『古代に真実を求めて』 第二十一集

前期難波宮の造営準備について 正木裕 ( 『古代に真実を求めて』 第二十一集)../sinjit21/zenaniwa.html


前期難波宮の造営準備について

正木裕

 大阪上町台地に遺構のある「前期難波宮」については、『日本書紀』孝徳白雉三年(六五二)に、「秋九月に、宮造ること己に訖おはりぬ。其の宮殿の状かたち、殫ことごとくに論ふべからず」と、その完成が記されている。そして、大阪文化財研究所などの努力により、近年発掘が進み、「戊申年(六四八)木簡」の発見や、水利用木枠の年輪年代(六三四年) の測定、木柱の年代(最外郭年輪六一二年、五八三年)の測定から、『書紀』どおり孝徳天皇の時代(七世紀中葉)の造営である事が一層確実になってきた。また宮を囲む条坊を含めた、宮域の全体像についても、「宮殿の立地する地形とその改変状況、あるいは宮殿の周縁部に設けられた官衙などの遺構群が明らか(註1)」になり、藤原宮さえ上回る十四の朝堂を持つ、画期的な宮の姿が復元されつつある。また、そうした研究の進展のなかで、

①【九州年号白雉改元と難波宮完成年の一致】芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年木簡」により、白雉元年は『書紀』の孝徳白雉元年庚戌(六五〇)ではなく、「九州年号白雉元年壬子(六五二)」であり、難波宮完成を記念し「九州年号が改元」されたものと考えられること、

②【遺物の筑紫との関連】筑紫の須恵器が難波宮整地層から発見されたこと、

③【宮城の形式】難波宮の前後に大和の王権が宮とした、飛鳥板蓋宮等(前)や飛鳥浄御原宮(後)とは、全く別の宮城思想(京域の北に宮殿を構える「北闕式」)や形式(大規模な朝堂院)で作られていること、

などにより、前期難波宮が、九州王朝の造営した宮である可能性は一段と高くなってきている。

 一方「多元史観」にもとづく『書紀』の研究において、古田武彦氏は、『書紀』には九州王朝の史書からの「盗用」がみられるとされ、持統三年(六八九)から十一年(六九七)にかけての三十一回の「持統吉野行幸記事」は、本来「三十四年前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸である」こと、つまり行幸記事が「三十四年繰り下げ」られていることを例としてあげられた。(註2)
 その後の『書紀』の研究により、持統紀では、九州年号で「白雉と朱鳥」、「白鳳と大化」を入れ替えれば、記事が「三十四年繰り下げ」られること(表1)、天武紀でも、これに合わせ順に繰り下げられたこと等が明らかになってきた(例。天武十二年(六八三)の「副都詔」等。後述)。つまり、天武・持統紀全体に、「九州年号」で記された九州王朝の記録が盗用され、六六三年の白村江敗戦前の記事が、『書紀』の最終年(六九七)まで、六六二年記事が六九六年というように、順次三十四年間繰り下げて随所に挿入されていたことになる。
 本稿では、『書紀』に見える「副都詔」ほかの宮城関連記事を、吉野行幸同様「三十四年前」に遡らせば、九州年号「白雉」元年完成という難波宮造営スケジュールと整合することを示していく。それは同時に、九州王朝による前期難波宮の造営準備・造営過程を明らかにすることになろう。(註3)

(表1)書記年号・九州年号三四年遡上対照表

(表1)書記年号・九州年号三四年遡上対照表

一、前期難波宮予定地の囲い込み

 難波宮造営は「都城予定地の囲い込み」と大和の王権との「境界分限」に始まることが、天武八年の「関と羅城の造営」記事からわかる。
◆『書紀』天武八年(六七九)十一月(略)是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。

 「竜田山・大坂山の関」は、『書紀』天武元年(六七二)の壬申の乱の記事中に、「三百の軍士を率て、竜田に距ふせかしむ。復た佐味君少麻呂を遣して、数百人を率て、大坂に屯いはましむ」とある。
 これは天武元年時点で、大和と大坂を画す「竜田関、大坂関」が既に存在していたことを示している。にもかかわらず天武八年に関を造ったというのは不自然で、ここから、天武八年の「竜田・大坂の関造営」記事は、天武元年以前の事実だったと考えられる。
 また、「羅城」とは「京の四周にめぐらす城壁(*当時なら城柵)」(『岩波注』)のことで、難波羅城は難波宮(京)を囲む城柵を意味する。大阪文化財研究所の高橋工氏によれば、「前期難波宮の土地造成工事の期間はどこまで絞り込めるのであろうか。建築工事を含めた造営期間については諸説があって、最短で二年弱、最長で六年半と考えられているが、最長期間を取れば六四六~六五二年の間ということになる(高橋報告)とされている。
 そして、天武八年(六七九)の三十四年前は孝徳大化元年(六四五)・九州年号「命長」六年となり、宮完成の七年前となる。つまり、天武八年記事が孝徳大化元年(六四五)十一月からの盗用だったとすれば、難波宮造営開始時期にきわめて整合するのだ。従って、この時期から「難波宮(京)予定地」を城柵で囲むという、造営準備が始まったと考えられよう。
 これは、最近前期難波宮の「条坊遺構」が発掘されたことからも裏付けられる。高橋氏の別の報告では、条坊遺構は「天武朝より古く、最初に難波宮が造られた孝徳朝に遡る可能性が高いと考えられる」とあることから、難波宮は当初より「条坊都市=難波京」として計画されたことになる(註4)。そうであれば、現代で開発予定区域をネットフェンスで囲むように、条坊=京域予定地を城柵で囲んだことは十分に想定できるのだ。

 

二、難波宮造営の目的は「評制」施行

 それでは、何故九州王朝はこの時期に、長年宮城としてきた大宰府を離れ、難波に新都城を作ろうとしたのだろうか。
 実は『常陸国風土記』ほかから、六四九年頃、全国に新たな地方統治制度である「評制」が敷かれたことが分かっている。
①『神宮雑例集』神封事。度会郡。多気郡。(略)己酉年(六四九)(孝徳大化五年・九州年号「常色」三年)を以て始めて度相郡(*評)を立つ。
②『常陸国風土記』難波の長柄の豊前の大宮に臨軒あめのしたしろしめしし天皇のみ世に至り、高向臣、中臣幡織田連はたのむらじ等を遣はして、坂より東の国を惣領しめき。(略)香島郡。己酉年(六四九)、大乙上中臣□子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向大夫に請ひて、下総国海上の国造の部内軽野より南の一里と、那賀の国造の部内寒田より北五里とを割きて、別きて神の郡(*評)を置きき。

 そして、藤原宮出土木簡等から、七〇〇年以前の我が国の地方制度は「評」だったが、七〇一年の大和朝廷の律令施行後は「郡」に変わったことが知られている。これは『二中歴』ほかで、「九州年号」が七〇〇年で途絶えるのと時期を同じくする。そして、大和朝廷の史書である『書紀』では、「評」を消し七〇〇年以前も「郡」であったとしている。そこから「評は九州王朝の制度、郡は近畿天皇家(大和朝廷)の制度」(古田武彦)と考えられる。
 「評制」は中央政権が、地方の豪族を評督等に任命し中央政権の統制下に置くものだ。そして坂東というような広域には「惣領」、各国に「国宰くにのみこともち」などを派遣し、評制の運営、評督等の統制等にあたらせた。これは「集権体制の成立」を意味し、大きな官僚機構とそれを収容する役所の整備が不可欠だ。
 また、その役所は「地理的」に全国統治に適した場所に整備する必要があり、九州は『常陸国風土記』に見えるような、遥か東国を統治するには不適切だった。そこで、統治領域の中央に位置し、かつ筑紫からの海運の便も良い難波に造都を計画したと考えられよう。(註5)

 

三、予定地の視察・番匠(*工匠)の派遣

 都城造営の次の段階は、予定地(宮城)の地形調査で、『書紀』天武十一年(六八二)にその記事がある。三十四年前は孝徳大化四年(六四八)・九州年号「常色」二年だ。
◆天武十一年(六八二)三月甲午の朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命みことのりして、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都造らむとす。(略)己酉(十六日)に幸す。

この天皇の「新城」行幸と関連すると思われるのが、愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』(以下『縁起』)に記す次の記事だ。
◆『縁起』三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二(六四八)戊申。日本国御巡礼給ふ。当国に下向の時。玉輿、船に御乗り在り。同じく海上で住吉と御対面在り。同じく越智の性を給ふ。(修験道資料集Ⅱ昭和五十九年)

 「番匠」は「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工寮で労務に服した木工(『広辞苑』)」の意味だ。従って『縁起』は、孝徳時代、難波都城の造営に携わる工匠を確保するための「番匠」制度が始まり、常色二年(六四八・大化四年)に、住吉の神に準なぞらえられた天子が日本巡礼(巡行)し、その途上、伊予に立ち寄った記事と解釈できる。
 天武が伊予に行幸した記事や伝承など存在しないが、天武十一年三月記事を三十四年前のものと考えれば、『縁起』と「時期(年)と行幸目的(造都)」が一致する。「賜姓の権限」は天子にしかないうえ、「常色」は九州年号で、瀬戸内を「巡礼(巡行)」したというのだから、これは「九州王朝の天子の行幸」と考えられる。
 結局、『縁起』は、天武十一年(六八二)の三十四年前、常色二年(六四八)に九州王朝の天子が、「新城」即ち難波宮予定地調査のため工匠を派遣し、自らも予定地視察のため、筑紫から瀬戸内を経由し難波に行幸した。その途上伊予に立ち寄ったことを示すものとなろう。
 そして「戊申日本国御巡礼給」とある、その「戊申」年木簡が難波宮整地層から発掘されている。岩波版『日本書紀』天武十一年の「新城」の注では、「結局都は造られなかった」とするが、天武期ではなく「常色期に九州王朝により番匠が派遣され、都が造られた。それが前期難波宮だ」ということになろう。

 

四、難波宮における地形調査の必要性

 更に「其の地形を見しむ」とあるが、従来この字句(フレーズ)に特別な意義があるとは考えられなかった。しかし、発掘が進み、「宮殿が立地する地形については、東西幅がせいぜい一五〇〇m程度しかない上町台地にあって、急峻な谷が複雑に入りこんでいる状況が把握されている。宮殿は起伏の激しい地形の中の僅かな平坦部をうまく利用して造営されている(高橋報告)」という「難波宮の特別な地形」が判明し、難地形での造営の困難性が指摘されている。これにより、「地形を見しむ」との文言は、「上町台地の厳しい地形を調査し、宮殿(京)の建設が可能か、どう造成すればよいのかを調査させる」という重要な意義を持つ語句である事がわかったのだ。

 

五、副都建設と官衙造営の詔

 天武十二年に「先づ難波に都造らむ」という、いわゆる「副都詔」があるが、難波宮は六五二年に完成し、先述のように条坊も整備されていたと考えられるのに、不可解な記事となっている。しかし、三十四年前であれば宮完成の三年前孝徳大化五年(六四九)・九州年号「常色」三年のことで、何ら不自然さは無い。結局これは九州王朝による「難波宮(京)造営の詔」だったのだ。
◆『書紀』天武十二年(六八三)十二月庚午(十七日)。又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参ふたところみところ造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往おのおのまかりて家地を請たまはれ。

 高橋報告によれば、前期難波宮では、東方官衙に加え、西方官衙では板塀に囲まれた、役所と考えられる建物群や、西南方宮外官衙(朱雀門外西南の連続する長舎建物群)では、「一二〇mに達する」建物跡も発見されている。更に朝堂院の西にも官衙の存在が想定され、「利用できる用地はほぼ全て官衙にあてられ(略)、八省百官とされる役所機構が実際に稼働していた可能性を示している(高橋報告)」とされる。
 これは六五二年完成の前期難波宮造営にあわせ、大規模な官衙造営が行われたことを意味し、「百寮の者、各往りて家地を請はれ」との記述と一致するのだ。この大規模官衙の発掘により、天武十二年記事が本来三十四年前の六四九年のものであることが一層確実になったと言えよう。なお、「各往おのおのまかりて家地を請たまはれ」の字句は、天武十一年と天武十二年記事の「宮(京)」が、十数年後の六九四年にならないと完成しない「藤原宮」でありえないことを示している。

 

六、宮殿の位置確定と工匠による着工

 『書紀』の天武十三年に「宮室之地を定めた」とあるが、三十四年前の孝徳白雉元年(六五〇)・九州年号「常色」四年に「宮地に入れる為に丘墓を壊され、或は移転させられた人」への補償記事がある。
◆天武十三年(六八四)二月庚辰(二八日)に、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及び判官・録事ふびと・陰陽師・工匠たくみ等を畿内に遣はして、都つくるべき地を視占しめたまふ。是の日に、三野王・小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣はして、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。
              三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇に巡行ありきたまひて、宮室之地を定めたまふ。
◆孝徳白雉元年(六五〇)冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓はかを壊やぶられたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠たくみのつかさ荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。

 天武十三年(六八四)記事を三十四年遡らせると、孝徳白雉元年(六五〇)と同年の記事となる。そして、①孝徳白雉元年三月に「判官・録事・陰陽師・工匠」らを難波に派遣し、「宮室の具体的な造営計画」をたてさせたうえ、天子が行幸し「宮室之地」を定め(承認し)、工事が開始された。②これに伴い、墓等が移転され、同年十月に「移転補償」が行われたと考えれば、難波宮の宮室造営に伴う「連続した一連の事実」としてきれいに整合するのだ。
 また、天武十三年記事には「工匠」の記事が見える。「都を造る工匠」だから、これはずばり『縁起』に孝徳時代に始まったと記す「番匠」にあたる。
 そして『書紀』では、孝徳白雉元年十月記事に「将作大匠たくみのつかさ」荒田井直比羅夫とある。「将作監」は宮室等を造営する役所、大匠はその長官のことだから、九州王朝は白雉元年に、荒田井直比羅夫長官率いる役所「将作監」を、工匠ほかの実務者ぐるみで難波に移転させ、難波宮造営にあたらせたことになろう。

 

七、官僚・兵の移転・移動準備

 宮の造営が進み、官僚の家地も決まれば、いよいよ官僚たちの移転準備が始まる。これを示すのが天武十三年(六八四)記事で、三十四年前は孝徳白雉元年(六五〇)・九州年号「常色」四年だ。
◆天武十三年(六八四)閏四月丙戌(五日)に、詔して曰はく「来年の九月に、必ず閲けみせむ。因りて百寮の進止・威儀を教えよ」(略)「凡そ政要は軍事なり」。

 都を遷すにあたって必要なのは施設建設だけではない。当然「百寮・兵の大規模な移動」を伴う。この移転に混乱をきたさない為、「進止・威儀を教え」、万全の「移転準備」をおこなうよう指示したのがこの詔となろう。
 その移転は、宣言通り翌孝徳白雉二年(六五一)に行われたことが、天武十四年(六八五)記事からわかる。三十四年前は孝徳白雉二年(六五一)・九州年号「常色」五年で、先発隊を九月に派遣し、現地で万全の備えが行われたと考えられる。
◆天武十四年(六八五)九月甲寅(十一日)に、宮処王・広瀬王・難波王・竹田王・弥努王を京及び畿内に遣して、各人夫の兵(武器)を校しらへしめたまふ。

 また、難波副都における「諸役」の任命も十月に行われている。
◆天武十四年冬十月甲申(十二日)に、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、并せて廿人を以て、畿内の役えだちに任す。

 こうした万全の備えを行った後、いよいよ天子が居を難波宮に移したことになる。それが「伊勢王等、亦東国に向まかる」記事だ。
◆天武十四年冬十月己丑(十七日)に、伊勢王等、亦東国に向まかる。

 この記事こそ、『書紀』で「伊勢王」とされる「九州王朝の天子」らが筑紫から難波宮に遷居した記事だと考えられる。「東国」とは筑紫から見て東、即ち近畿難波宮を指すことになろう。
 ちなみに、新羅は百済との争いで劣勢となり、王子金春秋(武烈王)は、高句麗や倭国(六四七年に来朝)に支援を求めたが拒否され、六四八年唐に入朝し臣従した。つまり、「唐・新羅の連合が強固になった」(岩波『書紀』注釈)わけで、百済と関係の深い九州王朝にとって、唐・新羅の脅威が高まったことを意味する。まさにこの時期に「副都詔」が出され、難波都城造営が実行に移されたことになる。「凡そ政要は軍事なり」とか「兵(武器)を校へよ」という詔は、天武十三年・十四年では意義が不明だが、六五〇年・六五一年なら緊迫する軍事情勢を反映したものだと理解できる。
 こうした中、『書紀』孝徳白雉二年記事に、新羅の使者が「唐の服を着て筑紫に泊まれり」とある。これは唐の属国になったと倭国に知らしめたことを意味し、新羅に対し威圧行動を行うべきとの奏上がおこなわれた。
◆孝徳白雉二年(六五一)是歳。難波津より、筑紫の海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳ふねを浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし。

 その三十四年後の、天武十四年(六八五)に武器を周防と筑紫に送った記事、「新羅を徴召した」記事、筑紫に派遣された防人の海難記事がある。
◆天武十四年(六八五)十一月甲辰(二日)に、儲用まうけの鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、絁ふとぎぬ一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請まうす。筑紫に送し下す。(略)己巳(二七日)に、新羅、波珍飡金智祥はちんさんこんちじょう・大阿飡金健勲だいあさんこむごんくんを遣して政を請まうす。仍りて調進みつきたてまつる。
              十二月壬申朔乙亥(四日)に、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩ただよひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端むらを以て、筑紫に給り下す。

 天武十四年に何故武器が筑紫に送られたのか、防人が遭難したのか不明だが、これらの記事が六五一年の出来事であれは、九州王朝の天子「伊勢王」が、戦乱の恐れのある半島に近い筑紫から難波に移転し、新羅に対しておこした威圧行動と、「(難波から筑紫の海の裏)まで相接ぎて艫舳ふねを浮け盈」て、「新羅を徴召」した際におきた事故の顛末だと理解できるのだ。

 

八、九州王朝の難波「遷都」と「倭京・太宰府」復帰

 このような経過を経て、九州年号「常色」五年(六五一)十二月の晦に、完成間近な難波宮(旧名「味経宮」)において、新宮の無事を祈念する大法要を催して難波宮(新宮)に入城し、新年の賀を受け、九州年号を白雉と改元し盛大な改元式典を挙行したことになる。
◆孝徳白雉二年(六五一)冬十二月の晦に、味経宮あじふのみやに、二千一百余の僧尼を請(ま)せて、一切経読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈みあかしを朝の庭内に燃ともして、安宅・土側等の経を読ましむ。是に、天皇大郡より、遷りて新宮に居す。号なづけて難波長柄豊碕宮と曰ふ。

 そして官衙や朝堂院の整備状況から、難波宮で「八省百官」が政務を執っていたことが分かる。それは「遷都」とも言えるものだが、実は首都機能を移転させておいて、その間に本拠たる太宰府の防衛施設を着々と造営していった。
 『書紀』によれば、難波宮が完成した翌年の孝徳白雉四年(六五三)には、「公卿大夫・百官の人等」が倭京に戻り、同五年(六五四)末には「斉明」も「倭河辺行宮」に遷っている。
 そして前述のように、「持統の初の吉野行幸(六八九)」の三十四年前、斉明元年(六五五)には、九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸が始まり、翌斉明二年(六五六)には吉野宮が造られ、大野城や基肄城の築造、羅城の構築が始まる(*この点は本書「倭国の城塞首都『太宰府』」で詳述)。
 ここでは九州王朝の天子は「斉明」に準なぞらえられており、「倭京」とは飛鳥の諸宮ではなく「筑紫太宰府」で、「斉明」が居した「飛鳥河辺行宮・倭河辺行宮」も、太宰府周辺の大工事中に九州王朝の天子が居した小郡宮だったことになろう(*この点は本書「よみがえる『倭京』大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言―」で詳述)。
 このように、現地の発掘状況と『書紀』記事から、九州王朝の、「評制施行」並びに差し迫った唐・新羅の脅威を背景とした難波都城造営、その後「倭京」たる筑紫大宰府に復帰し、一大防衛施設造営に取り組み「城塞首都『太宰府』」を構築していった、その動機・経過が明らかにできるものと考える。

 

(註1)以下発掘関連の引用文は大阪文化財研究所高橋工氏の「難波宮発掘の最前線」大阪歴史博物館金曜歴史講座二〇一四年九月十二日資料による。*文中では「高橋報告」という。

(註2)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年)*なお、古田氏の著書はほぼ全てミネルヴァ書房より復刊されている。

(註3)『書紀』で前期難波宮関連記事が三十四年後の天武紀に盗用されていることは、拙論「『日本書紀』の三十四年遡上と難波遷都」(『古代に真実を求めて』第十三集古田史学の会編(明石書店二〇一〇年三月)、「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八二号二〇〇七年十月)ほかで詳述。

(註4)高橋工「孝徳朝難波京の方格地割か ~上本町遺跡の発掘から~」(『葦火』一六六号)など。この点については、「古賀達也の洛中洛外日記」第六六四話(難波京に七世紀中頃の条坊遺構(方格地割)出土。二〇一四年二月)、第六八三話(難波京からまた条坊の痕跡発見。二〇一四年三月)に詳しい。

(註5)『書紀』の天武十二年(六八三)十二月丙寅(十三日)に、「諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并て判官・録史ふびと・工匠者たくみ等を遣して、天下に巡行ありきて、諸国の境堺を限分さかふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。」

とあるが、三十四年前は常色三年(六四九)で、全国的な評制施行時期と一致する。従って、『書紀』で「伊勢王」とあるのは白雉期の九州王朝の天子であり、「天下巡航」とは「筑紫から行幸し全国に評制を施行した」意味だと考えられる。(拙論「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」古田史学会報八六号・二〇〇八年)。


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