『古代に真実を求めて』 第二十三集

 


「大化」「白雉」「朱鳥」を改元した王朝

古賀達也

一、はじめに

 『日本書紀』には「大化」「白雉」「朱鳥」という三つの年号が記されています。その年次は次のようです。
 ○「大化」 六四五~六四九年(孝徳紀)
 ○「白雉」 六五〇~六五九年(孝徳紀)
 ○「朱鳥」 六八六年(天武紀)
 このように、孝徳天皇の治世十年間に突然のように「大化」と「白雉」が五年ずつ続き、その後は年号がなく、天武天皇の末年に「朱鳥」が一年間だけ現れています。年号は連続して続き、それにより暦年が示されるというものですから、『日本書紀』に見えるこれら三年号は、年号の持つ本来の役割を果たしていません。
 他方、六世紀から八世紀初頭にかけて連続した年号の一群があることが諸史料に散見され、それを江戸時代の学者、鶴峯戊申は「九州年号」あるいは「西国年号」と呼んでいます(注①)。古田武彦氏やわたしの「九州年号」復元研究によれば次のようです(注②)。

「九州年号」一覧(『二中歴』所収「年代歴」に準拠し、古賀が作成)
 継躰 五一七~五二一年、  善記 五二二~五二五年、
 正和 五二六~五三〇年、  教到 五三一~五三五年、
 僧聴 五三六~五四〇年、  明要 五四一~五五一年、
 貴楽 五五二~五五三年、  法清 五五四~五五七年、
 兄弟 五五八年、      蔵和 五五九~五六三年、
 師安 五六四~五六四年、  和僧 五六五~五六九年、
 金光 五七〇~五七五年、  賢称 五七六~五八〇年、
 鏡當 五八一~五八四年、  勝照 五八五~五八八年、
 端政 五八九~五九三年、  告貴 五九四~六〇〇年、
 願轉 六〇一~六〇四年、  光元 六〇五~六一〇年、
 定居 六一一~六一七年、  倭京 六一八~六二二年、
 仁王 六二三~六三四年、  僧要 六三五~六三九年、
 命長 六四〇~六四六年、  常色 六四七~六五一年、
※白雉 六五二~六六〇年、  白鳳 六六一~六八三年、
 朱雀 六八四~六八五年、 ※朱鳥 六八六~六九四年、
※大化 六九五~七〇三年、  大長 七〇四~七一二年

 この九州年号(倭国年号)の中に、『日本書紀』の三年号「大化」「白雉」「朱鳥」(※印)があります。これら九州年号は、『旧唐書』倭国伝に見える「倭国」(九州王朝)の年号なのです(注③)。そこで、本稿では『日本書紀』の三年号が九州年号からの転用であることを論じました。

 

二、「大化改元」と「大宝建元」の王朝

 わが国の年号研究の第一人者である所功さんは、わが国の最初の年号について次のように解説されています。
 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣第三章、五四頁)
 すなわち大和朝廷最初の年号を「大化」建元とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。
 「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」『日本年号史大事典』(一二七頁)
 この解説では、『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」とされています。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、それとも改元なのでしょうか。
 「建元」とは、ある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます(より正確に言えば、中国では前王朝からの「禅譲」を受けたとする次王朝の最初の年号制定は「改元」と表現されます)。日本国(近畿天皇家の王朝)でいえば、「建元」は『続日本紀』に記された「大宝」元年(七〇一)であり、以後、現在の「令和」まで「改元」が繰り返されています。

 「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ。」『続日本紀』大宝元年三月甲午条

 他方、『日本書紀』に見える次の二ヶ所の「大化」年号制定記事は、いずれも「建元」ではなく、「改めて」「改元」と表記されています。すなわち「大化」は「改元」とされ、「建元」ではないのです。

 「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする」『日本書紀』孝徳天皇即位前紀
 「皇后(皇極天皇)、天皇位に即(つ)く。改元す。四年六月に天萬豊日天皇(孝徳天皇)に讓位し、天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊と稱す。」『日本書紀』斉明天皇即位前期

 近畿天皇家は自らの史書で「大化」は「改元」であり、最初の年号(建元)は「大宝」と主張しているのです。従って、『日本書紀』に「改元」と記された「大化」は、みずからの年号ではないことを示唆しています。このことから『日本書紀』の「大化」(元年は六四五年)は九州年号の「大化」(元年は六九五年)を五十年ずらして『日本書紀』編者により転用されたと考えられます。

 

三、カット&ペーストされた「白雉改元」記事

 九州年号研究において、『日本書紀』の「白雉」と九州年号の「白雉」に二年のズレがあることが知られていました。その理由について、古田学派内で論争もありました。ところが、一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」木簡(『木簡研究』第十九号、一九九七年によれば「(白雉)三年壬子」の年とする)が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明しました(注④)。この「元壬子年」木簡により、「白雉元年」を庚戌(六五〇)の年とする『日本書紀』ではなく、『二中歴』や『海東諸国紀』に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(六五二年)」が歴史的事実であることが判明しました。すなわち『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。
 一度(ひとたび)こうした認識に立てば、次いで問題とされるべきは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(六五〇)二月条に記述された「白雉改元」記事の信憑性です。九州年号の実在が真実であれば、同時期に大和朝廷が二年ずらして同じ「白雉」年号に改元することなど、およそ考えられません。従って、『日本書紀』の「白雉」が九州年号からの転用であると考えざるを得ません。
 そうすると、転用したのは「白雉」の年号だけではなく、白雉改元記事そのものも九州王朝史料からの転用と考えざるを得ません。たとえば、同記事中には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見えます。他方、応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されていますが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝史料からの転用の痕跡といえそうです。
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事は、『日本書紀』編者による九州王朝史料からの転用(カット&ペースト)である可能性は高いのですが、孝徳紀を精査したところ、同記事転用の痕跡がまた一つ明かとなりました。
 『日本書紀』の「白雉」と九州年号の「白雉」に二年のズレがあることは既に述べた通りですが、それであれば九州王朝による白雉改元(六五二年)記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければなりません。ところが、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事があるのです。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明です。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわかりません。岩波書店『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか」と、いくつかの説を記しているほどです。
 この点、私は次のように考えます。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その本来存在していたはずの二月条はカットされた。そして、そのカットされた二月条こそ、孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事と思われます。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事を「カット&ペースト」した痕跡だったのです。このように、白雉改元記事も九州王朝史料からの、二年ずらしての転用だったのです(注⑤)。

 

四、「朱鳥改元」記事孤立の謎

 『日本書紀』に現れる三年号中、もっとも不自然な記述が天武朱鳥元年七月条に見える次の朱鳥改元記事です。

 「戊午(二十日)、改元して朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利あかみとりといふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)と曰ふ。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年七月条(六八六)※〈〉内は細注。

 天武の末年(十五年)七月に突然何の説明もなく朱鳥に改元し、その年の九月九日に天武は没しています。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっています。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、両年号が孝徳天皇の在位期間と一致しており、つじつまはあっているのですが、朱鳥は天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのです。
 まだ不思議な事はあります。朱鳥にのみ「阿訶美苔利(あかみとり)」と和訓が施されていることです。年号に和訓とは何とも奇妙です。もちろん、大化・白雉にはありません。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としていますが、これもおかしなことです。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからです。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけですが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われません。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが『日本書紀』に見えます。

「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」『日本書紀』天武元年是歳条(六七二)

 天武元年から末年までの十四年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられません。このように朱鳥改元記事はかなり不自然不明瞭な記事なのです。
 『日本書紀』の三年号が九州年号からの転用であったことは、すでに古田氏が述べて来られた通りですが、そうした視点から『日本書紀』の三年号を見たとき、その転用のされ方がそれぞれ異なっていることに気づきます。『二中歴』所収の九州年号と比較すると、大化元年乙未(六九五)から孝徳天皇元年乙巳(六四五)へと五十年も繰り上げられており、これは、本来七世紀末の事件であった「大化の改新」記事を孝徳紀へ持ち込むための政治的改変であることを古田武彦氏が指摘されています(注⑥)。 次いで、白雉元年壬子(六五二)は、『日本書紀』では大化五年の翌年(庚戌、六五〇)に元年が移動され、その後五年間続いており、孝徳の在位年間と共に終了します。この点、天皇の在位期間と大化・白雉年号が一致するよう転用されています。なお、『二中歴』の白雉は六五二年から六六〇年まで九年間続いています。
 このように、大化・白雉に関しては元年や継続年を移動して転用されていますが、朱鳥のみは元年が「九州年号」史料と『日本書紀』が共に六八六年と一致しているのです。しかし、朱鳥は天皇の即位年と一致しているわけではなく、天武没年の一年限りの存在です。『二中歴』では六八六年から六九四年まで九年間朱鳥が続いていますが、『日本書紀』では翌年は持統元年となります。『日本書紀』編者は何故朱鳥のみ、このような転用の仕方をしたのでしょうか。より常識的に転用するのであれば、それこそ一年遅らせて、持統元年を朱鳥元年としてもよかったはずです。大化を五十年、白雉を二年ずらして転用したぐらいですから、一年ずらして持統天皇の即位年にあわせることぐらい簡単にできたはずです(注⑦)。
 ちなみに、近畿天皇家による七〇一年の大宝年号建元から、『日本書紀』成立の養老四年(七二〇)までの間、慶雲(七〇四)・和銅(七〇八)・霊亀(七一五)・養老(七一七)と改元されており、いずれも各天皇の即位年かその翌年に改元がなされています。したがって、『日本書紀』編者が朱鳥を九州年号から転用するのであれば、編纂当時の実際の改元と同様に、持統の即位年にその位置をずらして転用するのが、常識的と思われます。
 かつて、九州年号原形論争において、朱鳥は九州年号ではないとする説がありました(注⑧)。その主たる理由の一つとして、『二中歴』以外の九州年号群史料の多くは、朱鳥をもたないことが上げられていましたが、本稿の帰結から見れば、『日本書紀』の三年号中、朱鳥が最も不自然な位置と記述をもつという史料事実こそ、逆に実在の根拠と考えられるのです。なぜなら『日本書紀』編者の捏造であれば、それこそ天皇の在位期間や即位年に元年を位置づけるなど、もっとそれらしく捏造したはずだからです。しかし、そうはしていません。なお、筆者は金石文の存在から朱鳥年号の実在を論じたことがありますが(注⑨)、『日本書紀』朱鳥改元記事の分析においても同様の結論を得たわけです。
 それではなぜ『日本書紀』編者は、朱鳥を大化・白雉と同様に天皇の即位・在位期間にあわせて転用せず、九州年号「朱鳥」の本来の位置(六八六年)、すなわち天武の末年という不自然な位置にそのまま記したのでしょうか。うっかり朱鳥のみを正しく転用したとは思われません。やはり、そうせざるを得ない政治的理由があったため、あえて不自然な位置のまま朱鳥改元記事を転用したのではないでしょうか。その理由として、朱鳥改元記事の前日(七月十九日)の次の「徳政令」記事が注目されます。

 「丁巳(十九日)に、詔して曰はく、『天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」『日本書紀』朱鳥元年(六八六)七月十九日条

 このように前年以前の「借金」の元本返済を免除する詔勅が出されており、その翌日に朱鳥改元がなされているのです。しかも、この「朱鳥元年の徳政令」には続きがあります。翌、持統元年七月条の次の記事です。

 「秋七月の癸亥の朔甲子に、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役へらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」『日本書紀』持統元年(六八七)秋七月二日条

 このように、「利息」についても免除する詔勅が続いて出されているのです。これら一連の「徳政令」にこそ、『日本書紀』に朱鳥年号を正しくその位置に転用せざるを得なかった理由が隠されているのではないでしょうか。
 というのも、朱鳥元年と翌年に出された詔勅は九州王朝と九州年号が健在だった当時であれば、「朱鳥」年号付き文書で通達されたと考えざるをえません。とすれば、それら朱鳥の「徳政令」通達は各豪族や評督など負債をかかえている者にとっては、貴重な「借金」免除の「証文」であったこと、これを疑えません。従って、近畿天皇家にとって、この「朱鳥の徳政令」を引き続き認めるのか、認めないのかは重要な政治的判断であったと思われ、結果として近畿天皇家は『日本書紀』に「朱鳥の徳政令」を正しく記入することで、それら「証文」の有効性を公認したのです。この場合、両詔勅を記した「徳政令」通達文書中には、おそらく「朱鳥元年」「朱鳥二年」という発行年次や「乙酉以前」という免除年次が記入されていたはずですから、『日本書紀』にも乙酉の翌年である六八六年に正しく朱鳥元年記事を置かざるを得ないという、動かすべからざる事情が、まだ政権基盤が弱い新王朝にはあったのではないでしょうか。

 

五、隠された王朝と隠さなかった年号

 日本古代史上最大の事件が七〇一年(大宝元年)に起こった、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替です。大和朝廷以前の日本列島の代表王朝倭国(九州王朝)が存在したことを古田武彦氏は『失われた九州王朝』(注⑩)で明らかにされました。この九州王朝の存在は大和朝廷の史書『古事記』『日本書紀』では消し去られたのですが、九州王朝の年号「九州年号」のうち、三年号「大化」「白雉」「朱鳥」だけはなぜか『日本書紀』に転用されました。本稿では、この転用の痕跡とその事情について明らかにしました。
 たとえば、「大化」は五十年遡らせて、七世紀末に行われた王朝交替の準備ともいえる一連の「大化改新詔」を、七世紀中頃の大和朝廷による政治改新事業と見えるように転用しました。「朱鳥」は元年(六八六)のみ転用し、その前後に実施された九州王朝による「徳政令」を追認しました。そして、「白雉」転用の理由も、今のわたしには明らかにすることができます。
 この十年間に及ぶ「前期難波宮九州王朝複都説」研究の進展により、大阪市上町台地から出土した列島最大の巨大宮殿、前期難波宮(難波京)が九州王朝の複都であったことが明確となりました。このことにより、七世紀中頃に列島を評制支配した九州王朝の宮殿「前期難波宮」とそこで執り行われた大規模な白雉改元の儀式を、大和朝廷は自らの事績としたかったことがわかったのです。ですから『日本書紀』に前王朝の「白雉」改元の儀式を二年ずらして転用するという大胆な歴史改変を行ったのです。
 その儀式には百済などの朝鮮半島からの使者も列席しており、おそらく近畿天皇家の孝徳らも九州王朝配下の有力者として参列したことでしょう。そうでなければ、あれほどの詳細な改元の儀式の様子を『日本書紀』に記すことはできなかったはずです。この海外の要人を招いて行われた白雉改元の儀式を、国民や諸外国の手前、新王朝(大和朝廷)はどうしても自らのこととしたかったのです。ちなみに、「大化」「朱鳥」については改元の儀式のことは全く記されていません。
 このように『日本書紀』に九州王朝の年号が転用されたことにより、わたしたちは九州王朝史の一端を知ることができました。『日本書紀』編纂時に九州王朝系史料が参照され転用されていることについても古田武彦氏は指摘されてきましたが、おそらく九州王朝の元歴史官僚たちも編纂に参画したのではないでしょうか。その九州王朝の史官たちは、九州王朝の片鱗を意図的に『日本書紀』に取り込み、後世の人々に〝隠された九州王朝〟の存在を伝えたかったのではないかと、わたしは推察しています。
(令和元年[二〇一九]十一月十七日、記了)

 

(注)

①宇佐八幡宮文書の『八幡宇佐宮繋三全』(天明四年、一八二〇年成立)では、九州年号を〝筑紫〟の年号とする説明がなされています。
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)を参照下さい。

②九州年号研究については『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店、二〇一八年)を参照ください。

③『旧唐書』東夷伝には「倭国伝」と「日本国伝」があり、両者は別国として表記されています。倭国は九州王朝であり、日本国は大和朝廷であることが、その記事の内容から判明しています(古田武彦説)。

④古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』七四号所収、二〇〇六年六月六日。

⑤古賀達也「白雉改元の史料批判」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)を参照ください。

⑥古田武彦・渋谷雅男『日本書紀を批判する ー記紀成立の真相』新泉社、一九九四年。

⑦『万葉集』左注に見える朱鳥は、元年が『日本書紀』の持統元年と一致しているものがあります。『高良山隆慶上人伝』にも、干支が一年ずれた「朱鳥元年丁亥」という表記があります。干支の一年のずれ問題については、古賀達也「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)を参照ください。

⑧丸山晋司『古代逸年号の謎 ー古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、一九九二年。

⑨古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)

⑩古田武彦『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』朝日新聞社、一九七三年。二〇一〇年、ミネルヴァ書房から復刊。


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