『古代に真実を求めて』第一集(一九九六年三月 明石書店)へ

「見失われていた佐賀県 清賀上人について 古田武彦講演記録(皇(すめろぎ)は神にし座せば・・・)より

九州王朝への一切経伝来 -- 『二中歴』一切経伝来記事の考察 古賀達也

 (2019.12.15 改訂)

倭国に仏教を伝えたのは誰か

「仏教伝来」戊午年伝承の研究

古賀達也

1 はじめに

 わが国仏教史には一大欠落が存在します。それも枝葉末節のことではなく、その根幹にかかわる欠落です。それは何か。この日本列島に最初に仏法を伝えた僧の名、およびその人物に関する伝承の不在、これです。
 この欠落は何によってもたらされたのでしょうか。長年月による風化、それとも伝承するに足らぬ一小事とされたのでしょうか。否。仏法僧侶において、師資相承の法脈は信仰上欠くことのできない重大事であり、自らの正統性を証明する上でも、この法脈の由緒こそ何をおいても主張し、伝承しなければならないものであったはずです。その証拠に、二十一世紀の今日においても、仏教諸宗派はその因って立つ経典とともに宗祖以来代々の法系を伝えているではありませんか。
 また、同じ東アジアの諸国、たとえば高句麗・百済ではそれぞれ仏法を初伝した僧の名前が記録されています。『三国史記』の次の記事です。

(1)(小獣林王二年・三七二)夏六月、秦王符堅、使を遣わす。及び浮屠(僧侶)順道、仏像・経文を送る。王、使を遣わし、廻謝し、以て方物を貢す。
(2)(同四年・三七四)僧、阿道来る。
(3)(同五年・三七五)二月、始めて肖門寺を創め、以て順道を置く。又、伊弗蘭寺を創め、以て阿道を置く。此れ、海東仏法の始め。(高句麗本紀、第六)
(4)(沈流王元年・三八四)九月、胡僧、摩羅難陀、晋より至る。王、之を迎え、宮内に致し、礼敬す。仏法、此に始まる。
(5)(同二年・三八五)春二月、仏寺を漢山に創め、僧十人を度す。(百済本紀、第二)

 高句麗では順道・阿道、二人の僧を得て、寺院を建立寄進したことを以て、海東仏法の始めとされています。これは公伝のことでしょう。またこれより早く、『三国遺事』は「我道本碑」を引用し三世紀の朝鮮半島へ、我道による私伝を伝えています。

 按ずるに、『我道本碑』に云う。我道は高麗の人なり。母は高道寧。正始の間(二四〇〜二四九)。曹魏の人。我、姓我なり。崛摩、使を句麗に奉ず。之を私して還る。因りて娠有り。師生れて五歳。其の母、出家せしむ。年十六にして魏に帰し、省して崛摩を覲る。玄彰和尚の講下に投じ、業に就く。年十九。又、母に帰寧す。母謂いて曰く。「此の国、今に仏法を知らず〜」……。(『三国遺事」巻二、「阿道基羅」)

 百済においても同様で、胡僧摩羅難陀の名前が伝えられ、仏寺が建立されています。このように四世紀後半に朝鮮半島の国々へ仏教が公伝し、伝えた僧侶を供養したことが記されているのです。
 にもかかわらず、わが国には仏法をもたらした僧の名前が伝わっていません。また、その法脈を主張する宗派の存在、これも聞くことができません。言うならばわが国仏教界において、釈迦に次いで語られるべき大恩人が不明なのです。この問題はわが国への仏教初伝と一対の関係を持ちますが、仏教初伝に関する古今の諸説において、伝えた僧の名前や伝承の不明を真正面から論じたものは少ないようです。わずかに、中小路駿逸氏が近年この問題を提起し、考証を進められたのを知るのみです。(注①)
 したがって本稿では、わが国における仏教初伝の年次と、伝えた僧の所伝追究をテーマとしました。願わくは本稿が日本仏教史欠落部を微塵でも補い得れば、あるいは古代の真実に半歩でも近づくことができたならば、筆者の本望とするところです。

 

2.倭国仏教の黎明……その伝来の時期

 (1)『隋書』イ妥国伝の証言

 わが国への仏教初伝を歴観できる第一史料は、中国の史書『隋書』イ妥国伝でしょう。国外史料において最初に倭国(九州王朝)の仏法記事を記した同書の史料価値の高きこと自明ですが、残念ながら仏教初伝に関する諸説において、その記すところを深く掘り下げて論じたものは少ないようです。倭国への仏教初伝時期の分析にあたり、まずは『隋書』イ妥国伝を見ることにしましょう。

  ※イ妥国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FC0

 文字無し。唯、刻木結縄するのみ。仏法を敬す。百済に於て仏経を求得し、始めて文字有り。

 『隋書』イ妥国伝のこの一節に問題を解く鍵が秘められています。この一節は仏教初伝記事というよりも、倭国における文字(漢字)の歴史を記したものですが、その時期と経緯の説朗として百済よりの仏教(この場合、経典)伝来と同時期であることが漢字受容の一因として示されています。もちろん、この記事が漢字の伝来経緯のみを記したもので、その時期についてまで述べたものではないという理解も可能ですが、仏法を敬い、経典を求めるという一連の過程がセットで記されていることから、やはり倭国は仏教の黎明期に漢字の国内公用を開始(注②)したとするのが文脈上もっとも自然な読解のように思えます。
 それではその時期は隋代(五八一〜六一八)のことでしょうか。結論から言えば隋代よりも前です。何故なら『隋書』イ妥国伝の記載例では、隋代になって始めて行われた事績については、そのことを明記しているからです。例えばイ妥国における「冠」の制定の始まりを次のように記しています。

 隋に至り、其の王始めて冠を制す。錦綵を以て之を為り、金銀を以て花を鏤め飾りと為す。

 このように「隋に至り、其の王始めて冠を制す」と、隋代になって始めての事績であることが記されています。この表記例に従う限り、漢字や仏教の伝来という注目すべき事件が隋代のことであれば、そのことを記さないとは考えにくいのです。したがって、漢字や仏教経典の百済からの伝来は隋代よりも前としなければならないでしょう。また、隋代に至ってようやく倭国が漢字の国内公用を開始したとするには、日本列島の考古学的遺物の状況からしても遅すぎます。(注③) さらには『日本書紀』に記された欽明期の伝来よりも遅れることになるからです。
 こうした結論、すなわち倭国への仏教伝来と文字の国内公用開始時期を関連したものと見なし、共に五世紀初頭とする見解は、すでに中小路駿逸氏が指摘されているところで、氏の卓見というべきでしょう。(注④)
 さて、倭国への仏教伝来の時期を検討するうえで、『隋書』イ妥国伝は一つのヒントを与えてくれました。それは「刻木結縄」記事です。この倭国の記録方法が漢字に交替する時期、これが仏教伝来と対をなす事件であることから、日本列島内にこうした痕跡を見いだすこと、これが次なるテーマです。

 

 (2)大江匡房「筥埼宮記」の証言

 倭国における「結縄刻木」記事は『二中歴』年代歴に見えますが、九州年号の「明要」年間(五四一〜五五一年)での「文書出来」や「結縄刻木」停止記事のみで、仏教伝来や漢字の国内公用開始時期については記されていません。『隋書』の「刻木結縄」記事と何らかの関係はありそうですが、それ以上のことは未詳とせざるを得ないようです。

 明要 十一年 元辛酉 文書、始出来。結縄刻木、止畢。(『二中歴』年代歴)

 ところが、今一つわが国における「結縄」を記す史料に『朝野群載』所収の「筥埼宮記」があります。大江匡房(一〇四一〜一一一一)により記されたもので、次の記事が見えます。

 我朝で始めて文字を書き、結縄の政に代えること、即ち此の廟に於て創まる。(「筥埼宮記」『朝野群載』国史大系所収)

 匡房は「筥埼宮記」において、筥埼宮は八幡大菩薩の別宮であり、その本体は応神天皇と記しています。そしてこの記事へと続くのですが、文字使用がこの廟において創まったという内容は注目されます。なぜなら、漢字の国内公用が大和からではなく、他ならぬ九州王朝の中枢領域たる博多湾岸から始まった。すなわち日本列島内における漢字公用開始の伝播の矢印が筑紫から大和やその他の地域へ向いているという主張だからです。ちなみに『石清水八幡文書』所収の「筥埼宮記」には「此廟」を「此朝」と記されていますが、これなどは単純な誤写というよりも、後代書写者による近畿天皇家一元史観による露骨な改変、矢印の方向転換(大和からその他の地域へ)の結果ではないでしようか。
 同史料が近畿天皇家の官僚である大江匡房により書きとどめられた点は重要です。というのも、近畿天皇家にとって必ずしも有利とはならない伝承を大江匡房が捏造するとは考えにくく、やはり筑前当地にそのような伝承が実在したこと、その証拠と言えるからです。
 ところで、わが国での結縄による政治から文字使用に代わった出発地点とされたこの廟とは誰の廟でしょうか。「筥埼宮記」後段に次の記事が見えます。

 仲哀天皇、即ち是れ大菩薩の考の廟也。

 匡房は筥埼宮を大菩薩(応神)の考(父の意)、仲哀天皇の廟と考えているのですが、これらの所伝や「結縄の政」の語句などは『古事記』や『日本書紀』には見えぬものであり、やはり北部九州の現地伝承と思われます。平安後期の歌人・漢学者であった大江匡房は大宰権帥も務めており、筑前筥埼宮についての知見も得やすかったようです。なお、ここに言う応神や仲哀は本来九州王朝王家の伝承であったものが、後代において近畿天皇家の名前でもって語られたものと理解するべきでしょう。たとえば『日本書紀』神功紀において、『三国志』魏志倭人伝などに見える邪馬壹国の女王卑弥呼や壱與の事績が神功皇后の事績として転用されているのと同じ手法です。
 それでは応神天皇の時代とはいつのことでしょうか。皇暦では三世紀末から四世紀初めとされていますが、『日本書紀』応神天皇十五年に、百済の学者阿直岐が来朝して、時の太子菟道稚郎子に学問を講じ、さらに太子の要請により、その翌年の二月、博士王仁が招かれて来朝した記事が見えます。そして、王仁来朝の歳(応神元年は庚寅なので、同十六年は乙巳に当たります)に、百済の阿莘王(『日本書紀』は阿花王とする)が死亡したと記されています。『三国史記』は阿莘王の死亡を四〇五乙巳年としており、『日本書紀』の死亡記事の年と干支が一致しますから、応神朝の実年代は四〇五年前後と考えられるのです。
 ここにいたって、「筥埼宮記」の記事を次の様に理解できるでしょう。四世紀末から五世紀の初頭、九州は筑前筥埼の地より漢字の国内公用が開始され、それまでの「結縄の政治」にとって代わったと。この帰結は、九州王朝への仏教伝来と漢字の国内公用開始がともに五世紀初頭とする中小路氏の説と一致するのです。
 今一歩、論をすすめましょう。漢字の国内公用の定義として中小路氏は、王と臣下とのあいだ、臣下と臣下のあいだでの漢字漢文によるやりとりとされました。既に三世紀から中国の天子へ上表文を提出(卑弥呼の上表文。漢字の国際公用・中小路説)していた九州王朝がいよいよ国内の支配領域に対して漢字の使用を命じ、同時に百済の学者を配下の国々に派遣する、こうした処置が国内公用に際して行なわれたのではないでしょうか。そして、近畿なる応神のもとに派遣されたのが阿直岐・王仁だったのです。こうして倭国でも、王(九州王朝)と臣下(近畿天皇家等)との漢字漢文のやりとり、国内公用が始まりました。このことが『隋書』イ妥国伝や「筥埼宮記」に記されたわけです。
 『隋書』イ妥国伝、そして「筥埼宮記」という内外の史料により、九州王朝への仏教伝来時期が五世紀初頭頃であり、かつ結縄刻木の政治から漢字による政治への転換を伴っていたことが明かとなりました。更にその開始地点は「筥埼宮記」によれば博多湾岸、すなわち筑前中域でした。この場所の特定は「仏教伝来の地」の特定にもかかわるであろうことが推測できますが、このテーマについては後でふれることにします。今は仏教伝来の時期について更に論究を進めていきます。

 

 (3)仏教伝来「戊午年伝承」の秘密

 わが国において永く通念となっていた仏教伝来の年次は、欽明十三年(五五二)壬申でした。『日本書紀』欽明紀に記された、百済聖明王からの釈迦像や経典の伝播を仏教の初伝と見なす見解です。

 冬十月、百済の聖明王[更の名は聖王]西部姫氏達率怒利斯致契等を遣わし、釈迦佛の金銅像一躰、幡蓋若干、経論若十巻を献る。(『日本書紀』欽明十三年条)※[ ]内は細注。以下同じ。

 この記事をわが国への「仏教初伝」と見なすもので、古代から近世にいたるまで日本仏教界の主流となった見解です。古くは最澄が「顕戒論」で主張し、空海も同様の認識を記していたことが「高野雑筆集」に見えます。中世においては日蓮が弟子信徒あての書状に、やはり欽明期の伝来を多数記しています。

 我が日本国、志貴嶋宮御宇天皇、歳戊午に次るとき、百済の王、仏法を奉渡す。聖君の敬崇、今に至りて絶えず。〈弾じて曰く、天皇の即位は元年庚申なり。御字正しく三十二歳たり。謹んで歳次暦を案ずるに、都て戊午の歳なし。元興の縁起、戊午の歳を取るは巳に実録に乖く。敬崇の言、未だその理を尽さず。沈焼の事理、すべからく注載すべし。〉(最澄「顕戒論」・日本思想大系『最澄』所収)

 仏法、百済国より始めて日本朝に届る。是れ梁の武帝の大宝三年、壬申に当たるなり。其の壬申より日本の第三十帝、天国排開広庭天皇の十三年壬申に至るまで、仏入滅の後、一千一百六十二歳を経て、仏法始めて日本に届る。(空海「高野雑筆集」『弘法大師空海全集』七巻所収)

 又、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済より一切経・釈迦仏の像をわたす。(日蓮「報恩抄」『日蓮大聖人御書全集』所収)

 このように仏教史上主流をなした欽明十三年壬申説に対して、近年では『日本書紀』よりも遅れて成立した『元興寺伽藍縁起』や『上宮聖徳法王帝説』に見える欽明七年戊午(五三八)が定説の位置を占めるようになりました。学校などで「仏教伝来して御参拝(五三八)」という語呂合わせで覚えた、現代の「教科書定説」です。

 大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度り来たるより創まれり。(『元興寺伽藍縁起』)

 志癸嶋天皇の御世に、戊午の年の十月十二日に、百済国の主明王、始めて佛の像経教并びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興し隆えしむ。(『上宮聖徳法王帝説』)

 しかしこの戊午年説には大きな欠陥が存在することが知られています。最澄が「顕戒論」で指摘しているように、『日本書紀』によれば欽明期(五四〇〜五七一)には戊午の年は存在しないのです。この時期の戊午の年は宣化天皇三年(五三八)にあたり、欽明天皇の在位期間ではありません。そこでこの矛盾を解決するために様々な立論が試みられました。その代表的なものに、『元興寺伽藍縁起』の記事を根拠に欽明の即位を五三二年壬子として(この改変により欽明七年は五三八年戊午となります)、安閑・宣化両天皇と欽明天皇は並立在位していたとする説があります。こうした『日本書紀』の史料事実と異なる解釈が果して妥当なものかどうかは別にしても、一応このような所で現在の「定説」はかろうじて成り立っているわけです。
 それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十三年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初め」と明記されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされるのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。(注⑤)
 『上宮聖徳法王帝説』にある「志癸嶋の天皇の戊午の年」および『元興寺伽藍縁起』の「斯帰嶋の宮、治天下七年戊午」という伝承中、「戊午」という干支に中小路氏は注目されたのですが、更に「七年」という記事にも注目してみましょう。なぜなら『元興寺伽藍縁起』の編者にとっても欽明天皇の治世に戌午の年が存在していなかったことは自明であったはずで、しかも七年が戊午でないことは『日本書紀』を読めばわかりきったことです。にもかかわらず「戊午」と記し、そのうえ「七年」とまで記す以上、何らかの「根拠」があったはずです。その「根拠」を探るため『元興寺伽藍縁起』編者の認識の道筋をたどってみましょう。
 まず戊午の年に仏法が伝来したことを記すには、そのまま戌午と書けばよいでしょう。しかし、戌午の年は六十年毎に来ます。したがってどの戊午の年かを特定しなければなりません。その際、現代のような西暦による年表があったわけではない当時において、唯、公的に承認された「年表」は『日本書紀』紀年です。すなわち、どの天皇の即位何年という表記方法です。その『日本書紀』紀年に換算した結果、ある天皇の七年戊午の年であった場合のみ、「七年戊午」という表記は成立するわけです。それでは古代の天皇において即位七年目が戌午の年とされていたのは誰でしょうか。一人だけ七年が戊午にあたる天皇がいます。第十九代允恭天皇です。在位期間は西暦四一二〜四五三年に当てられています。そしてその「允恭天皇七年戊午」こそ『三正綜覧』(神武天皇即位元年を紀元前六六〇年とする暦法--皇紀)によれば西暦の四一八年にあたり、ここでも中小路氏の説と一致するのです。定説のように、欽明の即位年を操作(改変)して無理やり欽明七年を戊午にしなくても、九州王朝の伝承を後代において『日本書紀』紀年に換算して表記したものと理解すれば、「七年戊午」という年代が西暦四一八年でしかありえず、偶然の一致とは考え難いほど真実味を帯びてくるのです。
 更に論証を進めます。「七年」と「戊午」は、なるほど理解できました。それでは何故允恭天皇年七年をシキシマの宮の天皇(欽明)と記したのでしょうか。この問いには二通りの推測ができます。一つは通説通り『日本書紀』に記された欽明朝への仏教文物伝来記事に引きずられて、シキシマの宮(欽明の都地)とした場合。いま一つは九州王朝に「シキシマの宮の天皇」が存在した場合です。現時点ではいずれとも判断できませんが、後者であれば筑前中域にシキシマの宮と呼ばれた地がなければなりません。今は一作業仮説として慎重に保留しておくことにしましょう。
 さて、「戊午年伝承」の分析において四一八年に九州王朝へ仏教が伝来したという帰結に至りましたが、もう一方の当事者である百済の状況はどうだったでしょうか。当時の百済は阿莘王の時代です。『三国遺事』に次の記事が見えます。

 阿莘王即位大元十七年二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。(『三国遺事』巻三興法条)

 大元十七年は東晋の年号で、西暦三九二年にあたります。百済に仏教が伝来したのが『三国史紀』(巻二四、百済本紀第二)によれば三八四年とされているので、その八年後のことです。この記事が示すところ当時の百済では国をあげて仏教が興隆していたようです。そうした時期に隣国、倭国(九州王朝)へ仏教が伝来したとしても何ら不思議ではありません。むしろ倭国と百済の緊密な関係を考えれば、この時期、仏教が日本列島に伝来しなかったとする方がはるかに無理な推論ではないでしょうか。

 

 (4)『日本書紀』推古三十二年条、百済僧観勒の証言

 更に、五世紀初頭の仏教伝来をうかがわせる記事が、他ならぬ『日本書紀』にも見えます。推古紀三十二年四月条に、僧侶の犯罪(祖父殺し)を罰する詔が出され、それに対して百済僧観勒の上表がなされた記事がそれです。その上表文前半に問題の仏教東漸に関する概略が記されています。

 夫れ仏法、西国(インド)より漢に至りて、三百歳を経て、乃ち傳へて百済國に至りて僅かに一百年になりぬ。然るに我が王(百済国王)、日本の天皇の賢哲を聞きて、仏像及び内典を貢上りて、未だ百歳にだも満らず。(『日本書紀』推古三二年条)

 推古天皇はこの観勒の奏請をいれて、非行の僧侶を罰せず、僧尼の統制機関として僧正・僧都の制度を作り、僧尼を検校させることとしました。そして、観勒を僧正に、鞍部徳積を僧都に、阿曇連(名を闕もらせり--書紀細注)を法頭に任命した記事へと続きます。通説ではこの記事をもって、大和朝廷が僧正・僧都という中国南朝の仏教統制制度を百済経由で採用したものと見なしているようですが、この観勒による仏教東漸時期の概略が内外史料の仏教東漸記事と一致しないのです。
 中国への仏教公伝記事の初出は『後漢書』永平十年(六七)に見え、百済への仏教公伝は枕流王元年(三八四)と『三国史記』は伝えています。その間三一七年。したがって、先の観勒の「夫れ仏法、西国より漢に至りて、三百歳を経て、乃ち傳へて百済國に至りて」という認識はこれら国外史料とよく一致します。しかし、これに続く「百済國に至りて僅かに一百年になりぬ。」という記事が、推古三十二年(六二四)当時では枕流王元年(三八四)から二百四十年後となり、計算があわないのです。
 そこでこの部分を「百済に仏教が伝わって、その百年後に日本に伝わった」と読解する説もあるようですが、それでも三八四年から欽明十三年(五五二)まで百六十八年、あるいは、五三八年としても百五十年以上経ており、「僅かに一百年」という記事とやはりあわないのです。概数とは言え、百五十年以上を「僅か百年」とは表記できないでしょう。
 しかし他方、百済国王が日本国王に仏像・経典を伝えて百年にもならないという部分については、『日本書紀』欽明十三年条に見える百済よりの仏像・経典伝来記事と対応しています。すなわち、欽明十三年(五五二)から推古三十二年(六二四)はその問七十二年であり、百年未満というこの記事と矛盾しません。
 整理してみましょう。上表文に記された観勒の仏教東漸認識は次の通りです。

(1)インドから中国へ仏教が伝来して三百年を経て、百済へ伝来。
(2)百済に仏教が伝来して僅か百年。
(3)日本国に百済から仏像・経典が伝来して百年未満。

 (1)は『後漢書』、『三国史記』の記事に矛盾しないことをすでに述べました。(2)は推古朝時代の記事としてはまったく対応しません。また、百済に伝来後百年して日本に伝わったと理解しても、『日本書紀』の欽明朝伝来記事と五十年以上あいません。しかし、(3)だけは妥当となります。このように推古三十二年条の記事は大きな矛盾をはらんでおり、現代の学者をも悩ませているようです。
 こうした矛盾に対して、今まで様々な解釈が試みられてきました。たとえば、『日本書紀』のこの記事を根拠として、『三国史記』の百済初伝記事を誤りとする説 、(注⑥) 「僅かに百年」を百済の仏教初伝からではなく、百済仏教が興隆した時期(五〇二〜五四九)からと見なす説(注⑦)などです。しかし、前者は(2)と(3)はとりあえず説明できても、今度は(1)と矛盾してしまう。また後者の説も、この記事が中国・百済・日本のそれぞれ初伝時期から現在(上表の時期)までの期間を論じているのに、時点を一点に特定できない百済の仏教興隆時期というまったく記載のない時間帯を持ち出したうえに、自らの仮説にあうように設定するという手法であり、あまりに恣意的ではないでしょうか。
 以上見るところ、いずれの説もこちらを立てればあちらが立たずという状況でした。とすれば、どのように理解するべきでしょうか。これは多元史観によってのみ読解が可能と考えられます。すなわち、『日本書紀』には九州王朝の歴史記事が転用されているという、古田武彦氏が提起、論証された仮説です。(注⑧)
 その上で、推古三十二年条の観勒の上表記事のみを切り離して理解してみると次のように事態が整合してきます。

(1)インドから中国へ仏教が伝来して三百年を経て、百済へ伝来した。それは『後漢書』『三国史記』の記載通り六七年から三八四年のことである。
(2)百済に仏教が伝来して百年である。したがって、この上表は三八四+一〇〇=四八四年頃の出来事である。
(3)日本国に百済から仏像・経典が伝来して百年未満(概数として七〇〜九〇年とする)である。したがって日本国への仏教初伝は四八四−(七〇〜九〇)=三九四〜四一四年頃である。

 この帰結もまた中小路説(四一八年仏教公伝説)とほぼ一致します。よって、百済僧観勒の上表とされるこの記事は、九州王朝での五世紀末〜六世紀初頭の記事とすれば、記事そのものの内容(1)(2)(3)が、国外史料が伝える仏教東漸記事と矛盾なく整合するのです。そして、おそらくは『日本書紀』編者により、欽明期以後百年未満に相当するこの推古紀に、本来九州王朝へのものであった同上表文が挿入されたのではないでしょうか。
 そうすると次に問題としなければならないのは、九州王朝記事から転用されたのは、この上表記事の仏教東漸部分だけなのか、それとも、それに続く僧正・僧都制の施行部分も含むのかというテーマです。

 戊午、詔して曰く、夫れ道人も尚法を犯す、何を以てか俗人を誨へむ。故れ今より已後、僧正、僧都を任し、仍りて應に僧尼を検校ふべし。壬戌、観勒僧を以て僧正と為し、鞍部徳積を以て僧都と為す。即日、阿曇連[名を闕せり]を以て法頭と為す。(『日本書紀』推古三二年条)

 現在のところ、いずれとも断定できませんが、おそらくは後者であろうと推測されます。それは次の理由からです。僧正・僧都と並んで任命された法頭の阿曇連の名前が『日本書紀』では「名を闕せり」と記され、大和朝廷内で伝承されていないこと(北部九州の阿曇族との関連も想像できます)。また僧都に任命された鞍部徳積もその出自や事績が不明の人物であること。このように三人中二人までが不明瞭であることからも、日本仏教史上特筆すべき僧尼統制制度の始源記事にしては疑問を抱かざるを得ないのです。
 一方、これら僧尼統制制度記事も五世紀末〜六世紀初頭の九州王朝内の出来事と理解すれば、一貰して南朝中心の立場をとっていた九州王朝が、南朝の仏教諸制度を採用したとしても何等不思議はありません。しかもこの時代、六世紀初頭は九州年号の建元や、「磐井律令」の成立(注⑨)など、九州王朝は律令国家としての諸制度草創の時期にあたっており、こうした律令国家成立の一環としてこの僧尼統制制度の創立を捉えることも可能ではないでしょうか。
 以上、推古三十二年四月条に見える、百済僧観勒の上表記事とされる部分が、通説では解き難い矛盾をはらんでおり、ただ多元史観によって穏当な解釈を得、かつ、ここでも仏教伝来が四世紀末から五世紀初頭に当たるという結論に至ったのでした。こうして仏教伝来の時期が四一八年戊午の歳とする中小路説はいよいよ確かなものとなったようです。次章では仏教初伝の地と初伝僧について論究を進めることにしましょう。

 

 3.糸島郡『雷山縁起』の証言……天竺僧清賀、仏教を伝う

  (1)仏教先進地、九州の諸伝承

 わが国仏教史最大の欠落、初伝僧についての考察に入る前に、古代における仏教受容の先進地九州について概観してみることにします。百済から伝わったとされる仏教が地理的にも朝鮮半島に近い九州でまず受容されたであろうこと、想像するに難くありません。『隋書』イ妥国伝に記された倭国が阿蘇山下の王多利思北孤の国、九州王朝であったことは古田武彦氏が既に論じておられますが、このことからも日本列島において最初に仏教を国家的に受容した国が九州の地にあったことがうかがえます。また、近畿天皇家の史書『日本書紀』においても、九州が仏教先進地であったことを示唆する記事があります。

 是の日、天皇、得病たまひて、宮に還入します。群臣侍り。天皇群臣に詔して曰く、「朕、三實に歸らむと思う。卿等議れ」とのたまふ。群臣朝に人りて議る。物部守屋大連と中臣勝海連と、詔に違ひ議りて曰す、「何ぞ國神に背きて他神を敬はむや、由来、斯の若き事を識らず」とまうす。蘇我馬子宿禰大臣、曰さく、いふは、「詔に随ひて助け奉るべし、たれか異なる計を生さむ」とまうす。是に、皇弟皇子、[皇弟皇子といふは、穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟なり]豊國法師[名を闕せり]を引きて、内裏に人る。(『日本書紀』用明二年条)

 病に倒れた用明天皇が仏法に帰依するために、豊國法師を宮中に招いた記事です。この記事のみに見える豊國法師は豊國(豊前・豊後)の僧と考えられる(注⑩)ことから、この時代九州の豊國が、天皇の帰依を受けるほどの有力な僧を輩出する仏教先進地であったと考えられます。
 一方、九州地方における現地伝承・寺社縁起などにも欽明期以前の仏教伝来を記すものがあります。著名な例では、九州修験道の中心地の一つとされる英彦山霊山寺の縁起、『彦山流記』に見える次の記事です。

 但踏出当山事、教到年比、藤原恒雄云々。(「彦山流記」『山岳修験道叢書十八 修験道史料集Ⅱ』五来重編所収)

 英彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(一二一三)頃の成立と見られています。同書のこの記事は当山の開基を九州年号の教到年(五三一〜五三五)としているのです。また同書写本の末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(五三一)の開山とあります。また、元禄七年(一六九四)に成立した『彦山縁起』や寛保二年(一七四二)の『豊鐘善鳴録』によれば、彦山霊山寺の開基は継体天皇二十五年(五三一)北魏僧善正によるとあります。いずれにしても英彦山霊山寺の開基が仏教初伝の通説五三八年よりも早いとする縁起が存在しているのです。
 英彦山以外にも、大分県下毛郡耶馬渓村中畑の檜原山正平寺は、『豊前国志』によれば仁賢帝の御宇(四八八〜四九八)百済僧正覚の開山とされています。このように九州内陸部に当たる英彦山などへの仏教の浸透時期が五世紀末から六世紀初頭とする伝承の存在を考えますと、朝鮮半島に近い九州北岸部への伝来は更に遡ることが予想されるのです。しかし、前節で論究してきた「四一八年(戊午)伝来伝承」がはたして二十一世紀初頭の現在に残っているでしょうか。

 

  (2)糸島郡『雷山縁起』の証言

 『筑前双書』に「雷山縁起」という文書が収録されています。同縁起の表題には「雷山高祖縁起」とあり、「高祖」の下に「ナシ」と加筆されているところから、本来は「雷山縁起」と「高祖縁起」の両方が存在していたようです。その内容は「雷山縁起」「附録」「雷山千如寺法系霊簿」の三つからなり、「雷山縁起」は雷山にある上宮・中宮・下宮の由来などを記し、「千如律院草創芻 實相」による跋文には允恭天皇四年に縁起が選集され、寶暦九年(一七五九)に再選録したと記されています。「附録」は允恭以後寶暦九年までの記録等が記されています。「雷山千如寺法系霊簿」には千如寺の歴代の住職の名前が記されており、始祖清賀上人以後、のべ百八十七名にも及んでいます。時代にすれば、始祖清賀上人の「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一年庚子示化」から安永八年(一七七九)まで続いているのです。ちなみに「雷山千如寺法系霊簿」の冒頭部分は次のように記されています(旧漢字・異体字を一部改めました)。

 雷山千如寺法系霊簿

 始祖法持聖清賀上人   人王十三代成務天皇四十八年来朝
                 應神天皇十一庚子七月十五日示化
清辮上人 仁徳天皇御宇       圓賀上人 仁徳天皇御字
明辮上人 履仲天皇御宇       明遍上人 允恭天皇御宇
遍照上人 安康天皇御宇       圓明上人 雄畧天皇御宇
禅賀上人 雄畧帝代          行賀上人 清寧天皇御宇
覺賀上人 仁賢天皇御宇       圓瑜上人 武烈天皇御宇
圓融上人 繼躰天皇御宇       圓濟上人 同
仁済上人 宣化天皇御宇       恵濟上人 欽明天皇御字
恵観上人 同              恵達上人 敏達天皇御宇
智達上人 用明天皇御宇       恵到上人 推古天皇御宇
到岸上人 同              圓盛上人 同
叡意上人 舒明天皇御宇       叡詮上人 大化年中
敬天上人 斉明天皇御宇       光天上人 天智天皇御字
含曦上人 同              恵観上人 白鳳年中
観淳上人 朱鳥年中常山縁起撰録   行忠上人 文武天皇御字
行恵上人 大宝年中         圓祐 和銅元年二月三日(一字虫喰)
(以下、略)

 中でも注目すべきは、清賀上人が来朝したとされる成務天皇四十八年は戌午にあたり、仏教が戊午の年に伝来したとされる伝承に一致することです。ただ成務四十八年は『日本書紀』紀年によれば西暦七八年となるためそのまま信用できないようです。この点、史料批判が必要です。幸いなことに「雷山千如寺法系霊簿」には名前の下に年代が記入されており、それにより平均在位年数がわかります。
 比較的年代が確定できる三十代行恵上人(大宝年中・七〇一)から七十七代如慶(寛治五年・一〇九一)を定点にして平均在位年を求めると、約八・三年となります。この数値をもとにして三十代からさかのぼれば初代は西暦四六〇年頃となり、この付近の戊午年は四七八年ですが、初代の清賀上人の在位年数が長いことに注意しなければなりません。「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一庚子七月十五日示化」と非常識な在位期間ですが、この中の干支に注目し、戊午から庚子までの四十三年間の在位と考えれば来朝の時期は更に上り、戊午年は四一八年が最も妥当となります。あるいは十四代目の仁清上人が宣化天皇の御宇(五三六〜五三九)とされていることから、この代から十三代さかのぼる初代清賀の来朝を四七八年戊午とするのは無理で、やはり四一八年戊午が妥当となります。この帰結もまた中小路説と一致するのです。
 ところで、この縁起は従来どのように見られていたのでしょうか。『糸島郡誌』によれば、元亨年間(一三二一〜一三二四)の小蔵寺文書に聖武天皇の時に聖賀聖人の建立と記されており、こちらを正しいとし、成務と聖武は音が同じなので問違えたのであろうという見解を載せています。現在ではこの見解に従って、千如寺を天平年間の建立と紹介しているガイドブックが多いようです。その一例を紹介しましょう。

 大悲王院と雷山神籠石
 前原から南へ8km、田園地帯をぬけたバスは山あいの道を上り、大悲王院の下で終点となる。大悲王院(真言宗)は千如寺ともいわれ、寺伝では聖武天皇のとき、インドからの渡来僧清賀上人によって開山されたという。雷山の観音様として信仰を集めている木造千手観音立像(国重文)は、像高4.54mの木像で、清賀上人作と伝えられているが諸説あり、同寺の清賀上人坐像(国重文)とともに寄木造り、鎌倉時代後期の作と推定されている。そのほか堂内には多聞・持国の二天像、江戸時代作の二十八部衆も祀られている。また、鎌倉時代以来の多数の大悲王院文書(県文化)を蔵し、千如寺の歴史のみならず、糸島地方の歴史研究のうえにも貴重な史料となっている。(『新版福岡県の歴史散歩』福岡県高等学校、歴史研究会編、一九八九年)

 しかし、こうした聖武誤記説は成立しません。「雷山千如寺法系霊簿」の存在がそれを否定するのです。同系図には清賀から連綿と江戸時代まで続いており、二代目以下二十数人を無視して初代清賀だけを天平年間に持ってくることは困難です。また、後代の偽作とすることも採りがたいようです。何故なら欽明期の仏教伝来という定説を否定するような縁起や系図が後代に偽作されるとは考えにくいからです。その証拠に「附録」は次のような、欽明以前の成務天皇の時代に清賀が来朝した記事の「言いわけ」から始まっているのです。

 或るひと問うて云ふ、人王三十代欽明天王の時、仏法始めて弘伝す。何ぞ夫の皇后(神功皇后)の時に仏法有らんや。
 答ふ、天子の命を以て天下一統に仏法を弘通せしむるは、実に欽明を以て始めと為るなり。彼の漢土後漢第二の主明帝の時、仏法初めて度る。是れ我が朝第十一の主垂仁帝の時に当たれり。如し古の時、則ち和漢往来し、両つながら交渉を得ば、漢土に既に有るに、何ぞ聖僧等の我が朝に遊化する有るを妨げんや。
 況んや復た清賀上人の如きは、是れ持明仙人にして、石壁も礙ぐること無く、空に騰ること自在、凡情の測度すべからざるものなるをや。(以下、略) (中小路駿逸氏訳、原文は漢文)

 「附録」の筆者、實相の主張は次のようです。欽明期の仏法伝来とされるものは天子の命による「弘通」であり、ずっと昔より日本と中国とは往来があるのだから、後漢の時代に中国に伝わった仏法が欽明以前に日本に伝わらないはずがない、というのです。筆者には現代の通説よりもこの主張の方がよほど理にかなっており、ある意味では近畿天皇家一元史観にとらわれない健全な認識を感じとれます。また「附録」では次のようにも記されています。

 欽明天皇以前開闢の地(仏教が伝来した地)、本朝に数多なり。那智山の如きは、人王十二代景行天皇の御宇、七人小船に乗りて来たる。六人は本国に帰り、那智山の景を愛でて住し、乃ち如意輪観音を安んず。時の人、称して裸行上人と曰ふ。
 按ずるに、尓の時、未だ僧徒有らず。是れ天竺の沙門、行化の為の故に日本に来たり、袈裟を被て偏へに右肩を袒ぐを以て、日本の人、見て、裸形と、言ひしならん。唯だ雷山のみに非ず、その類多し。(同訳)

 欽明以前の仏教伝来は雷山だけではなく、例えば那智山の裸行上人もインドから景行天皇の時代に来たし、こうした例は日本各地にあるのだと言っているのです。これなどは多元的仏教伝来説とも言うべきものでしょう。こうして見ると江戸時代の人々の方がはるかに自由な歴史観を持っていたようにさえ思われます。やはり同縁起は、仏教が戊午の年に当地に伝来したという伝承が記された貴重な文書のようです。しかも伝えた僧侶の名前や系図まで残っていたのですから。
 なお付け加えますと、同縁起・法系霊簿(福岡県立図書館所蔵本コピー版による)の余白部分には異筆により次のような書き込みがあります。

○「妄加言」(『雷山縁起』阿育上塔縁起第二の上余白部分)
○「妄言」(『雷山縁起』一夜出現伽藍縁起第四の上余白部分)
○「右偽妄面皮イカホドアツキヤ 仏ボサツノ照覧ヲ不慴ヤ」(『雷山縁起』跋文余白部分)
○「ヒラメニ云ヘシ 大ウソ ヨフモ書ツツケタルヤ(以下五字不明)」(『雷山千如寺如法系霊簿』上余白部分)

 これらの「落書」が示すように、同縁起の内容が読者(時代不明)にとって「妄言」と映っているのです。しかしこの「読者」の判断とは逆に、私には同縁起が偽作ではなく、誇脹や修飾が加わってはいるものの通説とは異なった古代の真実を伝えている、という心証をこれらの「落書」から感じるのですが、いかがでしょうか。また清賀や雷山千如寺伝承は、『太宰管内志』にも少なからず紹介されています。例えば同書に引用されている「雷山詔書」に次の記事が見えます。

 筑前國雷山千如寺僧等解状稱、當山者、水火雷電神之開山、神功皇后宮之御願也。(略)法持上人開發(略)建長七年三月十九日 参議忠棟源大納言殿。(『太宰管内志』筑前之三)

 このように建長七年(一二五五)の事件を記した中に、清賀が神功皇后の勅願により建立したことがふれられており、伝承の存在が鎌倉時代までさかのぼれることがわかるのです。この点、「雷山千如寺法系霊簿」により歴代の住職の名前がわかっているので、他の文献による確認が可能と思います。
 この縁起や系図が九州王朝系の記録であるとすれば、仏教伝来以外の記事も俄然蓋然性を増してきます。たとえば縁起には水城の築造記事もあり、興味がもたれます(上宮中宮社壇祭祀縁起第三)。また、天孫降臨の場所として筑紫日向高千穂くしふる峯の細注に、今高祖山と言うは訛りなりとして、古田氏が論証されたように天孫降臨の場所が当地であると記されています(上宮増岐大明神鎮坐縁起第一)。
 考えてみれば、雷山が我が国における仏教伝来の地であったとしても不思議ではありません。邪馬壹国の時代から九州の玄関口であったし、何よりも倭国王墓がある糸島半島を見下ろせる位置にあり、九州王朝の菩提寺にふさわしい所と言えます。こうしてようやく私たちはわが国に仏教を伝えた僧の一人、清賀の存在を確認することができたのです。(注⑪)

 

  (3)油山伝説と清賀

 わが国に仏法をもたらした清賀は地元福岡市や糸島市では「油山伝説」とともに有名のようです。また、糸島市には清賀が建立したとされるお寺があります。『糸島郡誌』によると、先に紹介した雷山千如寺を含め、次の寺院(現存しないものもあります)が清賀建立とされています。所在地は『糸島郡誌』(昭和二年発行時)に記された地名表記のままとしました。

○雷山千如寺     雷山村雷山 
○浮岳久安寺     福吉村吉井
〇一貴山夷巍寺   一貴山村一貴山
○大用山小蔵寺   長糸村小蔵
○染井山霊鷲寺   怡土村大門 
○鉢伏山金剛寺   今宿村上原
○種寶山楠田寺   加布里村東

 これら七ケ寺は「恰土郡七ケ寺」と呼ばれています。中でも雷山干如寺は七ケ寺の筆頭とされ、現在でも大悲王院文書など貴重な文化財が伝わっています。七ケ寺以外にも次の寺院が清賀建立と記されています。

○塔原寺       一貴山村唐原
○朝日山遍照院    周船寺村
○萬歳山光明寺    北崎村小田
○不知火山瑠璃光寺  可也村火山
   (以上、『糸島郡誌』による)
○東油山正覚寺    福岡市東油山
   (『日本寺社大観』による)

 こうした清賀建立の寺院を紹介したのは他でもありません。地元では清賀伝承が今でも息づいていることをわかっていただきたかったからです。それでは次に「油山伝説」をご紹介しましょう。『糸島郡誌』今宿村「油坂」の項に次のように記されています。(ほぼ同文が『太宰管内誌』に記されていますので、『糸島郡誌』は『太宰管内誌』から引用したものと思われます。)

 油坂は大字青木の東北五町長垂山の南糸島早良両郡の境なる小濱より南に転じて山間を越え青木の廣石池の上に至る道なり。昔筑前五所勅願寺の燈油料に住持僧清賀早良郡油山に居て胡麻を多く作り油を搾りて五寺に送りけり。或時油山の住僧寂恩(忍--古賀注)と清賀と油交易の争論を起こしける。太宰府より其由を聞て数人を遣し押へて油を五寺にも遣はさず太宰府に取らんとせしが、清賀瞋恚を発し長垂山にて油瓶を打破りたり。是に依りて其所を油坂と云ふ。其後油を送ること長く絶えたりと云ひ傳ふ。(『糸島郡誌』)

 この伝承は大変興味深い内容を含んでいます。まず、清賀の他に寂忍(『太宰管内史』による。『糸島郡誌』に寂恩とあるのは誤植か。)という僧の名前が記されていますが、仏法初伝が清賀一人によってなされたのではないことがうかがえます。さらに、おそらく九州王朝の都である太宰府から役人が派遣され、油を持ち帰ろうとしたので、清賀が法力で油瓶を割ったとありますから、この時代の仏教はまだ国家統制下におかれていないような印象を受けます。そうすると、後代の国家により保護・統制された国家仏教ではなく、仏教伝来初期に成立した説話伝承ではないかと想像できるのです。少なくとも、勅願寺が表れていながら近畿天皇家の天皇や官僚名が全く登場しない同説話を、九州王朝内の説話と見なすことは妥当と思われるのです。
 また『雷山縁起』や地元の伝承では、清賀は百済僧ではなくインド(天竺)僧とされています。イ妥国伝の分析では仏教は百済から伝来したように見えたのですが、清賀が天竺僧とされるのは一見おかしいようにも思えます。しかし百済への仏教伝来が胡僧摩羅難陀とされていることを思いだして下さい。胡僧とありますから、おそらく西域・天竺出身と思われますが、その百済経由で同じく天竺僧清賀が渡来したとすれば、やはり偶然とは思えない一致点と見なせるのではないでしょうか。
 以上、清賀についての地元伝承を紹介しましたが、次に『雷山縁起』の系図に記された僧について検討します。

 

  (4)高麗僧恵観

 「雷山千如寺法系霊簿」に二十七代目恵観上人の名前があります。「白鳳年中」とその在位時期が記されていますが、実は他の文献に白鳳年間の人物とされる恵観という僧侶のことが見えるのです。

○湯川は多羅菩薩の垂跡にして、恵観凡位顕はし畢んぬ。高麗の人なり。(「諸山縁起」岩波日本思想文学大系『寺社縁起』所収)
○天武天王御宇、白鳳十四年甲戌、導師高麗國恵観僧正。(『私聚百因縁集・巻八』「役行者之事」)

「諸山縁起」は鎌倉初期以前の成立とされ、九州年号の「僧聴三年(五三八)」が記されています。『私聚百因縁集』は正嘉元年(一二五七)の成立です。これら二書に恵観のことが記されているのです。「恵観」という名前の僧侶は歴史上何人かいるようですが、この恵観は「雷山千如寺法系霊簿」、二十七代目の恵観上人のことのように思われます。とりわけ『私聚百因縁集』の恵観の記事は白鳳十三年と年代が一致するので同一人物の可能性大です。このように「雷山千如寺法系霊簿」に見える歴代の住職の一人がどうやら実在の人物のようですから、聖武期開山説は更に困難となりそうですし、調査が進めば他の僧侶の実在性も証明できるかもしれません。今後の重要なテーマです。

 

4.仏教は四一八戊午年に九州に伝来した

 仏教伝来戊午年伝承の探求は、『隋書』イ妥国伝・『筥埼宮記』より伝来の地が北部九州であったこと、また『日本書紀』推古紀・『元興寺伽藍縁起』・『上宮聖徳法王帝説』よりその年次が四一八年であったことに行き着きました。そしてこの二つの結論の結接点として糸島郡『雷山縁起』の清賀伝承を発見しえたのでした。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。わが国仏教界において釈迦に次いで語られるべき恩人、清賀の恐らくは苦難に満ちた伝教の生涯を知ることはもはや不可能のように思われますが、その名前が歴史学の一隅に置かれることを念じて止みません。
 人間が自らの存在を深く認識した時に、おそらく同時に知ったであろう生老病死の四つの根元的な苦しみを救済する教えとして、釈迦の発した言葉は時と人を得ながら東流したものと思われます。氷雪の高峻を越え、灼熱の砂漠を横切り、あるいは怒濤の大海を渡り、時に権力の迫害を被り、殉教の徒を出しながら、無名の民衆に支えられて今日に至った人類の一大精神遺産、仏教。そのわが国への伝来と初伝僧の追求をテーマとした本稿も許された紙幅が尽きました。おそらく、文体・論証ともに世の研究者・識者の潮弄を浴びることと思いますが、完全な無視の運命にあわねば、この論文にとって望外の幸とするところです。

 

  (注)

①中小路駿逸「万葉集と九州王朝」、『シンポジウム邪馬壹国から九州王朝へ』所収(古田武彦編、新泉社)、一九八七年。

②中小路駿逸氏によれば、ここでの「文字有り」とは、国内での公用、すなわち、王と臣下のあいだ、臣下と臣下のあいだでのやりとりに、結縄・刻木とならんで、そしてやがては結縄・刻木にとってかわって、漢字、または漢文が使用されはじめたという意味であろうとされています。その上で、結縄・刻木から漢字(国内公用)への切り換えの開始と仏法伝来(公伝)の上限は五世紀初頭(四一八戌午年)である蓋然性が大であるとされました。
 中小路駿逸「結縄刻木から漢字漢文へその時期と仏法伝来の年代とのかかわりをめぐって」、『濱口博章教授退職記念国文学論集』所収(和泉書院)、一九九〇年。

③塚本善隆「日本古代仏教の浄土教的受容」、『日本浄土教史の研究』所収(藤島達朗・宮崎圓遵編、平楽寺書店)、一九六九年。

④中小路駿逸「結縄刻木から漢字漢文へ --その時期と仏法伝来の年代とのかかわりをめぐって」、『濱口博章教授退職記念国文学論集』所収(和泉書院)、一九九〇年。

⑤中小路駿逸「古田史学と日本文学」、『市民の古代』十集所収(市民の古代研究会編、新泉社)、一九八八年。
   「万葉集と九州王朝」、『シンポジウム邪馬壹国から九州王朝へ』所収(古田武彦編、新泉社)、一九八七年。

⑥末松保和「新羅仏教伝来伝説考」『新羅史の諸問題』(東洋文庫論叢)所収、一九五四年。

⑦川岸宏教「仏教の流伝と仏教文化の形成」『論集日本仏教史・1飛鳥時代』所収(川岸宏教編、雄山閣出版)、一九八九年。

⑧古田武彦『盗まれた神話』(朝日新聞社、一九七五年。ミネルヴァ書房より復刻)

⑨古田武彦『古代は輝いていたⅢ』(朝日新聞社、一九八五年。ミネルヴァ書房より復刻)

⑩笠原賢介「日本書紀」用明二年条に見える豊国法師についての疑問」『市民の古代』十一集所収(市民の古代研究会編、新泉社)、一九八九年。

⑪「四一八(戊午)年、仏教は九州王朝へ伝来した --糸島郡雷山縁起の証言」『市民の古代研究』三九号所収(市民の古代研究会編)、一九九〇年にて同縁起について同様の結論を緊急報告しました。

【初出】『古代に真実を求めて』第一集(古田史学の会編、一九九六年三月。一九九九年五月に明石書店から復刻)


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