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『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社

『万葉集』は歴史をくつがえす

古田武彦

 古田でございます。本日は私の話を聞きにおいで頂いて、たいへん光栄に存じます。特に今日はお話ししたい、最近はわたし自身も仰天しているようなテーマが次々ありまして、それらを申し上げたいのですが、時間に制約があります。大きいテーマがひとつありますと、それぞれに付属するテーマがいっぱいぶら下がってくるのですが、わたしはそれをいちいち検討してきたのですが、全部をお話ししていると時間がなくなってしまうので、枝の方はカットしまして、いきなり本題の方に入らせていただきまして、残りはご質問の時間等にまわさせていただきます。
 まず方法に関することを申し上げたいのですが、わたしの方法論。要するに、『万葉集』をどう攻めようとしたのか、その結果どうなったのかを、まずお話ししたい。わたしが古代史に取り組んだ初めは、東大の史学雑誌に「邪馬壹国」、それから著書『「邪馬台国」はなかった』で発表したのですが、要するにその、「原文を書き換えてはいけない」ということ。特に「都合の悪い部分は原文を書き換える」、これは絶対にダメ。わたしが親鸞研究から得てきた方法であることは、わたしの本をご覧になった方はご存知のとおりでございます。この主要な方法論は二十数年たつが全く変っていません。これが第一点。
 さて、本日のテーマである『万葉集』ですが、レジュメに本日とりあげる歌について、岩波書店の古典文学大系からのコピーを入れましたのでご覧ください。
 『万葉集』は写本に恵まれておりまして、まず元暦(げんりゃく)校本万葉集と呼ばれるもの、これは平安朝末期の成立で全体の七割程度が残っていてありがたい。わたしはこれの全部のコピーを入手して持っております。ほかに西本願寺本、これは鎌倉末期のものですが、これもたいしたもの。全巻揃っている。このように写本に恵まれている。これらの写本を大切にせにゃならぬ。勝手に原文を変えて読んではならぬ。『万葉集』についてもそんなことをやっている人がいるのかと思われるでしょうが、万葉集についても同じなんですよね。「『万葉集』よ、お前もか」(笑)。邪馬台国について、『三国志』の原文には「邪馬壹国」とある。この「壹」を勝手に「臺」と直していいのか?
 わたしは『三国志』全体の用例を調べて、直してはダメだとやったのですが、『万葉集』の場合、事情が違う。作者が一人でなくて、たくさんの作者の歌の集合体である。問題はそこに、まえがき、あとがきがついておりますよね。それは歌の作者当人がつけたものかどうかわかりませんよ。それは当人がつけたとしか思えぬものもある。大伴家持のとかはそうじゃないですか。しかし、どこにも「保証がない」。
 他の例をあげますと、記紀のなかの歌、作者がまちがいないかというと、同じ歌で、作者が『古事記』と『日本書紀』では違うのがある。「やまとは国のまほらま、青垣山こもれる、大和しうるわし・・・・」、この歌は書紀では景行天皇の歌で、九州で歌ったもの。古事記ではヤマトタケルノミコトが三重県の能煩野で歌った歌になっている。両方が本当のハズはない。あるいは両方ともウソかもしれない。この歌は景行紀では天皇の九州討伐譚の中にありますが、この物語をわたしは『盗まれた神話』の中で分析した。この話が大和を原点にしたらおかしい。大和に近い側の九州の東南を討伐し、遠い側の西北は巡行になっている。逆じゃないか、大和の景行天皇を主語とすると理解不能である。ところが筑前・吉武高木を原点とする筑紫の君(前ツ君)が、未征服の九州一円を討伐したものとすると理解できる。筑後では大歓迎を受けている。この王者の原点は、博多と前原の間の高祖山連峯と理解したわけですね。ですから、筑紫を原点にして、筑後、肥後を勢力下に納め、次に豊前、豊後から鹿児島方面を支配下に入れた英雄譚であった。
 その後の研究の発展も面白いのですが、別の機会に聞いていただくとして、取り敢えず言いたいことは、記紀の歌がこのような状態だから、『万葉集』だって作者名とか、まえがき、あとがきをそのまま信じることはできないということ。『古事記』・『日本書紀』が出来たのは八世紀で元明・元正天皇のころ。『万葉集』の編纂もこのころじゃないですか。
 『万葉集』の編纂は誰が行ったか? 大伴家持だとか、いや平安時代に入ってからだとか、いろいろの説があるが、『万葉集』が一度に成立したとは誰も言いませんので、何回にも分けて編集されたことは万人が認めているじゃないですか。スタイルも違いますしね。このことは異論がないと言ってよいのじゃないでしょうか。
 また、愛好者も多い巻一・巻二が、最初に成立したことにもまず異論がない。
 巻一・巻二がいつ成立したかというと、柿本人麻呂の歌が殆どであって、最後の方に和銅四年とか霊亀元年とかの数首がつけ加わった形をしているが、八世紀前半ごろ ーー文武・元明・元正のころであろうーー というのが、わたしが言っているのではなくて、多くの万葉学者が言っている常識論。
 これが持つ意味は、『万葉集』の成立は『古事記』と『日本書紀』の成立と同じ頃、同じ王朝ということで、巻一・巻二はそのころに成立しているとみて間違いはないだろう。『古事記』・『日本書紀』に「これこれの天皇がお作りになった」とあっても、それをアテにできませんというのが、現在の多くの学者が言っている常識ですね。
 念のため、もうひとつ例を挙げますと、神功紀と倭人伝をくらべるとわかる。神功紀には「倭国の女王」が中国の魏・晋と通交した記事があり、西晋の「起居注」という西晋の記録官の記録を引用してある。こんな文献をどこで発掘したのか、よく入手したものだと思いますが、この資料は当然西晋時代の壹与について書いたものですわね。
 これと倭人伝をくらべると、卑弥呼と壹与の二人の女王の事跡が、神功紀のなかに投込まれている。八世紀では、みんなが倭人伝なんて読んでいるわけではないから、気がつかれなかったが、ふたりの女王が神功皇后ひとりと一緒ということはありえない。ウソに決まっている。
 大切なこと、編者はウソに決まっていることを知っていることだ。
 知らぬハズはない。だのに平気でウソをつく。そういう姿勢で編述されている。これはやりきれないのですけれどね。わたしはイデオロギー的に天皇家を良く言うとか、悪く言うとか、どう思うかなどということとは関係なく、こういう姿勢を信用しない。無関係に事実をみるというのが、わたしの方法の第二点でございます。
 さて、『日本書紀』は残念ながらそういう性格の本である。世にも不思議なことですが、記紀はおかしいとしながら、こういう考えを始めた津田左右吉さんは文化勲章を貰ったが ーーこれはお墨付きを貰っちゃったのですねーー なぜか同じ文献としての性格を持っている『万葉集』は誰も疑ってない。雄略天皇の歌、舒明天皇の歌とあれば、その天皇の歌と、そう書いてあればその天皇の歌と思い込んでいる。みなさん、そうじゃありません?
 わたしもそうだったからおおきなことは言えませんが、根本的に批判したのを見たことがない。
 歌は本人が作っているが、まえがき、あとがき云々は編者がつけている。『日本書紀』・『古事記』の場合とおなじように、編者がそう置いていることは明らかです。だからそれが本当かどうかは「わかりません」という立場で見るべきでありますわね。歌そのものは第一資料、歌そのものも書き換えてあるかも知れないが、その証拠はない。証拠もないのに、この歌はこうだったのだろうなどというのは学問じゃない。ただし、まえがき・あとがきは第二資料・・・・編者が読者にそう思わせたい知識・・・・として見るべきである。これが資料扱いの基本原則であると思います。分り切ったことですが・・・・。しかし、『万葉集』のような文芸作品にいちいちシカツメらしく、そんなことを考えるのでは楽しくない、そうまで思わないでもよかろうという、情緒的な気分をもつ方もいらっしゃるだろう。これも間違いのないことだと思います。
 そこで、わたしが、なぜそう言わなければならなくなったかの簡単なうちあけ話をしますと、これは今までに書いたこともありますが、それが、実はあの「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」の歌だった。わたしは二十代の青年教師であったころ、この歌を松本深志高校で教えた。この歌は『古今集』にあり、阿倍仲麻呂が中国から帰ろうとしたとき、明州というところで船出するとき、別れの宴会があった。月が上がってくるのを見て作ったと書いてある歌。そのとおりの、『古今集』に書いてある紀貫之の立場で解説したんですが、授業のあと、生徒たちに廊下で質問の包囲攻撃を受けました。「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」いま考えても鋭い質問ですよね。春日なんて中国人が知っている筈はないと言っても言い過ぎじゃない、大和なら知っていておかしくない。この鋭い質問に立ち往生しました。これが解けてきたのは、古代史の世界に入って二十数年もしてからですが、博多湾から対馬へ行くときに船に乗って、目の前に壱岐島の北端が見えるところにさしかかった。偶然ですが、丁度甲板におりまして、こられた船員さんに「ここはどこですか?」と聞くと、「あまのはらです」と答えられたので、わたしはドキッとした。壱岐の「天の原」遺跡の近くだった。天の原遺跡というのがあって、銅鉾が三本出たというのは考古学上の知識としては知っておったが、その場所がどこかまではこまかく追跡してなかった。そうなると、わたしの知っていることがあった。わたしの親友だった堀内君、残念ながら最近亡くなりましたが、春日市に自宅があった。夏休みに彼の家へ泊めてもらって ーー金がなかったせいだと思うんですがーー あの辺を歩き回ったのですが、そのときに春日というところがあるのは知っておったし、その東に宝満山(ほうまんざん)というのがあるのを知っておった。宝満山は三笠山とも呼ばれる。宝満山は漢語ですからね、もとが御笠山(三笠山とも書く)。ここには博多湾へ流れ込む御笠川があり、近くに御笠郡もある。ここにも大和と同じ様に、春日と三笠がある。偶然の一致かなあと思っておった。その宝満山から月が出る。太宰府とか筑紫野市とか大野城市の大部分とかからですときれいに見えるが、春日市では近すぎて、頭の上になっちゃって、出るという感じじゃない。しかし西の方へすこし離れれば、この山から月が出る。春日は古い地名である、なぜかというと、あそこに粕屋郡というのがありまして、カスガとカスヤは「カス」が同じ。ヤとガは接尾語でしょう? 同じ一連の地名じゃないですか。
 カは神様で「神聖な」意味、スは住い。鳥栖とか春日市の須玖岡本遺跡、三種の神器が出た王墓、あの「スグ」の「ス」。神聖な神様の住居。当然、太宰府とか大野城なんていうのはあとでできた言葉じゃないですか、人間が作った機構の名前などから来ていて、もちろん後から付けられた地名ですが、カスガはもともとの自然地名。宝満山は、九百メートル近い山、わたしは三回ばかり登ったのですが、頂上に石のほこらがありまして、現在ではコンクリートになっている ーー風が強いからコンクリートにしたと思うんですがーー そのうしろに三列石がありまして、それが江戸時代にひとつ落ちちゃったという。本来は三つ。それが社殿の形になっている。頂上は平になっていて、三分の二がその社殿部分。東側の三分の一には、例の女性の巨大な陰部の形をした岩がある。足摺岬でもさんざんお目にかかったのだが、縄文につながる古い信仰の対象。今の問題はいわゆるその三列石が信仰の対象だった。縄文につらなる古い三笠山であり、春日であった。ついでに言っちゃいますと、それに比べると、大和の三笠山は新しい。関西に帰ってきて、近いからいろいろ調べて、古田史学の会の水野孝夫さんは、奈良市に住んでおられて、いろいろ資料を送って下さったり、案内して貰ったりしたのだが、結論は今はハッキリした。レジュメにわたしが図を書いておりますが、オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑) ーーそこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。
 それはね、大極殿からみて御蓋山の上の方向に月が見えますよ。それで「まさに三笠の山に月が出た」なんて随筆に書いている人がいる。そんなのが奈良あたりではよく出る。それは甘く見ているのです。だって、歌は「三笠山から」月が出ているという意味じゃないですか。昔から、現地の人はよくわかっていますので、新たな候補が生れた。それが若草山。しかし現地の(現在)地名では三笠山と呼ばない。その証拠には、ふもとにあるのが若草中学(笑)。若草山だったら場所を選べばここから出るチャンスもあるんだ ーーといいますのは若草山の北西よりのある一角だと、若草山から月が出ると見える可能性がある。さきほどの阿倍仲麻呂は、その一角に住んでいる家があったんじゃないかと、わたしも授業で教えましたかね。今から考えるとヘリクツです。それでも「なぜ大和なる三笠の山といわないんだい?」という先ほどの質問には答えられない。このへんは詰めをいろいろやったので、話しているときりがないが、結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島 ーー金印で有名なーー にもありますので
ね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。
 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。
 そのことを教えてくれた生徒に感謝したい。彼らも、もうみな紳士になっていますが。さて、そういう立場で『万葉集』そのものに入らせていただきたいと思います。

 まず一番歌、雄略天皇の歌とされる有名な歌。レジュメは読み下しと原文の比較を入れましたが、読みにくければ、あとで岩波書店本で確認してください。

 巻第一、雑歌、泊瀬朝倉宮御宇天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕
 天皇御製
 籠(こ)もよ み籠持ち、掘串(ふくし)もよ、み掘串もち、この岳(おか)に、菜摘(つ)ます児、家聞かな、告(の)らさね、そらみつ大和のくには、おしなべて、吾こそ居(お)れ、しきなべて、吾こそ座(ま)せ、われにこそは、告(の)らめ、家をも名をも。
 原文
 籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家吉閑名 告沙根 虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母(『万葉集』岩波・日本古典文学大系)

 こういう歌ですね。ポイントを申しますと、この「しきなべて」の部分、原文「師吉名倍手」のところで、「吉」の字に黒丸の「校異」のしるしがついておりますね、どういう校異が書いてあるかと申しますと・・・・実はこれは、この字は全写本とも一致してる、告げる」の「告」という字である。これを岩波・日本古典文学大系本では「吉」になおしてある。誰が直したのかと言うと本居宣長。普通は校異と申しますと、A写本はこれこれの字である、B写本はこうなっている、というように写本間の異同を示すものですね。ここはそうじゃない。どの写本にもない字に直してある。これは一体なにか。これは学者が自分の考えで直したのですね。高名な本居宣長先生がお直しになった。これが採用されている。
 「原文は直さない」というわたしの方針をハッキリ申しましたのでね、その方針で読んでみよう。それで読んだわたしの理解を申させていただきます。
 ここには当然「告名倍手(つげなへて)」あるいは告名をひっくりかえして読めば「名をのべて」となります。しかし告名(のりな)というのは熟語になっている・・・・現在の「名乗り」のことですね・・・・この例がありますので「告名(のりな)経て」がよいと思います。名を名乗るというのは万葉では重要なテーマになっている。恋をするときに、名を聞かせてくださいとか、いやです告げたくありませんとか、いっぱいある。この告名(のりな)と理解しましてね、「告名(のりな)経て」と理解しております。そうすると意味は「わたしは自分の名前を名のりが済んで、ここにこうしております」ということですね。「吾許背歯」のところは「われ乞はせば」こういう意味ですね。背中の背は「セ」と読めますわね。西本願寺本には「者」字が(吾許者背歯)とありますが、この写本も調べましたが、これは読み注なんですね。別の本とはいえない。で、「われ乞はせば」、女性に対してお願いしている。そうすると後半部分にはへんなところはない。スーッと読めて行く。ごく自然に読めます。なぜこれでは宣長らは困ったかというと、名乗りが前半で済んでいなければならない。作者がはじめに自分の名を言っていて、はじめて話が続くわけです。次に「そらみつ大和の国」とありますね。いろいろ解釈もあっておもしろいのですが、ここは省略して、奈良県のヤマトのくにと思うのです。その次です。
 「押奈戸手」と書いてありますね。「押」という字は音は「あふ」ですね。指紋押捺(あふなつ)の「あふ」、それと奈良の「奈」で「あふな」。戸手(トデ)というのは名前としてふさわしいと思いません? 関東のあの石碑に ーー韋提という人がでてくるじゃないですか、そのほかにも『万葉集』じゃ「××手」という人名は結構ありますよ。戸手というのは、この時代の名前としてわたしはふさわしいと思うのです。アフナとはなにか。ナというのは那津(ナノツ)のナですからね。水へりの土地を ーー海辺でも川辺でもいいのですがーー ナといいますよね。「アフ」は「合ふ」。川が集まっている地形を「カアイ」、そこにいる神様をさすばあいに「カワチ」といいますね。「あふな」は水辺の土地が集まっている、そういう地形。こういう表現になると思うんです。
 わたしが理屈でだけいうのではない証拠には、有名な人物いや神様がいますよ。オウナムチノミコト。いろいろむづかしい字でかかれていますけれど。ムは主人公で中心、チは神様の古い呼びかたですから、ムチは主神という意味です。これは称号ですが固有名はオウナ。水辺の土地が集まっている地形ですね。いまの奈良県の吉野川のところ、吉野町にもオオナムチノミコトはちゃんと祭られていますよ。そういう地形なんですね。ついでにふれておきますと、オウナムチはオオクニヌシと同じだとされていますよね。わたしはいつも言っているんですが、AとBが実は同じだといっているのは別である証拠。例えば天照大神と大日如来が同じだといいますよね。神仏習合についても触れたいが時間がない。要するにAという神々の体系と、Bという神々の体系があって、Aの主神とBの主神をイコールで結びつけようとする言い方。対応を言うときにこういう言い方があらわれる。オウナムチと大国主が同じだというのはもともと違う証拠。大国主はもちろん出雲の神様で、オウナムチは大和の神様じゃないかとわたしはにらんでいるのですが。
 「そらみつ大和の国は」と大和の地名を出して、そこにオウナという場所がチャンとある。地形名詞ですから、それで「押奈戸手(おうなとで)」。ヤマトのオウナに居たトデと申します。異国の少女に呼び掛けていると言っちゃロマンチックすぎますが、だから歌っている場所はヤマトではない。ヤマトの外へ出て歌っている。オウナという、地名にしても姓みたいなものをもっていますから、庶民でなく豪族でしょうけどね。とにかく自分の身あかしをしている。「籠もよ、み籠もち・・・・」と、この歌われた現地があるのじゃないかとわたしは疑いをもっておりまして、ありうるんですね。たとえば、あの京都府の舞鶴の近くの籠(この)神社なんか有力候補になるのじゃないか、元伊勢と言っていますけどね。そうかと思うと、また和歌山県の吉野川下流にも籠(こ)があるんですよ。こっちかも知れん。ここならすぐご近所だから、「大和から吉野川を下ってここへやってまいりました」と、こういう話になってくるんですがね。まぁこんな決めれないものを無理に決めることはないですけどね、とにかくここに見事に名乗りをしているワケ。
 読み方の問題として、
 岩波本 :家吉閑名 告沙根(家きかな、のらさね)。
 講談社本:家吉閑 名告沙根(家きかん、名のらさね)。
 どちらも可能ですね。ここからは、わたしの単なる感触に過ぎませんけど、岩波の方が自然のように思う。違いは「家と名」の両方を聞くのか、まず「家」だけ聞くのかですが、いきなり「家も名も言え」というよりは、まず「家を教えて呉れませんか?」というのが聞きやすいかなと。そこから入って行った。そう言っておいて、「私の名乗りは済ませましたので、お願いでございますが、あなたの家も名も聞かせてくださいませんか」というのが、ごく自然な会話。これを宣長はまえがきによって、「雄略の歌」だという前提にあわせて読んでいったわけ。雄略天皇がこんなことを詠んでいては困りますよね。名前を「オウナトデ」なんて言っては困りますね。名乗りの点が邪魔になるので書き換えた。ここは歌のキーポイントですからね。「告」を「吉」に替えて、「師」を下側の句につけて、シキナベテと読んだ。「師」は江戸時代までは上側の句につけて読まれてきておった、それを宣長は新案特許みたいに、シキナベテと読んだ。天皇にふさわしいと。
 しかし、天皇にふさわしいかも知れないけど、ちょっとグロテスクだと思うんですよ。だって、そんな、菜を摘んでいる女の子に名を聞くのに、そんなに力んで、「なにをかくそう、わしは王だ。大和を支配している。名を告げよ」なんていいますか?
 いかにも独断的というか、人間知らず、女の子知らず、恋知らずというかね、そういうドグマチックな王者にみえておった。やっぱりヘンだ。よい歌じゃない。それを昔はそうだったなどと説明を聞かされて納得させられていた。
 恋人に名前を聞くのはたいへん自然な動作です。名前を聞かれたときは恥ずかしくて、そして嬉しいじゃないですか。そしてそれなのに、さきに「わししか王者はおらん」などというのはヘンだ。これは、まえがき、あとがきに合せて読んだからだ。わたしの目から見ますと、ベッドの長さに合せて人間の手足を斬るのに等しい。そのやり方なんですね。わたしにはやはり人間の方が大切であると思う。それで、わたしは徹底的に原文どおりに読んだら、自然な恋の歌になった。それならベッドの方を、「雄略の歌だ」という方を棄却しなければならない。これが結論です。この歌の作者を雄略としたらおかしいですよ。なぜか。雄略の歌がこの『万葉集』編纂のときまで伝わっていたのなら、雄略から舒明の間の歌は伝わらなかったのか? その間にも天皇はたくさんいたじゃないですか。疑問をだれでも持ちますよね。その間の天皇は歌をつくらなかったのか? 歌ったけど伝わらなかった? そんなこと信じられますか? 庶民の歌ならともかく、天皇ともあろうひとの歌を忘れるなんて、わたしには考えられない。これが資料批判の出発点です。それなのに、『万葉集』の詞書をそのまま信じて、「雄略の時代は画期的な時代だった」などと歴史学の史料にまで使っているのを見て、わたしはアレアレと思っていたのでございます。これが第一の歌でございます。
 まぁ、もと歌は、雄略時代の歌だった可能性は高いんじゃないかと思いますが。

 第二歌 舒明天皇の国見の歌。
 これも有名な歌ですが、舒明天皇歌とされるもの。
 天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまう時の御製歌。
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ちたつ 海原は鴎(かまめ)立ちたつ うまし国そ あきづ島 大和の国は
 原文
 天皇登香具山望国之時御製歌
 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 国見乎為者 国原波煙立龍 海原波加萬目立多津 柯怜国曽 蜻島 八間跡能国者

 これは昨年末にも講演したので、結論のみを簡略に申し上げて、その後の発展したテーマに絞りたいと思いますが、この歌については、これまでも懇親会などのたびにご質問が出ていました。
 オカシイ歌だと。大和で海が見えるか?と。健全な常識をもった人ならだれでもそう思いますよね。わたしはそのたびに「よく勉強してみます」と、苦しい返事をしてきました。関西へ帰ってきたおかげで、現地へ足を運んだのですが、大和の香具山は山の高さが、ふもとから百メートルたらず程度。登ったのは雨の後の日で、滑らぬように用心しながら登っても十五分くらいだった。晴れていれば十分も掛からないだろう。海というのは「ハニヤスの池」のことかとされるが、そのハニヤスの池というのが山頂から見えないんです。樹木を払ったとしても見えるかどうか。こんな場合にいつも持出されるのは「詩人の空想力」で、そんな解説がされていますが、伝承地「ハニヤスの池」というのは、この講演会場の二倍か三倍くらいの小さい溜池なんです。これを海原というか?
 ほかに、わたしが、歌自身を精密に理解する立場からは、これはダメだと思った点があります。それは、まず、「とりよろふ」ということば。学者の注釈はいろいろありましたが、結局「目立っている」というほめ言葉。ところが澤潟久孝さんの本から、写真を引用しましたが、天の香具山は、いわゆる大和三山の中でいちばんきわだっていないじゃないですか。畝傍山、耳成山はそれなりに目立っていますが、香具山はわかりにくい。わたしも比較できる写真を撮ろうといろいろ苦労しましたが、香具山は目立たなくてうまく撮れなかった。それを「大和には 群山あれど とりよろふ」とは、これはダメですよ。だからここの山のことではないなと思わざるを得なかった。では、どこか? 歌の中にヒントがある。最後に「あきづ島、ヤマトの国は」とある、この表記がおかしい。まず最初の「山常には」。常という字は「常世とこよ」の「とこ」とも読むから、「やまと」と読めないわけではないが、『万葉集』の中に他に例がない。「常」は「つね」とも読むから山常は「やまね」なら落ち着くように思う。「ね」は日本語によくある、幹に対する根、「島根」などの「ね」。山のふもと。
 わたしの同級生には、小学校から大学までいつも「やまね」君がいましたよ。「八間跡乃国者」の「八間跡」も他に例がない。不思議な表記だが、それはあとに置いといて、かんじんの論証に向かうと、「あきづしま」はわたしの『盗まれた神話』をお読みになった方はご存知のとおりで、その中で分析しましたが、豊アキツは豊国のアキツ、大分県の国東半島には、安岐町があり、安岐川が流れている、別府湾の入り口だ、豊アキツは別府湾を指すのではと論じたことがある。反論を受けたことはない。そこで、別府湾を原点として九州島全体を、あきづ島と読んでいるのはないかと考えてきた。「国原はけぶり立ち立つ」。わたしは教師時代に仁徳天皇が「民のカマド」から立つ煙を見たという話を引いて生徒に教えたが、よく見ると「民のカマド」など、この歌のどこにもでてこない。カモメは飼われているわけじゃない、自然現象だから、同じく自然現象として国土に煙が立つと見るべきではないか。この方が「民のカマド」より自然なんですよね。変な記憶ですが、青年教師時代、長野県松本市の浅間温泉に下宿していた。朝、出勤で坂を降りて行くと温泉のお湯を流しているミゾがある。そこから外気にふれて湯けむりが立っていた。なかなか風情があった。それを思い出した。浅間は小さい温泉だが、別府は温泉だらけ、湯煙だらけ。これは別府の歌ではないかと、こわごわですがね、そうなっていった。キーポイントは「天のカグヤマ」。実は、倭名抄では、ここに海部(アマベ)郡がある。現在は南海部郡はずいぶん広いが、北海部郡は別府湾の南端に非常に小さく残っている。これはおそらく別府とか大分といった都市部に切り取られて、海部(アマベ)郡が小さく押込められた姿を示していると思うんです。それでカグヤマですが、地図を見て頂きますと、鶴見岳が海から見て別府市のすぐ後に聳えている。ここへ行った。火男火女(ほのおほのめ)神社があった。社は山の上下に二つあるが、どちらも「ホノカグツチの神」を祭る。「ホノ」はもちろん火山を、チはテナヅチ・アシナヅチなどの神様を示すことばで、「ツ」は「津」だから「ツチ」は港の神、固有名詞部分は「カグ」なんですね。近くに神楽女湖(かぐらめこ)がありましてね、すばらしく神秘的な湖。晴れた日に行かれた方は、光景は生涯忘れられないものになりますよ、観光ルートにならないことを祈ってますがね。ここも「ラ」はよくある接尾語で、固有名詞は「カグ」。だから鶴見岳が「アマノガクヤマ」であった。
 さて、もう一歩すすめて申しますと、国見という地名はないかなと思って、これを探そうとした。「別府市誌」を図書館で取り寄せて貰って調べると、中に「字(あざ)地名表」がついてる。このなかに、なんと「登立のぼりたち」が二つもあってびっくりしました。これは見てみなくっちゃと関西汽船で別府へ再度行きました。実際は「のぼりたて」と読むのが正しいのですが、天間(あまま)区に登立がある。もうひとつは別府駅に近い、すぐ南隣の浜脇区にある。両方行ってみた。天間区の登立は崖にはなっていて、あたりは見渡せるが、そこからは海が見えない。浜脇区の登立、ここは海側から登って行ったドンツキにあたる場所で、高崎山の駐車場に近く、ここからは海が良く見える。カモメさんはその時は見えなかったが、普段は良く飛んでいるそうです。かもめは何でも食べる雑食性の渡り鳥で、冬に多い。アメリカン・フードなんか大好きで、子供がポテトチップスなんかを撒いてやると、ワーッと寄ってきて、そのあたりをわがもの顔に歩いているそうで、子供が泣き出したりして、むしろ鳥害 ーーこんなことばは使われませんでしたがーー が心配されている。さらにオマケつきですが、鶴見岳に近い、奥まった温泉が多い地区に、のきなみ「原」の字がつく「××原」という地名が多い。「国原は・・・・」というのも関係がありそう。ここまで土地カンがあるとは予想しませんでした。わたしは、この歌はまちがいなく鶴見岳で作られた歌だと考えます。時代は舒明時代かも知れないが、舒明歌とされて、それを長い間信じてきたというこわい話だった。

 もう一つの、第二十八番の歌
 天皇御製の歌
 春過ぎて、夏来たるらし、白妙の衣乾したり、天の香具山
 原文
 夏過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香具山

 持統天皇の歌として有名ですね。『万葉集』の好きな方が代表として挙げられる歌だと思うんです。ところが、この歌もおかしいじゃないかという説は、いっぱいあった。わたしだけじゃなくて、学者の注釈書に出てくる。なぜ問題か? 地図を見ていただきますと、藤原宮があって、一・五キロのところに香具山がある。持統天皇が藤原宮で作ったとすると、藤原宮から眺めて香具山に衣が干してあっても「見えん」(笑)。単純なことで困っている。わたしは水野さんたちと行ったのだが、藤原宮跡から眺めて、小さく白っぽく見えるものがあるかないか ーーそのときは、なんともいえませんなあーー という感じ。いくつも説が出た。山ではなくて、山の方向のもっと手前の家に干してあったのだろうという説もあった。もうひとつの解釈は、持統天皇に散歩してもらうんです(笑)。これなら行ける。また一枚や二枚じゃなくて軒並にズラーッと干してある? それなら見えるでしょうね ーーこういう説もあった。
 なんともいえませんなあで、そのときは帰ったが、富本銭問題で再度現地を訪問した。奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部のすぐ前に、天の香具山案内所というのがあった。もとJR職員で、ボランティアの方がやっておられる無料相談所。ここでいまの問題を聞いてみた。
 そしたら、言われるには「その問題を私も調べてみました。特に最近意識したのは、中国の学者から質問の手紙が来たからで、その方は日本研究のかたで、飛鳥へ来られて、いろいろ調べて資料を集めて帰られたぐらいだから、しっかり返事しなけりゃと思って、シーツを二枚張って実験した。藤原宮から観察して、見えることは見えるが非常に小さくて、シーツと認識できない。だからあの歌は、もっと手前のほうに干されていたものを見たのだと思うと、中国へ返事した」と。それを聞いてわたしたちだけじゃなくて、そんなことを考えたひともいたんだなあと思った。
 NHKテレビでも実験したことがあって、見えないという結論になったと、森さんという方の本に出てくるので、ご覧になったかたもあるかも知れません。で、よく考えてみると、もっと近くに乾してあったとは、「この歌自身」からは出てこない。現地を立てるなら、こうでも解釈すれば行けるという説。しかしそれなら、もっとそれらしい歌を ーー散歩していたのなら散歩していたらしくーー 作れるじゃないですか?
 「われ、いでゆけば、衣ありて」 ーーとかね(笑)。
 また軒並説については、この歌は「まだ春だ春だと思っていたら、もう夏になっているんだよ」という春のおわりの歌だから、従って「夏もさかり」で軒並干してあるという歌じゃない。どのようにも解釈できるのを「動く解釈」という。芭蕉が動く解釈ができる句はダメなんだ」と批評したのは有名ですが、この言葉を借りれば「動く解釈」。この歌も別府での歌じゃないかという解釈は一度は考えて、無理にそうすることもないと、ペケにしたが、あたらめて別府を考え直すことにした。
 鶴見岳のロープウェイ乗り場近くに火男火売神社がある。火男火売神社は平地と山中の二ケ所あって、江戸時代には本家争いがあったということでしたが、この平地にある町に近い方の神社を考えて見ても、海から一キロのところにある。一キロでもダメなんですね、やっぱりさっきのような問題にひっかかる。考えて、鶴見岳の「中で」作った歌じゃないかと思い当った。鶴見岳にむかしも神社があったことがわかる。鶴見岳は貞観六年に爆発を起こした記録がある。『三代実録』によると、太宰府からの報告として、火山爆発の様子が詳しく報告されている。三日三晩岩が飛び散って、硫黄が流れ出して、何千何万の魚が死んだと、リアルに描写され、そのあとで近畿天皇家が、平安時代ですから、神様をなだめるためでしょう、ふたつあった火男神社、火女神社にそれぞれ位を授けている。山顛にふたつの神社があったと書かれている。爆発したのは山頂で、山頂と山顛は使い分けられている。山顛は山頂ではないが、平地ではなくて、尾根なんかをいうのでしょう。爆発以前に山の中に神社があったことは疑いないことです。ですから山へ入っていくときは、現代のような、いきなり登山でなく、神社へ向かうのだと思う。そうすると宮司さん、巫女さんが住んでいます。いまはロープウェイ乗り場に近いから家が一杯あります。昔はそんなに一杯はなかっただろうが、昔も神社はあって、人は住んでいた。住んでいたら衣を干すじゃないですか。「天の香具山に登ったら、白い衣が乾してあった、ああ夏が来たんだなあ」といういう歌だった。
 わたしの好きな歌に、西行の「年たけて また 越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山」というのがあります。西行は若い頃武士であった。野心に燃えた武士だった。そのとき通ったのでしょうかね。坊さんになって ーー世の中に絶望したのでしょうかねーー 老年にまた同じ場所を通った。 ーー世の中はすっかり変ってしまった、これも運命だったーー 。わたしはこの歌を思い出した。小夜の中山というのは東海道の掛川市ですね。当然山の中で作っているわけ。「衣乾したり天の香具山」も山の中で作った歌です。歌自身からすればそう考えるのが当然なわけですよね。奈良の香具山ではそうはゆかない。土地では神聖な山、雨乞いの山で、衣なんか乾せないと現地の方がさかんにいわれる。そう言われればそうかなと思う。鶴見岳なら、千三百メートルの山ですから、神社があって、住んでいる宮司さん、巫女さんの衣を干してあっておかしくない。だからここならピッタリ。持統天皇の歌にしちゃったからおかしかった。そういうことで、七転八倒、長いこと苦労したけど、多くの方のご協力でやっと結論を得た。「万葉集おして知るべし」ということで、終らせていただきます。
(拍手)
 日時:一九九九年四月二十五日
 場所:日本教育会館一ツ橋ホール(東京都千代田区)


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