『新・古代学』 第4集 へ

ベティー・J・メガーズ博士来日こぼれ話 藤沢徹(『新・古代学』第2集)

引用文献(この部分はスペイン語版のまま) へ


『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社

文化の進化と伝播

ベティー・J・メガース
スミソニアン博物館
藤沢徹訳

 文化がどう進化し機能するかの理解は、現代科学に課せられた難題の一つといえよう。私は基本的に、人類はダーウィンの進化論の原則に基づいて進化し、我々の行動はそのはたらきに左右されていると信じている。
 我々が環境と関わり合う主要な手段は文化だという事実は、自然淘汰の本質は肉体の問題ではなく、我々の心の働きの問題だということを明らかにしてくれる。
 このように見方を変えてみると、自然条件はそのもの自体不変でも、文化が自然条件を変えていくやり方についてまったく新しく柔軟な考えができるのである。
 生物の進化をもたらす化学的、物理的、生物学的要因についての知見を増せば増すほど、我々は結果に影響を与える手段を手にすることができる。
 気候や、土壌や、バイオの要因についての知見を増せば増すほど、それらの悪影響を予見したり、最小限にコントロールすることができる。
 同様に、発明や発見の伝播を含め文化の発達や多様化についての知見を増せば増すほど、我々が意識的にコントロールできる範囲をはっきり見極めることができるようになる。
 考古学はこの難題を解決すべき唯一的確な学問である。しかしながら、人間中心的な勝手なものの見方に基づいてはならない。進化理論と一般的科学的原則に則した物的証拠の評価からのみ解決が可能なのである。

 進化の三大原因は独立した発達、発達的収斂(しゅうれん)、それと伝播である。文化伝播の重要性について長い間論議されてきたが、九〇年代になると反対論が台頭してきた。例えば次のようなものがある。
 あらゆる種類の文化要素は独立して発達するもので、小は隣接集落にいたるまでどんな規模にもかかわらず然り。(マーカス一九八九、ブラウト一九九四)
 コロンブス以前の太平洋横断の仮説はハナから相手にされず、その研究の努力さえ「旧世界諸文化の優越性は所与のもの」と無視された。(ブルーンズ一九九四・三六〇)
 アメリカ先住民は遅れた野蛮人で、進んだ白い皮膚をした先生方の恩恵的なお助けなしには洗練された文化を作り出すことなんてできっこない。(フィーデル一九八七・三四二、サイファース一九九七・四三三、ファースト一九九七・四三四〇)
 アメリカ先住民の純粋の文化的業績を過小評価し平凡化すること。(コー一九九七・四三三)
 原住民の歴史など否定する。(ダンプ及びヴァルガス一九九五・一六六)
 ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)は、「単にある共同体についての一つの考え方でしかないということでは、考古学より伝統的な独特の神話の方がましだ」といって科学的証拠を軽視する。(シェンナン一九八九・二)
 「文化伝播論者」もまた攻撃された。第三世界の進歩とはすなわち多国籍資本主義とそれに伴う物質的特徴、思考、社会政治的行動の近代化伝播をうけいれることにあるとして、資本家や国家主義者の利益を図っているのにすぎないとの非難である。(ブラウト一九九四・一八八)
 バルデビア土器は縄文土器に発するという主張を私が支持したことを、倫理にもとるというレッテルを貼った者がいる。彼らの言い分はこうだ。「インディアンを圧倒的なヒスパニックのエリート文化に組み込ませようとするメスティーソ(混血人)のイデオロギーを支持するものだからだ」。(モース一九九四・一七四)
 伝播は「広域的形状類似性の説明にはならない」と思われる。(ストーン・ミラー一九九三・三二)
 伝播のもつ「迷惑極まりない」影響を無視するのはまことに結構。(フリッツ一九九六・一七二)
 要するに、「伝播主義は単なる思考形式にすぎない。忘れてしまおう」。(ブラント一九九四・一八八)

 これらの批判は間違っている。まず冒頭に言及したように進化論の原則を考古学の証拠に適用してみるのだ。他にも例はあるが、コロンフス以前のメソアメリカ ーーエクアドル及びアジアーー アメリカ接触の事実に多くの人々が賛成し支援してくれているのだ。

 

メソアメリカ ーー エクアドル接触

 メソアメリカの金属出土物を化学的、技術的に検査してみると、冶金が北方アンデスから西メキシコヘ渡ったことがわかる。そのことはまた、六五〇年頃から何百年もかける接触を通じて西方メキシコでメソアメリカの伝統が形成されたことを意味する。
 外国起源の出土物の出現や、関連製造プロセスや社会的コンテキストの模倣は重要であるだろうが、ホスラーの言葉を引用すると次のようになる。「ウエスト・メキシコに達した製品の数は相対的に少なかった。ウエスト・メキシコにもたらされたのは技術的情報だけだった。このような中で、生産をコントロールする集団の利害や原料の性質に関する地元の決めごとを守りながら、ウエスト・メキシコ地方特産の金属生産は急速な発展を遂げた」。(ホスラーストレサーパエン一九九二・一二一五)
 南と北のアンデスの技術的要素と合金の存在は、エクアドルの沿岸を通じての伝播を物語る。しかも、隣接地域には出土していない事実は、海を通じて伝えられたことを裏付ける。(同上 一二一六)
 提供者と受領者のそれぞれの地域での出土物のタイプを分析してみると、外見、構成、製造技術などは酷似しているが、機能は全然異なっていることが分かる。
 アンデスの人々は青銅を主に道具の材料にしたが、ウエスト・メキシコの人々は主に鐘、指輪、毛抜き、エリート層のための小品つくりに使った。(ホスラー 一九八八・八五〇)
 大型製品は地方での原材料不足の故にできなかったというわけではないので、ホスラーは次のような意見を発表している。

 「ウエスト・メキシコでの冶金については、鐘と音色とか、毛抜きとかのような象徴的重要性をもつ特殊な文化的産物を大きく強調しているのは特別な内部事情によるものと思われる。中央、南アメリカの冶金は社会生活の中で最も神聖な領域に関わっているのに対して、ウエスト・メキシコの社会ではまったく採り入れていない。
 原材料が手に入ったとしても、アンデスや中央アメリカ技術のエリートの領域を真似しない ーー事実上原産地での世俗的要素を変容していることーー このことは驚くべきことである。
 ウエスト・メキシコの例から次のことが分かる。ある環境において、新しい社会組織に絶対に移転されない技術の様相は、歴史的に最も神聖な領域に属していたものだった。コスモロジー(宇宙観)とか宗教とかそれらを形成する物のシンボルに関する違いが、ウエスト・メキシコとその南方地域との間ではあまりにも大きかったので、それらのシンボルはウエスト・メキシコの物的システムには組み込もうとしてもどうしても不可能だったのだろう。ウエスト・メキシコに出現した中央、南アメリカ冶金術を検討してみると、技術移転をもたらしたのは、貿易を通じて入る技術のノウハウと製品だった。
 もし、冶金が征服や移民によってもたらされたものならば、恐らくイデオロギー的用具も一緒に入ってきていたことであろう」。(一九八八・八五一 - 八五二)

 男と同じく女もエクアドルからウエスト・メキシコに旅行しただろうということは、両方の地域から短パンやスカートや簡単な上着を着けた男女偶像が存在することで分かる。(アナワルト一九九二)
 この衣服のスタイルはBC一〇〇〇年頃からエクアドルのセントラル・コーストでは典型的だった。一方、メキシコではナヤリトで数百年後にやっと現われている。
 よく似たチェックのデザインの布地が両地域にまたがってみられることから、接触の可能性が大きい。しかし、そのパターンの分布は、アンデス地方では大きく広がっているけれど、メソアメリカでは西海岸に限られている。(アナワルト一九九二・一二〇 - 一二一)

 

太平洋を渡る接触

商(殷)ーオルメカ

 近年研究が進んでいるものの、ディールとコー(一九九五・一一)は述べている。

 「オルメカの生活や文化について、最も基本的な事実についてすら意見の一致を見ていないというのは驚くべきことだ」。

 診断の要素によって地域毎に変化に富みすぎているため、オルメカ文明を社会的、政治的、イデオロギー的に比較する相手が見つからない。
 グローブによれば(一九九三)、「民族的にも言語的にも祖先ははっきり別だと信ずる充分な理由がある」。「様式も文様も明らかに起源が多様だ」という論文は、従来のオルメカ文明は文化のオリジナル提供者という説明を、過激にしかも新鮮に否定している。
 メキシコ湾岸の積極的発掘作業は、オルメカ文化発生以前の、増加する人口の集中、社会政治的複雑性、儀式尊重主義の存在を証拠立てたので、BC一二〇〇年頃のこの地方の繁栄が判明した。(ラストとシャーラー 一九八八、グローブ一九九七・五五)
 太平洋沿岸のゲレロ州におけるオルメカ文化のシンボル、記念建造物の存在や炭素14放射能年代測定法による主要遺跡の時代考証のもつ意義は(マルティネ ドンファン 一九ハ五)、その地方における先行遺物がみられないことにより、メキシコ湾岸からの移転にすぎないといわれ典型的に軽視されてしまった。(グローブ 一九九三・一〇〇 - 一〇一)当地に先行遺物が存在しないということは或いは太平洋を渡っての移転の故ではないかという可能性も「奇っ怪なお伽話」として無視されるか簡単に片付けられてしまった。(ディールとコー 一九九五・一一)
 これに対し、BC一一二二年頃、商(殷)王朝の滅亡によりばらばらに分散したといわれる約二五万人の遺民がどうなったか調査しているシュー氏(許輝翻 一九六六)の調査報告が引き金となって、中国は商(殷)遺物の可能性に興味を示してきた。
 この王朝滅亡といった歴史的事件のタイミングとメキシコでの商(殷)的要素の突然の出現の一致は、オルメカ文化に在る数多くの中国のシンボルとあいまって、シュー氏は、「商の文字はオルメカ世界で太平洋沿岸からセントラル・メキシコを通りメキシコ湾岸に達した」との結論に至った。
 さらに彼はいう。「オルメカと商(殷)文化に共通する最も意義深い、しばしば使用されるシンボルは両者の社会条件と農業環境において一致し、太陽、雨、水、信仰、犠牲、富、土地、山および植物をも含んでいる」。(シュー 一九九六・四六)
 一見して様相は違っていても、旧世界ではすべての文字システムは相互に関連するというコンセンサスが出来上がっている。(レンフリューとバーン 一九九一・四一〇)
 商(殷)とオルメカのシンボルの相互関係の存在の証明は、すなわちコロンブス以前のアジアとメソアメリカの接触の証拠立てになるに違いない。
 ということで、シュー氏はメキシコ出土の石碑と土器に描かれた一四六のシンボルのリストをまとめ、中国の商(殷)の専門学者に見せた。例外なしに全員がたしかに似ているとお墨付きを与えてくれた。中国のシンボルは表音よりも表意文字で表されるが故に、この相互関係の重要性は単に接触以上のことを意味する。
 結果として、「現代の中国語には相互に通じない方言がたくさんあるけれども、互いに話し言葉は通じなくても書いたものは分かるから、筆談を通じて互いに意志の疎通がはかれる」。(ウーン 一九九六・七八)
 日本人は中国の漢字を自国の文字として採用したので、現代の日本人は中国語が話せなくてもある程度中国の文字を解読できる。
 同様に、商(殷)の専門家は古代メソアメリカでの言語、話し言葉は分からなくても、最終的にはオルメカのシンボルを解読できる筈である。
 異言語グループ間での効果的なコミュニケーションのやり方を解明することによって、地域的多様性と、メソアメリカの「母なる文化」を形づくるシンボル的統合性の謎めいたコントラストに対していい解答がえられる。(パライディス 一九九〇・三九)

 

図表1 各種パワーのシンボル

アジアとメソアメリカの要素比較BC約500年
I 宇宙二元性  II 宇宙パワー  III 宇宙マトリックス IV 飛翔 V 息/魂 VI 天体の蛇 VII 雷 VIII 宇宙の目 IX 絶対者・神 X 宇宙の円盤 XI 宇宙の口 XII 不死 XIII 生命力

 本表はアジア(BC900年頃からAD200年頃まで)とメソアメリカ(BC500年頃からAD200年頃まで)のモティーフの比較。ほとんどの例は、BC700年からBC400年間に見られる。
 これらの例は、両地域における特定のモティーフの伝統を表現している。両者の伝統が酷似しているのをみると、アジアとメソアメリカの文化接触の可能性を示唆している。
 アジアの各種パワーのシンボルの13要素のすべてがメソアメリカのものと酷似しているのは、基本的文化接触の決定的証拠である。
 新世界でこれらのモティーフの発達史を、考古学的データでもって明らかにするなら、アジア起源は否定されるだろう。しかし、実際はそうはいかない。
 新世界での13の伝統すべてについて、BC500年からBC100年頃までのほぼ同じ頃、南メキシコとグアテマラの太平洋沿岸に起源を求めることができる。
 対応するアジアのモティーフの発達する道筋は2000年にも亘っている。ということは、13の伝統すべてメソアメリカで突然出現したのは、独立発明があった故ということにはならない。
 その起源の場所をみると、主な宗教的中心地がメキシコ湾沿いに存在するオルメカ文化の生み出したものではないことを示す。

図表1 BC一五〇〇年以前の東アジアに存在し、メソアメリカの太平洋沿岸にBC五〇〇年頃出現した、十三の特徴的なしかもコンプレックスなシンボルの比較。その恣意的図柄、年代のオーバーラップ、中国での古代性、しかも突然のアメリカでの出現は太平洋横断の文化伝播を裏付ける。(トンプソン 一九八九第二表より)
図表1文化の進化と伝播 ベティー・J・メガーズ スミソニアン博物館 藤沢徹 新・古代学第四集

 

中国ーメソアメリカ

 アジアからの文化の流れで、オルメカ以後の事例は感動的でさえある。BC一五〇〇年以前の中国に存在し、ほとんど同じ頃といっていいくらいのBC五〇〇年頃に南メソアメリカの太平洋沿岸に現われたのは、まったくよく似た一連の明確なそして複雑なシンボル群だった。(図表1・トンプソン 一九八九)
 それらのシンボルについての意味が分かっていればもっと早く推測可能だったろうが、両地方で起こったその後の変容や結合などにいたるまで同様によく似ていた。(図表2)

図表2 シンボルに関する中国とメソアメリカのバリエーションの比較。2000年間に似た模様の保存を示している。(トンプソン1989 193より)
図表2 文化の進化と伝播 ベティー・J・メガーズ スミソニアン博物館 藤沢徹 新・古代学第四集

 東アジアの外の旧世界(ヨーロッパ大陸)ではシンボルの伝わり方は統一的でなく部分的に限られているのに対し、対照的にメソアメリカでは完全な形で現われてきていることから、この件に関し歴史的に関連性があることがはっきりする。(図表3・トンプソン 一九八九)
 同じ規模のデュプリケーション(そっくりのコピ−)が、商(殷) ーーオルメカ関係と縄文ーー バルティビア関係の比較から性格づけられる。このことは航海の速さと孤立性から説明できる。すなわち、出発点から到着点への時間を一番短くし、変容を余儀なくされるかもしれない異文化との接触を妨げるのは航海なのだ。

 

縄文ーバルディビア

 バルディビア出土の土器は縄文土器に起源するという説への主要な反対論の一つは、六千年も前に大洋を航海するなどできっこないというものだった。
 ところが、考古学的証拠によると、もっと古い時代に東南アジア人が長距離航海をしていた事実が今明らかになっている。
 ニューアイルランド島、ニューブリテン島、アドミラルティー及びソロモン群島の遺跡を炭素14法を使って調べてみると、今から三万三千から一万二千年前に古代人が大洋を百キロメートル以上も航海したことが証明される。
 縄文時代初期の航海能力の決定的証拠は、日本の本州中部から南へのびる伊豆諸島の中の小さい火山島にあった。(図表3)

図表3 伊豆諸島神津島産黒曜石の分布。八丈島出土の事実は、初期縄文人の、強い流れの黒潮を渡る能刀を立証する。ということは、移民をアメリカに運んだということもありえる。(オダ 1990 図表8より)
図表3 文化の進化と伝播 ベティー・J・メガーズ スミソニアン博物館 藤沢徹 新・古代学第四集


 小田氏によれば、八丈島の倉輪遺跡から本州の縄文土器と明らかに関係が深い、大量の縄文前期末、中期初頭土器が出土した。
 この土器から分かることは、縄文人は三百キロメートル以上離れた本州から丸木船に乗り黒潮の流れを越して島に渡った事実だ。
 黒曜石水和法を使った年代測定によると、倉輪遺跡は六千年から五千百年前、湯浜遺跡は七千百年から五千七百年前のものと分かった。これらの年代は土器編年法からも、本州の関連遺跡の時代と合致する。(オダ 一九九〇・六〇 - 六一)これらの分布に関し、航海の貢献を小田氏は強調する。
 日本の本州では、神津島(恩馳島)の黒曜石が武蔵野台地の旧石器、縄文遺跡から出土する。旧石器遺跡の出土物は三万年前の時代のもので、縄文遺跡は原産地から二百キロも離れているものだ。
 更新世末期には、海面は今日より百から百四十メートルも低かったが、神津島は伊豆半島から海を遠く隔てているので、丸木船や筏を使わずに神津島の黒曜石を採取するのは不可能に近い。
 伊豆諸島産の黒曜石が昔から使用されていた事実は、日本の旧石器時代人が航海術に長けていて、後に縄文人の高度に発達した航海技術の基を築いたことを物語っている。(オダ 一九九〇・六四)
 いろいろ縄文という先史時代を検討すると、太平洋横断航海の問題に突き当たる。
 伊豆諸島には縄文時代初期から中期初頭ごろにかけての遺跡が豊富に存在する。これらの遺跡からは、遠方地域との多様な接触を意味する色々な土器様式やエキゾティックな材料(琥珀、翡翠、蛇紋岩)を使った装飾品が混ぜ合わさって出てくるのだ。(オダ 一九九〇・七〇、七四)
 縄文中期初頭頃から、八丈島に人がいなくなり見捨てられたようになった。その原因は分からないが、小田氏によると、人々が単純に死に絶えたとは考えられない。自らの進んだ航海術を用いて南方の他の島に移り住んだ可能性が大きい。
 ほぼ同じ頃、本州中部の山岳地帯では気候悪化で気温が低下し、生存に必要な資源が枯渇したので、人々は止むを得ず沿岸部に移動した。航海の経験に欠ける人々の流入は、意に反する漂流航海の頻度を増したのではなかろうか。

縄文 ー サン・ハシント

 サン・ハシント遺跡ではっきりしたスタイルをもった土器が発見されたことにより、コロンビア北部沿岸での土器の作成年代が今から六千年以前へと遡ることになった。(図表4・オユエーナ・カーセイド 一九九五)
 初期バルディビアとは同時代であっても、土器は泥膏素材でも容器の形でも装飾の扱い方でも異なっていた。
 生活や居住行動を綿密に検討してみると、季節的な資源を採りに定期的に遺跡にやってきたのは狩猟採取民だったことがわかる。数多くの、断層がむきだしの穴とか火でひびの入った石とかはあるけれど、特殊な形をしていてあまり使われていないところから、土器は調理には使用されなかったことがわかる。
 実際問題として、多くの容器の縁の形や仰々しい格好をみると、実用的なものとは到底思えない。

 サン・ハシントのコンプレックスとバルディビアの出土物は、ともに仰々しい装飾的テクニックを持ち、既知の新世界の出土物と関係ないことでも共通点をもつ。
 さらに、バルディビアと同じく、サン・ハシント土器は同時代の縄文コンプレックスの土器と驚くほどよく似ている。これは九州のものではなく本州中部出土のものである。
 両者に共通する特徴は、深いパンクチュエーションにいたる線刻、細い平行線刻がいっぱいある小さな卵形ゾーン、セントラル・パンクチュエーションを持つ小さな半円形の突起、ジグザグのアップリケ、縄目文様、仰々しく飾られた城壁のような口縁などである。サン・ハシントの城壁的口縁と「火炎土器」として知られる火の燃え立つような縄文容器とが酷似していることは特に注目すべきである。(図5 メガース 一九九五)

図表4 コロンビアのサン・ハシント遺跡出土の土器(左)と日本の縄文中期土器(右)の装飾様式の類似性。はっきりした共通の特徴は、高度化に装飾化された城壁形口縁、ジグザクのアップリケ、孔あき、端末にバンクチュエーションをもつ線刻、それと縄文文様。(メガーズ1995 - 112による)
図表4 文化の進化と伝播 ベティー・J・メガーズ スミソニアン博物館 藤沢徹 新・古代学第四集

 

遺伝子の証拠

 遺伝子マーカー(指標)を使って先住アメリカ人の祖先を解明しようとする努力によって、太平洋横断の渡来説と矛盾しない分布が明らかになった。
 ABCDに分類されるミトコンドリアDNAの四タイプが新世界住民に存在するけれども、Bタイプは今日のシベリア住民には見つからない。(カン 一九九四)
 ところが、対照的にこのタイプは、南アメリカ住民、太平洋諸島住民、インドネシア人には高い頻度で見つかっている。
 他の違ったやり方で説明しようとしても、うまくいかないので、カンは次のような結論に達した。
 「いつも南方地域で最高の頻度を示すBタイプがなぜ地域的偏りを起こすのか、どの環太平洋沿岸ルートを調べても分からない。太平洋航海説をとれば、べーリンジャーを通らなくても説明できる。このモデルを予言してみると、Bタイプのクラスター(集団)は航海がリモート・オセアニア(東部オセアニア島嶼世界)で盛んだったと知られているある時間帯に限られてみられるので、考古学的にいうとイントルーシブ(侵入的)とみられるべきだろう」。(カン 一九九四・一〇)
 メラネシアを横断するラピタ文化複合の拡大の時期は、バルディビアとサン・ハシント土器の初期の頃と時を同じくする、六千年前の時代だとカン氏は述べている。

 一三の遺伝子マーカーを使って、世界中の異なった民族グループを調査してみたところ、日本の縄文人の末裔とコロンビアの太平洋沿岸の先住民グループの間に密接な類似性があることが判明した。
 「本調査によれば、ノアナマ住民は中部太平洋地域のサモア人と密接に関係しているが、奇妙なことに、より深く日本人と関係していることが分かった。
 HTLV-1を世界で一番多く血液中に含むのは日本人で特に縄文人の末裔に多いが、コロンビアのノアナマ先住民の保有者(キャリア)と同じ遺伝子マーカーを持っている。この事実は、べーリング海峡とは違ったより直接的なルートを通して、極東から南アメリカに、このウイルスがやって来たのだろうということを物語ってくれる。何千年も前に日本人と南アメリカ人を結びつけることを可能にしたのだろう。
 そのうえ、最近の南アメリカ先住民の遺伝子研究によれば、彼らの祖先は日本人にすりこまれたヒト白血球抗原(HLA)(いわゆる白血球の血液型)の遺伝子マーカーと類似したものを持っていたことが分かった。
 特に興味深いことに、現代のコロンビアの南西沿岸の住民でHTLV - 1ウイルスに感染し、中には慢性脊髄病/熱帯性痙攣性麻痺(HAM/TSP)を発病している人が多いが、日本人、それも主に九州地方の同病患者と一致する遺伝子マーカーを持っている。
 太平洋横断移住の可能性はこれらの人々の類似性を説明してくれる。しかも、こういった接触は、北や中央アメリ力の似たような住民には存在しない各種のマーカーが、南アメリカ住民の先祖のHLA(ヒト白血球抗原)には存在するのは何故かを説明してくれるのである」。(レオン他 一九九四一三三 - 一三四)

 ノアナマ先住民が住む領域はコロンビアの太平洋沿岸のサンフアン川に沿ってのびるが、このルートはバルディビア文化の要素をプエルト・オルミーガの土器コンプレックス(複合文化)に結びつけたものと一九六五年になって思いついたものである。
 太平洋沿岸に到達した渡来民はサン・フアン川やサン・フォルジェ川水系に沿えば北進が楽だったと推測できるので、遺伝子の証拠の流れからいっても、古いサン・ハシント文化コンプレックスがカリブ海沿岸に出現したことはまことによく理解できる。(図表5 メガースとエヴァンズ及びエストラーダ 一九六五 図表一〇四)

図表5 エクアドル沿岸部とコロンビア北岸の間の自然河川ルートに沿った先住ノアナマ・インディオの場所。(メガース、エヴァンス、エストラーダ一九六五図表104aによる)
図表5 文化の進化と伝播 ベティー・J・メガーズ スミソニアン博物館 藤沢徹 新・古代学第四集

 

寄生虫学の証拠

 旧世界の熱帯起源の腸の寄生虫がコロンブス以前の南アメリカ住民に存在した事実は、太平洋横断の接触に新たなる生物学的証拠を提供してくれる。
 現代の住民グループは最近の移民によって感染させられたのかもしれないが、隔絶された奥地の考古学的事例は時代をはるか古いころに遡らせる。
 ペルーのミイラから成虫の鈎虫が見つかって、炭素14年代測定法で調べたところ、BC九百年頃のものと分った。(アリソン他一九七四)また、BC二千四百年頃のブラジルの遺跡の人間の糞石から卵や幼虫が見つかった。(フェレイラ他一九八三)
 何人かの専門家の意見によれば、「生物学的に見て種は二箇所の違ったところで独立して発生することはない。それ故に二箇所の違った地域から特定の寄生虫が出たということは、過去に宿主間に接触があったという結論に達せざるをえない。」
 温帯性土壌ではライフサイクルが完成しない(生き延びれない)ということは分かっているから、「海上移民のみ、特に太平洋横断渡来のみが鈎虫をアメリカに持ってくることを可能にする」。(アラウフォ 一九八八・アラウフォ他 一九八八・コンファロニエリ他 一九九一)

 

考古学的証拠の限界

 太平洋横断の影響を認めるのに主要な障害になるのは、受容側の文化の多くの特徴がはっきりと継続性を示していることである。
 即ち、オルメカ文化につけ加えられたものは、BC二千年代の定住社会の発達や、初期的な社会の階層化や、増大する文化的複雑性の他の証拠などと両立しているように見える。
 同様に、出土している訳でもないのにエクアドルの海岸により古い土器コンプレックスが存在すると仮定して、バルディビア土器の太平洋横断導入説に反駁するため引証する者もいた。

 外国文化の影響を見つけ出すことがいかに難しいか、メソアメリカでの初期のスペインとの接触を調査した人たちが長い間かかって文書にまとめている。
 一九六〇年にフォスターは次のように書いている。
 「征服者の文化は、提供者の文化を構成する特徴や複合性の全体のほんの一部分しか表していない。そこで、地理的に異った地域の受容者の人々を改めて調べる過程を通してみると、征服者の文化要素ははるかに減少されている。」(一九六〇・二二七)
 太平洋横断の接触は征服文化といったものでないから、渡来民の数は少なく、後続部隊はいなかったのかもしれない。
 従って、スペインの植民地化においての中核地域ではなく、辺境の場所の証拠に関して、渡来文化の潜在的影響力は研究され評価されなくてはならない。

 ユカタンの東海岸における初期のスペインの接触の考古学的証拠はほんの少ししかない事実は教訓的である。
 二ヶ所の遺跡の発掘で次のことが分かった。
 「コロンブス以前の先住民が残した数多い特徴が、スペイン人到着後の建築物の多くにはっきりみられるにも拘らず、ラママイでもティプーでも、ヨーロッパ人が先住民の建築の伝統を変えたり、影響を与えたりしたという特別な証拠は存在しない。
 ラママイと同様、ここ(ティプー)でも次のことは真実である。即ち、枯渇していく物的資源と恐らく減少した労働の供給に対応して先史時代後期に出来上がったヨーロッパとの接触以前の建築物の特徴が、歴史時代になってもなお残っているという事実。
 変化するものと、連続するものとの流れの中でどちらの共同体も、ヨーロッパ形式に則った建築技術や設計特徴を取り入れているもの以外原住民のために建てられた建築物は誇りに思っていないように見える。
 しかしながら、ご想像のように、スペインの建築伝統が出現したのは教会それ自体の中であるが、それであっても原住民の建設技術が基になっているのである」。(ペンダーガスト 一九三三・一一九)

 侵入者と原住民社会の間のコミュニケーションが制限されたり間接的だったりするところからの植民地化の影響の認識を不明瞭にする条件とか、恣意的な考古学的発掘とか、差が甚だしい保存状態とかが、「腹立たしいほど無価値同然になってしまうデー夕にも精一杯頼らざるをえない」という結論は(ペンダーガスト 一九九三・一〇八)、コロンブス以前の太平洋横断接触を探しだすことについても同じく当てはまる。

 歴史的現実と物的証拠がミスマッチする可能性についてもう一つ警告がある。それは、十世紀以降のイスラム教の中国への進出である。政権の中でイスラム教は何代も重要な役割を果たしたが、中国のほとんどにそれが存在したという物的証拠は非常に少ない。
 伝統的な寺院はモスクに変えられたが、元々の建築には大きな変更は加えられず、「ずんぐりした中国寺院の塔」に似たミナレットが付け加えられただけだった。(ロートン 一九九一)
 文献なしでは、中国の歴史上でのイスラム教の影響の存在、ましてや、インパクト(衝撃的影響)など見いだすことは困難か、不可能であろう。

 

文化の進化の過程を説明する

 進化理論は、時空を通したあらゆる規模での文化の発達を説明する唯一の総合的コンテキスト(文脈)を提供する。
 それは不適切な質問をさせない。例えば、国家の進歩の唯一の原因の調査は、人間の二つの眼球の進化の唯一の原因の調査とは関係ない。
 それは生物学的であろうと文化的なものであろうと、発生と派生の形態的特質をはっきり区別する基準を提供してくれる。その結果、歴史的関係は再構築可能になる。
 最も重要なことだが、それは「意図せざる結果の復讐」を予測させ、できれば避けさせてくれる、この惑星が生まれて以来支配してきた基本的力への人間の意図から注意をそらしてしまう。(テナー 一九九七)

 今日我々はパラドックスに直面している。前期旧石器時代に既に出現し始めたシンボルを使ったコミュニケーションが成熟してくると、地理的、文化的、民族的、言語的障害を越えて情報を蓄積し流すことが可能になってくる。そうなると、各地でばらばらの独立発明の必要性は減少する。
 どんな長距離でもあっという間に効率的にコミュニケーションを可能にする方法、即ち講演、文書、電報、電話、ファツクス、電子メール、インターネツト・・・・これらはすべての新案物を精巧に作り、改良する機会を拡大した。
 同時に、データ処理(プロセス)の速度、メモリー、範囲のさらなる進歩は、我々の視野を原子より小さい粒子の深さから宇宙の果てまで広げてくれている。(トーベス 一九九六)
 二十世紀の終わりには、ほんの数年前までは想像もつかなかった猛烈な速度で、このプロセスは種々の情報をこの惑星の隅々までの人間に提供する。
 コンピューター利用窃盗、ハイテク利用監視、「リバース・エンジニアリング」は、特許権侵害、盗聴、密輸、誘拐とかの拡散していく悪知恵の伝統的手口を手助けしている。
 その結果として起こる社会的、政治的、経済的変容のもつグローバルな衝撃は、人類の歴史上第三の主要な文化的革命を実質的に構成し直し、我々を情報化社会へと導いて行く。
 農業革命と産業革命は、社会のすべての局面とレベルで忘れられない再組織化をもたらした。今や我々ははるかにスピードを増して、ドラスティックな再編成の時代を経験している。
 情報化時代が我々をサイバースペース(幻想空間)につれていくにあたって、我々の生活を支配する技術的進歩は、シンボルを使ってのコミュニケーションの成熟化に始まる民族間の協力の成果だということを忘れてはならない。進化理論を考古学的証拠に当てはめることにより、広く互いに隔離された社会共同体の間でのアイデアや発明の拡散が、地球上での文化の発達を促したやり方を明らかにしてくれる。
 この過程の存在を否認することは、あらゆる地域の人々から、彼らの真の歴史への貢献の認識を誤魔化し、我々すべてを仮想現実(バーチャル・リアリティー)の幻想世界(ファンタジー・ワールド)に引き渡してしまうことになる。

 本稿は Evoluci on y Difusi on Cultural キト アブヤ・ヤラ、一九九八年、七〜二八頁のスペイン語版の英訳に基く。

〈付記〉本稿はメガース博士が、「文化の進化と伝播」に関して諸論文を、考古学調査研究入門書として一巻にまとめ、スペイン語に訳し出版したものからの抜粋である。内容は博士が推敲し、新しくなっているとのこと(一九九九年六月一日付メガース博士より訳者への書簡による)。

引用文献(この部分はスペイン語版のまま) へ


ベティー・J・メガーズ博士来日こぼれ話 藤沢徹(『新・古代学』第2集)

『新・古代学』 第4集 へ

ホームページへ


これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“