解説You Tube講演「聖徳太子」は天然痘で薨去した-- 倭国の対外戦争と疫病正木裕
一般論文
正木 裕
二〇二〇年の年明け以来世界を席巻している新型コ ロナウイルス禍では、一億人以上が罹患し、二百万人 以上の命が奪われ、政治・経済や医療・福祉・教育・ 文化活動にとっても未曾有の災害となっている。ただ、十八世紀までの世界は、これを上回る疫病の脅威 に晒されていた。それは天然痘だ。
「天然痘」は「疱瘡ほうそう」とも呼ばれ、高熱を発し、強い疼痛や灼熱感を伴い、二十%〜五十%の高い致死率を示す。また死に至らずとも、顔や体に重篤な痘跡あばたを残す、人類にとってもっとも悪質な疫病で、一七九六年にジェンナーが種痘を始める前までは、世界中で常に発生・流行し、毎年のように約二千万人が罹患し、約四百万人程度が死亡していた。
天然痘は紀元前数千年から人類を脅かしており、最も古い天然痘の記録はヒッタイトのムルシリ二世(在位、紀元前一三二二年〜紀元前一二九五年)の記した年代記だ。同書によると、紀元前一三五〇年のヒッタイトとエジプトの戦争に際し、エジプトの囚人達が天然痘をヒッタイト人に広め、ヒッタイト王シュッピルリウマ一世(同一三五五年〜一三二二年)と、その息子のアルヌワダ二世(〜紀元前一三一八年)の命を奪ったとされる。
また、エジプト王朝のラムセス五世(〜紀元前一一四一年)のミイラに天然痘(*水痘説も)の痘痕が認められるとされ、紀元後においてもギリシャやローマ帝国で繰り返し流行し多くの人命を奪った。(注1)
そして、天然痘は中東から西域を経由し、中国には四七六年に伝わり、「南斉(四七九〜五〇二)」には、四九五年の「北魏(三八六〜五三四)」との交戦により流入したとする。(注2) 『隋書』には北斉(五五〇〜五七七)の武平初年(五七〇)記事に熱病を発し、体に遍く瘡かさを生じ、哀泣すること絶えずとあることから、このころ天然痘の流行が伺われる。そして六世紀前半には、南北朝それぞれから冊封を受けていた高句麗を通じ朝鮮半島でも流行することになる。
そして我が国でも、『書紀』の欽明(在位五三九〜五七一)・敏達(同五七二〜五八五)・用明(五八五〜五八七)の各紀には、度々天然痘と見られる疫病の蔓延が記されている。九州王朝説の立場では、当時、九州の勢力が半島深く高句麗まで進攻しており、捕囚とみられる高句麗人も渡来しているため、その際半島を通じて天然痘が持ち込まれたと考えられる。
六世紀の天然痘の流行については、次章で述べるが、我が国で最も知られている天然痘の流行とその被害は、天平七年(七三五)〜天平九年(七三七)にかけての、平城京における大流行で、「藤原四兄弟(房前・麻呂・武智麻呂・宇合)」など大和朝廷の政務を支える重要人物が次々と逝去したことだ。その結果、藤原氏の勢力は大きく後退することになる。
この天然痘の大流行は九州・太宰府から始まった。天平七年(七三五)二月から八月にかけて、唐や新羅から使節が来訪し、かつ太宰府管内で天然痘が大流行しているにもかかわらず、薩摩・大隅の隼人が朝貢、朝廷は四百名近くを大極殿に招き、舞楽を奏し冠位を与えるといった儀典が挙行されている。
◆『続日本紀』◆天平七年(七三五)二月癸卯(十七日)に、新羅の使金相貞等入京す。三月、丙寅 (十日)入唐大使にっとうかいし多治比真人廣成等、唐国自り至る。
五月庚申(五日)。入唐迴使及び唐人、唐国・新羅の樂を奏して挊槍ほことる。壬戌(七日)に、入唐使、 請益秦大麻呂が問答六卷を献る。戊寅(二十三日)。「廼者このところ、災異頻しきりに興おこりて、咎徵きうちよう仍なほ見あらわる。戦々恐々として、責め予われに在り。」
秋七月己卯(二十六日)に、大隅、薩摩二国の隼人二百九十六人、入朝し、調物みつきものを貢たてまつる。
八月辛卯(八日)に、天皇、大極殿に御す。大隅、薩摩二国の隼人等、方楽を奏る。壬辰(九日)に、 二国の隼人三百八十二人に爵并せて祿を賜ふこ と、各差しな有り。
そのころ、太宰府から、管内では多数の民が天然痘で命を落としているとの報告があり、朝廷が貢調の停止等の救済を命じ、かつ長門から東の国司らに、厄災が都に入らないことを祈念する「道饗祭みちあへのまつり(注3)」を実施せよとの命を下している。
◆天平七年(七三五)八月乙未(十二日)に、敕みことのりして曰はく、「如聞きくならく『比日このころ、大宰府に疫えやみして、死ぬる者多し。』ときく。疫氣えききを救い療いやして、以て民の命を濟すくはむと思欲おもふ」とのたまふ。(*救済策略)
又、其の長門より以還このかたの諸国の守、若くは介、專ら斎戒し、道饗祭を祀まつれ。丙午(二十三日)に、大宰府言さく、「管內の諸国に、疫瘡えきそう大きに発おこり、百姓悉く臥しぬ。今年の間、貢調を停めまく欲す」 とまうす。これを許す。
流行地の九州から多数を招へいし、祭事を実施しているのだから、天然痘が蔓延しないはずはなく、この年に新田部親王(天武の第七子)・正四位上賀茂朝臣比賣(聖武の外祖父)・舍人親王(天武の第三子)・従四位下高田王らが薨るなど、四位(長官級)以上三十三人中十一人が死去する事態を招いている。
天然痘は一旦は下火になるかと見えたが、天平九年(七三七)に再び猛威を振るい、ついに政権の中枢を担っていた「藤原四兄弟」が天然痘に斃れることになる。
まず、四月に藤原房前(ふささき 不比等の第二子)が没する。
◆天平九年(七三七)四月十七日。參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨みまかる。送るに大臣の葬儀を以てせむを、其の家、固く辞いなびて受けず。十九日、大宰管內の諸国、疫瘡えきそう時行はやりて、百姓多く死ぬ。
新型コロナウイルス禍で臨終に面会もできず、葬儀もあげられなかったという経験に照らすと、「葬儀を辞退する」のは、大臣の『位』での葬儀を断ったのではなく、天然痘の感染を恐れて葬儀そのものをしなかったのだと思われる。
六月には藤原麻呂(不比等の第四子)が没する。この時「朝議」も停止された。主要官僚が殆ど罹患し、感染防止を考えると朝議どころではなくなったのだろう。
◆同六月。參議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂死す。甲辰の朔、朝を廃む。百官の官人疫やまひに患わずらへるを以てなり。(*散位従四位下大宅大国・大宰大貳従四位下小野朝臣老・散位正四位下長田王・中納言正三位多治比真人縣守・散位従四位下大野王・散位従四位下百濟王郎虞が次々薨る。)
そして七月には右大臣藤原武智麻呂(不比等の第一子)、八月には參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合(うまかい 不比等の第三子)が没し、これで四兄弟全てがいなくなった。これにより、藤原氏の勢力は大きく後退し 政権の中枢は橘諸兄・吉備真備・玄昉等に遷っていくが、同時に天平十二年(七四〇)の藤原広嗣の乱の勃発や度々の遷都により政情は不安定なものとなる。
天然痘の死亡率は五十%で、四位以上三十三人の内で没したのは十一人だから、藤原四兄弟の内、一〜二名は生き残ってしかるべきだ。ところが、全員没したことで、四兄弟の死は、七二九年に兄弟により死に追いこまれた「長屋王」(天武の孫で高市皇子の長男)の祟りとされた。長屋王討伐に勅許を与えた聖武天皇は、
祟りを恐れ天平十三年(七四一)に国分寺建立の詔を、天平十五年(七四三)に東大寺盧舎那仏像造立の詔を出すなど、仏教に深く帰依していく。
このように、天然痘の流行は八世紀の我が国の政治を大きく変えたが、実は、我が国では、その一五〇年ほど前の六世紀・中後半の欽明(在位五三九〜五七一)・敏達(五七二〜五八五)・用明(五八五〜五八七)期にも「天然痘」が猖獗を極めていたことが、『書紀』に記されている。
欽明十三年(五五二)には、百済聖明王から仏像・ 仏具・経典にあわせ、仏教の功徳と崇拝を進める書簡が齎される。
◆『書紀』欽明十三年(五五二)冬十月、百濟聖明王、更の名は聖王、西部姬氏達率怒唎斯致契せいほうきしだちそちぬりしちけい等を遣して、釈迦仏金銅像一軀はしら・幡蓋はたきぬがさ 若干・経論若干卷を獻る。別に表ふみして、流通し礼拝する功德を讚ほめて云ふ(略)
この時、欽明は、仏教を受容するか否かについて朝議にかける。蘇我大臣稲目は受容を勧め、物部大連尾輿おこし・中臣連鎌子は受容に反対し、その結果稲目一人に礼拝させることとなるが、こうした中で天然痘の勢いが増してくる。
◆欽明十三年(五五二)十月。(*稲目が仏教を受容して)後に、国に疫氣えきやみ行おこりて、民、 夭殘あからしまにしぬることを致す。久して 愈いよいよ多し、治療すること能はず。
尾輿らはこれを仏教を受容した結果だと奏上し、欽明もこれを認めたため、仏像を難波の堀江に流し寺を焼くなどの「排仏」行為を行う。
その後も流行は止まなかったことが、九州年号資料 の『善光寺縁起』の「金光元年(五七〇)庚寅歳天下 皆熱病」といった記事などからわかる。
そして、敏達十四年(五八五)には蘇我馬子・敏達天皇・物部守屋ら政権中枢が天然痘に罹患し、再び仏教の是非をめぐる争いに発展する。
◆『書紀』敏達十四年(五八五)二月辛亥(二十四日)蘇我大臣(馬子)患疾やまひす。(*卜部の「父稲目の 祭った仏神の心の祟り」との占状をうけ敏達が「亡父稲目の神を祀れ」と詔を発する。馬子は石仏を造り崇拝する)是の時に、国に疫疾えきやみ行おこりて、民死ぬる者衆おほし。
そして、翌三月朔日に、守屋は「欽明〜敏達まで疫疾が流行するのは蘇我氏の神(仏教)による」と奏上、敏達は「仏教をやめよ」と詔を発す。守屋は再び仏像・仏典を焼き、難波の堀江に捨て、尼を捉え罰するなどの廃仏をおこなう。しかし敏達と守屋も天然痘に罹患し、巷間「仏罰」と噂される。
◆敏達と守屋と卒にはかに瘡かさ患みたまふ。…又瘡発でて死みまかる者、国に充盈みてり。其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧くだかれるが如し』といひて、啼泣いさちつつ死る(*天然痘の症状)。老少窃に相語 りて曰さく「これ、仏像焼きまつる罪か」といふ。
「仏罰」といわれる中で、敏達は馬子一人に仏教崇拝を許すが、八月十五日に至り崩御することになる。 そして、敏達に続き用明も用明二年(五八七)四月二日に天然痘に罹患し、「三宝に帰依」し回復を願うも九日に崩御する。
このように六世紀中・後半に天然痘が大流行し、敏 達・用明両天皇が相次いで崩御することとなるが、その原因は「九州勢力の半島遠征」にあった。
六世紀の中国では、南朝梁(五〇二〜五五七)の滅亡、陳(五五七〜五八九)・後梁(五五四〜五八七)・北斉 (五五〇〜五七七)・北周(五五六〜五八一)などが乱立し抗争する。その結果、中国の干渉の弱まった朝鮮半島で、高句麗・百済・新羅が覇を競って互いに合従・抗争を繰り広げることになる。そして、半島南部に「任那諸国」といわれる領国を有していた「倭国」は、いやおうなしに、この抗争に巻き込まれ、半島深くまで出兵していく。
『書紀』欽明紀では、我が国の名に「倭・日本」の呼称が併記され、半島出兵関係記事では主に「日本」を用い、いずれも「ヤマト」と読み「ヤマトの王家(天皇家)」の事績のように書かれている。しかし、『書紀』記事を詳細に見ていけば、半島に出兵し戦った『書紀』 に「倭国・日本」とあるのは「九州・筑紫の勢力」だったことが分かる。
高句麗は欽明七年(五四六)の陽原王即位以降南進し百済・新羅を脅す。これに対し百済聖明王は、欽明十二年(五五一)に新羅と共に高句麗を討つが、新羅は欽明十四年(五五三)に、高句麗と結んで百済を攻める。そして倭国は百済を支援し、半島に度々大軍を派遣し高句麗・新羅と戦うが、『書紀』に記す半島での戦で記録されるのは「筑紫」の勢力だ。
まず 欽明十五年(五五四)には、百済の要請を受け、
対新羅戦支援のため「筑紫の内臣」が「助けの軍の数一千・馬一百匹・船四十隻」の舟師ふないくさを率いて出兵する。
◆欽明十五年(五五四)正月。(百済の使節諮す)「方まさに、畏き天皇の詔を奉りて、筑紫に来詣まうでて、賜へる軍を看送らむことを聞く」と。(略)內臣答報こたへて曰く、「即ち助けの軍數一千・馬一百匹・船卌隻を遣しむ」と曰ふ。
夏五月、内臣、舟師を率いて百済に詣いたる。
また、十二月には「竹斯物部」莫奇委沙奇まがわさかが、函山城かむむれのさしを落城させている。
◆十二月九日。函山城を攻む。有至臣(内臣)が將ゐて来たる所の民、竹斯物部莫奇委沙奇、能く火箭を射る。天皇の威霊を蒙りて、この月の九日の
酉時を以て、城を焚きて拔きとりつ。
ただその際に、百済聖明王は、新羅深く攻め入った
百済の王子余昌を慰労しに赴き、新羅によって殺されることになる。残された余昌の救出に「筑紫国造」鞍橋くらぢのきみ君が活躍する。そして、救出された余昌は即位し威徳王となる。
◆能く射る人・筑紫国造といふもの有り。進みて弓を彎ひき、占擬さしまかなひて新羅の騎卒の最も勇壯なる者を射落す。発はなつ箭の利ときこと、乘れる鞍橋くらぼねの前後を通いとおして、其の被甲よろひの領會くびに及ぶ。…尊び名付けて鞍橋くらぢの君と曰ふ。(注4)
さらに、欽明十七年(五五六)には、百済王子「恵(後の恵王。即位五九八年〜五九九)」を「筑紫国の舟師」や「筑紫の君の児の筑紫火の君」が本国に護り送っている。(注5)
◆欽明十七年(五五六)正月。阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣して、筑紫国の舟師を率て、(百済皇子恵を)衞まもり送りて国に達らしむ。別けて筑紫火君《百済本記に云はく「筑紫の君の児、火中君の弟。」といふ》を遣して、勇士一千を率ゐて、彌弖《みて 彌弖、津の名なり。》に衞り送らしむ。
そして『書紀』では欽明二十三年(五六二)に大伴狭手彥が肥前松浦湾から出征し、高句麗宮城深く進攻し王を逃走させ、多大な戦利品を獲得したと記す。
◆欽明二十三年(五六二)八月、天皇、大將軍大伴の連狭手彥を遣して、兵数万を領ゐて、高麗を伐たしむ。狭手彥、乃ち百済の計を用て、高麗を打ち破りつ。其の王墻かきを踰こえて逃ぐ。狭手彥、遂に勝に乗りて宮に入り、尽に珍宝貨賂たからもの・ 七織帳ななえのおりもののとばり・ 鉄屋くろがねのいへを得て還来り。《旧本に云はく「鉄屋は高麗の西の高樓上に在り」(略)鉄屋は長安寺に在り。是の寺、何れの国に在りといふことを知らず。一本あるほんに云はく「十一年、大伴の狭手彥の連、百済国と共に、高麗の王陽香ようこうを比津留都ひしるつに驅おひ却しりぞくといふ。」》
しかし、百済が高句麗と衝突したのは五五〇年ごろで、百済が高句麗から漢城を奪回し、平壌に侵攻したのは五五一年のこと。欽明二十三年(五六二)では新羅が百済北部を支配し、また高句麗王「陽香」とは「陽原王陽崗ようこう」と思われるところ、陽崗は欽明二〇年(五五九)に没している。従って、通説では、岩波『書紀』注のように、実際の年次は、一本に云う「十一年(欽明十一年なら五五〇年)」が正しいと考えられている。(注6)
ただ、「十一年」が欽明十一年(五五〇)を指すとすれば、高句麗の王城「平壌」の討伐は、『書紀』では
欽明十二年(五五一)なので、年次が合わない。ところが、九州年号(注7)で五五一年は「明要十一年」にあたる。これは、「一本」は九州年号で書かれていたこと、つまり狭手彥の高句麗討伐は、五五一年の九州王朝の事績であり、「天皇」とは欽明ではなく九州王朝の天子だったことになる。
その証左に、大伴狭手彥は松浦湾から出征していったとされ、松浦佐用姫が狭手彥との別れを嘆き、佐賀唐津湾岸の鏡山の頂上で領巾を振り続けたとの伝承が、万葉集や『肥前国風土記』にも取り上げられている。
◆万葉八七一番歌題詞。
大伴佐提比古の郎子いらつこ、特に朝命を被り、使を蕃国に奉うけたまはる。艤棹ふなよそひして言ここに帰ゆき、稍に蒼波に赴く。妾をみなめ松浦《佐用比売》、この別るるの易きを嗟なげき、彼その会ふの難きを歎く。即ち高山の嶺に登りて、遙かに離れ去く船を望み、悵然うらみて肝を断ち、黯然いたみて魂を銷けす。遂に領布ひれを脱ぎて麾ふる。傍の者涕を流さずといふこと莫し。これに因りてこの山を号けて領巾麾ひれふりの嶺と曰ふ。
そして、『書紀』には「何れの国に在りといふことを知らず」とあるが、狭手彥が戦利品として得た「鉄屋」を納めた「長安寺」は筑紫にあった。
◆『太宰管内志』筑前二十。上座かみつあさくら郡朝鞍寺(略)「昔ここの朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此の郡の山田村にありしと云。いつの比に亡びたるにや、すべてさだかなる事はしりがたし。」
ヤマトから派遣されたなら、ヤマトの長安寺にあって然るべきだが、そのような寺は存在せず、『書紀』編者は「どこにあるか」知らなかった。松浦湾から出征した狭手彥が九州の将軍なら、持ち帰った「鉄屋」が筑紫の寺に安置されているのは極めて自然の事となろう。
ヒッタイトとエジプトの戦争や、中国の南北朝の戦で天然痘が伝播した事例からわかるように、多数の兵士が不衛生な環境で密集し、長期間寝起きを共にする「軍事行動」で、天然痘が伝播するのは当然だ。しかも高句麗からは、捕虜と見られる人物たちも筑紫に渡来している。海外との交流が疫病をもたらすのは、新型コロナウイルス禍でも明らかになったことだ。
◆欽明二十六年(五六五)夏五月、高麗人頭霧唎耶陛むずりやへい等、筑紫に投化まうきて山背国に置はべり。
そして、まさに天然痘の流行の中で倭国(九州王朝)の天子「阿毎多利思北孤」が誕生したと考えられる。
通常「聖徳太子」とは「廐戸皇子」で、五九三年〜六二一年まで推古天皇の摂政として「悉くの政」を行い、仏教を振興し、冠位十二階を定め、十七条憲法を制定し、法隆寺釈迦三尊像のモデルとなり、『隋書』で煬帝に「日出る処の天子」を名乗って使者を送ったとされる。
しかし使者を送られた側の隋の史書『隋書』には、倭(俀)王の名は阿毎多利思北孤あまのたりしほこで、利歌彌多弗利りかみたふりという太子がおり、仏法を興し、官位十二等を定めたとある。そして多利思北孤の国には「阿蘇山があり、気候温暖で水多く陸少ない」とする。これは「聖徳太子」のモデルはヤマトの王家の「廐戸皇子」ではなく、倭国(九州王朝)の多利思北孤だということを示している。
◆『隋書』俀(たゐ 倭)国伝。開皇二〇年(六〇〇)俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌あはきみと号す。使を遣わし闕けつに詣でる。(略)王の妻は雞彌と号す。後宮に女六七百人有り。太子の名を利とす。歌彌多弗の利(*あるいは「太子の名を利歌彌多弗利とす。」)なり。城郭無し。内官に十二等有り。一に曰く大德、次を小德、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信、員に定数無し。(略)氣候温暖にして、草木は冬も青し。土地は膏腴にして水多く陸少し(略)阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。
◆大業三年(六〇七)其の王多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰はく、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門数十人、来らせ仏法を学ばす」といふ。其の国書に曰はく、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙つつが無きや云云」と。
さらに、『聖徳太子伝記』『聖法輪蔵』『聖徳太子伝』『聖徳太子絵伝』など「聖徳太子」の事績を記す書物で、その生涯が金光三年(五七二)の誕生から倭京五年(六二二)に没するまで、九州年号で記されていることも太子のモデルが倭国(九州王朝)の天子多利思北孤であることを示している。(注8)
そして、『聖徳太子伝記』等では太子の誕生は九州年号「金光三年(五七二)」で、かつ、当時天然痘が「天下に」流行していたことが『善光寺縁起』に九州年号「金光」を用いて記されている。
◆『聖徳太子伝記』聖徳太子ノ御誕生之時代ヲ上古ニ相尋侍レバ、年号ハ金光三年壬辰(五七二)歳也。
◆『善光寺縁起』金光元年(五七〇)庚寅歳天下皆熱病。
『書紀』には、先述のとおり「天然痘」の症状として「身焼かれ」とあるところから、「天下に蔓延した熱病」とは天然痘を指すことは明らかだ。
また、福岡県の「五社稲荷」(嘉麻市上山田下宮)由緒に、「金寶二年」に倭建命が、疫病が蔓延し多くの人が苦しみ死ぬ様を見て、伊勢神宮から勧請されたとあるが、倭建命時代に元号や伊勢神宮があるはずもなく「金光二年」の誤伝で、これも天然痘の蔓延を記すものと考えられる。
九州年号「金光」の元年は五七〇年で五七五年までの六年間続く。そして、太子の誕生が金光三年(五七二)であれば、まさに天然痘流行のさ中に多利思北孤が誕生したことになる。
そして『聖徳太子伝記』では、太子は十八歳の時(五八九年)に「国政を執行した」とあるが、厩戸が推古天皇の摂政として「万機悉く委ねられた」のは推古元年(五九三)で年次が異なる。そして、九州年号は太子が国政を執行した五八九年に「端政たんじょう」に改元されており、「端」は「始め」、「政」は「政治」で、「端政」は「政治の始め」を意味する。
従って、この年(五八九年)に即位したのは多利思北孤だと考えられる。
◆『聖徳太子伝記』太子十八歳(己酉・五八九年)春正月参内して国政を執行したまへり
◆『書紀』推古元年(五九三)夏四月に廐戸豐聰耳皇子うまやどとよとみみのみこを立てて、皇太子とす。仍りて録つぶさに政を摂つかさどらしむ。万機悉く委ぬ。
多利思北孤即位直前の五八〇年代は、前述のとおり天然痘の流行の中で「仏教受容」をめぐり、ヤマトの王家の中で崇仏派の蘇我馬子らと排仏派の物部守屋らの対立が激化していった。そして用明崩御後に、穴穂部皇子と泊瀬部皇子による後嗣争いも加わり、崇仏派の馬子・炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)・泊瀬部(後の崇峻天皇)陣営と、排仏派の守屋・穴穂部陣営による「丁未の乱(五八七)」がおきる。『書紀』では、丁未の乱で、「厩戸皇子(聖徳太子)」は四天王に祈願して勝利、守屋・穴穂部は討伐され、太子は「四天王寺」を、馬子は「法興寺」を建立し、以後太子と馬子を中心に仏教を柱とした統治が行われたと記される。
しかし、当時の東アジアの仏教をめぐる政治状況を踏まえれば、この聖徳太子も「即位前(太子時代)の多利思北孤」を指し、また丁未の乱も、単なる「ヤマトの王家の中での仏教受容や後継争い」ではなく、我が国全体の統治権をめぐる倭国(九州王朝)とヤマトの王家の争いの一環であり、これに勝利した多利思北孤らは、手中に収めた物部領と、廃仏派を抑え込んだヤマトを基盤として、より東国の経営に乗り出したのだと考えられる。
このことを、「丁未の乱」に至る経緯をもとに振り返ってみよう。
倭国(九州王朝)は四七八年の「倭王武」の上表文の「渡りて海北を平らぐること九十五国」が示すように、五世紀に高句麗・新羅と覇権を競いながら半島南部から百済に進出する。
「武」ら「倭の五王」が倭国(九州王朝)の王たちであったことは、『宋書』等の「倭の五王」と、ヤマトの「天皇」たちとでは、在位年や続柄が違うことは勿論、考古学的にも、百済南西部の栄山江流域に五世紀末から六世紀初頭にかけ多数の北部九州式古墳が存在し、出土物も北部九州と共通していることからも確かめられる。
また、国内では「東は毛人を征すること、五十五国」とあり、『常陸国風土記』には「倭武天皇」の常陸遠征譚が見え、さらに北部九州独特の装飾古墳群が常陸から関東・東北一帯に分布することで裏付けられる。
しかし、六世紀に入ると新羅の勢力が拡大、任那諸国まで進出して五三〇年には南加羅が奪われる。倭国 (九州王朝)は百済と連携し奪還を図り、そのための国内の戦時体制を強化していく。その表れが安閑元年(五三四)〜安閑二年(五三五)に見える全国的な屯倉の設置と、筑紫への食糧の集中備蓄だ。(注9)
そして、宣化元年(五三六)には、ヤマト近辺の河内・尾張・新家・伊賀等の屯倉の穀物が筑紫に運ばれるなど、ヤマトの王家もこの戦時体制に協力させられることになる。(注10)
ただ、ヤマトの王家は半島に利権を有さず、倭国(九州王朝)に協力しても犠牲が大きく利益は少ない。国内の他の地域の豪族・支配者も同様だ。倭国(九州王朝)は、こうした反発を抑えるために当時東アジアの諸国王が採用した「仏教治国策」、すなわち「仏教を梃としての統治」を導入しようとしたと考えられる。
半島で新羅は、六世紀初頭からいち早く仏教を受容し、南加羅を併合した法興王(在位五一四〜五四〇)や、任那を滅ぼした真興王(在位五四〇〜五七六)が勢力を急速に拡大していった。(注11)
また、中国では、五八一年に隋が建国され、初代の王楊堅(文帝)は開皇三年(五八三)に仏寺復興の(注 )詔を発し、同五年(五八五)に「菩薩戒」を受戒。中央に大興善寺・四十五州に大興国寺・大県毎に僧尼両寺を創設。仏教を監督統治する宗教局「昭玄寺」を設置、大統・統などを任命。州・県にも分局(沙門僧)を置き中央・地方に仏教治国組織制度を確立する。
そして五八九年に陳を滅ぼし、中国を再統一したのち、六〇一〜六〇四年にかけ全国百十余箇所の官寺に舎利を分配、舎利塔を起塔させ納めさせ、多数の僧を派遣し仏教の浸透・教化をはかる。これにより新たに支配した国々の円滑な統治を進めた。これを隋の「仏教治国策」と呼ぶ。
倭国(九州王朝)はこうした東アジアの「仏教を活用した統治」の流れの中で、新羅や隋に対抗し国内統治を強化するために、仏教の活用を図った。
これは、『隋書』で、多利思北孤が「仏教上の権威の『菩薩』」と、「俗世の最高権威『天子』」を併せ持つ「菩薩天子」を自称していることからも裏付けられる。そして、戦時物資や食料の確保の上で、東国のかなめとなる重要なヤマトの王家には、蘇我氏を通じて仏教の導入を進めていく。幸か不幸か天然痘の蔓延は、わが国における「仏教治国策」を進めるうえで好機となり、排仏派の守屋討伐以後の寺社の建立や各地への布教を後押しすることとなった。
多利思北孤が即位した端政元年(五八九)の『聖徳太子伝記』には我が国を六十六国に分割したとあり、『書紀』では同年の崇峻二年(五八九)には、東海道・東山道・北陸道に使者を派遣し「諸国の境を観しむ」と記す。これは崇峻の事績のように書かれているが、多利思北孤の即位を契機に、倭国(九州王朝)は全国の統治を進めようとしたことを表すものだ。
また、『二中歴(注12)』では端政年間に「唐より法華経渡る」とあり、統治を進めるために、新来の「法華経」が用いられることになる。
このことが、我が国に『法華経』が伝えられて始まったとされる「六十六部廻国巡礼」という修行から推測される。「六十六部廻国巡礼」は、『法華経』を書写し全国の六十六ヶ国の霊場に一部ずつ納経して満願結縁するものだ。これは、『伝記』の聖徳太子二十三歳(五九四年・九州年号では告貴こっ き元年)条に、六十六ヶ国に国府寺を建立したとあり、さらに、同年の『書紀』に、諸臣が競って仏舎(寺)を建設したと記すことと軌を一にしている。
◆『伝記』六十六ヶ国に大伽藍を建立し国府寺と名づく。
◆『書紀』推古二年(五九四)の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に 詔みことのりして、三宝を興して隆さかえしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて仏舎を造る。即ち、是を寺という。
「告貴(五九四〜六〇〇)」の意味は「貴い教えを告げる」と理解でき、「三宝興隆」を詔し、諸国に大伽藍(仏舎)を建立させるに相応しい年号だ。
巡礼では、『法華経』が観世音菩薩に奉納されるが、多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自負していた。そこから、多利思北孤は即位と同時に、自らを菩薩に見立て、分国した六十六国に、寺を建てさせ、法華経を納経させることで、「宗・政一致」の統治を進めようとしたと考えられよう。まさに前述の「隋」の楊堅がおこなった仏教復興策を「なぞった」ものと言える。
また、多利思北孤は、守屋の討伐と、仏教を通じて支配を強めた摂津・河内・和泉・ヤマト地域の統治の円滑化のため、難波〜河内〜斑鳩を結ぶ大道(渋川道・
龍田道)を作り、道に沿って四天王寺・渋川廃寺・中宮寺・法隆寺・中宮寺等を次々建立した。さらに畿内を拠点に東方経営を進めるため、五八九年に「東海道・東山道・北陸道」へ使者を派遣した。これは、後の「五畿七道」の元となる多利思北孤による、「九州王朝の道制」創設と、各道ごとの責任者任命を意味するのではないか。
こうした「仏教による統治施策」は、「天然痘」に悩む各地の豪族や民衆にとっては、極めて受け入れやすいものだったと推測できる。『隋書』に多利思北孤の時代に「兵有りと雖も征戦無し」とあるのは、「仏教治国策」の成功を示していると考える。
八世紀の天然痘が大和朝廷の政治を大きく変えた以上に、六世紀末の天然痘は、倭国(九州王朝)の仏教による全国統治を進め、六世紀後半から七世紀初頭の我が国の歴史を一変させたのだ。
【注】
(1)紀元前四三〇年の「アテナイの疫病」や、紀元一六五年〜一八〇年の間にローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」も天然痘とされ、一千万人以上が死亡したといわれる。インカ・アステカなどの滅亡もヨーロッパから持ち込まれた天然痘が大きな原因とされている(*マクニール・ウィリアム『疫病と世界史』中央公論新社、二〇〇七年、加藤茂孝『人類と感染症の歴史 -- 未知なる恐怖を超えて 』丸善出版、二〇一三年ほか。)
(2)「比の歲(五〇〇年頃)に、病時行はやること有り。仍ち瘡かさ、頭面より發いでて身に及びて、須臾すみやかに周匝めぐる。その狀は火瘡やけどのごとく、皆白漿を戴さきよりいだし、隨決隨生なりゆきにまかせ、不即治なおらねば、 劇はなはだしく多く死す。治得瘥なおりて後、瘡瘢はんろう紫黑く、減ずるに彌歲ながねんを方す。この悪毒の気世人云ふに元徽四年(四七六)此の瘡西より東に流つたはる。(略)建武中(四九四〜四九七)に南陽を擊ちし虜より所得える、仍ち虜瘡りょはんと呼ぶ。(『肘後備急方ちゅうごびきゅうほう』晋の葛洪の著を南北朝「斉」の陶弘景(四五六〜五三六)が改訂)
(3)「道饗祭」は、都や宮城を鬼魅や妖怪から護るために八衢比古神やちまた ひこのかみ、八衢比売やちまた ひめのかみ神、久那斗神くなどのかみの三柱を祀る神事。通常は六月と十二月の二回、都の四隅の道上で行われるものだが、この祭祀を各国に命じたことになる。これは朝廷の危機感の深さを示すものだ。
(4)鞍橋君は福岡県鞍手郡長谷飯盛山の鞍橋神社に祭神として祀られている。
(5)「筑紫の君」は「筑紫・豊・火」を版図とした磐井やその子葛子、白村江で唐の捕虜となった薩夜麻の称号。「火の君」の「火」は「肥前・肥後」を指す地域で、『隋書』の多利思北孤の国には「阿蘇山有り」とするから、年代的に見て磐井を継ぐ筑紫君葛子の子で、肥前・肥後を本拠としていた可能性が高い。
(6)岩波『書紀』注釈「このころは既に新羅が、漢城・南平壌の地を領有していて、海路以外に高句麗に侵攻する途はないから、あるいは分注の一本に十一年とあるのが正しいかもしれない。」
(7)「九州年号」とは大和朝廷の「大宝建元」以前に存在した年号で、『襲国偽潜考』に古写本「九州年号」から写したと述べているところから、一般に「九州年号」と呼ばれる。古田氏は『失われた九州王朝』で、倭国(九州王朝)の制定した年号とされた。
(8)「聖徳太子」の事績を記す書物における九州年号の例として、『聖徳太子伝記』では「太子十六歳御時、守屋御合戦事勝照三年(五八七)」、「太子十七歳御時、勝照四年戊申(五八八)」、「太子廿二歳御時年号ハ端政五年癸丑(五九三)春ノ比」などがあり、『聖法輪蔵』では賢称・鏡常(当)・吉貴・定居・倭京など、歳毎に九州年号が付されている。
(9)『書紀』安閑二年(五三五)筑紫の穂波の屯倉・鎌の屯倉、豊国の榺碕みさきの屯倉・桑原の屯倉・肝等かとの屯倉・大抜の屯倉・我鹿の屯倉・火国の春日部の屯倉・播磨国の越部の屯倉・牛鹿の屯倉、備後国の後城しつきの屯倉・多禰の屯倉・来履く くつの屯倉・葉稚の屯倉・河音の屯倉、婀娜あな国の胆殖いにへの屯倉・胆年部いとしべの屯倉、阿波国の春日部の屯倉、紀国の經湍ふせの屯倉・河辺の屯倉・丹波国の蘇斯岐そしきの屯倉・近江国の葦浦の屯倉・尾張国の間敷の屯倉・入鹿の屯倉・上毛野国の緑野の屯倉、駿河国の稚贄の屯倉を置く。
宣化元年(五三六)筑紫国は、遐く邇ちかく朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望おせりて貢き奉る。胎中之帝より、朕が身に泪いたるまでに、穀稼を収蔵めて。儲糧を蓄へ積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。
(10)『書紀』宣化元年(五三六)。朕、阿蘇の君«未詳なり。»を遣し、また河内国茨田郡屯倉の穀を運ばす。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣して、尾張国屯倉の穀を運ばす。物部大連麁鹿火は、新家連を遣して、新家屯倉の穀を運ばす。阿倍臣は、伊賀臣を遣して、伊賀国屯倉の穀を運ばす。官家を那津の口に修り造てよ。
「阿蘇仍君〈未詳也。〉を遣し」とあるが、地域から考えると「九州の阿蘇仍君」が「ヤマトの宣化」を遣して、「河内国の屯倉の穀」を、「九州筑紫の那の津に運ばせた」と考えるべきだろう。阿蘇仍君が「未詳也。(誰だかわからない)」と隠されているのもその証左となろう。
(11)「新羅」では、「募泰(法興王)」が仏教を公認し、出家して「法空」(法雲とも)と号し、その子「真興王」は、「法雲」と号したとする。(『海東高僧伝』一三世紀高麗時代に編纂された僧侶の伝記の集成)
(12)『二中歴』は、平安〜鎌倉時代に成立した百科事典。その中の「年代歴」に五一七年の「継体元年」に始まり、七〇〇年の「大化六年」に終わる三十一の連続する年号が記されており、七〇一年に大和朝廷が建元した「大宝」に続く。この年号は、鶴峯戊申著の『襲国偽潜考』に「今本文に引所は。九州年号と題したる古写本によるものなり。」とあることから「九州年号」と呼ばれている。古田武彦氏は、年号は国のトップ、天子でなければ制定で きないから、九州年号は九州王朝の定めた年号だとする。
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会