『古代に真実を求めて』第七集
歴史のまがり角と出雲弁・2・ へ


<講演記録> 二〇〇三年一月十八日 於:北市民教養ルーム

歴史のまがり角と出雲弁2

人類の古典批判

古田武彦

 二 出雲弁と東北弁

 さて次に移ります。この問題が、今回の講演のメインテーマです。出雲弁の問題です。なぜ出雲弁が古代史に登場するか、不思議に思うかも知れません。それで出雲弁はズーズー弁であることが知られている。ズーズー弁は東北地方に決まっていると考えられるかも知れません。もっとも東北プラス関東の茨城県北部まで入るようですが。そこから実は飛び離れて出雲にズーズー弁が存在する。最近は北陸も入るということですが、これはおそらく北陸もズーズー弁の一要素を持っているということだと思います。現在のところは、東北と出雲を対象に問題を考えてみたいと思います。
 そこまで聞かれたなら、直ぐ思いうかべる小説があります。松本清張氏の名作『砂の器』という推理小説がございます。東京蒲田で殺人事件が起こりました。被害者が前日の夜あるバーで、誰かと言い争いをしていました。そのバーの店員に捜査員が話を聞いてみますと、どうも相手の人はズーズー弁をしゃべっていた。その相手の人が被疑者ではないか。ズーズー弁であれば東北です。しかもその会話の中で「カメダ」という名が、何度も出ていました。それで東北に「亀田」があったので、捜査員が何度も行きまして調べましたが、東北の亀田からは被疑者は浮かび上がらなかった。それで迷宮入りになると思われましたが、他の捜査員が島根県の出雲もズーズー弁であると聞きこんできました。そこで出雲のカメダを探してみようということになりました。そこで出雲を探してみると、われわれ古代史の方から言いますと荒神谷の近く、そこに「亀嵩かめだけ」がありました。そこを調べますと、図星で被疑者は浮かび上り、そこに犯罪の原点があることが分かりました。そこから先は推理小説の種明かしですから言いませんが、とにかく東北と出雲がズーズー弁であることは間違いがない。その『砂の器』で松本清張さんが扱っておられる地図が、東条操編の「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)です。東北から茨城にかけて、そして飛び離れて出雲があります。絶海の孤島のように出雲が存在しています。
 これにわたしは関心を持ちまして島根県教育委員会へ問い合わせを行いました。そしてたくさんの資料を送っていただきました。それを見ますと、現在でも東条操さんの『日本方言地図』と大きな違いはないようです。島根県の東半分が出雲ですが、西側の岩見の国、ここはズーズー弁ではないようです。今度は東の鳥取県、ここもズーズー弁ではないようです。東京で講演したとき司会をされた方は、鳥取県の西の端の高等学校出身でしたが、その方にお聞きしますと、出雲地方から県をこえて来ていた生徒はズーズー弁でしたと言ってました。
 なぜこのようなことを、盛んに調べて言っているのか。それは、ここにあげておきました出雲の国引き神話を分析いたしました。四方から国を引いてきたという神話(国引き神話『出雲風土記』)、ここで神様が国を引いてきた先は、
  一番目は新羅紀(しらぎ)の三埼
  二番目は北門(きたど)の佐技(さき)の国
  三番目は北門(きたど)の良波(よなみ)の国
  四番目は高志(こし)の都都(つつ)の三埼

 この中で、一番目(新羅)と四番目(能登半島)につきましては、異論は一応ありません。ところが、わたしは二番目と三番目につきましては、従来の考え方に納得できなかった。岩波日本古典文学大系では、二番目の佐技(さき)の国は、鳥取県大社町の鷺浦(さぎうら)。三番目の原文の良波(よなみ)は島根県にはありませんので、くるしまぎれに書き間違いだろうとしています。その上で、岩波では八束郡島根村農波(のなみ)。間違えて良波(よなみ)と書いたのであろうとしています。『魏志倭人伝』において、邪馬台国を間違えて邪馬壱国と書いたのだろう。それと、まったく同じ方法です。このように原文改訂をおこなって地名を当てるというのは基本的に反対です。
 それに同じ出雲の中から国を引っ張ってきて大出雲が出来るという考えは基本的におかしいと思う。蛸の足食いのような話です。その証拠に一番目と四番目はまったく出雲ではない。やはり出雲でないところから国を引いて来て、大出雲が出来るということに意味がある。つじつまが会う。それでわたしは、この岩波注はダメだと考えました。
 それで考えてみますと、出雲から北にあって四つの内、二つが北門(キタド)の国。これは、新羅のような小さい国ではなくて、ひじょうに大きい国のようだ。それで出雲から見て北にあって、「門」と言えば港であるようなところ。そう言うならばウラジオストックしかない。それでわたしは北門(きたど)の国はラジオストックを中心とした領域である。そういう仮説を、出雲荒神谷の発掘で行われた講演会で発表しました。みんなぽかーんとして聞いておられた。
 わたしとしては、これを確かめたい。それで一九八七年の七月から八月にかけて行われた訪ソ団に、阪大の藤本和貴夫さんにお願いして古代史の学者として一人加えていただきました。政治経済の話でしたが、わたしだけ古代史の話をさせていただいた。それでウラジオストックにある黒曜石の鏃(やじり)を調べる。もし、わたしの仮説が正しければ、縄文時代に出雲とウラジオストックに交流があった。なぜ縄文時代かと言いますと、金属器が使われていない。木の杭と綱で国を引っ張っているから、この説話は縄文である。国生み神話がありますが、これは(銅)矛と(銅)弋(か)を使っているから弥生の神話である。それとは逆に金属器を使っていないから縄文である。さらに追加として、杭をくくりつけるところにあたる火神岳(ひのかみだけ)。これは大山(だいせん)であることは地理的に見て疑いがありません。ところが大山(だいせん)は縄文時代は初め三分の一しか火が燃えていない。これも後で分かったのですが縄文時代を三分しますと、縄文時代の前期しか大山(だいせん)は噴火して燃えていない。縄文時代の中期は、火がほとんど出ていない。噴火の残欠状態。縄文時代の後期、終りはまったく休火山、火山活動を停止していた。これは火山学者の報告が出ています。そうしますと、わたしの考え方では火神岳(ひのかみだけ)と言う以上は、目の前に炎が出て燃えていなければ、そういう言い方は出来ない。今は燃えていない。昔は燃えていました。だから火神岳(ひのかみだけ)ですという言い方はできない。やはり盛んに噴火していて、火を噴きあげていなければ「火神岳」という言い方にはならない。そうしますと、この国引き神話は縄文時代前期からの神話ではないか。
 とにかく国引き神話は縄文神話である。そのように考えました。縄文時代にウジオストックを含んで神話を作った。それならウラジオストックと交流があったはずだ。そうであるなら、出雲の黒曜石の鏃(やじり)がウジオストックから出なければならない。そうであるなら、出雲の黒曜石の鏃(やじり)がウジオストックから出なければならない。出ているはずだ。このような論理的結論を導きました。頭の中で、そのような理屈を考えました。頭の中の理屈で考えただけですが、やはり現地に行って確かめねばならない。それでウラジオストックへ行きました。しかし、これは見せかけ失敗。その博物館は一年半休館中でダメだと言われました。わたしは休館中であることは知っていましたが、大丈夫であると考えてウラジオストックへ行きました。別に博物館の展示物を見学することが目的ではない。手にとって実際に見せてもらいたい。倉庫に入って黒曜石を調査したい。それで見せていただきたいと申し出たのである。休館中でもかまわない。それに日本にいては、とても交渉できない。現地に行って交渉しなければならないと考えて、ウラジオストックへ行きました。しかしダメだと言って見せてくれない。当時のソビエト連邦では、情報公開の方針が出ていましたが見せかけだけで、わたしが良く言ってますが、川の畔で三人がたたずんで、ソ連の学者が「モスクワは遠いです。」と言っていたのは、生涯忘れません。
 しかし八ヶ月後、吉報がもたらされた。一九八八年五月一〇日火曜日(平田英子さん日付調査確認。深謝)、早稲田大学考古学実験室で講演であり回答がもたらされた。ソビエトの学者が二人来られ発表が行われ、最後にわれわれがもってきた黒曜石の産地を報告しますと言われ、ウラジオストック周辺一〇〇キロ範囲内の約三十数個の遺跡出土の七十数個の黒曜石の鏃を示した。そして立教大学理学部の鈴木正男教授によって分析(屈折率測定)された結果が発表された。
 黒曜石の屈折率測定を測定すると産地が分かる。黒曜石のすばらしい特徴です。産地は隠岐の黒曜石が五〇パーセント。四〇パーセントが北海道の赤井川が産地の黒曜石。(男鹿半島は間違い。訂正されました。)他は不明。
 不明というのは、対照資料がないので分かりません。このように報告されました。赤井川は函館のすぐ後ろ。実際に使われているのは山内丸山を含む津軽海峡圏で使われている黒曜石です。一番後ろで聞いていましたが、まるで天井が頭にぶつかるような興奮を覚えました。やはり、わたしの出した仮説はやはり正しかった。証明された。今の事実は考古学界の間では有名です。
 しかし、この事実を使う場合は、わたしの名前を一切カットして使っています。縄文時代の黒曜石の伝播という結果のみを扱ってます。しかし、わたしにとっては、古代史の(思考)実験の最後の一コマです。これは明らかに、わたしの問いかけに対するロシアの学者の回答であることは間違いない。わたしが、早稲田大学に呼ばれたこと自体がそうであり、ロシアの学者にも後日お会してお話いたしました。今までのことは、わたしの著作に書いてあり、言ったりしているので皆さんは百も承知のことだと思います。しかし考古学者や歴史学者は、わたしの意見はすべてカットして、いっさい知らない振りをしている。
 もう一つ、この提起は神話学者が無視している。今の話は考古学的に意味があるだけでなくて、『出雲風土記』などの神話が縄文神話であったという証明になり得た。神話学者は、津田左右吉などの影響で『記・紀』『風土記』などの神話は、縄文時代にさかのぼるとは、誰も言ってはいません。もっともっと後世のものである、そのように言っている。ところが縄文神話であったという裏書きが取れた。そのような大事件であるけれども、神話学者は一切そのようなことはなかったという前提で書かれていて、縄文神話であることを認めない。
 これには、もっともな理由がありまして、「国引き神話」という縄文神話の存在を認めると、今度は『記・紀』の「国生み神話」が、弥生の神話であるということを認めざるを得ない。わたしは、「国生み神話」の分析から、「国引き神話」へと入って行ったのです。「国生み神話」は弥生の神話である。津田左右吉が言ったように、六世紀の大和朝廷の歴史官僚が勝手に造作した。デッチあげたという考えは嘘だ。ダメである。弥生における九州王朝、九州博多湾岸の弥生の王者が、自分の立場を正当化するために、この「国生み神話」を作った。
これも話をもう一歩進めて言いますと、博多湾岸の弥生の王者が、このような自分の立場を正当化する神話をつくって流布させなければならないという事は、彼らが博多湾岸の正当な支配者でなかった証拠である。よそ者である証拠である。かれらが縄文以来の伝統を持つ正式な王者であったならば、何もこんな作り話を流布して自分たちの権力を正統化する必要はない。どうせ矛のようなもので水を垂らしても大八島や国が出来るはずがない。(『古代に真実を求めて』六集神話実験と倭人伝の全貌」講演記録参照)
 彼らがこのような作り話・ウソ話を流布してまで、自分たちの正統性を主張しなければならないということは、彼らが本来その土地の正統の支配者でなかった証拠である。わたしはそこまで書いたことはないけれども、問題は論理的にそこまで行き着く。つまり天照大神(あまてるおおかみ)の天孫降臨という名の侵略は、不当な征服と侵略であったというその歴史事実から、この話を作らざるを得なかった。そのようなことを含めて認めざるを得ない状況になる。ですからこの「国引き神話」という縄文神話だけ認めましょう。後の弥生神話は知らんよ。そのような訳には、いかない。それに博多湾岸の弥生の王者が、この弥生神話を作ったとなると、博多湾岸に弥生の中心権力があったことを認めることになる。そうしますと三世紀の卑弥呼(ひみか)も九州博多湾岸ではないか。その方向に、論理的に話が進行する。だから相手にとって、いやな予感がする。だから古田が縄文神話を証明した。それが本当であっても、ウソだ。そんな話は聞かなかったことにしよう。そのように無視するしかない。

 それで元の話に戻り、新しいテーマに移ります。
 今の話で考えると、おかしいことがありませんか。ウラジオストック周辺一〇〇キロメートル四方の話であるとしても狭い地域の話です。三十数個の遺跡から出た七十数個の黒曜石の分析結果です。一〇〇キロメートル平方という大きさは、広いようで狭い。比較して計ってみましても近畿地方ほど広くはない。近畿地方の三分の二ほどです。広いと言っても、考えるほど広くはない。世界地図の視点から見れば、ウラジオストックという点の範囲でもある。それでウラジオストックで使っている黒曜石は、分かっている黒曜石を使っている地方は、ズーズー弁を使っている地方である。出雲はズーズー弁。東北も、もちろんズーズー弁の地帯。出雲ズーズー弁を使っている地方の、隠岐の黒曜石が五十パーセント。東北地方というズーズー弁を使っている地方の、赤井川産の黒曜石が四十パーセント。つまり分かっている百パーセントの黒曜石を使っている地域が、ズーズー弁を使っている地域。このようになりませんか。わたしは、これに気がついて愕然(がくぜん)としました。こんなことが偶然一〇〇%起こる事は、考えられるでしょうか。偶然と言いますのは、たまたまウラジオストックに輸入業者が居て、出雲へ行って出雲の黒曜石を輸入した。はたまた東北へ行って赤井川の黒曜石を輸入した。現在なら、そのようなことは考えられますが、当時としては考えられません。それで一番適切な考えは、(ウラジオストックで)出雲の黒曜石を使っていたのは出雲人である。(ウラジオストックで)東北の黒曜石を使っていたのは東北人である。こう考えるのが普通ではないですか。つまり黒曜石と人間をセットにして分離しないで考える。黒曜石を人間付で考える。分かっている百パーセントの人間はいずれもズーズー弁を使っている。これしか考えようがないではないか。
 それでいくつものケースを考えてたどり着いた結論、一番分かりやすい結論は、ウラジオストック人自身がズーズー弁を使っていた。つまり粛真(しゅくしん)・靺鞨(まっかつ)と言われた人は、遊牧・騎馬民族と呼ばれた人はズーズー弁を使っていた。そのような人が出雲に来て、出雲人になりすました。日本列島に来たからといってズーズー弁を止めるわけではない。ズーズー弁のままで、二十一世紀を迎えた。こんどはズーズー弁のままで津軽に来たから、東北人はズーズー弁になった。いずれも元は同じ言語・発音の人々である。このように考えれば、偶然別の地方から人が集まって一緒になったという頭が割れる考えをせずに済む。粛真・靺鞨と言われた人が日本列島に来た。こちらの考え方のほうが、よほど納得できる考えになる。この考え方にも、裏付けは、いろいろありました。
 まず出雲の国引き神話。四方から国を引いてきたという神話。今回よく考えれば、この考えは間違いです。いまさら気がついて恥ずかしい。それは一番目の新羅紀(しらぎ)の三埼。ここには国という言葉がない。同じく四番目の高志(こし)の都都(つつ)の三埼。ここにも国という言葉がない。これは原文を見ていただければ、すぐに分かります。ところが二番目と三番目だけは国という言葉が付いています。ですから四方から国を引っ張ってきたという言い方は正しくない。二方から国を引っ張ってきたという話です。二方と言っても北門(きたど)の国からだけ、国を引っ張ってきた話です。一番と四番は後からプラスされたものです。対等に四つの国を引っ張ってきた話ではない。わたしもいままで、なぜこんなことが分からず四つの国を引っ張ってきた話と扱ってきたのか。恥ずかしい話です。ですから本質的にこの話は、北門(きたど)の国から、国を引っ張ってきた話です。
 それで国とは、土地だけ引っ張ってきても国とは言わない。やはり人間が引っ付いていなければ国とは言いません。これは結局、北門(きたど)の国から、人間が出雲に来たという話です。
 驚くような理解ですが、語句を一つ一つ正確に読み取り、原文の内容を正確に理解するならば、このような理解ができる。これは明らかにウラジオストックから出雲に人間が来たというメッセージが、この神話の核心にある。

 もう一つの方、津軽・東北、これはみなさんお馴染みでしょうが、『東日流外三郡誌』に存在する有名なテーマです。史料は、五十嵐徹良(青森市民古代史の会)さんが、東北弁で朗読されてテープをお聞きいただけますが、ここでは有名な津保化族伝話を挙げておきます。

  津保化族伝話(東日流外三郡誌 古代編・抜粋・語文訳 五十嵐)

  津保化族之事
   奥州東日流奧法郡飯積邑 石塔山 鹿羽覇岐神社(大山祗神社)
       鎮座御神体守護由来書による

ーーー(前略)ーーー。また語り部に曰ふらむ歴史ぞ次のごとし。
 津保化族なる祖に於ては、阿蘇辺族なる移り民ぞ渉りき不解氷の世になる同族なりと曰ふも、北をさしゆけし民にて、氷国永住の民なれど、故地にもどらむとて立寄き民なり。而れども、東日流に到りては豊かなる狩猟及び森林の多ければ、故地への帰らむを諦らむや。是の地に永住を定めたり。彼の王にあるはオテナとぞ曰ふも、位に在る期ぞ少なし。即ち、老いては退き、病に伏しては退き、愚考なれば退ぞかしむる故なり。阿蘇辺族と争ふるの間にして、言語合通じ、茲に併合せるとき、大挙して移りきたる邪馬台族あり。この攻防激闘たるも、農作を以てくらせむ衆住の邪馬台族ぞ、先住の民なる狩猟の地を侵犯せることなければ、併合して荒吐族となれり。而乍ら、そのくらし異なるに、永きに渉り兆騒の起こりきも、神なる崇拝併合にて相和せりとぞ伝ふらむ。津保化族なる意にして、都母族、ヌップ族とも曰ふなり。今にして遺れるヌカンヌップ、即ち糠部、都母らなる地ぞ、東日流侵駐前なる津保化族の居住地なり。
 茲に、東日流語部の印語に遺れる津保化族の史伝を抜抄せん。
 日輪の四角に見ゆ国、五色の光明を放つ宇宙光臨ぞ見ゆ国、鹿牛、海獣魚無窮の国、また果なき大国にして長髄の馬郡遊せる国、南に降りて常夏の極楽国、これ紋吾呂夷土民の遠征せる国にて、東日流より東海の彼方に在りし国とて、地海の果つる国、ポロイシカと曰ふ。
 いかでやその国を棄ていでたる都母人。尋ぬれば、はるけき太古に、祖々の渉りき故国、西に在りとて伝ふるに、そを見届けなむに氷海千里の旅ぞ冒したるに、着いたる国ぞ東日流宇曽利の地なりとぞ曰ふ。
 移りきときに於てをや島なす大筏を組にして、馬を積み、海を漂う八十五日を経むに、飢えもせず、乗人死にもせず安着せし処をヌカンヌップ即ち、都母と称し、自らを津保化族と号せしは、故土の抄なりと曰ふ。彼の故土に於て、幾百万の津保化族栄ひ、雲を抜ける如き石神殿を造りきあり、千兵万里、馬を乗りて駆け、飢ゆるなき大草原に鳥獣群を狩り、また猛きには牛を一打に殺す大猫、巨木をも倒す大熊、群ずる狼、音なす毒蛇、さそり、毒くも虫は海かにの如く大なりて、南に及ぶるに猛き怪物密住せりと曰ふは津保化族が刺青に見らるなり。津保化族が先つ代より馬に乗りて駆けたるは、先なる祖人が渉り着きけるとき、二十三匹の馬をもつれきたる故なり。また、豆種、穀種をも蒔きけるは馬糧たりしも、後世に於て人の飢えをしのぐに到りぬ。依て、東日流に移駐せしは、阿蘇辺族西より、津保化族東より来たる民なり。かくして邪馬台族の侵領ぞ南より来り、添へて唐韓人なる漂流民ぞ相併せしを以て、荒吐族となれるは、われらが血肉に相継ぐ過却の歴史にて、命脈偽らざる実相なり。 語部、帯川の作太郎に曰はしむる、

 これは『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』の中でも、有名なテーマです。
 『東日流外三郡誌』の言っているところでは、まず最初に粛慎(しゅくしん)と言われる人々が日本列島に入って来た。沿海州にいた粛慎と言われる遊牧民族というか狩猟民族。別名にミシハセとも呼ばれますが、その粛慎の一派である族が、まず最初に日本列島に入ってきた人間達である。そのようなことが書かれてあります。この話は、わたしは非常にリーズナブルであり、理性的です。なぜかと言いますと、日本列島と言いましても、実際は日本半島というか大陸の一部です。今でも冬は樺太(サハリン)のところは、大陸と氷でつながっています。歩いて来ることが出来ます。ですから昔は、もっとつながっていた。
 一方で沿海州に人間がいたことに反対する人は誰も居ません。中国の歴史書にも殷・周の頃から粛慎との交流が書かれています。その人間が、半島となった日本に遠慮して来ないというようなことはない。日本列島では魚なども良く取れるし暖かい。当然入ってきていることは間違いがない。これは推定ですが、これ以外の推定は無理です。しかし『記・紀』には、そのような話は記載されていない。『記・紀』は中途半端というか、南の方、関西関係が主であって、こちらの北方関係の話は欠如しています。どちらをひいきにするという話でなくて、『東日流外三郡誌』には、非常に自然なことが書かれています。
 しかも、これは言語の面からも裏付けがあります。証明は省きまして結論から言いますと、阿蘇辺(あそべ)族の「アソベ」ですが、「ア」は接頭語、「ベ」は部族の意味です。「ソ」は結論から言いますと、これは神様の意味です。神様を指します。
 これも一言言いますと『新古今集』の研究者で、有名な久曽神(きゅうそじん)さん、これは、もとはクソガミさんだと思いますが。この名前は、「ク」は不可思議なるという意味の誉め言葉、「ソ」は神様。「クソ」さんだけでも良いが、「カミ」という解説付の名前になっています。
 このように「ソ」が神様と考えますと、分かりやすい地名が幾つもあります。木曽の御嶽山の「ソ」。神様であると言えば、一度に納得します。阿蘇山の「ソ」も神様です。「ア」は接頭語です。「熊曽」もあります。対馬には浅茅(あそ)湾、京都の舞鶴湾、これは明治以後の名前で、もとはアソ湾です。これらの「アソ」は、同じ意味の「アソ」であるということに、反対の人はいないでしょう。同じ言葉で別々の意味だという人はいないでしょうから。つまり日本列島の北から南まで、「アソ」「クソ」「キソ」という言葉が存在する。今は一例だけですが、その一例でも日本列島各地に粛慎のアソベ語が存在する。ですから粛慎人の阿蘇辺(アソベ)語が、日本人の地名の基礎的な言葉になっているということは、わたしは疑っておりません。ですから最初に日本列島に粛慎人の粛慎語が入って来たという考えは非常にリーズナブルであると考えます。理性的である。
 その次に、日本列島に非常に変わった形で入ってきたのが靺鞨(まっかつ)です。この靺鞨も、粛慎と並んで狩猟・遊牧民族として有名です。この靺鞨も黒竜江の広い範囲に存在しています。黒竜靺鞨。この黒竜靺鞨さえも、靺鞨全体としてはごく一部で、それぐらい広大な中央アジアから東アジアに広がっています。その靺鞨(まっかつ)の一派の津保化族。彼らは東を進んで、今でいうベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に入った。南下して行って熱帯地方へ行った。大トカゲや熱帯植物の話が書いてあります。一代ではありません。何代に渡って行きました。それで、どの岬なのか分かりませんがUターンした。
 それでアラスカ南西部から、海流に乗って祖先の地(ウラジオストック)へ帰ろうとした。海流に乗って来た結果、青森県の下北半島に着いた。そこを、彼らはオソレと名づけた。日本語で恐山(おそれざん)という当て字になっています。本来はオソレ。それで彼らは暖かかったので、その一帯に住み着いた。そのような伝承です。
 そこに「豊かなる狩猟及び森林の多ければ・・・飢ゆるなき大草原に鳥獣群を狩り、また猛きには牛を一打に殺す大猫、巨木をも倒す大熊、群ずる狼、音なす毒蛇、さそり、毒くも虫は海かにの如く大なりて」とあり、暖かかったと見られる事が書いてあります。最近の調査では、津軽半島の海底に貝の化石が層になってたくさん出てきました。それらは東北には現在存在しない貝の化石である。西日本から沖縄にしか存在しない貝の化石である。それが青森陸奥湾西海岸の縄文時代の層に、貝の化石が存在する。だから縄文時代は、暖かかったのです。
 この暖かかったということも『東日流外三郡誌』の記録に対する一つの裏付けです。それ以外に、わたしなりに、この記録に対して海流の専門家に裏付けを取ったことがございます。最初どこへ問い合わせしたらよいか分かりませんので、各所に問い合わせ、最後は気象庁の海流の専門家にお聞きすることになりました。アラスカ西南端から筏に乗って漂流すれば、どこに着くでしょうか、とお聞きしました。もちろん『東日流つがる外三郡誌』のことは、言っておりません。海流の専門家は少し首を傾けましたが、「季節によりますが五・六・七月であれば下北半島に着くことが多いでしょう。」と答えました。「下北半島」とは、こちらが誘導したわけではありません。また「五・六・七月」と係官が答えたのは、後で考えますと他の時期は寒いからとても無理だろう。その季節なら人間が筏に乗っても行けるのでは、と考えたのでしょう。わたしは、もしかして、この記事はリアルではないかと考えました。さらに「どれくらいの日数がかかりますか?」と尋ねました。少し待って下さいと答え、いろいろな海図を幾枚も重ねて目の前で計算を始めました。三十分近く待たされ、ようやく計算が終了したのか、言われました。「そうですね。二ヶ月では無理ですね。三ヶ月近くかかるのではないですか。」と係官は答えました。本当にぎょっとして驚いた。それは先ほどの「津保化族伝話」の中に、「八十五日を経むに、飢えもせず、乗人死にもせず安着せし」とあり、「八十五日」と書いてあります。合っています。この瞬間に、この記事は嘘ではないと考えたのです。八十日ないし九十日かかります。この時は、もっぱら『東日流外三郡誌』に対しても疑心暗鬼で、慎重に対処しないと判断は出来ないと考えていた時期でした。さらに『東日流つがる外三郡誌』「津保化族伝話」、わたしは、これの裏付けとして黒曜石の伝播を考えました。津保化族が津軽に住むこと決める。永住すると決めるのは勝手ですが、住み着いて祖先を忘れるということはあまりない。あちらこちら移り住んでいて苦労しているときは、とても祖先の墓参りも出来なかったが、落ち着いてくれば、やはり祖先の墓も作ってお参りしよう。むしろ永住の地を、住むところを決めたものほど、故郷を大切にするのではないでしょうか。そういう人情が自然ではないか。このように考えて、ウラジオストックと連絡を取り、交流したのではないか。
 そうしますと、先ほどのウラジオストックに存在した四十パーセントの津軽海峡圏の黒曜石。一九八八年五月聞いたときは、五十パーセントの隠岐の黒曜石が問題でしたが、その時、頭になかった残る四十パーセントの黒曜石。これは縄文後期にかけてです。
 青森県三内丸山は縄文中期から後期にかけてです。一部ダブった時に、黒曜石の往来がある。まさに落ち着いたときに、ウラジオストックと交流を持った。わたしの頭の中の空想が、ここでも裏付けられた。

 実はこの点に関しては、以前から一部裏付けられていました。それは皆さんご存じの仙台の多賀城碑。ここにいろいろな里程が書いてある。

      京去一千五百里
  多賀城
      蝦夷国界去一百二十里
      常陸国界去四百二十里
      下野国界去二百七十四里
 西  靺鞨国界去三千里
    此城神亀元年此歳次甲子按察使兼鎮将
    軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
    也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
    節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
    将軍藤原恵美朝臣朝獏*修造也
        天平寶字六年十二月一日
   
   獏*は獣偏に葛。JIS第三水準ユニコード7366

 ここには、蝦夷国、常陸国、下野国の国名と距離が書かれています。分からないのは「靺鞨去三千里」。何故ここにいきなり靺鞨(まっかつ)が出てくるのか。『記・紀』からは、この記録の意味が分からない。(したがって、偽作説が出てくる。)ですが『東日流外三郡誌』からは理解できる。靺鞨から、どれぐらい離れているのか。この石碑はだれでも知っている。しかし、この石碑の金石文の書いてある意味は、『記・紀』からは解けない。「靺鞨去三千里」という言葉も、今言った「津保化族伝話」からは分かりやすい。
 ついでながら、津軽では千島海流のことを「親潮」と言います。なぜ「親潮」と言うのかは、尋ねましたが誰も知らない。今の学校の教科書からは理解できません。ところが『東日流外三郡誌』からは、説明できます。先祖のことを「親」とも言いますから、「親潮」は、先祖がやってきた流れという意味です。「黒潮」の「黒」、これは「神聖な」という意味で、「黒潮」これも良い意味ですが、「親潮」も、これに劣らず良い名前です。歴史を語った名前です。
 ですから『東日流外三郡誌』を偽作だと、ばかばかしいことを言っているから、分からない。これを史料として、まともに取り上げたら、より良くいろいろなことが理解できます。
 もう一つ追加で申し上げます。昨年の五月二〇日ごろ、アメリカスミソニアン博物館のメガーズ博士からお手紙が来ました。三内丸山遺跡の放射能年代測定の数値、同じく大阪市博物館下郷(しものごう)コレクションの放射能年代測定の数値を知らせて欲しいと言ってきました。これらの薄い板状土偶の出土地と放射能年代測定の数値を知らせて欲しいと言ってきました。それで調べましたが、幸いにもすべて分かりました。
 三内丸山遺跡、これは縄文中期ですが、この放射能年代測定の数値を教育委員会より送っていただきました。論文が出ていますから。
 それから今度は、下郷(しものごう)コレクションの場合。下郷さんの場合は、滋賀県の近江商人で、明治・大正時代のたいへんなお金持ち。鉄道会社、保険会社、銀行それに、自分で博物館を持っておりました。その方が、最後に大阪市博物館に寄贈されたことが分かりました。この場合、物は良いのですが、出土地が分からないのが普通です。納入した骨董業者が言いたがらない。盗品と間違われても困りますので。今回の場合は、そのような心配はぜんぜんなかった。なぜなら関東地方の東浦遺跡の出土物を全部一括して買い取られて持っておられた。この東浦遺跡は千葉県の銚子と茨城県の霞ヶ浦の間の遺跡です。もちろん放射能年代測定の数値は明治・大正時代ですから分かりません。ですが茨城県の教育委員会に問い合わせいたしますと、わたしのことを良く知っておられ、非常に好意的に動いていただき、猛烈なスピードで調べて頂いた。
 その教育委員会の方が言われるのに、「もちろん、その遺跡自身の放射能測定の年代は分かりません。しかし周辺の遺跡で、放射能年代測定の数値が分かっている遺跡があります。この遺跡と同類の遺物が出土する遺跡を調べれば分かるのではないでしょうか。」と言われました。
 それで昨年の五月の終わりには、発掘の調査報告書が来ました。それを見ると周辺の遺跡の放射能年代測定の上限と下限が分かる。その中に入るから東浦遺跡は、この当たりの年代でしょうと報告がありました。ありがたいことです。それで、われわれの分かりやすい言葉で言えば、東浦遺跡は縄文後期その時期に当たる遺跡でした。
 エバンズさんが、なぜ三内丸山と東浦遺跡の土器の放射能年代測定を調べて欲しいと言ったのかは、送ってきた板状土偶の写真を見れば分かります。その板状土偶はカルホルニア州とユタ州から出てきました。その土偶は、三内丸山の土偶とそっくりです。それでエバンズさんは、カルホルニア州とユタ州から出てきた板状土偶は、三内丸山から伝播したと考えられたらしく、それで放射能年代測定を確認したいと言ってきました。だからカルホルニア州とユタ州から出てきた板状土偶の放射能年代測定の数値がいちばん先頭に書かれています。
 ところが調べてみると逆だった。まず関東の東浦より三内丸山は古い。この両者の関係は、海上であれ陸上であれ三内丸山からの伝播です。このように考えても両者の間に何の問題もない。問題は三内丸山とカルホルニアの方です。カルホルニアのほうが千年古いのです。ユタ州から出てきた板状土偶の放射能年代測定は、カルホルニア州より少し新しいが、それでも三内丸山より少し古い。
 エバンズさんのお手紙の中身を言うのは少し問題ですが、学問的な問題に限って言わせていただきます。エバンズさんは「これらの土偶は、日本の板状土偶を作る技術を十分習得していなかったものと思われます。」と書かれていて、カルホルニア・ユタのほうが三内丸山より稚拙であると理解されていました。わたしはこれでピンときました。つまり、それもあり得るかも知れないが、本当にそうか。簡単に言えば、カルホルニア・ユタから出てきた板状土偶のほうが古ければ、三内丸山より幼稚で稚拙である。より発達したほうが三内丸山の板状土偶である。稚拙と上手の関係は。もちろん師匠さんより、真似をした弟子が稚拙である。そういうことは概念としてはあり得るが、その逆のケースもある。これはわたしの仮説でしたが、はたして調べてみると、三内丸山よりカルホルニア・ユタの放射能年代測定のほうが古かった。放射能年代測定の順序は、カルホルニア州、ユタ州、三内丸山の順です。これは伝播の方向は素直に考えればアメリカ大陸から日本列島へとなる。エバンズさんは、学術発表会に間に合うように、早く放射能年代測定の値を知らせて欲しいと言っていましたが、結果を見て困られたのではないか。
 わたしは単純にまず放射能年代測定の結果をお知らせした。その次に、一言感想を付け加えた。これは伝播の方向は素直に考えれば、アメリカ大陸から日本列島へとなる。カルホルニア・ユタから三内丸山へ向かっているのでは、ないでしょうか。さらにわが国には『東日流外三郡誌』という伝承が残されていることを連絡した。もちろん、それだけでは納得されないでしょうし、よく分からないでしょう。
 ここでも『東日流外三郡誌』の「津保化族伝話」が裏付けられた。しかもアメリカ大陸から来たと書かれてある。このように放射能年代測定からも、「津保化族伝話」が裏付けられた。
 しかもご丁寧なことに「津保化族伝話」には「馬を積み」と書かれてある。これも不思議なことです。これも現在の通説では日本の馬は、中国から日本列島に入って来た。皆さんもそのように聞いておられると思います。これは東京古田会の事務局を永らく担っておられた馬の専門家である田島さんに確認しました。
 ところが不思議なことを聞いたのです。地球上で最古の馬が存在したのは北アメリカなのです。ただし、それは小型馬です。とにかく小型馬が北アメリカにいたことは間違いない。遺跡というか骨が出てきています。これは馬の世界では常識です。ただしこれらの馬は絶滅して、われわれが知っている大きく立派な体格の馬が別個にアジアに出てきて活躍している。小型馬と現代の馬は別個のものです。これが現在の通説です。しかし、わたしの考えは、たとえ小さくても馬の姿をしたものが北アメリカに存在していたのが事実であるなら、いったんゼロになるだろうか。それから別個に似たような大型の馬がアジアに表れるのでしょうか。小型馬がいったん絶滅して、似た姿の大型馬が別のところから表れた。そのようなことは話としてはありうるが、実際はどこかでつながっているのではないか。われわれが知らないだけで、別の世界であると言っているだけで、アジアの馬とどこかでつながっているのではないか。そのようにしろうとなりに想像しています。
 ところが「津保化族伝話」では、「島なす大筏を組にして、馬を積み、海を漂う八十五日」と、馬を連れて来たと書かれてある。また馬神山(ばしんさん)という山。和田喜八郎さんのいた石塔山の北側にありますが、そこに連れて来た馬を葬ったとあります。これもなんとなく無視できない話です。
 言い始めたついでに、もう一言。オシラ様の問題。オシラ様を知っていますか。女と男の神様ですが、女は普通のお姫さまですが、男は馬です。要するに男は、馬そのものに人間の服装をさせたものです。これも不思議な話です。これも中国から入ってきて東北で神様に化けたと言いますが、途中の東海や近畿・中国地方では馬に化けた神様はいません。それがいきなり東北で馬に化けた神様を祭った。これはどうも文明が違うのではないか。そのような感じを持っていました。オシラ様の問題、これは急ぎませんが課題として挙げさせて頂きます。
 今の話から、さらにもう一言申させて頂きます。
 日本における二つのズーズー弁。それが一方ではウラジオストックから出雲に来た。他方は、東に行って帰りにアラスカから下北半島に来た。そういう仮説によって、これらの問題が解けるのではないか。

 さて、北門(きたど)の国。これは日本語ではないか。そんなことは決まっていると言われるでしょうが。北門(キタド)がウラジオストックに代わった。ウラジオストックは「東方征服」という、とんでもない言葉だ。あの東方とは日本のことではないか。ウラジオストックから東には日本ぐらいしかない。(笑い)それを地名にするとは、良い度胸をしています。しかし、その地名はロシア語だ。新しい地名だ。その前はキタドだった。間に中国語が入ってきますが。『風土記』の記録では、韓国の場合、日本では「新羅」と呼んだことは誰でも知っている。能登半島の場合は、「越」と呼んだことは誰でも知っている。同じようにウラジオストックの場合は、キタドの国だったのではないか。もちろん間に、中国語は挟んでいますが。
 それで、いきなり話が飛びますが、「江戸」を「東京」と代えた。「東京」という地名、これもかなり心臓が強くなければ言えない近畿言葉です。近畿の人間が見るから東にある。東京の人間が見たら、東には海しかない。近畿の人間がやってきて、これから支配するぞ。もう将軍さまの時代ではない。天子さまの時代である。そういうメッセージが地名に込められている。われわれは、そのようなことを考えずに使っていますが。それで「江戸」を「東京」になおした。しかし大字(おおあざ)・小字(こあざ)は、江戸以前地名だらけである。赤坂・銀座・四谷など江戸以前の地名があふれている。これはアメリカもそうです。インディアンの付けた地名が軒並みある。ユタ州などもそうだろう。イギリスでも、ノルマン民族以前の地名がたくさん残っています。メイド・イン・キャスルもそうです。要するに征服者は中心地名は、取り替えますが、新しい地名で、征服者が来たことを教育できる。それを大字・小字まで、全部自分たちの言葉に代えるという、そんな勤勉な征服者を、わたしは見たことがない。そこまでやると被征服者が従わないのではないか。だから主な地名だけを、征服者の地名に取り替える。わたしの理解では、そのように理解しています。
 としますと、ウラジオストック周辺の大字・小字の地名には、日本語地名がたくさんあるのではないか。そのように考えました。それで日本にいて調査は無理です。だいたいウラジオストックの地図がない。なぜ、ないのかと聞きますと、ウラジオストックが軍港だからです。わたしが幼いとき過ごした広島県呉も軍港だから地図がなかった。今はありますが。ウラジオストックは、今も生きている軍港です。だから無理ですと言われました。しかし現実に生きている人は、地図がなければ生活できない。現地に行けば地図は手に入りますと言われました。それで、こうなれば現地に乗り込まなければダメである。そのようになりました。乗り込んで大字・小字を調べよう。それで今悩んでいる。一週間ぐらいでは絶対ダメです。一月でも難しい。出来れば一年、少なくて二・三ヶ月が必要です。それで住み込んで調べる。現地の住んでいる人にあって、それも、いろいろな人に会って喋っていただいて、発音をテープに取って研究したい。あるいはより良いのは、ズーズー弁を使っている人に一緒に行っていただく。現地人の喋りを聞いてもらう。
 それで国立民族学博物館初代館長の梅棹忠夫さんに、昨年十二月お電話をしてお会いし、お話を聞きました。それでおもしろいことをお聞きしました。靺鞨であるならば、ツングースです。ツングースの言葉は、非常に使いやすいです。梅棹さんは、モンゴル探険記で有名な方です。モンゴルの前は、興安嶺に行きました。それで単語さえ覚えれば、あとは日本語と同じようにツングースの言葉は簡単に喋れます。ただ発声が難しいです。そのように言われました。高校生の雑談のように、ワイワイガヤガヤと一時間半雑談に近い形で、お話をお聞きしました。側で聞いていた京都大学大学院生の方から、帰りがけに、梅棹先生は発音が難しいと言われましたが、ズーズー弁であるということと、なんらの関係はないのでしょうか。今日もテープを持ってきましたが、聞くことは出来ますが、喋れと言われても発声が難しい。そうするとツングースの発声が難しい理由の一つがズーズー弁にあるのではないか。
 それで今、『記・紀』からは分からない新しい世界が開けてきて、大変興奮しております。(休憩)

会場での質問と回答
  ーー但し編集部で再構成

質問一
 ウラジオストックから人が出雲や東北地方に来たと聞いて、今びっくりしているところです。ですが従来どおりというか、出雲の人がウラジオストックへ行った。東北の人がウラジオストックへ行った。そう考えても、今のところ、それで良いのではないかと思うのですが。そのあたりの問題の理解が出来ないので、もう少し話していただきたい。 ーー

 
 これも、考え方としてはそのとおり。ありうる。先ほど結論から言いました。最初考えていたのは、その方向で考えていました。つまり日本からウラジオストックに行ったと最初考えていました。ですが考えて、すぐ行き詰まりましたのは、ウラジオストックまで出ていく人間が、すぐお隣の石見には行かない。鳥取にも行かない。広島にも広がらない。ウラジオストックばかりに出ていく。それでなんとなくおかしいと考えるようになった。それもあり得ると言っても、なにかおかしい。
 同じような問題に、[王夬]状耳飾の問題がございます。これは中国江南にカボト遺跡があり、そこから[王夬]状耳飾が九州から北海道まで日本列島に伝播した。そういう説があります。ですがその説は、なんとなく、しっくりしない。机の上では、そういう説明は出来るかも知れないが、それならば中国江南から北海道までは、かなり遠い。それならば中国大陸内陸部には、[王夬]状耳飾はぜんぜん伝播していない。陸地はいやで海ばかり出ましたというのも、なんとなくおかしい。わたしはそうではなく日本列島から江南へ。たとえば信州あたりから南は中国江南へ、北は北海道へ行ったという考え方のほうがまだ分かりやすい。くわえて最近は別の問題が出てきまして、中国遼東半島の北の方から、カボト遺跡より放射能年代測定が古い[王夬]状耳飾が出てきました。また山東半島からも出しました。韓国西海岸からも出てきている。これら全体を含めて説明しなければならなくなってきています。ですから中国江南から伝播したというのはたいへん無理があります。
 同じような意味で、出雲が原点でウラジオストックへ行った。日本列島内部の周辺は相手にしなかったという考え方は、少しおかしい感じがする。それと出雲から行ったという立場の場合は、こんどは同じく津軽から行ったということになります。それでは、同じズーズー弁の津軽の人が、ウラジオストックへ行って、偶然出雲の人に会ってあなたも同じズーズー弁ですね、と尋ねることになる。。小説としては楽しいが、リアリティーがない。それで結局、どうも逆ではないか。向こうから人が来た。つまりウラジオストックの人が日本に来た。靺鞨・粛慎の人々が日本に来た。そういう立場なら、出雲国引き神話も煮詰めてみれば、それを語っているし、いわんや『東日流外三郡誌』も、それを語っている。両方ともリアルである。

質問二
 『日本書紀』に阿部比羅夫が、ミシハセ征伐に行ったということが出ているのですが、沿海州に行ったのであろうとばくぜんと考えていました。ですが北海道の場合はアイヌ民族が居ますから、その場合当時北海道ミシハセ族(粛慎)が居たのであろうか。そのあたりを、どのように考えられていますか。

 
 『日本書紀』に出ています阿部比羅夫の遠征の記事。わたくしは大和朝廷の記事ではなく、九州王朝での存在であると考えています。そして黒竜江の河口まで遠征している。行った理由は、『日本書紀』からは分かりません。そのように考えます。阿部比羅夫についても、これは東北の阿部・安東氏の系列であると理解しています。
 それで付け加えますが元寇の時、フビライが黒竜江の河口まで遠征している。その時日本の東北地方が、たいへんな飢饉におちいっていた。フビライは、そこで遠征用の食料を東北地方に送って、黒竜江の河口から引き上げた。それで東北の民が救われた。それでフビライが東北では神様になっている。事実人形を作って拝んでいます。記録と伝承もあります。これを『東日流外三郡誌』では、元寇の時のこととして、記載されています。ですから軍事的な要点として黒竜江の河口がある。そこへ阿部比羅夫も行き、フビライも行ったことは間違いがない。
 それと粛慎と『日本書記』に記載されたミシハセは同じと考えても良いか。そのような質問ですが、これは、そのとおりだと思います。ただ『日本書記』に記載されたミシハセというのは、その一部だと考えます。靺鞨・粛慎については、一少数部族として捉えていますと問題が矮小化される。粛慎は沿海州の広大な領域に分布しています。北海道にも居たでしょうし阿蘇部族も居た。居るのはあたりまえです。
 『日本書記』で、ミシハセという言葉に言い換えると、なんとなくちっぽけなように我々はかんがえてしまう。ミシハセではなくて粛慎として理解する。
 一例をいいますと一九八七年、ソビエト連邦(当時)のウラジオスットクへ行ったときの参加者に、女性の政治学者ですが、日本のふつうのおばさんと、そっくりの方がいました。そっくりの体型の方がおられ、これも靺鞨系列の人である思っています。


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『古代に真実を求めて』第七集

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