二〇〇七年一月二十日 大阪市立青年センター
『古代に真実を求めて』
(明石書店)第十一集
古田武彦講演 寛政原本と学問の方法 二〇〇七年一月二十日 場所:大阪市立青年センター
一 第一の寛政原本 二 第二の寛政原本 三 寛政原本のA・B・C 四 鴫原文書の性格
五 親鸞、佐渡から越後へ 六 遠流・近流 七 囚人船の一員 八 和讃の真意 九 親鸞の根本 十 「伝承」の威力
質問と回答一 継体&天皇名 漢音と呉音について 質問と回答二 神籠石山城
古田武彦
質問一
今日の話以外の質問です。第一は、最近『古事記』を読みまして、紀元前一〇〇年ぐらいから五三二年ですか、継体のところまでしかない。どうしてでしょうか。第二は九州王朝で、五〇〇年頃には「天皇」と呼ばれていたと理解してよろしいのでしょうか。その二点です。
(回答一)
お答えします。第一のテーマは、今日お話したかったテーマに結びつくわけです。簡単に言いますと『古事記』・『日本書紀』を扱うのに戦前も戦後も、避けてきたテーマがある。それは『日本書紀』の武烈記。読んでみればわかりますが、悪逆非道の天皇である。サデェズムの極地。妊婦の腹を割いて喜んでみたり、木の上に上げて、落として喜んでいる。陰部に手を触れて笑ったから殺したとか。これでもかと、これでもかと並んである。これを津田左右吉は、あれは中国の悪霊伝説を真似したものだと言っています。戦前はこれに触れると、たいへんなことになる。戦後は津田左右吉の造作説としてカット。あれは作り物だ。まったく触れない。
それで中国の文献を見ますと、殷の紂(ちゅう)王・桀(けつ)王の場合は、それほど悪くは書いていない。二・三行にわたり書いてあるだけだ。しかも大事なことは、紂(ちゅう)王の場合「王朝の滅亡」を暗示していることだ。それの合理化です。「王朝の滅亡」とは、家来が御主人を倒したのに決まっている。反逆罪です。その反逆を正当化するために、こんな悪い奴だから、われわれはしかたなく滅ぼした。そういう説明です。本当か嘘かは判りませんが。
『古事記』・『日本書紀』は、その中国の何倍も武烈王を悪者にしたのはなぜか。そういう問題です。とうぜん継体が即位したのは、後継ではなかった。位に就くべき人物ではなかった。しかし位に就いたのはなぜか。武烈がこんなにも悪い奴だったから、われわれはしかたなく倒した。これも、今日ぜんぶ話したいぐらいのテーマを抱えています。
伝承は武烈のところで途絶えています。継体はそれ以前の伝承を持たない王朝です。それ以前の近畿の王朝が伝えていた説話をうまく取り込んだ。簡単に言うと、そのように言えます。
第二のテーマについては、九州王朝でも天皇という表現はあります。四世紀段階で中国の周辺の蛮族、中国から見たら蛮族でも天王(てんのう)という言葉を使っていたようです。わたしの『失われた九州王朝』に書いてあります。後に中国周辺に天皇も出てくる。中国では天子という言葉を使うと反逆であるが、天皇(天王)なら我慢しようというわかったような、わからない話です。天(王)でなく天(皇)を使った周辺の王朝の一つが九州王朝です。
おもしろいのは、われわれは天皇(てんのう)であって、天皇(てんこう)と言わない。「てんのう」という呉音で発音することです。「てんこう」は北魏系列の北朝の発音です。ですから七〇一年以降なら北朝の時代になって「てんこう」と言わねばならないところです。
とにかく天皇(てんのう)という発音は南朝系列です。九州王朝で天皇(てんのう)という称号は使われていた。それを近畿天皇家が発音そのままで拝借したということです。
混乱するが、事実を正確にとらえる必要がある。「漢音」というのは、異民族であった鮮卑・凶奴の音が混じった音であり、後の唐や宋の学者が自分たちの正当化の為に「漢音」と自称し、漢・(曹)魏・西晋の音に「呉音」とレッテルを貼ったものである。それに唐や宋は北朝系である。言い方を換えれば、「漢音」というのは、本来の漢の人々が使用していた「呉音」の上に、支配者の言語である鮮卑・凶奴の音が載ったものであり、「呉音」というのは、西晋の首都洛陽を逃れて人々が、揚子江流域で支配者として使用した言葉である。本来の漢音、漢・魏・西晋に近い音が「呉音」と呼ばれていることである。
ですから私たち日本人が読む「漢字の読み方」の方が古来の中国に近いのである。
質問二
神戸から来ました池田ともうします。今日の話とは関係がないのですが、古代の山城についておたづねしたい。先生のお話だと太宰府に都があり、それを取り巻いて大野城や基肄城などの山城がある。だから太宰府に都があったことはよく理解できます。しかし瀬戸内海領域にも各国ごとに山城があり、最後が高安城ということになっています。これは九州王朝とはどのような関係があるのか。お教えいただきたい。
(回答二)
いい問題を聞いていただいた。結論から言いますと、九州王朝の造り出した神籠石山城は、たいへん進んだ形態です。レンガのように石を削ってそれを積み上げている。それだけ作りにくいし崩れにくい。白村江までの山城の最新の形です。しかし、あのような形から始まったはずはないので、石を組み合わせて城を造る、このような山城もある。瀬戸内海領域にある。四国にある山城、古田史学の会・四国の合田さんに案内していただいた永衲山の山城もレンガのようには造られていない。組み合わせ石。対岸の岡山の鬼ノ城(岡山県総社市)は、神籠石と組み合わせ石が半々で、しかも組み合わせ石で造ったほうが古い。他にも組み合わせ石の山城が点々とある。これらの山城を神籠石と一緒に考える学者がいるが、神籠石山城と一緒に考えないほうがよい。形式をわけて分類すべきだ。
わたしの今の考えでは、九州中心の神籠石山城より、瀬戸内海段階の山城はより古い段階の山城ではないか。その元というか起源をなすのは有名な逃げ城としての弥生時代の高地性集落である。あの高地性集落は、近畿と九州のあいだにある瀬戸内海領域が激しい戦いにさらされていた証拠です。より詳しく言えば、大阪府も高地性集落に囲まれていますから九州からの攻撃を受けていた証拠です。その高地性集落のあとを受けたのが、石を組み合わせ築いた山城です。そのように考えています。
もちろん九州にも(朝鮮式)山城と言われるものと神籠石山城と言われるものがあります。対馬の金田城など石を組み合わせた山城があり、もちろん大野城も神籠石山城ではない。ですから山城の編年をきちんと行なってほしい。しかし近畿天皇家中心で考えるから、編年も進まない。そのような考えから離れて物自身から検討する。水城も含めた太宰府を中心とした山城を考える。それに先立つのはとうぜん筑後川中心の権力のものである。またそれに先立つのは瀬戸内海のものである。それの元は高地性集落である。このように考えるとすっきりする。
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