱却した破章法による暦法であって、「古記」が示すような固定的な閏月の型を示さず、閏月は次第に進行する性質を持っている。「古記」が解説する暦法は、儀鳳暦ではない。
栗原治夫も、「古記」が十九年七閏法を挙げて暦数を説明しているのは、実情に合わないという。(1) そして、桃裕行は、「古記」の閏月を、基準としての下限を示しているものと見て、元嘉暦の閏月の型を示したものであるという。(2) これに対して、大谷光男は、「古記の閏月は元嘉暦ではない。古記の閏月の順位は、儀鳳暦(麟徳暦)によるものである。・・・が、無理した解釈は避けたい」という。(3)
しかし、「古記」の暦数についての注釈は、内山守常が指摘するように、『春秋正義』文公元年条と『尚書正義』尭典の文章の一部を抜粋して合成・修飾したものである。(4) そして、『春秋正義』は、「古記」のいう暦数を、古暦と称している。この古暦は、後漢四分暦と同じ四分暦法に基づく暦である。元嘉暦・儀鳳暦は四分暦法によっていない。
「古記」は、暦数の注釈において儀鳳暦を説かず、『日本書紀』・『続日本紀』において採用したという記事もない、古暦を示しているのである。そうすると、この古暦は、大宝元(七〇一)年日本国(近畿天皇家)が倭国(筑紫・九州王朝)に替わって日本列島の代表王者となる以前、倭国において施行されていた暦法ではあるまいか?
次に、『令義解』巻五・官衛令・開閉門条には、宮門の開閉は太鼓の合図によってなすことが規定されており、その分注において「鼓を撃つの時節は、別式有る可し」とある。その別式は、『延喜式』第一六・陰陽寮・諸門鼓条にある開門・閉門時刻の記載が対応している。それによると、一年を四〇の期問に区分し、各期問の日出・日入時刻と宮門開閉の鼓を撃つ時刻が指定されている。その時刻法は、一昼夜=一二辰刻、一辰刻=四刻、一刻=一〇分(ぶ)という、一日四八刻法をとっている。
『延喜式』は、康保四(九六七)年施行されている。ところが、元嘉暦・儀鳳暦はもちろん、貞観四(八六二)年から始行された宣明暦は、一日=一二辰刻=一〇〇刻法を採用している。中国においても、隋唐代を含め歴代十朝は、大体一日一二辰刻=一〇〇刻法をとっており、四八刻法であったことはない。
斎藤国治は、日出・日入時刻はその土地の緯度の関数であるから、『延喜式』の日出・日入時刻曲線は全般的に見て北緯三三度曲線との一致がよいが、夏至付近の日出と冬至付近の日入の部分は三五度曲線と一致するので、緯度が右の範囲に入る古代の首都は、京都平安京(北緯三五度)が第一候補であるという。(5) しかし、倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。
そうすると、『延喜式』の日出・日入時刻は、むしろ倭国(筑紫)において採用されていた四八刻法に基づく日出・日入時刻を受継し、それに多少手を加えたものではないだろうか?
『十三経注疏附校勘記』(清・阮元校勘)に収録された「春秋左伝注疏・巻第十八」・「伝」文公元年条の「疏」には、次のような注釈がある。
正義曰、古今暦法、推閏月之術、皆以閏余、減章歳余、以歳中乗之、章閏而一、所得為積月、命起天正算外、閏所在也、其有進退、以中気定之、無中気則閏月也。古暦、十九年為一章、章有七閏、入章三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏四月、十九年閏十二月、・・・大率三十二月則置閏・・・。
「古記」が、陰陽頭の職掌の一つである暦数の注釈に、右の『春秋正義』の文章から引用していることは明白である。なお、「古記」は、「十七年閏五月」とするが、暦法上は『春秋正義』の「十七年閏四月」の方が正しく、「古記」の方は誤写であろう。
また、『十三経注疏附校勘記』・「尚書注疏巻第二・堯典第一」・「経」の「乃命羲和」・「伝」の「咨嗟」条の「疏」の終わりの方には、次のような注釈がある。
正義曰、・・・所以無閏時不定歳不成者、若以閏無三年、差一月、則以正月為二月、毎月皆差、九年差三月、即以春為夏、若十七年差六月、即四時相反、時何由定歳、何得成乎、故須置閏、以定四時。
「古記」の閏月を置かない場合の不都合を説明した部分は、右の『尚書正義』から採って修飾したものであろう。
「古記」は、これに続けて、 (1)「春秋正義に曰く、古今の暦を言うものは大率(おおむね)皆周天を以て、三百六十五度四分度の一と為す。・・・故に一歳を十有二月と為す。日月は動くものにして、行度に大量有りと雖も、少しく盈縮有らざること能はず」、 (2)「また曰く、期は三百有六旬〔有六日〕、謂えらく、冬至より冬至に至る、必らずこの数を満す。・・・暦法に於ては〔一日を〕分けるに九百四十分となし、月行日に及ぶは必ず四百九十九分なり。これ半ばを二十九分過ぐ。今一歳周は、三百六十五日四分日の一あり。・・・。一巻正義文」という。
右の文章のうち、 (1)の部分は、『十三経注疏附校勘記』「春秋左伝注疏巻第三」・「経」隠公三年条の「疏」の中にみえ、 (2)の部分は同書「春秋左伝注疏巻・第十八」・「伝」文公元年条の「疏」にある。これらは、四分暦法を解説したものであって、「古記」のいう暦数が四分暦法であることを証明している。
『五経正義』すなわち『周易正義』・『尚書正義』・『毛詩正義』・『礼記正義』・『春秋正義』は、貞観一二(六三八)年唐の太宗の命により、孔穎達等が撰修を開始し、貞観一六年審定成り、永徽*四(六五三)年長孫無忌等によって刊定され、高宗に奉られた。
『五経正義』は、五経に対する最良の注釈書を選択し、更にこの注釈書を再注釈した書物、すなわち六朝時代に作成された多くの義疏の中から最良のものを選定し、これを基本としてその不備を次善のもので補ったものである。(6)(7) 『春秋』の注は西晋・杜預撰『春秋左氏経伝集解』、義疏は隋・劉[火玄](五四九〜六一七)撰『春秋左氏伝述義』と陳・沈文阿(五〇四〜五六三)撰『春秋左氏経伝義略』が選択されている。『尚書』の注は前漢・孔安国の『孔子伝』、義疏は隋・劉[火卓](五四四〜六一〇)撰『五経述義』と隋・劉[火玄]撰『尚書述義』が選定された。
徽*は、攵の代わりに于。
劉[火玄]の[火玄]は、JIS第3水準、ユニコード70AB
劉[火卓]の[火卓]は、JIS第四水準、ユニコード712F
の[端頁](せん)は、立つ無。JIS第3水準、ユニコード9853、[王頁](ぎょく)は、JIS第3水準、ユニコード980A
『五経正義』は、六朝時代の義疏の集大成であって、六朝四〇〇年に渡る時代が、その年月と共に徐々に堆積して行った講説の集成である。「正義」の多くは隋の劉[火卓]・劉[火玄]という二人の学者の「義疏」に基づくが、この二人の学者の書も更に基づくところがあるらしく、「二劉」の基づいたものは、更にまた基づくものがあろうという。(8)
『春秋正義』が説く古暦も、古暦というからには、六朝以前のものであろう。そして、前漢太初暦以降の正朔は、その名称と暦法が「正史」に記録されているのであるから、古暦とはそれ以前のものをいう。すなわち、『春秋正義』のいう古暦は、黄帝・・夏・殷・周・魯の名を冠した古六暦などを一括して指しているようである。『尚書正義』堯典は、それらの六暦は秦漢の際に仮託して制作されたものであって、古代の真の暦は戦国と秦を経て亡んだが、そのあらましの説だけは残っていて、一年を三六五日と四分の一日、一月を二九日と九四〇分の四九九日とし、一九年間に七回の閏月を置くという。劉宋・祖沖之は、この六暦は四分暦法に基づいているという(『宋書』巻一三・律暦志下)。同じ四分暦ではあっても、六暦の暦元はそれぞれ異なっており(『後漢書』志第三・律暦下、『開元占経』巻一〇五)、それが名称を異にする大きな理由である。
六暦の置閏法は、本来歳終置閏(年末閏)であろうが、祖沖之を始めとして一般には歳中閏としている。(9) 周初には歳終置閏が行われており、『春秋左伝』の暦日資料を基に新城新蔵(10) が作成した暦譜によると、、二四節気の成立に伴ない、前七世紀末頃から歳中閏が一般的になったに過ぎない。ところが、『春秋正義』が示す古暦の置閏月は、復元された六暦や後漢四分暦の置閏月とは、必ずしも一致しない。(9) (11)
ともあれ、『春秋正義』のいう古暦は前漢代から流行した讖緯(しんい)説(12)〜(14)に依拠して主張された六暦(前漢四分暦)の系統に属するものであろう。それはまた、後漢四分暦法と本質的には同じ暦法である。この古暦が、六朝時代に伝承され、隋の劉[火玄]撰『春秋左氏伝述義』に採録され、『春秋正義』に収録されたのである。隋代には、『四分暦』(梁・四分暦三巻、漢・李梵撰)という書物も存在している(『隋書』巻三四・経籍志三)。
ところで、秦の始皇帝二六(前二二一)年から前漢の武帝太初元(前一〇四)年の前まで行われた暦法は、(せんぎょくれき)と称せられている。この暦法は、古・の歳首の位置を孟春正月から孟冬一〇月まで月名を変更せず、そのまま引き上げ、歳終置閏(=閏九月)としたものである。漢初に秦のが用いられていたこと(『史記』巻九六・列伝第三六・張蒼伝賛、『漢書』伝第一二・張蒼伝賛)については疑問視されていた。しかし、一九七二年山東省臨沂から二座の前漢墓が発掘され、その第二号墓から竹簡暦書が出土し、その中に前漢の武帝元光元(前一三四)年の暦と推定されるものがあり暦元の時刻の旦を正午に改めることによって、竹簡暦書の干支と一致することが判明した。(15) これによって、漢初には秦のが受け継がれていることが立証された。
前漢の武帝太初元(前一〇四)年夏五月、受命改制の指導原理の下に改暦が行なわれ、太初暦が前漢一代の暦法となった。太初暦は、一カ月の日数を二九日と八一分の四三日とする八一分法を採用している(『漢書』律暦志第一・上、『後漢書』志第二・律暦中)。そして、前漢末に劉[音欠]の手で増補されて三統暦となった。(16)・(17)
劉[音欠]の[音欠]は、JIS第三水準、ユニコード6B46
ところが、『史記』巻二六・暦書第四に見える暦術甲子篇には、武帝太初元(前一〇四)年から成帝建始四(前二九)年に至る七六年間の暦譜が記されている。この暦譜の定数は、四分暦法のそれであって、七六年という年数も四分暦法では、一蔀という周期に当っている。そのため、太初暦は四分暦法であるという説がある。(18)
しかし、『史記』は征和二(前九一)年頃成立し、撰者司馬遷は昭帝始元元(前八六)年頃に死亡しているので、暦術甲子篇の暦譜は、後人の増補になったものと考えられる。(16) それはスタインが敦煌で発見した漢暦の断簡中に神爵三(前五九)年のものが、八一分法に拠っていることからもいえよう。(19)
後漢でも三統暦が使われていたが、明帝永平五(六二)年頃には、暦面で実際の天象より一日の後れが目立ってきた。そこで、張盛等が四分暦法をもって推算して天象に一致する結果を得たので、編訴*・李梵等が四分暦を整理し、章帝元和二(八五)年から施行された(『後漢書』志第二・律暦中)。(20)(21) 一年の長さを三六五日と四分の一日と、分数部分(斗分)が四分の一であることから四分暦と名付けられた。この後漢四分暦は、後漢一代の暦法となり、魏では青龍四(二三六)年まで、蜀では炎興元(二六三)年まで、呉では一年間(二二二)使用された。そして、後漢四分暦で当てた年の干支は、その後連続して継承され今日に及んでいる。(22)(23)
編訴*の訴*は、言偏に斤。
それでは、倭国が中国の暦を受容するようになったのは、いつ頃からであろうか?
『二中歴』にいう「年代歴」は、倭国年号(九州年号)を年代記の形で所載した文献としては、最古のものである。(24)(25) 「年代歴」の冒頭には「年始、五百六十九年内三十九年、号無く支干を記さず、其の間縄を結び木を刻み、以て政を成す」とある。続いて、「継体五年元丁酉(26)」から始まり、「大化六年乙未(27)」に終る年譜が記されている。年譜には、結縄刻木が止められたのは、明要元(五四一)年辛酉とある。
そうすると、倭国の「年代歴」の年始は、「継体元(五一七)年丁酉」から遡る五六九年、すなわち前五二年である。古田武彦は、この年が天孫降臨による倭国建国の年であるという。(28) それから三九年問、前一三年までは、結縄刻木により政治を行ない、無号不記支干であった。前一三年から五一七年までの間は中国年号・干支を用いた。そして、五一七年から倭国年号・干支が制定施行され、大化六(七○○)年まで続いたのである。
ところで、このような『二中歴』の「年代歴」を証明する証拠は存在するのだろうか?
まず、「室見川の銘版」がある。「高暘左・王作永宮齋鬲・延光四年五」と刻まれた、文鎮状の天然真鍮製の金属片である。古田武彦は次のように解説している。(28)(29)
(1)古暘左〈大篆〉=暘谷(日の出る所)の東(倭同)(2)王作永宮齋鬲〈大篆〉=(倭国の地に)倭王は宮殿と宝物を作り賜うた。(3)延光四年〈漢字〉五〈篆体〉=今、延光四(一二五)年五月(この銘版を刻す)
古田は、この金属片は室見川の中・上流域の弥生期の宮殿から流水によって河口に至ったと理解していた。それに答えるかのように、最近、室見川の上流域の吉武高木遺跡から最古の三種の神器が、その遺跡の東側から宮殿群跡が出土している。これらは、弥生中期初頭に位置づけられている。しかし、古田は引き続き卑弥呼の時代に成っても、吉武高木の弥生中期風の神殿群は、天孫降臨当時の聖地として、崇敬の対象となっていたという。(28)
倭王は、後漢の光武帝から建武中元二(五七)年、「漢委奴国王」の印授を賜っている。倭王は、天孫降臨以降、一世紀かけて九州とその周辺地域を平定統一し、倭人の代表王者と認められたのである。そして、安帝永初元二〇七)年には、倭王帥升等が、生口一六〇人を献上して、皇帝の接見を願い求めている。「室見川の銘版」に刻まれた延光四年五月という後漢の年号と暦月は、倭王が後漢の正朔を奉じていた証拠であろう。
次に、景初二(二二八)年、魏の明帝は、倭国の女王卑弥呼を「親魏倭王」となし、金印紫綬を授与している。そして、正始八(二四七)年、帯方郡太守王[斤頁]は、寒曹橡*史張政等を倭国に派遣し、張政は泰始二(二六六)年まで倭国に滞在していたと思われる。(31)〜(33)張政は、当然のことながら魏の暦を携えて、倭国に赴任してきたのであろうし、卑弥呼は魏の正朔を奉じたであろう。
橡*は、木編の代わりに手編。
王[斤頁]の[斤頁]は、JIS第四水準、ユニコード980E
魏では、明帝景初元(二三七)年に受命改制の説によって改暦が行われ、景初暦を採用した。景初暦は、一九年一章七閏の章法をとるが四分暦ではなく、後漢の劉洪が作った乾象暦を基礎にしている。乾象暦は、呉においては黄武二(二二三)年から天紀四(二八○)年の滅亡まで用いられた。(16)
西晋の武帝は、泰始元(二六五)年、景初暦の名称を泰始暦と改めただけでそのまま踏襲し、事実上、魏の正朔を改めなかった。
壱与は、泰始二年、西晋に入朝している。卑弥呼・壱世の時代、倭国においては、景初暦・泰始暦が行われていたと見ることができよう。卑弥呼は、正始元年(二四〇)年、魏の斎王に上表文を呈しているが、そこには景初暦に基づく年月日が記されていたことは確実であろう。景初暦の使用の痕跡は、古墳時代初期の古墳から出土するなどした「景初元年鏡」・「景初四年鏡」・「正始元年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡であろう。そして、「元康元年八月廿五日鏡」(伝京都府山城町上狛古墳出土)は、西暦二九一年の西晋の紀年を鋳出している。
青色表示の初・正・元・元・五は判読不明文字で推定です。
さらに石上神宮に神宝として伝わる七支刀は、百済王世子が倭王旨のために「泰和四(三六九)年五月十六日丙午正陽」に造ったものであるが、泰和は東晋の年号である。倭王も百済王も、東晋の天子の下の候王であることを物語っている。そして、倭王讃は、東晋の魏煕九(四一三)年、安帝に方物を献じている。倭国は、西晋・東晋朝を通じて、晋の正朔を奉じ、泰始暦とその年号を使っていたと見てよいのではあるまいか。
次の南朝劉宋の時代には、永初二(四二一)年倭王讃が修貢したのを始めとして、いわゆる倭の五王が遣使頁献した。倭の五王は、南朝の冊封下に参入することを願い、大将軍の称号を得ることを希求したのである。そして、元嘉二(四二五)年、倭王珍が安東将軍・倭国王に除せられ、倭王済・興・武も官職・称号を授与されている。特に、倭王武は、昇明二(四七八)年、順帝に上表して臣と名乗り開府儀同三司と自称し、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除せられている。倭の五王のうち珍・済・興・武は、南朝の正朔を奉じるべき地位に就いていたのである。(34)
南朝劉宋においては、永初元(四二〇)年劉裕(武帝)が東晋の恭帝から禅譲を受けて天子の位につき、その六月に泰始暦を改めて永初暦となしたが、名称を変えただけで晋の正朔をそのまま踏襲した。しかし、永初暦は天象と合致しなくなっていた。そこで、何承天が永初暦の改革を行ない、元嘉暦の名の下に文帝元嘉二二(四四五)年から施行された。元嘉暦も景初(泰始・永初)暦と同じく、四分暦ではないが章法をとっている。元嘉暦は、南斉(建元暦と改名)を経て、梁の武帝天監八(五〇九)年まで行われた。(16)
倭王武は、南斉の高帝建元(四七九)年鎮東大将軍に任ぜられ、梁の武帝天監元(五〇二)年征東将軍に進号している。ここまでは、倭国が南朝の冊封下にあったといえよう。(35) 倭王済・興・武は、元嘉暦と南朝の年号を用いていたと思われる。
ところが、『二中歴』によると、継体元(五一七)年から倭国年号が始まり、大化六(七〇〇)年まで、一八四年間継続し、その間三一の年号を数える。
倭国が独白の年号を建てたということは、南朝の冊封体制から離脱し、自立したことを意味している。倭国は、自前の律令を制定し、南朝の暦を捨て、新たな暦を作ったのである。
それでは、倭国年号が乗っていた暦は、どのような暦法に基づいていたのであろうか? それは、『令集解』陰陽寮条の「古記」に見える「暦数」なのではあるまいか。「古記」の説く暦法は、後漢四分暦と同じく四分暦法・章法をとり、『春秋正義』が古暦(前漢四分暦)として記録している暦法である。倭国は、中国古代の由緒ある暦法と考えられていた四分暦法を採用していたのである。
白村江の戦で唐に完敗した倭国に代わり、これを併合して八世紀以降日本列島の代表王者となった日本国は、どのような暦を用いていたのであろうか?
『日本書紀』持統天皇四(六九〇)年一一月甲申(一一)日条には、「勅を奉じて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とある。一方、『政事要略』(惟宗允亮、長安四年・一〇〇二)巻二五には、「儒伝に云う、小治田(推古)朝十二(六〇四)年歳次甲子正月戌申朔(37)を以て、始めて暦日を用う」と載っている。
しかし、『三代実録』清和天皇貞観三(八六一)年六月条には、「六月甲辰朔、・・・十六日己未、始めて長慶宣明暦経を頒行す。是より先、陰陽頭従五位下兼行暦博士春日朝臣真野麻呂奏して言ふ。謹しみて検するに豊御食炊屋(とよみけかしやき)姫(推古)天皇十年十月、百済国の僧観勒始めて暦術を貢る。而して未だ世に行はれず。高天原広野姫(持統)天皇四年十二月、勅有りて始めて元嘉暦を用ひ、次に儀鳳暦を用ふ。高野姫(称徳)天皇天平宝字七(七六三)年八月儀鳳暦を停め、開元大衍暦を用ふ」とある。
すなわち、歴代の暦博士の中で最も優れた中国暦術の大家であった大日春真野麻呂は、推古天皇の時代に暦書は渡来したが、未だ世に行なわれず、持統天皇四(六九〇)年になって始めて元嘉暦を用い、次に儀鳳暦を使ったという。
現存する『日本書紀』が、どのような暦法を用いているかについては、小川清彦の論文「日本書紀の暦日に就いて(第五稿 (38) )」によって、一応解明されている。小川は、『日本書紀』の暦日は三個の閏字の脱落があることを認めれば、五世紀の半ばまでは儀鳳暦の平朔、以後は元嘉暦によって推算したものであるという。この事実は、『日本書紀』が持統天皇四年に始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行なったといっていること自体に、疑いを生じさせる。
しかし、内田正男は『日本書紀』の暦日を分析し、持統天皇五年は元嘉暦と「書紀」は完全に一致するが、儀鳳暦によれば四回も違ってくるので、暦の正式採用は、持統天皇六年からであるという。そして、持統天皇一一(六九七)年七月までは、暦日は元嘉暦が主に用いられ、文武天皇元(六九七)年八月以降は儀鳳暦に一致するようになるという。また、内田は、「元嘉暦儀鳳暦併用の意味は、月朔は元嘉暦を主にし、日食予報には儀鳳暦を用いたということであろう。これによって持統五年により、初めて記載されだした日食の予報記事の説明もつく」という。(39)
ところが、持統天皇が譲位し即日文武天皇が即位したという、持統天皇一一年八月朔=文武天皇元年八月朔の干支を、『日本書紀』は乙丑と元嘉暦を採用しているが、『続日本紀』では甲子と儀鳳暦を採っている、という矛盾がある。(40) 日の干支は、暦法の如何によらず、連綿として連続している。(41) したがって、甲子は乙丑の前日に当たるから、「続紀」の文武天皇の即位記事は、「書紀」の持統天皇の譲位記事の前日となる。「続紀」が、「書紀」が八月朔を乙丑としているのを熟知しながら、八月朔を甲子としている事実は、双方とも真実の持統譲位・文武即位の日の干支ではないことを、言外に示唆しているように思われる。近畿天皇家は、倭国の暦を用いて、持統譲位・文武即位の日を記録していたのではあるまいか。
しかし、「妙心寺梵鐘」の「戊戌(六九八)年四月十三日壬寅収」と、「那須国造碑」の「歳時庚子(七〇〇)年正月壬子日」は、いずれも儀鳳暦に合致する。(42)
唐においては、則天武后よって永昌元(六九〇)年二月、夏正(立春正月)が廃されて周正(冬至正月)が採用され、暦法も変更されようとしていたが、久視元(七〇〇)年一〇月には夏正に復し、暦についての混乱が終っている。
そして、『続日本紀』は、文武天皇五(七〇一)年三月甲午(二一)日「元を建てて大宝と為す。始めて新令によりて官名・位号を改制す」という。日本国は、この頃には儀鳳暦を公式に採用したのであろう。
大宝元年以降、儀鳳暦を使用していたことが確認できる最初の物証は、藤原宮跡東面大垣外濠から出土した暦断簡様の木簡である。それには、「五月大一日乙酉水平 七月大一日甲申」と記載されている。右地点から出土した木簡は、文武朝ないし元明朝の紀年銘を持ったものが多いので、慶雲元(七〇四)年が該当する。すなわち、藤原京時代前後において五月と七月が大の月であり、かつ、月朔干支が乙酉と甲申である年は慶雲元年以外は存在せず、十二直の平は酉の日に当っており、これは五月節に含まれているからである。(43)(44)
正倉院文書の「天平十八年具注暦」・「天平二十一年具注暦」・「天平勝宝八歳具注暦」も儀鳳暦に一致する。(45)〜(47)
西暦四四五年から一八七一年の間の暦日は、内田正男が『日本暦日原典』(一九七五)に復元している。(48)そして、岡田芳朗は、奈良時代の古文書・古記録・金石文・『続日本紀』の月朔干支などを基に、奈良時代に実際に行われた、暦日を復元している。(49)〜(51)それらは、称徳天皇天平宝字八(七六四)年、大衍暦が始行されるまでは、儀鳳暦が用いられていたことを証明している。しかし、推算、暦による正旦日食を避けるために、進朔・退朔などの形で日を動かしているので、『日本暦日原典』や唐の麟徳暦とは、完全に一致しない。(52)(53)
さて、『日本書紀』を始めとする六国史は、「古記」の説く四分暦を用いたとは主張していない。六国史の暦日においても、四分暦は採用されていない。したがって、「古記」にみえる四分暦は、近畿天皇家が施行した暦ではありえない。
「古記」は、和銅六年二月一九日格・慶雲三年九月一〇日格(『令集解」巻十三・田令)などを引用しているので、「大宝令」の注釈書であることは否定できない。その「大宝令」は、「大略、浄御原朝廷を以て准正と為す」(『続日本紀』大宝元年八月癸卯条)という。「浄御原令」については、『日本書紀』持統天皇三(六九八)年条に「諸司に班賜す」とありながら「令」制定の記事はない。古田武彦は、この事実は「浄御原令」が天皇家自身の制定によるものではなく九州王朝(倭国)系の「令」に依存していることを示しているという。(54) そうすると、「古記」の暦数についての注釈は、倭国の「令」の注釈書に依拠していると考えてよいであろう。
それでは、「大宝令」の注釈書である「古記」が、なぜ暦数の注釈に、儀鳳暦ではなく倭国の四分暦を示したのであろうか?
それは、大宝元年以降も、近畿天皇家といえども、倭国の支配領域において長期間実施され社会生活に定着し、かつ正当性を有していた倭国の暦を、一気に廃絶することができず、「養老令」が施行される天平勝宝九(七五七)年頃までは、(それ以降もしばらくの間は・・・)倭国の承継者として併用していたからであろう。
『延喜式』第一六・陰陽寮・諸門鼓条には、一年を四〇の期間(七日〜一八日の不等区分)に区分し、各期間の日出・日入時刻と諸門・大門の開閉の鼓を撃つ時刻が記載されている。(55)例えば、第一番目と第三七番目の日出・日入時刻を取り上げると、次のようになっている。
起二大雪 十三日 一至二冬至十五日
日出辰一刻二分(注・七時六分)
日入申四刻六分(注・四時四八分)
起二立冬五日 一至二十二日
日出卯四刻五分(注・六時四五分)
日入酉一刻五分(注・五時一五分)
季節によって日出・日入時刻が異なっているので、諸門鼓条に書かれている時刻法は、定時法によっている。それらの時刻を分析すると、一日は一二辰刻で干支の一二支が当てはめられ、一辰刻は四刻(零刻はなく、一刻から始まる)、一刻は一〇分(ぶ 零刻から九分=終まで)となっている。(56)〜(58) したがって、一日は四八刻である。現用時でいうと、一辰刻は二時間、一刻は三〇分(ふん)、一分(ぶ)は三分(ぷん)である。子時は、午後一一時から始まり午前一時までの二時間をいい、午前零時は子時の三刻に当たる。
一日が四八刻であることは、『令集解』(惟宗直本、貞郷年間・八五九〜八七七)巻三五・公式令・百官宿直条の注釈に「日夜四八尅」とあることによっても確認できる。
『延喜式』の諸門鼓条は、『令義解』(清原夏野等撰、天長一〇年・八三三)巻二四・官衛令・開閉門条の分注「鼓を撃つの時節は、別式ある可し」に対応したものであろう。『延喜式』(藤原時平・忠平等撰)は、弘仁・貞観の二式を集成して、新たに弘仁・貞観・延喜の三代の格に対応する式としたものである。延喜五(九二七)年奏進され、康保四(九六七)年にいたって施行された。したがって、一日四八刻法は、当時の日本国における公式の時刻法であろう。
ところが、貞観四(八六二)年からは、宣明暦が始行されており、その暦法においては、一日一二辰刻=ー○○刻法なのである。宣明暦は、唐においては長慶二(八二二)年から景福元(八九二)年まで施行されたが、日本では貞享元(一六八四)年まで八二三年の長きにわたって、この暦法が用いられた。
中国における時刻制度は、歴代王朝において、大略一日一二辰刻=一〇〇刻法を採用していた。前漢の哀帝建平二(前五)年六月から八月までの間、一二〇刻法に改められたほか、梁の武帝が天監六(五〇七)年九六刻法、大同一〇(五四四)年一〇八刻法を採用したが、陳の文帝天嘉年間(五六〇〜五六六)の頃には再び、一○○刻法に復している。(59) そして、清の時代になって時憲暦に九六刻法が採用されるまで、一○○刻法が定着していた。もともと、元嘉暦・儀鳳暦・大衍暦・五紀暦・宣明暦の暦法上の時刻法は、いずれも一〇〇刻法であって、日本国において四八刻法を採用しなけれぱならぬ暦法上の必然性は、まったく存在しないのである。
ところで、宣明暦時代の具注暦の暦注には、一年間の日出・日入時刻と昼夜の時刻数が、節気を中心に四〇日分記載されている。(60)〜(61) この四〇日は、『延喜式』の諸門鼓条に記された四〇の期間にほぼ対応している。そこで、先に例示した諸門鼓条の第一番目と第三七番日に対応する、宜明暦の日出・日入時刻を取り上げると、次のようになっている。
十一月十三日
四十刻・夜六十刻
日出辰初二分(注・七時九分三六秒)
日入申三刻四分半(注・四時四七分)
十月五日
四十四刻・夜五十六刻
日出卯三刻五分(注・六時五〇分二四秒)
日入酉初二分(注・五時九分三六秒)
具注暦の日出・日入時刻も定時法で、一日を一二辰刻に分け、一辰刻は四刻一分(ぶ 初=零刻から始まる)、一刻は五分(零分から始まり、四刻のみ一分まで)、一辰刻は合計二五分である。そして、「正」は一辰刻の真中二刻○・五分となる。したがって、一日=五〇刻法が採用されている。(56)〜(58) 現用時でいうと、一辰刻は二時間、一刻は二八・八分(ふん 四刻のみ九・六分)、一分(ぶ)は四・八分(ふん 四分四八秒)となる。
一方、具注暦の昼夜の時刻も定時法によっているが、一日=一〇〇刻法である。春分・秋分の昼夜の時刻が各五〇刻であるので、昼とは日出から日入までの時間をとっている。しかし、具注暦の昼の時間数は、日出・日入時刻から得られる時問を二倍して一日を一〇〇刻に換算した昼の時間数とは一致しない。(59) (60) 両者はまったく異なった時刻法に基づいて算出されているのである。
日本で宣明暦が行われていた当時の中国の暦を見ると、例えば、北宋の大中祥符三(一〇一〇)年の儀天暦には、二四節気の日出・日入時刻と昼夜の時刻が記載してあるが、両者の昼の時刻数は一致している。(59) 中国では、両者共一日一二辰刻=一○○刻法をとっているからである。
それでは、奈良・平安時代には、どのようにして時刻を測定したのであろうか?
『令義解』巻一・職員令・陰陽寮条に、「漏剋博士二人。守辰丁を率ゐて漏剋の節を伺ふ事を掌る。守辰丁二十人。漏剋の節を伺ひ、時を以て鐘鼓を撃つことを掌る」とある。
そして、『延喜式』巻一六・陰陽寮・諸時刻条には、「諸の時に鼓を撃つ。子午には各々九下、丑未には八下、寅申には七下、卯酉には六下、辰戌には五下、巳亥には四下。みな平声。鐘は刻数に依れ」とある。
すなわち、漏刻博士が漏刻(水時計)によって時刻を知り、守辰丁に指示して、時刻の鼓鐘を打たしていたのである。
正倉院文書にも、漏刻博士の勤務状況を評定した「官人考試帳」が残っており(『大日本古文書』二四巻)、漏刻博士、漏刻に関しては、一二世紀末までその存在が確認されている(61)(『玉葉』、『三長記』など)。
清少納言も、長徳元(九九五)年陰陽寮と鐘楼を実現して、『枕草子』に「時司などは、ただ(太政官朝所の)かたはらにて、(鐘楼の)鐘の音も例には似ず聞ゆる」(一六五段・故殿の御服)と記し、また、時刻については「時丑三つ、子四つなど、時の杭さす音など、いみじうをかし。子九つ、丑八つなどこそ、里びたる人は言へ、すべて四つのみぞ杭はさしける」(二六九段、時奏)と述べている。
崇徳天皇大治二(一一二七)年二月一四日、大内裏に火災があり、陰陽寮、鐘楼など皆焼損したが、渾天図、漏刻器は取り出されている。この鐘楼は、桓武天皇が平安京に遷都したときに作られたもので、その後火災にも逢わず三三七年経たものであったという(『中右記』・藤原宗忠)。しかし、順徳天皇の時代(一二一〇〜一二二十一)には、時を奏するとき「上古ハ随テ一陰陽寮ノ漏刻ニ一奏スレ之ヲ。近代ハ指シ計リ蔵人ニ仰レ之ヲ丑杭以後ヲ為二明日分ト一」(『禁秘抄』奏時事条)というように、陰陽寮の漏刻は存在しなかったようである。
これらの漏刻が、どのような形状をし、その時刻法が、どうなっていたかは、文書も現物も残っていないので、不明である。
わずかに、『朝野群載』(三善為康、永久四年・一一一七)第一・文筆上の項に収載されている「十二時漏刻銘並序(62) (63) 」(藤原敦光・永久四年)に、その形状と「時分四點」という語句が現れるだけである。點は刻(尅・剋)と同じものである。この語句は、一辰刻(時)を四刻に分ける四八刻法の表現である。古代日本の漏刻が、具注暦の五〇刻法や一〇〇刻法をとっていたことを示す資料は、今のところ見出せない。(64)
さて、『延喜式』の内閣文庫所蔵本(慶長写本)の諸門鼓条の冒頭には、「以下或虚音或対馬暦道例詞也」という書き込みがある。慶長年間(一五九七〜一六一五)には、『延喜式』の時刻は不審なものとして、「虚音」であり、「対馬暦道の例詞」ではないかと考えられたのであろう。対馬暦道とは、倭国の暦法・時刻制度を伝えるものではないだろうか。
また、藪内清は、「中国にも東晋時代に盧山の僧慧遠(三三四〜四一六)が蓮花漏なる水時計を造り、それには四十八刻法を用いたとみえる。もちろん、これは公式的な時法ではなかった。しかし、こうした時法が江南地方の寺院で使用され、それが留学僧などの手で日本に招来されたのではなかろうか。もちろん、これを証拠だてる資料はない」という。(65)
さらに、斉藤国治は、『延喜式』諸門鼓条の日出・日入時刻を図示した曲線は、北緯三三度の土地の曲線と一致がよいという。(5) 京都市は北緯三五・一度、奈良市は北緯三四・四一度、福岡市は北緯三三・三五度である。しかも、『理科年表』(平成六年版)によると第三七番目の日出・日入時刻にみられるように、寒露から小雪の頃の日出・日入時刻は、むしろ福岡の方に近くて、京都のものではないのである。
このようにみてくると、『延喜式』諸門鼓条の四八刻法は、倭国の時刻法を受継したものと考えてよいであろう。
斉藤は、『延喜式』諸門鼓条の夏至付近の日出と冬至付近の日入の部分は、北緯三五度付近のものであるという。(5)
これは、日本国が倭国(筑紫)の日出・日入時刻のうち近畿との差が目立つ期間のみ修正し、それ以外はそのまま用いたことを示している。近畿天皇家は、倭国の日出・日入観測技術とその時刻の決定方法を十分に継受できなかったからであろう。
ところが、宣明暦時代の具注暦には、五〇刻法に基づいて、日出・日入時刻が記載されている。具注暦と『延喜式』の日出・日入時刻は、近似しているから、それほど不都合はなかったと思われるが、時刻の表示は異なっているのである。それを、どのようにして使い分けていたのであろうか。しかし、平山清次は、両者は日出・日入時刻の記載が、年間四〇あり、冬至・夏至からの日数が一致しているので、互に独立のものではなく、どちらかが元となっているという。(56)
「大宝令」が施行されていた時代、近畿天皇家は、公式の暦法として、儀鳳暦と倭国の四分暦を併用していたと考えられる。それでは、そのような痕跡が残っているのか?
友田吉之助は、『日本書紀成立の研究 増補版』(一九八三年)において、文献に現れた「見せかけの上では矛盾しているかのごとく見える暦日および暦年に検討を加え、日本および中国において二年引きあげられた干支紀年法が行われていた事実を発見し、和銅日本紀が紀年法によって編年されていたことを知ることができた。また八〜九世紀のわが国および唐朝において、後漢四分暦とは異なる四分暦が用いられていた事実を明らかにすることができた」という。友田は、「古記」の暦数についての注釈を知らずに、このような結論に到達しているのである。友田の十支紀年法についての研究は、学会では無視あるいは一蹴されているが、真剣に再検討・再評価する必要があろう。『市民の古代研究』誌上で展開された、石川信吉・平野雅曠による倭国干支紀年論も同様である。
宣明暦時代の具注暦には、儀鳳暦時代の具注暦にはみられない、日出・日入時刻と昼夜時刻数が記されている。それらの時刻は、暦注の種本とされる『大唐陰陽書』に収載された時刻と一致している。そこで、具注暦の時刻は、『大唐陰陽書』またはそれと同系統の資料を写したものであろうといわれている。(66)
『大唐陰陽書』という書名は、『日本国見在書目録』(藤原佐世撰、寛平三年頃・八九一)五行家条に「大唐陰陽書五一巻」とみえる。しかし、現在では第三二巻と第三三巻の二巻のみが伝存している。
ところで、『類聚三代格』巻一七・元慶元(八七七)年七月二二日の大政官符「応レ加二行暦書廿七巻一事」条に、暦書二七巻の書名が挙げられている。大衍暦経一巻・暦議一〇巻・立成一二巻・畧例奏草一巻・暦例一巻・暦注二巻がそれである。広瀬秀雄は、この暦注二巻が『大唐陰陽書』のことであるという。(66) そして、京都大学蔵の『大唐陰陽書』下巻には、「大唐陰陽書卅三下巻 開元大衍 暦注第 号 唐陰陽書 源保筆」と記されているという。大衍暦は、唐において開元一七(七二九)年から上元二(七六一)年まで二三年間施行された。日本では、吉備真備が天平七(七三五)年、大衍暦経一巻・大衍暦立成一二巻などを将来し、天平宝字八(七六四)年から九四年間行われた。このようなことから、『大唐陰陽書』は唐の陰陽書であるとされている。
しかし、『大唐陰陽書』の日出・日入時刻は、唐において知られていない五〇刻法によっている。しかも、中国では、二四節気の日出・日入時刻は示しても、四〇の日に区分することはない。それらの日出・日入時刻は、唐朝における公式のものではない。倭国において伝承されていたものであろうか。
しかも、橋本万平は、日本では日月触の記録にみられる時刻制度も、時代を追って変化し、四種類あるという。(57)
わが国の古代の暦法と時刻制度は、近畿天皇家一元史観による限り諒解不能の状況にある。古田武彦の唱える多元史観による探究が待たれているのである。
この論文を書くにあたっては、笠原賢介・横山妙子の両氏の協力により文献を収集することができた。記して感謝する次第である。
注
(1)栗原治夫「続日本紀と暦」(『新訂増補 国史体系 月報53』、一九六六)。
(2)桃裕行「『職員令集解』陰陽寮条の『古記』に記された閏月の型について」(『日本歴史』三三二、一九七六)、後に『桃裕行著作集』七(一九九〇)に収録。
(3)大谷光男「平安時代における外国暦の導入について」〔『東洋文化研究所紀要』一一、一九九一)。
(4)内山守常「日本書紀暦日考(下の一)」(『横浜市立大学論叢』二八・自然科学系列一・二号、一九七七)。
(5)斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三、一九九二)。
(6)福島吉彦「唐五経正義撰定考」〔『山口大学文学会誌』二四、一九七三)。
(7)野間文史『春秋正義の世界』、一九八九。
(8)吉川幸次郎「『尚書正義』訳者の序」(『書経・尚書正義』一九四〇)、後に『吉川幸次郎全集』八(一九七〇)に収録。
(9)張培[王兪]「前言」・「四分術一蔀内閏年位置表」〔『中国先秦史暦表』、一九八七)。
(10)新城新蔵『東洋天文学史研究』、一九二八。
(11)徐錫稘*『新編中国三千年暦日検索表」、一九九二。
(12)藪内清「両漢暦法考」(『東方学報』京都一一 ー 三、一九四〇)。
(13)武田時昌「緯書暦法考」(『中国古代科学史論』、一九八九)。
(14)新井晋司「暦法の発達と政治過程」(『東方学報』京都六二、一九九〇)。
(15)藪内清『科学史から見た中国文明』、一九八二。
(16)藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』、一九九〇。
(17)能田忠亮・藪内清『漢書律暦志の研究』、一九四七。
(18)飯島忠夫『補訂 支那古代史論』、一九四一。
(19)橋本増吉『支那古代暦法史研究』、一九四三。
(20)川原秀城「後漢・四分暦の世界」(『中国思想史研究』四、一九八一)。
(21)大橋由紀夫「後漢四分暦の成立過柞」(『数学史研究』九三、一九八二)。
(22)飯島忠夫『天文暦法と陰陽五行説』、一九三九。
(23)橋本敬造「暦と歳星紀年法」(『東方学報』京都五九、一九八七)。
橋本は、「太初元年は現行の干支紀年法によって逆算すると、丁丑になるが、『漢書』律暦誌によれば丙子、『史記』暦書では甲寅になっている。丙子と丁丑の一辰のずれは、三統暦術に基づいた『漢書』律暦志は劉[音欠]の超辰法によったものであるという自明の事実によって容易に説明できる、劉[音欠]は、秦の八年(前二三九)、太始二年(前九五)に超辰させ、さらに後漢の建武二六年(五〇)にも超辰する筈であったが、後漢にはこの超辰法を用いず、単に六十干支法でもって紀年を行なった。それが後世にまで連続する干支紀年法になった。丙子と甲寅の二辰の差は、歳星紀年法の成立から太初紀年法の成立に至るまでの期間のなかにその解答がある」という。
(24)丸山晋司『古代逸年年号の謎』、一九九二。
(25)古田武彦「独創の海」(『合本市民の古代』一、一九八八)。
(26)「継体五年元丁酉」は、年号「継体」は、元年から五年まで続き、元年は丁酉(五一七)年であることを示している
(27)「大化六年乙未」は、年号「大化」は、元年から六年まで続き、元年は乙末(六九五〕年であることを示している。
(28)古田武彦「朝日文庫版あとがきに代えて ーー 補章 九州王朝の検証」(『失われた九州王朝』、一九九三)。
(29)古田武彦『ここに古代王朝ありき』、一九七九。
(30)大谷光男「『日本書紀』の暦日」(『古代の暦日』、一九七六)は、「『魏志』倭人伝・『後漢書』倭伝の記録が正しければ、わが国の暦の初伝は、この頃、すなわち西暦一世紀代のことであろうと推測される」という。
(31)古田武彦「古代史の論理」(『古代史徹底論争』、一九九三)。
(32)石田建彦「張政倭国二十年滞在説への疑問」〔『市民の古代研究』六一、一九九四)。
(33)木佐敬久「晋書と張政倭国二十年滞在説(1)〜(4)」(『市民の古代研究』六二〜六五、一九九四)。
(34)橋本増吉『東洋史上より見たる日本上古史研究』(一九五六、改訂増補版一九八二)は、景初暦・泰始暦が、卑弥呼や倭王讃・珍の頃将来された可能性があるという。そして、橋本は、倭王珍・済・興・武は宋の藩国となったのであるから、当然宋の正朔を奉じたと考えられるという。
(35)古田武彦『失われた九州王朝』(一九七三)は、隅田八幡神社の人物画像鏡は癸未(五〇三)年八月、百済の武寧王斯麻が、倭王日十大王年・男弟王に贈与したものであるという。
(36) 儀鳳暦は、唐の麟徳二(六六五)年から開元一六(七二八)年まで用いられた麟徳暦と同じ暦であるという(内田正男『暦と時の事典』、一九九三)。今井湊「奈良朝前後の暦日」(『科学史研究』四〇、一九五六)は、新羅では文武王一四(六七四)年、入唐宿衛の徳伝が、暦経・立成を持ち帰り、その二・三年後の儀鳳年間から新羅で計算した年暦を作り始めたと思われるから、日本で麟徳暦を儀鳳暦と呼ぶのは、新羅の呼称を伝えるものであるという。
(37)井本進「日本最古の古典に現われた暦日の研究」(『科学史研究』一七、一九五一)は、推古天皇一二年正月朔は戊申ではなく、長暦によれば戊戌が正しいという。すなわち、ユリウス暦では、同年正月戊戌朔は六〇四年二月六日にあたり、戊申は六〇四年二月一六日に当るが、それは暦法の違いによるという。
(38)今井湊『天官書』」(第一集・第二集、一九五二)と内田正男(注39)に収録。
(39)内田正男『日本書紀暦日原典』、一九七七。
(40)岡田芳朗「古代暦日についての諸問題」(『女子美術大学紀要』七、一九七七)は、元喜暦から儀鳳暦への移行の時期は、文武二年始めからであるという。文武即位と同時に儀鳳暦を採用したとすると、即位の八月朔を儀鳳暦の甲子にするには、七月を大から小へと、さらに閏月の位置も変えなけれぱならない。すなわち、即位に先立って、このような大幅な暦の変更が実施されたとは考えられないという。
(41)青木信仰『時と暦』、一九九二。
(42)大谷光男「日本古代の金石文の暦日」(『古代の暦日』、一九七六)。
(43)岡川芳朗「歴史考古学と紀年法」〔『古代』六九・七〇、一九八一)。
(44)岡田芳朗「出土暦断簡について」(『古代探叢』II、一九八五)。
(45)岡田芳朗「天平勝宝八歳の暦日について」(『女子美術大学紀要』三、一九七一。
(46)岡田芳朗「奈良時代の頒暦について」(『熊谷孝次郎先生古稀記念論集日本史攷究』、一九八一)。
(47)大谷光男「正倉院所蔵の具注暦」(『古代の暦日』、一九七六)。
(48)『日本暦日原典』よりも利用し易いものに、湯浅吉美『日本暦日便覧』(上・下、一九八八、増補編・一九九二)と岡田芳朗・伊藤和彦・大谷光男・古川麒一郎『日本暦日総覧』(古代中期・後期、一九九三・一九九二)が出版されている
(49)岡田芳朗「古文書による奈良時代暦日の復元」(一)・(二)(『日本史攷究』一三・一四、一九六九)。
(50)岡田芳朗「古文書による古代暦日の復元 ーー儀鳳暦時代」『女子美術大学紀要』六、一九七六)。
(51)岡田芳朗「古代暦日の諸問題」(『聖徳太子研究』」一三、一九七八)。
(52)岡田清子「墓誌の干支日付」(『太安萬侶墓』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告43、一九八一)。
(53)岡田清子「なぜ天平五年二月三十日があるか。ー『出雲風土記』勘造日と儀鳳暦運用の問題」(『アジア・アフリカ語学院紀要』五、一九八五)
(54)古田武彦『古代は輝いていた』III ・法隆寺の中の九州王朝、一九八五。後に朝日文庫に収録。
(55)虎尾俊哉校注『延喜式』上・神道大系古典編十一、一九九〇。
(56)平山清次「唐法及時法』、一九四三。
(57)橋本万平『日本の時刻制度』増補版、一九七八。
(58)橋本万平『計測の文化史』、一九八二。
(59)桃裕行「古記録零拾」(『高橋隆三先生喜寿記念論集 古記録の研究』、一九七〇。
(60)渡辺敏夫『日本の暦』一九七六。
(61)清・蒋廷錫等編『暦法大典』上海文芸出版、一九九三(『欽定古今図書集成目録』第二巻・暦象彙編暦法典の影印版
(62)『本朝続文枠』巻十一にも「蓋天十二時銘小考」と題して、収録されている。
(63) 吉田光邦「十二時不動尊名、蓋天十二時銘小考」(『科学史研究』七〇、一九六四)。
(64) 橋本万平(注58)は、「律逸文」の中に「日と称するは百刻を以てす」という規定があるので、一日百刻制を使っていた場合がないともいえないという。しかし、橋本は、新訂増補国史大系本『律』、一〇五頁の該当個所を誤読している。「日と称するは百刻を以てす」という文章は、唐律からの引用部分であって、日本律の逸文ではない(日本思想大系本『律』四三・五三頁、『訳注日本律令』二、二一四頁〜二一七頁参照)
また、橋本(注57)は、『都氏文集』(都良香、寛平二年、八九〇)の中の「漏刻」と題する作文を、日本の漏刻について述べたものと誤解している。「漏刻」には、「百刻之点自分」と、一○○刻法が説かれている。しかし、「漏刻」は、貞観一一(八六九)年、方略試に及第した良香の対策文である。問者の春澄善縄が、「漢永元之旧制、梁高祖之新規、並挙 綱要、陳 其可否」という問題を出したのに対する答案なのである(『本朝文粋』巻三・対冊参照)したがって、「百刻之点自分」とは、中国の時刻法のことである。
(65)藪内清『歴史はいつ始まったか』一九八〇。
『燕石雑誌』(滝沢馬琴、文化八年・一八一一)には、廬山の惠遠は四八刻したとある。『唐語林』(北宋・王[言黨] )巻五には、惠遠が蓮華漏を作ったとある。しかし『高僧伝』(梁・慧皎)巻六、『釈門正統』(南宋・志盤)は、慧遠の弟子慧要が漏刻を作って一二時を定めたという。慧遠(惠遠)や慧要の漏刻が四八刻法によるという記録は探索したが、中国の資料には今のところ見出せない。
王[言黨]の[言黨]は、JIS第4水準、ユニコード8B9C
(66)広瀬秀雄「一つの暦にも二種の定時法」(『日本史小百科 暦』、一九七八)。
(67)大谷光男「日本古代の具注暦と大唐陰陽書」(『二本松大学東洋哲学研究所集刊』二二、一九九一)。