六
近年わたしは、『東日流外三郡誌』に相見した。寛政年間(一七八九〜一八〇一)、津軽の学究、秋田孝季と妹りく、その門弟和田長三郎吉次(りくの夫)の三者によって、書写・執筆された、厖大な群書類成である。これを逐一検査する中で、従来の世評に反し、その中に「偽書の面影」の片鱗も見出せぬことに驚いた。もちろん、孝季自身の歴史観の中には、近世の学者としてまぬかるるをえなかった、幾多の誤解は存するものの、その書写・成文の中には、一つとして「みずから、それを史実に非ずと知りつつ、他に真実と信ぜせしめんとする」ような箇所、その一片さえも発見しえなかったのである。
もちろん、わたしの接したものは、既刊のものと共に、若干の未公開写本にすぎぬから、いまだ和田家所蔵(石塔山 (7))文書の全貌に接しているわけではないため、最終の判断をなしうる立場にはないけれど、少なくとも、学問的探求の対象として、貴重の文書であること、わたしには疑うことができない。
現在までに公開されたものは、孝季自筆本に非ず、明治の再写本(和田末吉筆写)であるから、これらの写本の紙質、筆跡等の科学的検証こそ重要である。その一部につき、わたしは中村卓造氏(昭和薬科大学教授)の御協力をえて、顕微鏡写真・電子顕微鏡写真等の撮影を行ないえた。当該研究の第一歩、出発点として、次ぺージにかかげた。もって斯界研究者にとっての学問的常識とならんことを望むものである。(8)
註
(1)〜(6)他の頁なので省略
(7)青森県五所川原市、和田喜八郎氏。石塔山にその神社(荒覇吐神社)がある。
(8)もちろん、他の「超古代史」「古史・古伝」の類、各別にして同軌をもって論ずることができないけれど、いずれも、同じく、慎重にして客観的な学問的研究の対となすべきこと、いうまでもない。
(『九州王朝の歴史学』「偽書論論じて電顕撮影に至る」)