西村秀己
歴史学の基礎のひとつである史料には様々なものがあります。例えば文献或いは金石文または木簡などです。その中でも我々が特に利用するものは、文献特に正史と呼ばれる歴史書です。しかしながら、これらの正史などを取り扱う際には注意が必要です。正史(それに限りませんが)にはそれを著述した人物の思惑や立場或いはその歴史書を正史と認定した国家の都合が込められています。つまり自分たちに都合の良い史実は強調し、都合の悪い史実はより簡略に若しくは消去している可能性があります。まさしく「勝者が歴史を作る」のです。また当時の作成方法は筆写ですので原本でない限り誤写の問題が常につきまといます。
さて先の「勝者の歴史」ですが、史料によってはその「勝者」の関わりには度合いが違ってきます。まず、中国の正史ですがこれは史記を除いて次代以降の王朝が作るのが通例ですので、対象王朝と作成王朝の間隔があくほど公正なものになっていると思われます。また皇帝や国家の歴史を書いた「本紀」や重臣の「列伝」には「勝者」の関わりが大きいでしょうが、「夷蛮伝」などはさほど大きくないと考えられます。翻って日本の歴史書、古事記・日本書紀・続日本紀などはヤマト王朝の歴史をヤマト王朝が作成したもので、対象王朝と作成王朝が一致しており、極めて「勝者」影響が大きいと考えざるを得ません。従って、中国の正史の夷蛮伝と日本の歴史書の内容が食い違った場合、どちらが信用するに値するかは明らかです。
例えば「邪馬台国」という造語があります。全ての魏志倭人伝の版本には「邪馬壹国」或いは「邪馬一国」とあるにもかかわらず、この造語を東大や京大の歴史学者たちが使い続けるのは古事記や日本書紀には「ヤマト」という国家しか存在しないからです。彼らは「邪馬壹」では「ヤマト」とは読めないので、「壹」→「臺」→「台」と改変し「ヤマト」と読めるようにしているのです。同じように「南至邪馬壹国」とありますが、「南」では「ヤマト」にたどり着けないので『「南」は「東」の誤り』などとするのです。これでは勝者であるヤマト王朝の論理がいまだに生き残っていると思わざるを得ません。こんな歴史学界にノーの言葉を揚げたのが40数年前の古田武彦氏なのです。先に歴史書にはその意図のあるなしにかかわらず、誤りが含まれている可能性があると書きましたが、それでもそれを「誤り」とするには論証が必要です。そしてその論証責任は「誤り」とする側にあるのです。
同じように、隋書俀国伝に登場する「多利思北孤」は男性で天子であるにもかかわらず女性である推古天皇或いは皇太子(つまり天子というトップではない)である聖徳太子の事跡とされ続けているのです。なによりも俀国伝には阿蘇山が登場するのです。瀬戸内海も琵琶湖も香久山も登場しません。多利思北孤の宮殿が九州にあったのか近畿にあったのか、賢明なる皆さまにはもうおわかりでしょう。
本書は以上のような考え方をベースに本会の会員たちが聖徳太子や多利思北孤について論じたものです。公正な目でお読み戴きたいと思います。
尚、古田武彦氏の初期三部作『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(共にミネルヴァ書房版)は古田史学の基礎であり歴史学の最高傑作です。お読み戴ければ幸いです。
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