『古代に真実を求めて -- 「日本書紀」に息づく九州王朝 第二十三集


【巻頭言】

「日本書紀」に息づく九州王朝

古田史学の会・代表 古賀達也

 養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂され、令和二年(二〇二〇)で千三百年を迎える。それに先立つ和銅五年(七一二)に成立した『古事記』とともに、わが国において『日本書紀』は最も多くの読者を得た歴史書と言ってもよいであろう。早くは大和朝廷が養老五年に「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」と呼ばれる『日本書紀』の講義を催し、平安時代前期にはほぼ三十年毎六度に及ぶ講義が行われたことが諸史料(『釈日本紀』『本朝書籍目録』)に見える。「日本紀私記」と呼ばれるその講義〝テキスト〟も四編ほど現存しており、その一端をうかがい知ることができる。
 他方、江戸時代後期に至り、本居宣長が名著『古事記伝』を著し、一躍『古事記』が脚光を浴びる。こうして、『古事記』『日本書紀』は史書という史料性格を超え、日本の国柄(国体)や日本人の思想(国学)を形作る原典とされるに至った。戦後実証史学でも、『日本書紀』の基本的歴史観である近畿天皇家一元史観、すなわち神代の昔から近畿天皇家が日本列島で唯一の卓越した権力者であったとする歴史認識の大枠は揺らぐことはなかった。
 考古学においても、『日本書紀』の記述を根拠とした歴史編年を「是(ぜ)」として、出土土器などの相対編年をその暦年記事にリンクさせてきた。さらには、多くの文化・文物が大和朝廷で最も早く受容され、あるいは発生し、その後、日本列島各地に伝播したとする文化観・編年観が日本古代史学の主流を占めたのである。
 このように『古事記』『日本書紀』は編纂以来千三百年の永きにわたり、篤く遇されてきた。しかしその果てに形作られた古代史像は、古田武彦氏(一九二六~二〇一五)が提唱された多元史観・九州王朝説から見える景色とは大きく異なる。
 両書は、それまでの日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)に替わり、八世紀初頭(七〇一年)の王朝交替により第一権力者となった大和朝廷(日本国)による自らの正統性宣揚のための史書である以上、その主張の真偽は学問的検証の対象であること、論を待たない。ところが、この史書編纂の動機や記述内容そのもの全てをまずは疑うという学問上の基本手続きがこの千三百年間、必要にして充分に行われてきたとは言い難い。とりわけ、大和朝廷が自らと共通の祖先(天照大神ら)を持つ前王朝(九州王朝)の存在を秘しているという疑いなど微塵も抱くことなく、わが国の古代史学は真面目かつ無意識に『古事記』『日本書紀』の基本フレーム(近畿天皇家一元史観)を採用し、今日に至っている。
 古田武彦氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社、一九七三年刊。ミネルヴァ書房より復刻)において、大和朝廷に先だって九州王朝が日本列島の代表王朝として存在し、中国史書に見える「倭国」とは大和朝廷ではなく九州王朝のこととする多元的歴史観(多元史観)・九州王朝説を提唱された。たとえばその史料根拠として、『旧唐書』に別国として表記された「倭国伝」(九州王朝)「日本国伝」(大和朝廷)を提示された。

 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世、中国と通ず。その国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為(つく)る。四面に小島、五十余国あり、皆これに附属す。
 その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。(後略)」〔『旧唐書』倭国伝〕

 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名を雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多くは自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国これを疑う。またいう、その国の界、東西南北、各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。(中略)
 貞元二十年(八〇四)、使を遣わして来朝す。学生橘逸勢、学問僧空海を留む。(後略)」〔『旧唐書』日本国伝〕

 わたしたちは古田説に基づき、『古事記』『日本書紀』の中に九州王朝(倭国)の痕跡が残されているはずと考え、九州王朝説の視点から両書の史料批判を進め、多元的な古代史像復元を試みてきた。その現在の到達点を書き留めたものが本書である。千三百年続いた近畿天皇家一元史観を超え、多元史観の頂上(いただき)から見える景色を読者と共有し、日本古代史の奥底(おうてい)を学問の光で照らしたいと願っている。
 それとともに、『古事記』『日本書紀』の編纂に携わった大和朝廷の史官たちに、わたしは畏敬と感謝の念を捧げたいと思う。彼らが両書を遺し、その中に九州王朝の痕跡を留めおいてくれなかったら、九州王朝研究は今日見るような成果を得ることは望むべくもなかっであろう。
 たとえば『日本書紀』中の三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」をそれぞれ「改元」と記していることなども、『続日本紀』に見える大和朝廷最初の年号「大宝建元(七〇一年)」とは別王朝の年号であることを示唆しており、そのことを隠してもいない。見る人が見れば、『日本書紀』中の最初の年号「大化」が王朝最初の年号制定を意味する「建元」ではなく、別王朝による「改元」記事であるとわかるように記しているからだ。おそらくは、滅亡した九州王朝官僚の幾人かが大和朝廷内で史官の地位を得て、『日本書紀』編纂に加わったのではないか。わたしはそのように考えている。失われた九州王朝の痕跡を彼らは『日本書紀』の記事中に配し、その〝再発見〟を後世の歴史家に託したのではあるまいか。
 その願いは古田武彦氏により叶えられ、『古事記』『日本書紀』は千三百年の孤独の日々を終えた。本書のタイトル〝「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝〟は、前王朝を秘したことを誰からも気づかれることなく千三百年の歳月を経た両書の運命と、九州王朝の存在を世に出された古田武彦氏の偉業を表現したものである(南米チリのノーベル賞作家、ガルシア・マルケスの名作『百年の孤独』に発想を得た)。
 読者が本書を手に取り、新たなページを開くとき、それは令和の世に「新・日本紀講筵」が開講されたことを意味する。千三百年後のその日のために、わたしたちは本書を上梓したのである。

 (令和元年十二月一日、筆了)


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