『古代に真実を求めて』 第二十三集

 


『旧唐書』と『日本書紀』

封禅(ほうぜん)の儀に参列した「筑紫君薩野馬

正木裕 

1、白村江の敗戦で捕虜となった「倭国酋長」がいた

 『旧唐書』や朝鮮半島の史書『三国史記』には、六六三年におきた唐・新羅との「白村江の戦い」で、倭国は大敗し、百済王子扶餘忠勝とともに「倭衆」が投降、捕虜として唐に連行されたことが記されている。
◆『旧唐書』「劉仁軌(りゅうじんき)列伝」仁軌、倭兵と白江の口に遇い、四戦捷(か)ち、其の舟四百艘を焚やし、煙焰は天に漲り、海水は皆赤くそまり、賊衆大潰す。余豊(扶余豊璋)は身を脫(のが)れ走り、其の宝剣を獲る。偽王子扶余忠勝、忠志等、率いる士女及び倭衆・耽羅(たむら)国使を并せて、一時に並び降る。
◆『三国史記』「百済本紀」龍朔三年(六六三)此の時倭国の船兵、来りて百済を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在る。(略)是に於て(劉)仁師・仁願及び羅王金法敏(文武王)、陸軍を帥(ひき)いて進む。(略)倭人と白村江に遇う。四戦皆克ち、其の舟四百艘を焚く。煙炎天を灼(や)き、海水丹を為す。王扶余豊(略)或は身を脫(のが)れ走り所在(ゆくへ)を知らず。或は高句麗に奔(はし)るといひ、其の宝剣を獲る。王子扶余忠勝・忠志等、其の衆を帥い、倭人と与(とも)に並び降る。

 ただ、唐に連行された「倭衆」について、『日本書紀』には記されていない不思議な記事がある。それは「倭国酋長」が囚われ、高宗に謁見したのち、麟徳二年(六六五)に泰山で挙行した封禅(ほうぜん)の儀(注1)に「扈従(こしょう 付き従うこと)」したとあることだ。
■『旧唐書』(列伝第三四 劉仁軌)麟徳二年(六六五)、泰山に封ず。仁軌、新羅及百済・耽羅・倭四国の酋長を領(ひき)いて赴會するに、高宗甚だ悦び、大司憲を櫂拜(てきはい)す。
 また、『冊府元亀』麟德二年(六六五)十月条でも、封禅の儀のため東獄(泰山)に赴く高宗に、「突厥(とっけつ)・于闐(うてん)・波斯(はし)・天竺国・罽賓(けいひん)・烏萇(うじょう)・崑崙(こんろん)・倭国、及び新羅・百済・高麗等諸蕃酋長、各の其の属を率い、扈従す。」とある。
 「酋長」とあるが、百済王子らも捕虜となっているから、「酋長」とは「王あるいは太子等の人物」を指すことは疑えない。ところが、『書紀』を見る限り「唐の捕虜になった倭国酋長」にあたる人物が見当たらない。
 天智も大海人や他の皇子も捕虜となっていない。白村江後を見ても、唐への派遣は、天智四年(六六五)十二月の小錦守君大石等のみで、これでは翌六六六年正月の泰山での儀典には間に合わない。そもそも「小錦」は天智三年の位階では上から八番目であり、とても「酋長」とは言えない。それでは「酋長」とは誰か。

2、「倭国酋長」といえるのは「筑紫君薩夜麻」のみ

 実は、六六五年に誰が唐にいたのかを知る手掛かりが、『書紀』持統四年(六九〇)一〇月記事にある。
◆『書紀』持統四年(六九〇)一〇月記事に、「天命開別天皇(天智)三年(六六四)に洎(およ)びて、土師連富杼(はぜのむらじほど)・氷連老(ひのむらじおゆ)・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児(ゆげのむらじがんほうのこ)、四人、唐人の計る所を奏聞(きこへまう)さむと思欲(おも)へども、衣粮(きものかて)無きに縁りて、達(とづ)くこと能(あた)はざることを憂ふ。
 この中で特異な名を持つのは「筑紫君薩夜麻」だ。筑紫・豊・肥を支配していた磐井も「筑紫君」と呼ばれ、その子葛子も「筑紫君」と呼ばれていた。また、『隋書』に「阿蘇山有り」と記された俀(倭)国の王「阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)」も「きみ」と称していた。
◆『隋書』開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字(あざな)は多利思北孤、阿輩雞彌(あはきみ)と号す。使を遣して闕(けつ)に詣る。
 つまり、「筑紫君」とは「九州を本拠とする列島の代表者」たる倭国(九州王朝)の天子(王)の称号に相応しいのだ(注2)。
 ここで、『書紀』ではなく『旧唐書』に基づき、「倭国」と「九州王朝」、「日本国」と「大和朝廷・ヤマトの天皇家」とは何で、これらの関係について述べておく。
中国唐代の史書『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが建てられ、「倭国」は、後漢の光武帝から金印(志賀島の金印)を下賜されて以来、歴代中国王朝と関係を続けてきた、九州を本拠とする「九州王朝」のことを指す(注2)。
 一方、「日本国」は七〇三年に「粟田真人」を派遣したとあるから、七〇一年に律令を制定し、大宝年号を建元した「大和朝廷」を指す。そして、「日本国」は元は小国だったが、八世紀初頭には倭国を併合したと記しており、「元小国」とは七〇〇年以前の「ヤマトの天皇家」を指すと考えられる。
 そして、『旧唐書』では、白村江で戦った相手は『倭国』と書かれているから、「唐の捕虜となった倭国の酋長」とは倭国(九州王朝)の天子「筑紫君薩夜麻」だったことになる。

3、筑紫君薩夜麻の運命

 白村江の戦いのあと、唐は「羈縻(きび)政策」すなわち、諸国に「都督(ととく)府」を設置し、臣従した王を「中国の官吏」である「都督」として帰国させ、国を治めさせる政策を採用した。例えば、
➀百済平定(六六〇)では五年後麟徳二年(六六五)に百済王子扶余隆を「熊津(ゆうしん)都督」に任命し、その後熊津に返す。
②高句麗平定(六六八)では高句麗宝蔵王を、九年後(六七七)に「開府儀同三司・遼東州都督」に任命し、朝鮮王に封じた。
③戦勝国新羅でも六六三年に鶏林大都督府が設置され、文武王を「鶏林(けいりん)大都督」に任命している。

 このような例から薩夜麻も「都督」として倭国に返されたと推測される。これを裏付けるのが『書紀』天智六年(六六七)の「筑紫都督府」記事と、天智一〇年(六七一)の薩夜麻帰還記事だ。
◆『書紀』天智六年(六六七)十一月丁巳朔乙丑(九日)、百済の鎮将劉仁願、熊津(ゆうしん)都督府熊山県令上柱国司馬法聰(しばほうそう)等を遣して、大山下境部連石積(いわづみ)等を筑紫都督府に送る。
◆『書紀』天智一〇年(六七一)十一月甲午朔癸卯(一〇日)、対馬国司、使を筑紫太宰府に遣して言さく、「月生れて二日、沙門道久・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)、四人、唐より来りて曰さく、唐国の使人郭務悰(かくむそう)等六百人、送使沙宅孫登(さたくそんとう)等一千四百人、総合(あわせて)二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島(ひちのしま)(不明。朝鮮半島南部沖の島か)に泊りて、相謂(かた)りて曰く、『今吾輩が人船数衆(かずおお)し。忽然に彼に到れば、恐るらくは彼の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍(ようや)くに来朝の意を披陳さしむ』とまうす」とまうす。

 この天智六年記事は、『書紀』でただ一か所「筑紫都督府」が記される個所だ。ただし、天智一〇年記事で対馬国司が薩夜麻の帰還を知らせたのは「太宰府」となっており、これでは、薩夜麻は「筑紫都督府」ではなく「太宰府」に帰還したように見える。
 この点、天智一〇年(六七一)記事に見える「郭務悰」の上司は唐の百済鎮将「劉仁願」であり(注3)、同じ六七一年の正月記事にも劉仁願が李守真等を派遣した記事もあるから、彼によって郭務悰は筑紫に派遣されたはずだ。
◆『書紀』天智一〇年(六七一)春正月(略)辛亥(一三日)百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して、表上る。

 ところが、肝心の劉仁願は、三年前の天智七年(六六八)八月に雲南へ配流されているから、「六七一年十一月」の「薩夜麻らと唐の使節の到着記事」も「三年以上前」のこととなる。そうであれば「四年前」六六七年の同じ「十一月」の法聰や境部連石積等の帰国と、薩夜麻らの帰国は、本来は「一つの事件」であり、『書紀』編者はこれを分割し、薩夜麻らの帰国を六七一年に繰り下げた可能性が高い。
 その場合、対馬国司が使者を「太宰府」に送った六七一年十一月の「癸卯(一〇日)」が六六七年のことなら、十一月には「癸卯」の日は無く、「一〇月一六日」が「癸卯」だ。従って薩夜麻らが対馬に来訪した「月生まれて二日」とは一〇月二日となる。そして、これ以降に、比知島・対馬・太宰府間の往復連絡が行われ、約一月を経た六六七年「十一月乙丑(九日)」に、法聡・石積らと共に薩夜麻ら四人を乗せた唐の船団が「筑紫都督府」に着いたことになる。
 そもそも、郭務悰ら唐使の天智十年(六七一)来朝は『書紀』では六回目。対馬も何回も経由しているにもかかわらず、大部隊だからといって警告を発するのは不自然だ。白村江戦後間もない頃とすれば、合理的に理解できる。天智六年(六六七)記事に「都督府」とあるのに、六七一年記事に「太宰府」とあるのも、この「太宰府」記事が「都督となった薩夜麻の帰還直前」の六六七年一〇月一六日に遡るものだと考えれば自然なこととなる。唐から見れば都督に任命したのだから「都督府に送る」となるが、倭国(九州王朝)側では未だ「太宰府」なのだから。

 結局、薩夜麻は他の東夷の「酋長」同様「都督」に任ぜられ、唐の使節(軍)と共に、天智六年(六六七)十一月九日「筑紫都督府」に帰還したと考えられる。
 唐は、薩夜麻を「倭国酋長」として「都督」に任命し、従前のように倭国を統治させるべく、新たに設置した「筑紫都督府」に送り返してきた。『書紀』編者は、この事実を隠すため、薩夜麻帰還記事を法聰等の「筑紫都督府」への帰還記事と切り離し、四年間繰り下げたのだ。

4、「天智の称制」は「天皇の不在」ではなく「薩夜麻の不在」による措置

 しかし、唐の郭務悰らと帰国した「都督」薩夜麻が目にしたのは、近江大津の宮に移った倭国の官僚群と、彼らを掌握し政務を執っていたヤマトの天皇家の「天智(中大兄)」だった(注4)。
 天智は、天智元年(六六二)から天智六年(六六七)までの六年間は「称制(注5)」という形をとったが、前のヤマトの天皇「斉明」は六六一年に崩御しており、天智が即位するのに何ら問題はないし、事実上も天皇家の長として様々な施策を行っている。それなのに即位しなかったのは不可解だ。
 しかし、当時の「我が国の代表者」が、「ヤマトの天皇家の天皇」ではなく、「倭国(九州王朝)の天子」であるなら話は別だ。
「倭国(九州王朝)の天子」薩夜麻は六六七年末に帰国するまで政務を執ることが出来ない状況にあった。そこで、「近江宮」でヤマトの天皇家の天智が、薩夜麻の「代理」として政務を掌った。これは、天皇家一族は白村江に出兵せず、従って損害が少なく、また近江は継体の生誕の地(『書紀』に「近江国高嶋郡三尾」とある)とされるように、ヤマトの天皇家の勢力範囲にあったから、自然の成り行きともいえよう。
 つまり、「天智称制」という形式は、天皇の不在ではなく「倭国(九州王朝)の天子薩夜麻」の不在によるものだった。

 しかし、薩夜麻は「唐の官僚たる都督」として帰国した。唐側から見れば、羈縻(きび)政策上「都督」は「倭国王」として統治する地位となるが、倭国側から見ればあくまで「唐の官僚」いわば「代官」だ。これは、倭国内の諸国・諸豪族、重臣らが盟主として推戴してきた「倭国王」とは異質な存在となる。そこで、都督薩夜麻の帰国直後の天智七年(六六八)正月、「九州王朝の薩夜麻」に代わって、「ヤマトの天皇家の天智」が諸豪族や重臣らによって「倭国の盟主・代表者」に推戴され、「大津近江宮」で即位したのだ(注6)。つまり、この時点で「唐の都督たる九州王朝の薩夜麻」と「倭国王たる天皇家の天智(近江朝廷)」という二重権力状態が生じたことになる。
 天智の施策とされる天智七年 (六六八)の近江令(おうみりょう)制定や、天智九年 (六七〇)の庚午年籍(こうごねんじゃく)の制定、天智一〇年(六七一)の「冠位・法度の制定」などは「一国の代表者」しか成しえない事業であり、天智は「倭国王」としてこれらを執行したことになる。
 白村江の敗戦で半島に出兵した倭国の軍は壊滅しており、残された主要な軍事力は、戦場から離れた東国の兵力となる。つまり、薩夜麻には白村江を生き延びたわずかな九州の兵しかなく、最大の頼みは駐留していた唐の勢力ということになろう。その唐にしても少数の駐留軍で東国の「天智の近江朝」を制圧するのは困難で、羈縻政策には反するが、当面天智の執政を認めざるを得なかった。

5、唐・薩夜麻と天武の壬申の乱

 そこに、天智の死後、大友皇子と皇位を争った大海人皇子が支援を求めてきた。これは、大海人に従った安斗智徳(ちとこ)の日記に、大海人は唐人から戦術を聞いたとあることからわかる。
◆『釈日本紀』(調連淡海・安斗宿祢智徳等日記に云ふ)天皇、唐人等に問ひて曰はく、「汝の国は数(あまた)戦ふ国也。必ず戦術を知らむ、今如何」と。一人進み奏して言ふ、「厥(それ)唐国は先に覩者(ものみ)を遣し、以て地形の陰平及び消息を視さしむ。出師の方、或は夜襲、或は昼撃す。但し深き術は知らず」といふ。
 そして、壬申の乱直前の六七二年五月記事から、郭務悰は九州にいたことがわかるから、天武は九州に行ったことになる。
◆『書紀』天武元年(六七二)春三月己酉(一八日)に、內小七位阿曇連稻敷を筑紫に遣し、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。五月壬寅(一二日)に、甲冑弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。
 『書紀』で天武が近江から逃れたのは奈良吉野のように書かれているが、九州佐賀には吉野ケ里に代表される「吉野」があった(注7)。実際に天武が行ったのは佐賀吉野であり、その目的は「唐」と「都督薩夜麻」の支援を得るためだったと考えられる。この支援を背景に諸豪族を糾合した天武は、近江朝を倒し、「ヤマトの天皇家(『旧唐書』にいう「日本国」)の天皇」に即位し、一方の九州王朝の薩夜麻は、都督であるとともに羈縻政策にもとづく「倭国王」に復位した。これで白村江の敗戦で一時断絶しかかった九州王朝は、継続したことになる。
 天武の和風諡号に、臣下の最上位の称号の「真人」があることから(*天渟中原瀛眞人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇)、天武は、形式的には羈縻政策上の「都督・倭国王」の薩夜麻の臣下にあたるが、実質上は倭国の全権を掌握することとなった。

6、自ら倭国(九州王朝)滅亡を招いた「亡国の天子」薩夜麻

 薩夜麻は唐の庇護の下で復位はしたが、もはや薩夜麻の倭国(九州王朝)には、白村江以前のような力はなく、ヤマトの天武・持統・文武の時代を経るにつれて衰退していき、七〇一年には文武が大宝律令を制定し、大宝年号を建元する。そして、七〇三年の「唐(当時は周)」の武則天(則天武后)の大和朝廷(日本国)の承認により、我が国の代表の座を「大和朝廷」に明け渡すことになる。すなわち、我が国に「王朝交代」がおきたのだ。
 かくして、五七年に光武帝から金印を下賜されて以来、連綿と続いてきた倭国(九州王朝)は消滅し、薩夜麻は「最後の天子(王)」となった。思い返せば、既に崩壊した百済の回復のために、無謀な海外派兵を敢行した薩夜麻自らが招いた「倭国(九州王朝)の悲劇的結末」と言える。

(注1)「封禅の儀」とは、中国で皇帝(天子)が天と地に即位を知らせ、天下が治まったことを感謝する儀式。秦の始皇帝が紀元前二一九年に泰山(山東省泰安市にある山)で挙行。前漢の武帝、後漢の光武帝、隋の文帝なども挙行している。

(注2)『旧唐書』には、
◆倭国は古の「倭奴国(ゐどこく)」なり。京師(*長安)を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五〇余国、皆付属す。(略)その王の姓は阿毎(あま)氏。一大率を置き、諸国を検察す。皆、之を畏附す。」とある。「倭奴国」は紀元五七年に「志賀島の金印」を下賜された九州の国で、三世紀俾弥呼の邪馬壹国は、筑紫伊都国に「一大率」を置いた。また、「阿毎氏」は、『隋書』に「国に阿蘇山有り」と書かれた、日出る処の天子を自称し、隋に国書を送った阿毎多利思北孤の姓。従って「倭国」は紀元一世紀~七世紀まで続いた、九州を本拠とした王朝「九州王朝」と考えられる。

(注3)『書紀』天智三年(六六四)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物を進る。

(注4)「近江遷都」は、『書紀』では天智六年(六六七)三月、『海東諸国紀』では斉明七年(六六一)、九州年号の白鳳元年と記されている。
 また「壬申の乱」記事で、「其れ近江朝には、左右の大臣、及び智謀(かしこ)き群臣、共に議を定む。今朕、与(とも)に事を計る者なし。」とあり、有力官僚は近江で天智のもと政務を執っていたことがわかる。

(注5)「称制」とは、天子は存在するが、何らかの事情で政務を執ることが出来ない場合に代わって政務を執ること。

(注6)天智即位と壬申の乱、倭国(九州王朝)から大和朝廷への王朝交代などの経緯は『倭国古伝―姫と英雄と神々の古代史』(古田史学論集二二集。明石書店、二〇一九年三月)の拙論「大宮姫と倭姫王・薩摩姫」に詳しい。

(注7)吉野山(佐賀市三瀬村藤原字吉野山)・吉野(佐賀市兵庫町)ほか。


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』 第二十三集

ホームページへ


制作 古田史学の会