『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十一集
古田武彦講演 寛政原本と学問の方法 二〇〇七年一月二十日 場所:大阪市立青年センター

一 第一の寛政原本 二 第二の寛政原本 三 寛政原本のA・B・C 四 鴫原文書の性格
五 親鸞、佐渡から越後へ 六 遠流・近流 七 囚人船の一員 八 和讃の真意 九 親鸞の根本 十 「伝承」の威力
質問と回答一 継体&天皇名 漢音と呉音について 質問と回答二 神籠石山城

真宗研究52号 013古田武彦「親鸞思想と日本海」PDFを添付


寛政原本と学問の方法 2

越後の親鸞

古田武彦

      五 親鸞、佐渡から越後へ

 後半の話に入らせていただきます。後半は親鸞の話です。皆さんは古代史に関心はあっても親鸞のお話にあまり関心をもたないという人もおられますのでキーポイントだけを申しあげます。それであとの懇談会などの時に質問をお受けしたい。
 このテーマも先ほどの寛政原本と同じく天のなせる偶然というか天の与えた運命ともうすべきものだとの感を持っております。
 実は先程申上げた去年の十一月十一日から十二日にかけての大学セミナーでの「筑紫時代」、その前日十日に寛政原本が講師室に到着しました。そして十一月十一日が運命の公開された記念すべき日でした。それが済んで、十二日の日曜日引き上げた時に、今日も来ている西坂久和さん、彼は写真関係のプロであり、電子顕微鏡のプロでもあった方なのですが、その方がちゃんとした器械で写真を撮ってあげましょうと言われるので、それじゃあ撮って下さいと言って、寛政原本A、最初の「東日流外三郡誌、和田長三郎」、あれですね、あれを持って西坂さんの家まで行く予定だった。初めはJR八王子までタクシーで行ってそこから乗り継いで行こうと思ったんですが、館の方の御厚意で、四〇~五〇分かかったと思いますがタクシーで行きました。その四〇分間前後の間、よい意味で運転手さんがお喋りなかたで、いろいろと喋っていただいた。
 そのかたは、新潟の出身で直江津の少し北(越後)高田の出身です。このかたが、「私のいる所には、小さな町ですが、お寺が五百あるんですよ。信じられますか」とこう言うんですよ。「いや私は聞いたことがない」。「いやそうなんですよ」という話から始まっている。そうこうしているうちに、そこに関山というところがある。「親鸞(聖人)という人が住んでいた洞窟が、その関山という所にある。」。「そんな事も知らないか」という感じで話されました。わたしはびっくりした。わたしは親鸞関係の本も出していますが、そんな話は聞いたこともなかった。途方も無い話だけれどピンと来るものが。それでちょっと鎌をかけた。「その関山に親鸞が行かれる前に佐渡島にいたという話は無かったですか」と。すると運転手さんのほうから、「そうですよ。佐渡島から来ました。」と答えられ、これも「そんな事も知らないか」という感じでしたね。
 なぜ「親鸞が、佐渡島にいた」という話を持ち出したかと言いますと、ふつう親鸞の伝記では、高田専修寺でも、西本願寺でも、東本願寺でも、すべて越後に流されたことになっている。佐渡島に流されたという記録はまったくない。ところがなぜ、運転手さんに鎌をかけたかといいますと、あの『東日流外三郡誌』(『和田家文書』)に記録がある。公開されていませんが『北鏡』中の「金光記」というのがありまして、その中に金光上人のことが書いてある。また藤本光幸氏によって公開された『北斗抄』の中に「金光抄」がある。
 それによりますと金光上人というのは九州の久留米の出身で、京都へ行って法然聖人に師事してお弟子さんになった。ところがその後、津軽、青森県へ行ってそこで布教してその生涯を終えたという人だ。なぜ東北へ行ったかは書いていないからわからないですが、田舎の人やすみずみにも教えるべきだという法然聖人の意思に従ってでしょうが。だから皆さんは金光上人という名前を聞いたことがない人が多いと思いますが、しかし津軽、青森の人は金光上人を非常に良く知っている。中身は知らないけれど、名前はよく承知している。その人の伝記がある。その伝記が『東日流外三郡誌』に入っているのですが、それを見て私は「エッ」と思った。金光伝では、金光上人がその流罪の話を聞いて、先ず親鸞に会いに行った。どこへ行ったかというと、佐渡へ会いに行った。そして問答を交わしたと書いてある。親鸞とは書いてない。「綽空」に会いに行ったと書いてある。綽空というのは親鸞のこと。親鸞は、流罪中に改名して親鸞となった。それまでは綽空だった。
 そして二人は当時一番問題になった「一念多念文意」という教理問答を交わしている。
 それはどういうことかというと、「一念」とは、一回南無阿弥陀仏と唱えたら阿弥陀仏に救われるという考え方です。一回唱えたら阿弥陀仏は記憶が良いから覚えている。だから南無阿弥陀仏と一回言ったら、もうそれでジ・エンド、OKだ。もう死んだら絶対に浄土へ行ける訳です。あと二回目は不要。これが一念主義者である。これも論理的確かにそうです。
 ところが多念論者はいや違うと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と繰り返し繰り返し言えば言う程良いんだという考えかた。京都の京大のある所は百万遍というところですね。この百万遍という事は念仏を百万回唱えるという意味ですからね。それで、多念、何回も沢山唱えるほど良い事だという。これも論理的に分かりやすい。この論争はなかなか決着はつかないでしょうね。「多念」と「一念」が、大まじめに激突していた。
 もちろん我々の知っている親鸞は関東の親鸞、京都に帰って来てからの晩年の親鸞。流罪の後は関東におりますから。その時期の文献は知っているわけですが、その時期にはとっくにその問題は卒業している。どう卒業したかというと、言えば簡単です。一念でも多念でもそんな事は問題ではない。信ずるという事が問題である。信ずるという事があれば、一念だって多念だってそんな事はどうでも良い。視点をずらして替えるわけです。阿弥陀仏に報恩の念仏であればよい。一念と多念との激突を、いわゆる哲学で言う止揚したと言うか、アウフヘーベンしてより高い立場に立ったのが関東以降の晩年の親鸞なんです。
 ですが越後にいた三十過ぎのの親鸞が、当時の流行していた最先端論争にどう対していたか。流罪時代の親鸞が最初からそんな高い境地にいたとは思いにくい。親鸞の筆跡の編年があるように、思想の編年があるわけです。その時期に佐渡で綽空(親鸞)と金光が「一念多念」に関する問答をやっている。その内容を読むと、わたしの眼から見ると大変相応しい。結構悩んでいるんです。大まじめにやっている。綽空である「親鸞」が悩んでいるような質問が並んでいる。そしてまた、兄弟子の金光がそれに対して教えるというか、答えている。それが本当か嘘か証拠は無いけれど、わたしの親鸞研究では親鸞の佐渡島・越後時代の思想レベルとしてはこのレベルだろうな。そのような感じを持っておった。これはどうも作り物ではないんじゃないかという感触をもっていた。偽作というか、だれか頭の良い人が作ったには見えなかった。そこでぶつかるのは佐渡島。従来の我々、私や本願寺の学者の頭では親鸞が佐渡へ流されたという無かった。だから気になっておった。

 付記「北斗抄五 諸翁聞取帳十五・十六」(和田家史料三『北斗抄』一~十 藤本光幸編 北方新社)
      但し、この公開された中には、親鸞(綽空)と金光が会ったという記録はありません。

 昨年の十一月十二日、当時寛政原本が出てきた直後だから、前から思っていたけれどいよいよと思っているから、カマをかけて、「佐渡から関山に来たという話はありませんか」と聞いたら、そしたらその運転手さん「そうですよ、佐渡ですよ、佐渡から関山に来たんですよ」と、打って返すような口調で、当たり前の事を言うような感じで即座に話された。それで、いよいよわたしとしては放っておけないと感じた。

 それでわたしは、今年の一月七日に新潟へ行ってきました。六日の日に東京で日本思想史関係の会がありまして、その後すぐ新幹線で長野へ行って、そこから直江津へJRで行って、その直江津の直前の越後高田で泊った。あそこは非常に浄土真宗の勢力が強い所で確かにそこはお寺が立派なのがあります。東本願寺系の三百のお寺がある。西本願寺系のお寺が百五十以上ある。あとは禅宗系ですが。それで予め連絡してありまして三名の郷土史家のかたと東本願寺系の高田別院であって案内していただいた。
 次の七日、親鸞の遺跡を回った。ものすごい暴風雨の荒れ狂う日だった。朝はそうでもなかったが、やがて荒れ狂った。その中を突いて、わたしのいちばん行きたかった洞窟へ行ってきました。物凄い雪の中を、さらに山の中を洞窟を探して歩くわけです。本当にあそこらは凄(すご)いですね。出発する時は雪が全然無かったのに、一〇分二〇分するうちに十センチ、二十センチ、三十センチと、もう身の丈くらいに積んで行く。その中を一生懸命に四十四歳の東別院の橘さんという方が、私の手ではなくて肘を抱え上げて運んでくれてね、私はどうしてもこの洞窟へ行かなければ今度来た意味がないというものだから、連れて行って下さった。「聖の窟 ひじりのいわや」と云われている洞窟の前に立つことができました。今は崩れて入口は塞(ふさ)がっていますが、中は十人位入れる空間があると書かれています。写真が洞窟の入口です。
 高田の別院でお話をうかがうと、その話は間違いですと言われました。「親鸞(聖人)が洞窟に住んでいたという運転手さんの話は、なにかの思い間違いをしている。山伏や修験道の人が住んでいたから『聖の窟』と言っています。親鸞とは関係ないです。行くのはおよしなさい」と言われた。このような話だった。ですががんばって連れて行ってくれと頼みました。
 それで親鸞が佐渡島から高田に来たという問題ですが、下のほうに図を書いて置きました。直江津・信越本線と書いてあるが、そこに三つ点をつけて置いたが、そこに居多(ごだ)ヶ浜というのがある。その直江津の居多ヶ浜という所へ親鸞聖人は船で上陸されたという伝承になっている。どこから来たかという問題ですが、伝承では、その直前といってもいい所に糸魚川、これも有名な場所です。そこの姫川という所ですが。今の汽車の駅で云うと、直江津から西へ二つ目、その糸魚川(姫川)から船で出たと云う伝承がある。ところが、それはおかしい。何でおかしいかというと、京都から連れてこられたはずになっている。しかしなぜ船でここに上陸するのか。
 ですから現地の東本願寺の別院の方、大場厚順さんという高校教師OBで郷土史・真宗史のベテランの方にお聞きしてみると、「あの話はおかしいですね。だって汽車で二駅くらいであるから、船でも大したことはないじゃないですか。それまで京都から姫川へ来るまでは陸地を来た。例の「親知らず」という難所も海岸にあるじゃないですか。そういう難所を歩いてきて、いきなり直前になって船に乗って二駅分、海岸と陸地が並んでいるところを船で行っても意味がない」。
 だからその大場は、「あれは姫川の人が勝手に作った話じゃないですか」と言われた。私は、「しかし、どうせ作るなら日本アルプスを越えてきたというような雄大な話を作るならいいけど、こんな二駅分を船で来たなどという話を作ってもしょうがない。役に立たないじゃないですか。」、などというような事を言っておったんです。
 また佐渡島ですが、わたしはいぜん行ったことがある。五色のきれいな石がでる。縄文時代は聖地の島であり、近世は金山の島です。しかし平安・鎌倉時代は金山の島ではありませんので特に繋がりはありませんねと言っておりました。
 ところが、朝着いて同じ日の帰りがけに物凄い暴風雨になった。あの暴風雨はすごいですね、それで新潟発大阪着の列車はもう出ないだろう。あの日本海の、その暴風雨の中をまごまごしていたら京都に帰れなくなるから列車を早めて出た方がいいですよと言われた。それで夕方出て関西の方に向かった。物凄い暴風だった。居多ヶ浜に行った時も凄い。眼も正面を見られない位の暴風雨だった。それがわたしには非常に素晴しい体験になった。

 

     六 遠流・近流

 有名な親鸞が書いた『教行信証』、その自筆の「後序」です有名な「主上臣下法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。」がある。「主上臣下」とあり、土御門天皇、後鳥羽上皇彼らを指しています。彼らは正義に反し、人間のルールに背き、怒りに任せてわれわれを死刑にしたり流罪にした。そのようなことを明確に書いた。当たり前と言えば当たり前ですが、はっきりこのように書いた日本人はいままでいません。

『教行信証』後序
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。
しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもって興福寺の学徒、太上天皇 [後鳥羽の院と号す]、<諱尊成> 今上 [土御門の院と号す]、<諱為仁> 聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。
これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。
予はその一つなり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに禿の字をもって姓とす。
空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
皇帝 [左度の院]、<諱守成> 聖代、建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。
同じき二年壬申寅月の下旬第五日午のときに入滅したまふ。
奇瑞称計すべからず。
別伝に見えたり。

 この中で「遠流」にさせられたと本人が書いてある。そうすると遠流とは、なにかというと『続日本紀』に書いてある。

  続日本紀、聖武天皇神亀元年(七二四年)
 庚申、諸の流配の遠近の程を定む。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六国をば遠と為す。諏方(信州長野県の諏訪)、伊予をば中と為す。越前・安芸をば近と為す。

 『続日本紀』聖武天皇神亀元年(七二四年)に記載されている。これ以後、流罪は公式にはこれが適用される。親鸞は朝廷によって流された。天皇家から渡された命令書には、「遠流に処す」と書いてあったから、『教行信証』後序に、親鸞は「遠流に処す」と書いた。そうすますと「遠流」とはなにか。先ほどの規定を見ますと『続日本紀』には、「伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六国をば遠と為す」と書かれてある。北陸では遠流にあたるのは佐渡島しかない。親鸞が「わたしは遠流に処せられた」と書いたのは、佐渡島に流された。このように判りきった理解しかない。このように判りきったことをなぜ誤解していたか。

  『歎異抄』の流罪記録
  A
後鳥羽院之御宇法然上人他力本|願時念佛宗興行ス干時僧侶興福寺|
敵奉之上御弟子中狼藉|子細アルヨシ旡実風聞ニヨリテ|
罪科ニ処セラルヽ人數事
一法然上人併御弟子七人流罪又|御弟子四人死罪ニオコナハルヽナリ聖人ハ|
土佐國番田トイフ所ヘ流罪云々|名藤井元彦男云々生年七十六歳ナリ
親鸞ハ越後國罪名藤井善信云々|生年三十五歳ナリ
浄圓房備後國澄西禅光房伯耆國|
好覚房伊豆國行空法本房佐渡國|
幸西成覚房善恵房二人同遠流ニ|サダマルシカルニ無動寺之善題大僧正|
コレヲ申アツカルト云々|遠流之人々已上八人ナリト云々|
被行死罪人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也

親鸞僧儀ヲ改メテ俗名ヲ賜フ仍テ僧ニ非ズ俗ニ非ズ|
然間ニ、禿ノ字ヲ以テ姓ト為シテ、奉問ヲ經ヘ被レ了|
彼ノ御申シ状干今外記庁ニ納ルト云々
流罪以後愚禿親鸞書令シメ給也

右其聖教者為當流大事聖教也右於無
宿善機無左右不可許之者也

釈蓮如御判

(  ーー 抜き書き(かな書き)は岩波古典大系に準拠、流罪記録は『親鸞思想』に準拠
インターネットに掲載するため、漢文は読み下し文に変えています。ABCDは古田氏が付けた記号。|は蓮如本底本改行箇所 )

 それは親鸞の弟子唯円が書いた有名な『歎異抄』の最後に流罪記録がある。これを見ますと、法然は土佐国番田へ流された。実際は、讃岐止まり。浄圓房は、備後國に流されたが吉備であって、東半分の安芸国(広島県)ではない。奈良・平安時代には「遠流」であるはずがない。せいぜい「中流」。禅光房は、伯耆國に流されたが、これも「遠流」であるはずがない。「遠流」は隠岐国です。
 ですから結論を言ってしまえば、鎌倉時代の通俗概念では流されたら「遠流」。ですから朝廷の支配していた平安時代の「遠流・中流・近流」は、武士の支配していた鎌倉時代は流されたら「遠流」という俗称になった。平安時代の正規の表現は「遠流」は佐渡島です。
 ですから今まで親鸞が越後に流されたという理解は、第二次史料である『歎異抄』で得た知識を元に、親鸞自筆という第一史料である『教行信証』を理解していた。そうでしょう。『歎異抄』は親鸞が自分で書いたのではない。ですから『教行信証』の「流罪に処する」を、本願寺系の学者、その他のあらゆる学者も全員が「越後に流された。」、そのように理解していた。ところが現地の人・庶民は、親鸞は佐渡島から来たと言い続けていた。
 これも中身を言いますと、あまり大学セミナーで帰るときのタクシーの運転手さんのいうことが当たっていたので、その運転手さんと連絡を取りたくなった。時間と行き先がわかりご本人と連絡がとれました。それでお聞きしますと、「聖の窟」のある「板倉」というところの出身の方でした。ご自身が言われるのに、「自分のところは、何かあれば南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、・・・・と口ぐせのように唱える。お年寄りは特に。「聖の窟」に親鸞聖人がいたことはみんな知っている。それに聖人が佐渡島から来たとみんな言っている。お寺の人がそういうのはおかしいですね。そのように言われました。
 ということで庶民の間の伝承とお寺の公式の見解は離れている。庶民の伝承が正しかった。これはこれは古代史の経験と同じです。
 もう一つ言いましょう。同じく洞窟の話です。高田別院でも運転手さんの言われたことは間違いです。山伏が籠っていたのでしょう。もし籠っていたなら親鸞の息子さんが籠っていたのでしょう。そのように言っておった。山伏が洞窟を利用していたことはよくあることです。しかし山伏や修験者が洞窟を利用していたのは、ここだけではない。信州でも「八面大王」の問題で調べましたが、近畿でも九州でも修験道や山伏が洞窟を利用することはよくある。それをすべて「聖の窟」と呼んでいるかと言えば、そうは言わない。他では聞かない。山伏が居たから「聖の窟」であるという説明は、かんたんに説明出来るようであるが、よく考えるとおかしい。なぜ越後高田のみが「聖の窟」なのかという疑問が出てくる。
 そうすると、こんどは親鸞に対して言いますと先ほどの『歎異抄』流罪記録の「僧非俗非」、しかし親鸞が僧侶であったことは確かだ。二尊院に僧「綽空」の署名があり、僧と名乗っていたのは間違いない。親鸞の別名が記録にある。ところが流罪により僧ではなくなった。僧としての特権も名誉も無くなった。さあ今度は俗人として、俗人なりきの自由もあるかと言えば、それもない。だから俗としての自由もない。僧でもない。そういう中間的な変な存在に自分はなったと本人が書いている。そこから「愚禿親鸞」と名乗った。「禿 かむろ」とは、ハゲのことです。本願寺にも「禿 かむろ」を姓にしているお坊さんがたくさんいる。聞いてみましたら明治維新の時、姓が要らないのに政府から「姓を名乗れ。」と言われたのに憤慨して、結局「禿 かむろ」姓を名乗ったと言っていました。
 ようするに「愚禿親鸞」と名乗ったのも、それとおなじである。親鸞は頭を剃っている。しかし僧ではない。お坊さんではない。だから高野聖とおなじく「聖 ひじり」である。正式の僧の資格を持っていないが、仏教に帰依している人の尊称としての「聖 ひじり」です。親鸞は聖(ひじり)だった。親鸞がそこに居たから「聖の窟 ひじりのいわや」と呼んでいる。聖(ひじり)は親鸞だった。
 言葉遊びのように受け取られると問題ですので、それで結論から言わせていただくと、親鸞は流罪人として佐渡島に行った。ところがなぜか越後の国へ船で引き返させられた。なぜかの問題はおもしろい問題もあるが、今は省略します。そのときに暴風雨に、わたしは陸地だったけれども、親鸞は海の上で暴風雨に遭った。それで流されて姫川に着いた。もちろん普通は対岸の寺泊に着くはずだった。それが暴風雨にあって流されて船は姫川に着いた。もちろん目的地が国府のある直江津だから、そこから同じ船で直江津の居多(ごだ)ヶ浜と云う所へ上陸した。そこで初めて姫川と結びつく。佐渡島が原点になってはじめて結びつく。
 繰り返しますが、私の教行信証、第一資料に基づいて考えれば、親鸞は佐渡に流された。それが結局は越後の国府へ移された。労働する為に。その時に暴風雨に遭うわけです。普通なら直江津の方に、斜めだけれどあの辺の地理に詳しい船頭がいれば行けるんだと思う。ところが、私が会ったような暴風雨に会うと、行き過ぎてうまく行けなくて姫川に上陸した。しかし、目的地は国府のある直江津だから、直江津に船で帰ってきた。そこで上陸。話が非常に理解出来る訳です。(直江津から対岸の寺泊へ。そこから西の直江津を目指す。 ーー 後記)

 

     七 囚人船の一員

 ですから言ってみればこれは囚人船です。親鸞は結構な身分で一人だけ船に乗せられたのではなく、囚人船の一員として、次の労役地として越後に連れてこられた。そして直江津の拠点として「聖の窟 ひじりのいわや」といわれているところから、あちらこちらに連れて行かれる。関山のほうにお寺を建築する時に奴隷労働で連れて行かれている。奴隷だから泊まるのにちゃんとした家には泊めてくれなくて洞窟。洞窟の中に住まわされて、あちこちに労役に行った。
 この「聖の窟」と云われている洞窟。今は入口は塞がっていますが、中は一〇人位入れる空間があるそうですが、そこに住まわされた。普通で一〇人だから、まあ一五人とか二〇人詰め込まれたんでしょう。それで詰め込まれておって、昼は労働に使役される。つまり囚人であり、奴隷労働者としての親鸞というのがそこに現われてくる。そこで親鸞は絶えず念仏を唱えていた。船の中でも。それで現地の人は親鸞聖人は「聖の窟」に居られたと言っています。
 それを裏付けするのは、親鸞が後に死んだ時、子供の栗澤信蓮房というのがいるのです。それがBの山寺薬師、これが「聖の窟」の直ぐ下なんです。その聖窟の下の山寺薬師に、信蓮房が籠って念仏したと。お父さんの冥福を祈って。ということをお母さんが書いている。有名な(恵信尼)文書に「のづみ」として出てくるわけですが。これも従来では信蓮房は修験者になったんだろうと解釈されたが、そうではなくて要するに親鸞がこの洞窟に住まわされていたという事を知っていて、直ぐ下の山寺薬師に籠って死んだ親鸞のために念仏を祈ったという事で話がすっきり行く。(寺泊の「野積 のづみ」説が正しい。訂正し、別述する。後記。)

 ところがその件は本願寺では無くなっている。それは親鸞の伝記の教科書と言うべきものが『本願寺聖人伝絵』です。そこでは親鸞は、佐渡に行ったという話はない。越後の国府に行ったという話しかない。ですから先ほど言いましたような囚人船の一員として越後に来た。直江津で洞窟に住まわされて奴隷労働をさせられた。そういう話はない。加えて直江津へは、念仏聖として行ったのでしょう。過酷な労働と栄養が不足している時代ですから。いつも人が亡くなっている時代です。そういう死体に対する念仏を唱える僧が要る。被差別民と一緒の。そういう身分で親鸞は直江津に行ったと思う。そういう親鸞を覚如は書きたくなかった。
 有名な話ですが、『伝絵』の先頭はながながと何ページにわたって、親鸞聖人はいかに尊い身家柄か書いてある。関係のないわたしから見れば、もう書くのを止めてくれと言いたいぐらい書き並べてある。こんなことはどうでもいい。それぐらい覚如は、親鸞は尊い身分の家柄だということを民衆にイメージさせようとした。
 一方で覚如を評価してよいのは、『伝絵』のところに『教行信証』の後序の漢文をそのままはめ込んだ。有名な「主上臣下法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」も入っている。そういう面で覚如は評価していた。しかしそれはそれとして、関山で奴隷労働をしていたという件をカットしている。家柄がたいへん良いということを言うために。ぐうぜん後序を入れるために奴隷労働のところをカットしたとは思えない。納得できない。覚如は親鸞が奴隷労働をしていたことを知ってたと思う。そのように考える。

 

     八 和讃の真意

この問題は、わたしにとって大きな事件です。親鸞の和讃の中で、これは私が昔から好きな、しょっちゅう呟いていたような和讃なのです。

 十二、五濁邪悪のしるしには 僧ぞ法師といふ御名を 奴婢僕使になづけてぞ いやしきものとさだめたる
 十三、旡戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ
 十四、罪業もとよりかたちなし 妄想[真頁]倒てんどうのなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
 十五、末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり
 十六、仏法あなづるしるしには 比丘比丘尼を奴婢として法師僧徒のたふとさも 僕従ものの名としたり

 巳上十六首はこれは愚禿が かなしみなげきにして述懐としたり この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも 法師とまふすもうきことなり」

 これは、非常に好きで親鸞関係で何回も引用したこともあり、いつも口ずさんでいながら、なにもわたしは意味をぜんぜん理解していなかった。今回はそのことに気がついた。
 なぜかと言いますと、十三番では「旡戒名字の比丘なれど」とある。そこには「戒」がない「藤井善信 よしざね」という名字を与えられている親鸞。僧侶の資格をはく奪され俗名を与えられている比丘である流罪時代の親鸞。自分のことを言っています。「末法濁世の世」とは、権力者は真実の仏法である専修念仏を迫害している。そういうイメージです。現在はそのような世の中である。続けてお釈迦さんの弟子の中で、お釈迦さんの教えをいちばん容れたといわれるのが「舎利弗目連」。それと同じように、仏に対して「供養恭敬」をすすめられています。つまり流罪時代の自分、親鸞なのです。
 これも従来誰もこのように理解していない。わたしは無戒名字の比丘だったと。無戒と云うのは、僧侶は戒律があるから僧侶だけれど、戒律がアウトになると、僧侶ではないという事になる。名字というのはいわゆる世俗の名前を名乗らせられるわけです。それで親鸞は藤井善信(よしざね)という名前を名乗らされたんです。だから先程言った、二尊院の文書には「僧綽空」と書いてある。その時の彼は僧という意識をはっきり持っていた。ところが、その僧の位は朝廷によって剥奪された訳です。だからもう戒は無い。しかも藤井善信という名字を持った比丘に私はなったと言っている。だから比丘というのは、親鸞は自分自身のことを比丘と呼んでいる。
 飛んで十六番では「仏法あなづるしるしには 比丘比丘尼を奴婢として 法師僧徒のたふとさも 僕従ものの名としたり」
 ところがその比丘は「 I 」であり、「私」です。「比丘」として扱われ働かされている。いま、自分は奴婢(ぬひ)として扱われている。奥さんの恵心尼が居れば、一緒に比丘尼として扱われている。ほんらい「法師僧徒」は尊ばれるものですが、まさに「法師僧徒」のための籠担きの役目に、親鸞もその役目をさせられている。これは十五番にありますね。「輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」。要するに高い位にいる仏法者の輿を担いでいる奴隷労働、これは僧ではあるけれど僧とは認められずに、無戒名字の比丘になっている我々である。簡単に言うと、親鸞は善光寺などの僧侶の輿を担ぐ、担役をやらされていた。
 これには意味がありまして、論証を省略して結論から言いますと、これは被差別民の仕事なのです。このことは高校教師であり一緒に研究し亡くなった河田光夫氏が研究し証明しています。親鸞も被差別民の一人として、奴婢の一人にされていた、それを言っている。
 つぎのキーポイントは十四番「罪業もとよりかたちなし 妄想[真頁]倒てんどうのなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」。
     [真頁]は、JIS第三水準、ユニコード985A

 「罪業もとよりかたちなし」これは親鸞や法然たちは何で流罪になったかというと、、全く言われなき事実に反した嘘っぱちの罪を上皇・天皇によって着せられた。つまり住蓮・安楽という人達が御所に呼ばれて行った。それは女房たちが直接新しく流行してきた念仏の教えを聞きたいと思って呼んだ訳ですよ。それを旅に出ていた後鳥羽上皇が聞いて嫉妬に狂うわけです。それは邪宗を説いたとか、きっと男女関係のいやらしい事をやっているに違いないと思い込んで、帰ってその住蓮・安楽を四条河原あるいは大津に引っ張り出して死刑にした。そして法然や親鸞を流罪にした。親鸞に関してはまた、男女関係、妻帯している事を理由にしたらしい。しかしこれは親鸞の新しい立場そのものであった。
 「妄想[真頁]倒てんどうのなせるなり」は、とにかく後鳥羽や白河天皇や上皇たちは全く理由のない、事実の無い罪名によって、私たちを流罪にし処刑した。これは彼等権力者が男として頭の中で勝手に作り上げた妄想、ひっくり返った妄想が生み出したものにすぎない。彼らの公的な行為は彼等の嫉妬に狂った男の妄想から出たものにすぎない。
 「心性もとよりきよけれど」、我々は処刑された住蓮・安楽はもとより、法然聖人や私たちはひとすじの念仏門に帰する事だけを目標にしているから、心はまことに清らかなものである。
 しかし「この世はまことのひとぞなき」と。この「世」というのは「世の中」のことではない。上流社会。「出世」という言葉がありますが、上流階級に入ることを「出世」という。「世」というのは上層階級の事である。ここの「世」はそれなんです。だから現代の上層階級の人達には、真実の心を持ったひとはだれもいない。
 彼ら支配者は、ひっくり返った妄想に酔っぱらって住連・安楽を死刑にし、われわれを流罪にした。そういう意味なのです。
 今読めば、それ以外に考えることは出来ない。そういうことを私は今まで知らなかった。しょっちゅう愛唱しながら全然知らなかった。

 

     九 親鸞の根本

 この和讃は時代批判、権力批判の凄い内容であった。先ほど読んだ『教行信証』の「主上臣下背法違義」、天皇や貴族達が法に背き、正義に反して、こう云う我々を処刑したり流罪にしたりしている、あれと同じ内容だったのですね。和讃は晩年も造っているが、この和讃は、越後流罪時代の和讃。奴婢として奴隷労働を、被差別民と一緒の生活をしている時。そうなったのは現代の天皇・上皇たちが嫉妬心の妄想で、頭の中で作り上げたに過ぎない。そしてだから現代の上層階級の人達には、真実の心を持った人間はだれもいない。痛切な和讃です。万葉を読んでも、このような和語で内容の詩を作った人はだれもいない。ああ親鸞はそうだったのか。そういう意味でたいへん感動しました。
 ですから親鸞が「聖の窟 ひじりのいわや」に居たのは当たりです。覚如のように「親鸞は貴族の子孫である・・・」と言っているから結びつかない。『本願寺伝絵』のような立場で考えていたのでは、本当の親鸞のことはわからない。本当に親鸞がいた位置は、洞窟に住まわされて奴隷労働をさせられた親鸞。加えて被差別民と一緒に、今日も死んでいく人々を看取っていた親鸞。死体に対して念仏を唱える聖(ひじり)として対峙する親鸞。その親鸞がひじょうに重要である。それが関東に行き京都に返ってすばらしい思想を形成してくる原点である。
 奴隷労働を被差別民と一緒にしていた親鸞。その親鸞の晩年に有名な「屠沽の下類とは我等のことなり」という言葉がある。被差別民とは、自分たちのことである。有名な言葉で、知る人ぞ知る。親鸞の晩年の有名な言葉にそう書いています。「屠沽の下類」とは屠殺をしたり、物を売り買いしたりする下級商人という事で、当時の被差別民のことを言います。親鸞は自分自身はその一人であると、思想的には自己をそう規定している。そういう思想であることは、河田光夫さんが証明された。被差別民とはわれらのことである。これは凄い思想です。凄い思想ということは解っているが、どこから出てきたのかは判らなかった。それがわかってきました。
 ですから親鸞のそういう仏教観あるいは社会観というものが、どこでいつ作られたのかというと、この流罪時代に作られた。流罪時代に作られたその考え方を、彼は一生変えなかった。いきなり出てきたと思う人がいるかも知れないが、実はそうではなくて、流罪時代の越後の親鸞の原体験を後に思想的に表現して言ったものがこの和讃です。
  (参照 河田光夫著『親鸞と被差別民衆』明石書店)

 

      十 「伝承」の威力

 これは実は、わたしが研究してきた古代史の世界とおなじだということです。私が古代史では、やっぱり最初は文献主義であった。『古事記』・『日本書紀』・『風土記』という文献が確実な史料だと考えて取り組んでいた。しかしそのうち伝承にぶち当たった。立ち止まった。
 何度も言いますが、対馬の阿麻氏*留神社。そこへ行きました。宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。
     阿麻氏*留(アマテル)の氏*は、氏の下に一です。

「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」

 そのようなことを、ゆっくりとした漁民らしい口調で小田豊さんは話されました。しかもその季節、神無月は、出雲へ行くのも帰るのも、十一月が一番良い季節だそうです。行きは東向きですから対馬海流に乗ればよい。帰りは逆流ですから、風の向きが東から西へ吹いていなければ帰れない。これは御本人は、一生漁師ですから風の向きは良くご存じです。小田さんは、お爺さんから聞いたと言われました。
 それでわたしは、風習というのは自然の条件に合ったものが出来るとか、それにしても、この神様は不便な神様だ。人間と同じように船を待っている。この神様は、空をすいすい飛ぶわけには行かない神様である。いろいろ思いながら帰ってきた。帰るのは、対馬から福岡空港まで飛行機で三十五分かかります。その間に大事件が起こった。今、小田豊さんから聞いてきた話を反芻していると、とんでもないことを考えた。何んだ! 天照大神は家来という話ではないか。小田さんは、「一番偉い神様だ。」ということを連発しています。しかしそれは、先ほどの参勤交代の話でお分かりのように、一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い。
 しかし少年時代を戦争中過ごしたわたしは、天照大神(アマテラスオオミカミ)と言えば、ゴッド・オブ・ゴッド(God of God)、神々の中の一番偉い神様と、戦争中から、そう教えられて思い込んでいた。天照大神が家来であるというのは、わたしの頭の中で、ぶつかる大問題です。受け入れがたいから大ショックだった。驚天動地。ですがどう考えてみても、天照大神(アマテルオオカミ)は出雲の一の家来です。
 しかし考えてみますと、そうでないと『古事記』・『日本書紀』という文献はおかしい。「国譲り」という言葉はなりたたない。国譲り以前から天照がご主人で、大国主が家来なら、国を取りあげればよい。国を譲ってくれなんて言う必要はまったくない。「国譲り」という言葉の中に歴史の真相がある訳で、天照は家来であった。
 事実は、出雲の大国主がご主人のナンバーワン、天照が一の家来。それが朝鮮半島から津島や壱岐などにもたらされた金属器の武器、剣や矛や鏃。その軍事力を背景に、太古から伝わった黒曜石をバックに栄えたご主人の出雲から権力の奪取を計った。つまり権力簒奪です。これが歴史的事実です。
 第一こんな話、ウソ話として作れますか。天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊勢神宮(内宮)の主神として祭られ、最高の神として讃えられている中で、それにまったく逆らうようなウソ話を作って伝える。そんなことが出来るでしょうか。

 さらに関連して、 同じく事代主に対しても伝承がある。出雲の東の端が美保関(みほがせき)。そこで見た祭にびっくりした。青柴垣(あおふしがき)神事。実は恥を言いますが、わたしは一人で美保神社に何回も来ています。ですが看板はあまり見ない。どうせ看板には建前しか書かれていないと看板は読まずに中に入っていた。ところが五〇人ばかりのツアーに講師として参加させていただきました。その時神社の境内で、ツアーの参加者の方から古田さん質問して良いですかと言われ、この看板には事代主は自殺したようなことに見えるのですが本当ですか。そういう質問を受けました。それでわたしは看板を真面目に見ましたが、確かにそのように書かれています。それまでわたしは、神社の案内をそれほど真面目に読んだことはなかった。歴史の資料にもならない話や単なる天皇家とのつながりを誇示する自慢話か、ウソじゃないけれども体裁ぶって書いてある。そのように思っていた。ですが看板に書いてある青柴垣神事。われわれに代って事代主がお隠れになった。これは毎年、この行事を行っています。これは何かというと、神社の大きな看板に書いてありますが、天照の軍勢と戦い破れて、本土決戦というか最後の場面。その時事代主は、いろいろ戦いはあったが、もう戦いはやめよう。その代りわたし一人が責任を取って犠牲になって死のう。わたし一人が死ぬ代りに出雲の人々を傷つけないことを、天照たちに約束して欲しい。そしてそう言って海の中に入っていってお隠れになった。海の中へ入って行ったということは自殺したという事です。海の中へ入って行き自殺したということは、『古事記』『日本書紀』では書いていないけれども、土地の人々は永々(えいえい)と伝えていて、われわれを護るために海の中へ入ってお隠れになった。
 青柴垣神事そのものは四月と一〇月の初めにある。簡単な行事で、さんざん待たされましたが、そのあげくに、両脇を抱えられて宮司さんがよろよろと出てきました。一週間ぐらい断食したのではないかと言うぐらい本当にやせ衰えて出てきました。海岸まで行き、「天の浮橋」を渡って用意されていた船に乗りました。船が出て行って、そこで終わる。待たされるだけ待たされまして、あっけなくそこで終わった。中での神事はいろいろあるのでしょうが。そのよろよろと出てきたのが事代主です。自分を犠牲にして、責任を取って下さった事代主に対する感謝するお祭りです。
 この天照の反乱=国譲りの事件は、弥生の前期末・中期初めですから、以前の編年では紀元前百年、最近の編年では紀元前二百年から二百五十年に上がります。その時から二〇〇三年の今まで毎年青柴垣垣神事を延々と続けています。凄いというか、すさまじいというか、神社伝承とは偉いものだ。そう感嘆しました。ほんとうに今までの自分が恥ずかしくなりました。
 それを『古事記』では、勝ったほうのおごりで事代主は優等生。天照大神に国を献上した優等生にさせられていた。とんでもないことです。責任をとった。責任者はやはり責任を取るための存在でして、責任をとらない責任者は責任者ではない。

(日本古典文学大系、岩波書店、『古事記』上巻 一二一頁 四 事代主神の服従)
 故爾に天鳥船神を遣わして、八重事代主神を徴(め)し來て、問ひ賜ひし時に、其の父の大神に語りて言ひしく、「恐かしこし。此の國は、天つ神の御子に立奉らむ。」といひて、即ち其の船を蹈み、傾(かたぶ)けて、天の逆手(さかて)を青柴垣(あおふしがき)に打成して隱りき。【柴を訓じて布斯ふしと云ふ】

 その時、渡す縦板があって、その板の名前を聞いて驚いた。「天の浮橋 あまのうきはし」でございます。「天」は海士です。われわれは橋というと固定したものと思い込んでいますが、ここでは外せるから「浮橋」。われわれは「天の浮橋」というと、天上にかかる壮大な橋をイメージして、それをまた喜んでいましたが、あれは実は汚らしい板だった。漁師さんたちが今も使っている日常用語だった。

 島根県美保関神社青柴垣神事参照

 それで考えてみますと文献も大事だが、より大事なのは現地伝承なのです。わたしが古代史の世界に入ったのは四十代の半ば以後ですが、親鸞を研究したのは三十代が中心です。親鸞を研究していたのは文献第一主義の時代です。つまり伝承を問題にしていなかった。大学時代に文献は信用できるけれど、伝承なんてのは当てになりませんよという形で教えられて来たから、そういう頭であった。
 あっちこっち筆跡を求めて行った時に、聞きはしました。例えば、親鸞の消息集があるお寺がありまして、そこで聞かされた話です。「私のところの開祖は親鸞が流罪になった時に追っかけて大津、京都と滋賀県の境まで行ったんだ。けしからんと言って、憤慨して」と言って。皆さん、アーそうか、親鸞を流罪にするのはけしからんと思っているでしょう。正反対です。「親鸞はイデオロギーのゆがんだヤツだ。こんなヤツを放置しているから世の中は悪くなる。淫乱な女好きの男は流罪では生ぬるい。住連・安楽のように斬るべきだ。」そう考えて後を追った。ところが親鸞が休憩しているとき側によって見ると、態度がどうも違う。ぜんぜん人柄が違うので、斬らずに別れてしまった。その後親鸞が関東に行き京都に帰って来たとき、晩年の親鸞に会って彼の弟子になった。それが初代の方という話を聞いた。住職さんは宝物として親鸞の歯が置いてあると言っていた。どんな歯か知らないけど、虫歯にでもなった歯ではないかと思うんですが。そういうお寺があった。この話は『本願寺伝絵』や、他の伝記にも出てこない。これも嘘か本当かわかないけど、なんとなく一種のリアリティがあるんですね。作り話とは思えない迫力があると感じていた。感じていたことは確かですが、わたしの親鸞研究とは、いっさい別系列の現象だった。わたしの親鸞研究には一大欠落がある。まじめに伝承に取り組んでいなかった。

 最後におもしろい話をつけ加えます。東本願寺では十一月二十八日坂東流の念仏が行われる。誰にも判らなかった行事があった。何かというとその最後の日。親鸞の命日二十七日の次の終結する日に、坂東流の念仏を行う。坊さんが四~五〇人集まって念仏を唱える。それが、変なこう体を前後左右に揺すりながら南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とやるんです、皆が。だからかなり壮観なというか不思議な光景なんです。これが名物になっている。
 それで私は一生懸命聞いたわけです。あそこの東本願寺の儀典の係りの人に聞いたり、東京の関東出張所の責任者にも聞いたりしました。そして坂東流を一番良く伝えている大阪の方にも聞きました。わたしよりちょっと三つ四つ下の人で、わたしの名前も知っておられましたが。しかし、結局皆やっている事は判っているんだけど、なんでそうやるかは皆判らなかった。
 このような民俗伝承というか伝統を説明できないということは判った。しかしわたしの立場からは説明できる。証拠はないが説明はつく。なぜかと云うと坂東と云うのは関東で、関東へ来る直前は越後時代です。だから、親鸞が佐渡から越後へ行く時に、大暴風雨の中で、囚人船の中で、やはり念仏を唱え続けたと思うんですよ。それに同調した人もいたかも知れませんがね。それを記念したのです。(佐渡島に行くときもおなじです。)そのような越後時代の親鸞の苦労を聞いていて、そこからそれを記念する坂東流というやり方が関東で始まって、それが今、東本願寺に残っているといういきさつがあった。まあ簡単に、途中を省略して言っています。という事で、不思議な念仏のいわれが初めて判ってきた。
 親鸞の『教行信証』という第一史料を、『続日本紀』という直接の朝廷の規定によって理解する。そして第二史料である『歎異抄』その他から入らない。それを批判する。第一史料によって第二史料を批判するという立場。そして、より大事なのは、現地伝承を馬鹿にしないということです。
 以上で終らしていただきます。ありがとうございました。

(終り)

 


古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 『親鸞 -- 人と思想』

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