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大越邦生
推古女帝を中央に、左右に聖徳太子と蘇我馬子を配し、天皇の前にかしずく豪族の頭上にまさに冠を授けようとしている。小学生の参考書にこのような挿し絵がある。推古朝の冠位十二階は、日本人の常識である。
しかし、私には違ったように見える。「こうした光景はなかった」。これが、私の本論で述べようとする主題である。
『日本書紀』と『隋書』イ妥*国伝や『旧唐書』倭国伝の「冠位十二階」の記述には重大な相違がある。
イ妥* (タイ) 国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO 以後表示は省略
A 内官に十二等あり。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数なし。(『隋書』イ妥国伝)
B 官を設くる十二等あり。(『旧唐書』倭国伝)
A、Bは、隋から唐にかけての日本の位階制度である。隋、唐から見た日本の位階は、一貫して十二等である。『日本書紀』はどうだろうか。(史料C・D)
C 十二月の戊辰の朔に壬申、始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并て十二階。(『日本書紀』推古十一年)
D 十二月の春正月の戊戌の朔に、始めて冠位を諸臣に賜うこと、各差あり。(『日本書紀』推古十二年)
推古朝の冠位制度は、大化三(六四七)年まで行われ、改変されている。「七色十三階の冠位」の制定である。推古朝の冠位十二階は、翌年に正式に廃止され、さらに、その翌年には「冠十九階」が制定されるというあわただしさである。(史料E・F・G)
E 是歳、七色の十三階の冠を制す。一に曰く、織冠。大小二階有り。二に曰く、[糸肅]冠。大小二階有り。三に曰く、紫冠。大小二階有り。四に曰く、錦冠。大小二階有り。五に曰く、青冠。大小二階有り。六に曰く、黒冠。大小二階有り。七に曰く、建武。《一部省略》(『日本書紀』大化三年)
F 夏四月の辛亥朔、古き冠を罷む。左右大臣、なお古き冠を着る。(『日本書紀』大化四年)
G 二月、冠十九階を制す。一に曰く、大織。二に曰く、小織。三に曰く、大[糸肅]。四に曰く、小[糸肅]。五に曰く、大紫。六に曰く、小紫。七に曰く、大花上。八に曰く、大花下。九に曰く、小花上。十に曰く、小花下。十一に曰く、大山上。十二に曰く、大山下。十三に曰く、小山上。十四に曰く、小山下。十五に曰く、大乙上。十六に曰く、大乙下。十七に曰く、小乙上。十八に曰く、小乙下。十九に曰く、立身。(『日本書紀』大化五年)
繍[糸肅]は糸偏に肅。繍の異体字。JIS第三水準ユニコード7E61
以上見てきたように、孝徳朝になって、位階制度の変転はめまぐるしい。冠位制は、その後もつぎつぎと改変されている。
(天智三年)冠位二十六階
(天武十四年)親王・諸王十二階諸臣四十八階
さて、『日本書紀』と『隋書』・『旧唐書』を比較して、私にはひとつの不審がある。『書紀』は、推古十一年に始まる冠位十二階が、大化三年に終焉していると述べる。それに対し、中国側はそれが連続していると見ているのである。次の史料Hを見てもらいたい。
H 十二月癸丑、倭国、琥珀、瑪瑙を献ず。琥珀、大なること[豆斗]の如し。瑪瑙、大なること大[豆斗]器の如し。(『旧唐書』本紀高宗上永徽五〈六五四〉年)
『旧唐書』には、貞観五(六三一)年、貞観二十二(六四八)年の朝貢記事もあるが、右が倭国としての最後のものである(日本国の朝貢は、長安二年に始まる)。
ここには、「倭国が琥珀、瑪瑙を献上した」とだけ記されているが、物品の献上だけがなされたはずはなく、倭国使節が随伴してきたことは間違いない。また、その使者の名に、肩書となる官位がついていたことも同様に疑うことができない。すなわち、『書紀』の冠位関連の記事が正しいなら、この琥珀と瑪瑙を献上した永徽五年の使節には、「冠位十九階」の冠位が授与されていたはずであり、『旧唐書』倭国伝の史料Bは「官を設くる十九等あり」となっていてこそふさわしいのである。
こうした齟齬に対して、「唐側の不注意」とか「東夷の国に対する無関心」といった論は、成立しないであろう。なぜなら、『隋書』・『旧唐書』の夷蛮伝を一読してわかるように、周辺諸国の位階制度に対する中国側の関心にはなみなみならぬものがある。そこは、各国の位階制度のオンパレードともいった状況なのである。倭国側の位階制度が改変されたにもかかわらず、気づかなかったという議論は、あまりにも稚拙であろう。
結論、『隋書』.『旧唐書』の記す倭国の「官十二等」は、書紀が記す近畿天皇家の冠位制度とは明らかに相違するという問題がここに提起されるのである。(ただし、冠位十二階については後述する)
疑問解明のためには、古田武彦氏の九州王朝説に立脚した検討が必要である。『隋書』のイ妥国、『旧唐書』の倭国は筑紫にあったという古田説を復習しておきたい。
I 其の国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と。(『隋書』イ妥国伝大業三〈六〇七〉年)
古田氏は、右の『隋書』イ妥国伝中の国書を、推古朝から隋朝にあてたものとする従来説には、五つの矛盾があり、「イ妥国=九州王朝」の等式を認めざるを得ないと結論づけている。五つの矛盾とは次のものである。
(1) 年代の矛盾
『隋書』イ妥国伝の最初に出現するイ妥国から隋への遣使は、開皇二十(六〇〇)年であり、『日本書紀』の推古紀にこの遣使がない。
(2) 男女の矛盾
イ妥国の王者、多利思北孤が男性であるのに対し、推古天皇は女性である。
(3) 王者と太子の矛盾
聖徳太子を多利思北孤に当てる従来説があるが、多利思北孤が倭王であるのに対し、聖徳太子は摂政である。仮に「聖徳太子=多利思北孤」ならば、推古天皇は、『隋書』イ妥国伝にいっさい姿を現さないことになってしまう。
(4) 地理の矛盾
『隋書』イ妥国伝に「阿蘇山有り」の記載がある。これは、イ妥王が「九州の王者」であってこそふさわしい。それに対し、推古天皇ならあってよいはずの大和の三輪山などがイ妥国伝中に出現しない。
(5) 王朝の矛盾
『隋書』イ妥国伝における中国側の王朝名が「隋朝」であるのに対し、日本書紀の推古紀では、対中国国交の対象はすべて「唐朝」と記されている。聖徳太子の時代の対中国外交は、終始、唐朝(初期)に対する「遣唐使」である。一方、「遣隋使」を派遣したイ妥国は、推古朝とは別の「九州王朝」であった。
結論、『隋書』イ妥国伝・『旧唐書』倭国伝に登場する「官十二等」は、筑紫を都とする九州王朝で施行された位階制度である。
そうした視点から『日本書紀』の「冠位十二階」を見直してみると、新たな視野が開ける。
(a) 九州にいない被授者
まず気がつくのは、「冠位十二階」に叙せられた人物に、明確に筑紫や九州出身とされる者がいないという事実である。冠位授与の中心領域である九州の官僚が、書紀に名を連ねないというのは、今の命題に大きく反する。とすると、ここで事実を隠蔽しようとしているのは日本書紀の方であり、近畿天皇家以外の国内の王朝を認めないという八世紀の書紀編集の大義名分に基づいているとしか考えられない。九州や周辺地域に多数存在したはずの「官位」被授者群の名前は、そのほとんどがカットされたか、あるいは、あたかも近畿天皇家の被授者とされたと見なされるのである。
(b) 素性を特定できないほとんどの被授者
『日本書紀』の冠位被授者をぬき出し、分類すると 1).将軍 2).遣外使節 3).百済質 4).匠 5).豪族 に大別できる。
《将軍》
(推古三一) 大徳 境部臣雄摩侶
(推古三一) 小徳 中臣連國
(推古三一) 小徳 河辺臣禰受
(推古三一) 小徳 物部依綱連乙等
(推古三一) 小徳 波多臣広庭
(推古三一) 小徳 近江脚身臣飯蓋
(推古三一) 小徳 平群臣宇志
(推古三一) 小徳 大伴臣連某
(推古三一) 小徳 大宅臣軍
(舒明 九) 大仁 上毛野君形名
《遣外使節》
(推古十五) 大礼 小野臣妹子
(推古十六) 大礼 吉士雄成
(舒明 二) 大仁 犬上君三田耜
(舒明 二) 大仁 薬師恵日
(皇極 元) 大仁 安曇連比羅夫
(孝徳 二) 小徳 高向史黒麻呂
《百済質》
(皇極 元) 小徳 長福
《匠》
(推古一四) 大仁 鞍作鳥
《豪族》
(皇極元) 小徳 巨勢臣徳太
(皇極元) 小徳 粟田臣細目
(皇極元) 小徳 大伴連馬飼
(皇極二) 大仁 土師裟婆連
まず、将軍を検討しよう。将軍のなかに、『書紀』で唯一の「大徳」が表れており、他も皆、高冠位者ばかりである。ところが、『書紀』中、ほぼ冠位授与者の半数をしめているにもかかわらず、この十名の将軍たちは、すべて「他に見えない」人物ばかりなのである。蘇我馬子すら授与されていない最高位の大徳冠を、境部臣雄摩侶という、『書紀』中まったく無名ともいうべき人物が与えられている。前者九名が、任那救援の対新羅討伐軍だったことからして、彼らは、全国各地から集められた地方軍団の将軍だった可能性が高い。その新羅討伐軍派遣の主体も、九州王朝以外に考えられず、最高位の大徳冠を戴いた「大将軍境部臣雄摩侶」は、九州王朝精鋭軍の将軍にして対新羅軍の総司令官であったと考えられる。
最後の「蝦夷追討軍の将軍」大仁上毛野君形名は、地方豪族であったと見られるが、蝦夷討伐を命じ、「官位」を与えた主体も九州王朝であろう。
次に、遣外使節を検討しよう。古田武彦氏は、近著『失われた日本』で『新唐書』日本伝の解釈に新たな問題をなげかけているが、それを参考にしたい。
古田氏によると、『旧唐書』の数十年後に成立した『新唐書』日本伝は、『隋書』イ妥国伝や『旧唐書』倭国伝が記述することのなかった、隋朝以降の近畿天皇家の朝貢使節について記述しているという。(史料J)
J 次に用明、亦、目多利思北孤と日う、隋の開皇の末にあたる。始めて中国と通ず。(『新唐書』日本伝)
倭国分流王朝(近畿天皇家)は、六〇〇年頃、はじめて中国(隋王朝)と外交交渉を持った。そのさい、本家の倭国(九州王朝)の王者は多利思北孤であり、その「多利思北孤の代理(目多利思北孤)」を称して中国との国交を求めてきたという(目は「目代」、代理を表す言葉である。ただし『新唐書』の「用明=目多利思北孤」の理解は誤り)。
この理解に立てば、先の書紀に登場する六名の者は、多利思北孤の代理として近畿天皇家から派遣された遣外使節と見なされる。官位授与の主体は九州王朝であっただろうと推測される。
なお、隋書イ妥国伝の「小徳阿輩台」と「大礼哥多[田比]」を先の例に含めていないのは、言うまでもなく、九州王朝の使節であること疑問の余地がないからである。
[田比]JIS第三水準ユニコード6BD7
百済質の長福についても、当時の百済国・倭国の関係からして、百済が人質を差し出す相手国は、イ妥国(九州王朝)以外に考えられない。
このように見てくると、近畿天皇家で冠位十二階の冠位を授与されたと考えられる者は、書紀の中では、匠の大仁鞍作鳥、舒明天皇葬儀に代理として弔辞を述べた小徳巨勢臣徳太、小徳粟田臣細目、小徳大伴連馬飼、大仁土師裟婆連の五名しか残らないことになる。この事態は、「冠位十二階」という制度の本質を疑わせるに十分である。すなわち、近畿天皇家における「冠位十二階」の実態は存在せず、すべて九州王朝が実施した「内官十二等」の制度であったという理解である。この五名についても、なんらかの手続きを経て九州王朝の官位を手に入れた豪族群だったと推測するのは、はたして不当だろうか(鞍作鳥については後述する)。
さらに、『続日本紀』の冠位十二階について考察を進めたい。記事はいずれも薨去時のものであり、死去した人物の祖父が推古朝で冠位を授与されていたことを主張するものである。つまり、一種の「祖先伝説」といった性格を帯びた記事なのである。その三名の「位階・名・親族関係」だけをぬき出してみよう。
(1).和銅七年四月(七一四)
(a)中納言・従三位兼中務卿・勲三等 小野毛野(本人)
(b)小錦中 小野毛人(父)
(c)大徳 小野妹子(祖父)
(2).養老元年正月(七一七)
(b)中納言・従三位 巨勢麻呂(本人)
(a)直大参 巨勢志丹(父)
(c)小徳 巨勢大海(祖父)
(3).天平勝宝元年五月(七四九)
(b)中納言・従三位 大伴牛養(本人)
(a)大錦中 大伴小吹負(父)
(c)大徳 大伴昨子(祖父)
小野妹子以外は、巨勢大海も大伴昨子も書紀の推古朝には出現しない人物である。推古朝において、これら三名は間違いなく実在していたであろうが、その冠位については疑わしい。すなわち、自己の家系を格式化するために、推古朝の祖父にまでさかのぼり冠位を「後づけ」したと思われる事例なのである。
その根拠となるのが、小野妹子の例である。『書紀』に登場する妹子の冠位は大礼であり、薨去の時点で大徳に叙せられたという記事はない。にもかかわらず、大徳小野妹子を「昇進」と理解すると、六階の昇格(『隋書』の官位の順)となり、あまりにも不自然ではないだろうか。つまり、事実は異なる。大礼であった祖父の官位は、孫の手によって、後世、自己の家系の格式化のために改変された、これが私の理解である。
「冠位十二階の実態は、九州王朝の内官十二等である」という理解に立つとき、従来説の問題はどのように説明されるだろうか。
「冠位十二階」研究史において白眉とも称されるのが、「大徳四位説」である。『釈日本紀』においてすでに指摘されたところであるが、それを黛弘道氏が『冠位十二階考』なる論文にて補強・展開したものである。氏は、従来の徳冠が一位、仁冠が二位というように考えられてきた冠位十二階に、一、二、三位がないとする見解を発表した。それを、大化三年以前の旧冠位と、大化三年以後の新冠位の比較により立証しようとしたのである。この「大徳四位説」は、基本的に今日に至るまで承認されている学説といっていいだろう。次にその史料をあげる。
推古十一年 |
大化三年 |
大化五年 |
天智三年 |
(一 位) | 大 織 |
大 織 小 織 |
大 紫 小 紫 |
(二 位) | 大 [糸肅] 小 [糸肅] |
大 [糸肅] 小 [糸肅] |
大 縫 小 縫 |
(三 位) | 大 紫 小 紫 |
大 紫 小 紫 |
大 紫 小 紫 |
大 徳 小 徳 |
大 錦 | 大 花上下 | 大 錦上中下 |
大 仁 小 仁 |
小錦 | 小 花上下 | 小 錦上中下 |
大 礼 小 礼 |
大 青 | 大 山上下 | 大 山上中下 |
大 信 小 信 |
小 青 | 小 山上下 | 小 山上中下 |
大 義 小 義 |
小 黒 | 大 乙上下 | 大 乙上中下 |
大 智 小 智 |
小 黒 | 小 乙上下 | 小 乙上中下 |
建 武 | 立 身 | 大 建 小 建 |
(岩波『日本書紀』表一一 冠位・位階制の変遷より)
大化三年以前 | 大化三年以後 | |
巨勢徳太 | 小徳 (皇極二) | 小紫(大化五) |
大伴馬飼 | 小徳 (皇極二) | 小紫(大化五) |
高向黒麻呂 | 小徳 (大化二) | 大錦上(白雉五) |
薬師恵日 | 大仁 (舒明二) | 大山下(白雉五) |
阿曇比羅夫 | 大仁 (皇極元) | 大錦中(天智元) |
この説に対する私の見解を述べよう。
まず、表を見てわかるように、推古朝の冠位十二階と、孝徳・天智朝の冠位では、その内容に質量的な違いがある。冠位十二階が、儒教の五常を基本とした極めて理念的、抽象的な位階名であるのに対し、大化から天智にかけての冠位名は、すべて現実性・日常性の高い概念をもちいている(色、素材、自然・事物など)。ひとつの王朝内の価値基準が、短期間でこうも変わるものであろうか。この両者が同一王朝で施行されたと考えられてきたことこそ、私の目には疑問に思えてならない。
先述来の私の立場からするなら、この事態は、九州王朝の内官十二等制度、近畿天皇家の大化以降の冠位制度の並存という説明により解決される。さらに、その後、九州王朝に代わり権力を手にした近畿天皇家が、九州王朝の位階制度を、「冠位十二階」という名称で、あたかも自らが創造した制度であるかのように偽り、書紀の推古紀に挿入したとみるのである。
意外にも「九州王朝の内官十二等、近畿天皇家の冠位制」の命題は、『旧唐書』の倭国伝・日本国伝にも語られていた。(史料K・L)
K 官を説くる十二等あり。(略)貴人は綿帽を戴き、百姓は皆椎髻にして冠帯なし。(『旧唐書』倭国伝)
L 長安三年その大臣朝臣真人、来たりて方物を貢す。(略)進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分れて四散せしむ。(『旧唐書』日本国伝)
倭国伝に「綿帽」とあるのに対し、日本国伝に「進徳冠」とある。倭国(九州王朝)の「帽」、日本国(近畿天皇家)の「冠」。これほど明らかな対比が私たちの眼前に提示されていた。この事実を基に、『隋書』を検討してみよう。
M 内官に十二等あり。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数なし。軍尼一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く、今の里長の如はなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。
N その服装、男子は裙襦を衣る。その袖は微小なり。履は履*形の如く、その上に漆り、これを脚に繁く。人庶多くは跣足、金銀を用いて飾りとなすことを得ず。故時、衣は横幅、結束して相連ね縫うことなし。頭にもまた冠なく、ただ髪を両耳の上に垂るるのみ。隋に至り、その王始めて冠を制す。綿綵を以てこれを為り、金銀を以て花を鍍め飾りとなす。(『隋書』イ妥国伝)
履*は、尸の下に[彳婁]。JIS第4水準ユニコード5C68
従来、この記事M・Nをもって冠位十二階の根拠としてきたが、よく読むと、イ妥王が制定した冠は必ずしも「冠位」を指し示していないことがわかる。
まず、史料MとNの記事が、内容的に連続していない。Mが、内官十二等を含む軍制度の記述であるのに対し、Nは、イ妥国人の服装や外見的特徴を記述している。また、「冠制」が語られているのはNの文脈の中なのである。つまり、隋書に記されている「其王始制冠」は、倭国人の頭髪に関する風俗的記述の範囲を出ていないのである。もし仮に、この「冠制」をもって冠位十二階の意味としたいなら、隋朝の史官は、Mの文脈の中で「冠制」を語っていて然るべきである。「冠位十二階」という先入観ゆえに、私たちにそうした点が見えにくかったのである。
結論、唐朝の史官は、『隋書』イ妥国伝の「冠」イコール『旧唐書』倭国伝の「綿帽」という、両者同一の認識に立って記述している。言いかえるなら、隋・唐朝から見た九州王朝に、「冠位」はなかったのである。ここからも、九州王朝の内官十二等、近畿天皇家の進徳冠という二つの制度の「同時並存」の結論が導かれる。
当初の問題にたちかえろう。「大徳四位説」は、九州王朝の官位被授者が、その後、近畿天皇家の冠位制度の中でどのような地位を得たかという新たな視点から見直さなければならない。冠位十二階に一位から三位までが欠けているという疑問に対し、私は新たな解釈として、近畿天皇家の新秩序・組織体制づくりが進行し、従来の九州王朝の権威が弱まったという見解に立つのである。ここに「降格」という理解が生まれる。かつては誇るべき象徴と見なされた九州王朝の冠位授与者は、近畿天皇家の新たな体制の中では、冠位上適正な処遇を得られなかった。「大徳四位説」もそのような見地に立てば、極めて自然に了解されるのではないだろうか。
では、なぜ大化三年以降、九州王朝の官位の権威は、近畿天皇家において失墜したのであろうか。私は、その原因を、天智紀十年の次の記事に求める。(史料O)
O (天智十年春正月) 東宮太皇弟奉宣して、冠位・法度の事を施行ひたまふ。
古田武彦氏は、「日本国の創建」なる論文で、「冠位・法度の事」とは、
(1).大化元年から五年の間の十六の「詔・奏請・制」
(2).天智三年の「制」
を指し、「奉宣」と言っているのは、それらの施行を意味すると述べている。この説に立脚し、記事を冠位の視点から見るなら、大化三年、大化五年、天智三年の冠位制は、天智十年に実質施行されたといってよい。この天智十年という時間帯にこそ、九州王朝の内官十二等の官位降格の要因があったのではないだろうか。この時期の画期となる事件を振り返ってみよう。(書紀の「一年のずれ」は修正して示す)
(六六二)九州王朝の白村江における大敗戦
(六六四)百済滅亡
(六六八)高句麗滅亡
(六七〇)春正月の盛儀「冠位・法度の事」(『書紀』)
(六七〇)近畿天皇家の「廃倭国、建日本国」の宣言(『三国史記』)
大化三年の冠位施行が天智十年時点であるとすれば、「白村江」というメルクマールが、冠位制度にも影響を与えている可能性がある。白村江の敗戦による九州王朝の権力の衰退こそが、内官十二等の価値下落という事態を招いたのではないだろうか。
かつて坂本太郎氏は、井上光貞氏との郡評論争を終えて、次のように述懐したという。
「書紀は郡字に限って評字を使わずに、後世の用字を原則とした。しかし、冠位等については、後代『大宝以後』のものに改変された跡がないのは疑問である」
私は、坂本氏の疑問はこれまでの考察から解明されたように思う。推古朝の冠位もまた、後代「大宝以後」の視点から改変されていたのである。
九州王朝の行政単位「評」は、九州王朝の存在を隠すために大宝以後の視点から「郡」に書き換えられた。「冠位」はその逆である。近畿天皇家のオリジナルであるがゆえに特筆大書されたのである。加えて、内官十二等は、『隋書』にもあることから隠蔽するわけにもいかず、「大宝以後」の視点から書きかえられることとなったのである。
私の言う「大宝以後」の視点とは、元明・元正以降、天智が定めた法により即位することを謳った「不改常典」の詔勅である。その内容は、天智十年の「冠位・法度の事」の施行を指す。また、そのうちの「冠位」の実質は、天智三年、大化五年、大化三年の冠位・位階制度を意味する。このように体系化された制度が「不改常典」の背景にある。その大義名分に基づき、九州王朝の内官十二等は、郡評字同様、後代の「不改常典」の視点から、「推古朝の冠位十二階」という形に変改の手が加えられたのである。つまり、「官」は「冠」に書きかえられ、近畿天皇家の冠位制度の中に取り込まれたのである。
最後に、本論文の核心部分に入ろう。『隋書』イ妥国伝にある官僚の位階制度、内官十二等の「内官」とは何だろうか。『隋書』夷蛮伝中「内官有」と記されているのは、イ妥国伝だけである。他の諸国は、すべで「官有」の形で書かれている。例をあげよう。
官有(略)凡十二等(東夷伝高麗伝)
官有十六品(東夷伝百済伝)
官有十七等(東夷伝新羅伝)
ただし、南蛮伝林邑伝に唯一の例外として「外官」がある。(史料P)
P 外官分為二百餘部。其長官日弗羅、次日可輪、如牧宰之差也。(南蛮伝林邑伝)
「外官」は、「内官」と対をなす概念であると共に、官僚組織を意味する語である。
「内官」
(1)宮中、又は京師に在勤している侍衛の臣
(2)宮中の女官
(3)宦官
「外官」
(1)政府の官吏
(2)地方官
(3)王朝時代の地方官。国司、郡司、大宰府、鎮守府等の役人の称。
(諸橋『大漢和辞典』)
ここでは、どちらも(1)の意味、王室担当の官吏「内官」に対し、政府の官吏「外官」の意味とみてよいだろう。しかし、イ妥国の「内官」について、組織の中身にまで『隋書』はふれていない。それを知るための手立てはないものであろうか。
私は、ここで『隋書』が説明ぬきで「内官」「外官」の用語を使用していることに着目する。つまり、先行する史書に前例があるのではないか。またそれは、夷蛮伝中にあるのではないかと考えられるのである。
隋王朝の開祖文帝(楊堅)は、北周の摂政の地位から禅譲を受けて隋の帝位に就いた。隋王朝の政権には、多くの北周の旧貴族が登用されたことが知られている。そのことから、隋朝の史官に北周時代からの認識が継承されていたとしても不思議はないだろう。その北周の歴史を伝える『周書』なる史書がある(別名『北周書』)。その異域伝百済条に、「官有十六品(略)自恩卒以下、官無常員」とあり、「各有部司、分掌衆務」と続けて「内官・外官」の分掌が記述されている。(史料Q)
Q 内官有前内部、穀部、肉部、内掠部、外掠部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後宮部
外官有司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、客部、外舎部、綢部、日官部、都市部(『周書』異域伝百済条)
記事によれば、六世紀後半、威徳王の時代、百済の官僚組織は二十二部に分かれ、大きく内官と外官に大別されていたという。「内官」が、王室、宮内に属する官署の宮内官府であったのに対し、「外官」は、一般政府機関としての中央官署であったことが知られる。『隋書』倭国伝の「内官」と林邑伝の「外官」は、この『周書』の記事または情報を前提に書かれていたのではないだろうか。
さて、北周の時代、百済にはこれだけの官僚組織が整然と整備されていた。それならば、推古朝にこれと比肩するだけの組織が完備されていたであろうか。ところが、この時代の東アジアの国際情勢からしても、また、当時の百済との親密な関係からしても、イ妥国にあったはずの内官制度は、『日本書紀』推古紀のどこを探しても見当たらないのである。
しかし、このこともまた、疑問視するには当たらないだろう。先述来の結論が示す通り、このような絢欄たる行政組織が確立していたイ妥国は、近畿天皇家ではなく、筑紫・九州を中心とする王朝であったのである。そして、その内官組織の構成員である官僚に与えられた位階こそ「官十二等」の制度であったこと。それを、私は疑うことができない。
鞍作鳥の官位授与は、法興寺への仏像搬入をはじめ、仏教興隆への功績によるものであった。鞍作鳥が匠であったことを考えると、まさに『周書』にある百済の内官に適合するではないか。仮に、イ妥国・九州王朝の内官組織が百済国のそれに類似していたとするなら、鞍作鳥の官位授与もまた、九州王朝からの授与と考えることはできないであろうか(法興寺は九州王朝の官寺であった。鞍作鳥の官位授与については、そうした背景と共に別に述べることとしたい)。
これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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