古賀達也
『隋書』によれば、隋使が多利思北孤に会った後、肥後に赴いたことが記されています。その目的は、中国には珍しい活火山の阿蘇山の噴火を見るためと何となく考えていたのですが、物見遊山で隋使が来たとは思えませんので、ある有力な人物に会うために肥後に行ったのではないかと考えています。
その人物こそ九州王朝独特の兄弟統治の天子、多利思北孤の弟だったのではないでしょうか。その弟が肥後にいた「肥後の君」とする作業仮説(思いつき)を立て、現地調査を続けてきました。その結果、兄弟統治と九州年号「兄弟」の痕跡を見いだしましたので、その経過を報告します。
二〇一五年六月一日、鞠智城を見学するため、菊池市を訪問しました。前日には菊水史談会(石山仁明会長)主催の和水町中央公民会での講演会で講演しました。約百名の参加者があり、盛況でした。主催者の説明によると和水町外からの参加者も多く、インターネットを見て参加された人も少なくなかったそうです。二時間ほど講演しましたが、皆さん最後まで熱心に聴講され、持ち込んだ『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編、明石書店刊)も完売しました。
講演終了後に菊水史談会の皆さんと懇親会があり、夕食をご一緒しながら、時間の都合で講演では話せなかった新「発見」について追加発表させていただきました。
講演のキーワードは「兄弟統治」「二人の天子」でした。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、イ妥国は夜は兄、昼は弟が統治するという兄弟統治という体制でした。九州年号にも「兄弟」(五五八年)があり、この「兄弟統治」との関係をうかがわせます。そして、天子(兄)が筑紫(久留米)の多利思北孤であり、もう一人の天子(弟)は筑紫舞に見える「肥後の翁」ではないかとする作業仮説が考察の出発点でした。
新玉名駅で観光案内パンフレットを読んでいますと、熊本市の案内に「市内最古の神社」として健軍神社が紹介されていました。「最古」とあるだけで具体的年代は書かれていないので、スマホで調べてみると、ウィキペディアには「欽明十九年(五五八年)」の創建とされていました。この創建年こそ九州年号の「兄弟元年」に相当するのですが、神社創建と改元には関係があるのではないかと考えました。「兄弟統治」を記念して、九州年号は「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないでしょうか。
この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されています。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第一七八号、二〇一五年六月。「古田史学の会・東海」発行)という論文です。その中で『日本書紀』欽明十七年条(五五六)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明十七年の二年後が九州年号「兄弟」元年(五五八)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。
熊本市最古の神社とされる「健軍神社」の創建年「欽明十九年(五五八年)」が九州年号「兄弟」元年に相当するので、史料根拠を探してみたところ、『田代之宝光寺古年代記』に次のように記されていることを発見しました。
(前略)
「戊刀兄弟 天下芒(暁)ト言健軍社作始也 老人皆死去云々」
「己卯蔵知」
(以下略)
※「戊刀」は「戊寅」のこと。「暁」は金偏に「堯」。「蔵知」は『二中歴』には「蔵和」とある。(古賀注)
田代之宝光寺は「鹿児島県肝属郡田代村」にあったお寺のようで、わたしが持っている活字本コピーの解説によれば「島津図書館にあった本を写したものである」とされています。このコピーはかなり以前に入手したもので、残念ながら出典は不明です。『田代之宝光寺古年代記』は九州年号の「善記元年」(五五二)から延寶六年(一六七八)まで記されており、それ以後は切れていて残っていないとのことです。
兄弟元年戊寅(五五八年)に「健軍社作始也」とありますから、九州年号により健軍神社の創建年が記された貴重な史料であり、九州王朝下により創建されたことがうかがわれます。「天下芒(暁)ト言」の意味はまだわかりません。ご存じの方があればご教示ください。
「老人皆死去云々」は『二中歴』など他の九州年号群史料には「蔵和」の位置にありますが、『田代之宝光寺古年代記』には「兄弟」の位置に記されているようです。ただし、年代記の類は狭いスペースに記事が書き込まれているケースが多く、位置がずれたり混乱することもありますので、やはり他の九州年号群史料に従って、本来は「蔵和」にあったと考えた方がよいように思われます。
老人が「皆死去」したというのですから、流行病でも発生したのかもしれません。また、「云々」とありますから、引用した元史料にはその様子がもっと詳しく書かれていたのでしょう。
二〇一六年六月二一日、出張で熊本駅に行きましたので、近くの図書館で時間待ちをしました。地震で図書館も被災したようで、開架されているスペースが制限されており、歴史書や地誌はほとんど閲覧できませんでしたが、幸いにも『熊本市史』が並んでいましたので、「史料編 第三巻 近世1」(平成六年発刊)を大急ぎで調べたところ、探していた健軍社縁起「文化五年辰 詫摩健軍社縁起控」が収録されていました。その冒頭に次のような興味深い記事が、予想に違わず記されていました。
「健軍大明神縁起
一 天照大神六代之孫神、神武天皇第二之王子阿蘇大明神是也、兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳、保昌国司、阿蘇大明神四社之一社、健軍ニ御建立被成候、」
この「兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳」の右横に細字で「是年号考ルニ、天平十年ナラン」と書き加えられています。活字本ではなく原文を見てみないと断定はできませんが、「兄弟天正五年」という表記について、干支の「戊寅ノ歳」から「天平十年(七三八年)」のことではないかと書き加えられたものと思われます。この冒頭の一見意味不明の「兄弟」こそ九州年号であり、五五八年に相当します。
この「詫摩健軍社縁起控」は書写が繰り返されたようですので、本来は九州年号の「兄弟元年」とあったものが、書写段階で誤写誤伝されたようです。ちなみに「天正十五年」という表記が同縁起中に散見されることから、別の記事の「天正十五年」という表記が九州年号「兄弟元年」部分に書写段階で混ざり合ったものと思われます。
他方、健軍神社の創建は欽明十九年(五五八)と紹介されることが一般的ですから、これも本来の伝承は九州年号の「兄弟元年」であったものが、『日本書紀』成立以後に近畿天皇家の『日本書紀』紀年による表記「欽明天皇の十九年」に置き換わったことがわかります。
熊本駅でのわずかな待ち時間を利用しての図書閲覧でしたが、やはり健軍神社は九州王朝により「兄弟元年」に創建されたと考えてよいようです。健軍神社の縁起は他にも残されているはずですから、引き続き調査したいと思います。熊本県在住の方のご協力をいただければ幸いです。
※本稿は「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に連載している「洛中洛外日記」の記事を加筆修正し転載したものです。(古賀)
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