「日出ずる処の天子」の時代ーー試論・九州王朝史の復原 古賀達也(『新・古代学』 第5集)へ
古賀達也
平成十三年、二十一世紀最初の元旦、父がどうしても紹介しておきたい人がいると、星野村へ行くことになった。父は病身であったので、弟直樹の運転する車で、まず本星野にある古賀家の祖、星野一族の墓に詣でた後、土穴の玉水山大円寺を訪れた。大円寺は太宰府観世音寺の末寺として神亀二年(七二五)行基により創建されたという伝承を持つ古刹(1) であり、星野一族の菩提寺でもある。父が紹介したいという人物は、この大円寺の御住職であった。
「先代の住職もよか人やったばってん、今の住職もほんに人柄がよか」と大円寺に向かう車中で父は言った。大円寺は檀家を持たない寺なので、寺の維持も大変だろうとも語った。拝金主義に堕落した僧侶が多いこと常々批判していた父であっただけに、その父が僧侶を気に入るということは、どうした心境の変化かと少なからず怪訝(けげん)に思った。が、御住職にお会いして、納得した。父と御住職とは星野氏顕彰会などの行事を通じて知り合ったようだ。以来、父は大円寺にしばしば通い、自作の三重塔模型や刀を奉納している。
本堂にて御住職と歓談のおり、わたしが古代史研究をしていることを述べると、御住職から星野村に伝わる反哉(はんや)舞のことを教えていただいた。星野村麻生神社(池の山)で九月十八日に舞われる反哉舞で詠われる歌には『古今和歌集』などに見える古い歌もあり、その淵源は頗る古いもののようであるとのこと。なぜ星野村のような山中にそうした雅(みやび)な古歌と舞が伝承されているのか不思議であるとのことであった。
話をお聞きして、わたしにはひらめくものがあった。それは古田武彦先生からうかがった『万葉集』の次の歌の存在であった。
天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林にこぎ隠る見ゆ
右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出でたり。(『万葉集』巻七、一〇六八)
古田先生より、この「星の林」とあるのは星野村のことではないか、という示唆を得ていたのである。柿本人麻呂が九州王朝(倭国)の宮廷歌人で、九州王朝滅亡後に大和朝廷(日本国)へ仕えたという説を、古田先生は近著『古代史の十字路 ーー万葉批判』(東洋書林)等にて発表されているが、星野村の反哉舞に見られる歌や舞も、九州王朝の宮廷文化が現代まで残されたものではないか。たとえば、麻生神社に人麻呂神社が合祀されていることも、こうした仮説を支持すると思われるのである。
星野村と九州王朝を結ぶもう一つの「証拠」があった。これも御住職からお聞きしたのだが、星野村のチンのウバ塚から銅鏡が二面出土しており、その塚の名前から天子の乳母の塚と思われるが、南北朝時代(一三八三)大円寺で没したとされる懐良(かねなが)親王では時代があわないので、困っているとのことであった。もっとも、懐良親王の乳母としても、親王のことを「チン」とは称さないので、問題の解決にはならないであろう。
『星野村史年表編』(平成七年発行)によれば、問題の銅鏡は海獣葡萄鏡とよばれるもので、チンのウバ塚より明治三六年(一九〇三)九月頃に銀製簪(かんざし)一本と共に出土している。それは白銅鏡と青銅鏡の二面で、いずれも唐代のものと思われる見事な鏡である。翌三七年には、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)より金四〇円で購入したいとの申し入れがあり(2) 、明治三九年六月に、「星野村助役の今村和方、東京帝室博物館に対して村誌資料とするために、宮原林太より譲渡した海獣葡萄鏡の鑑定を依頼する」とある。現在、同鏡は東京国立博物館に収蔵されていることから、そのまま帝室博物館に渡ってしまったものと思われる。ここで、重要なことは帝室博物館が欲しがったほどの貴重な鏡であるという点である。
星野村のような近畿から遠く離れた筑後の山中の塚から、このような見事な鏡が出土したことは、近畿天皇家一元史観からは説明困難である。近畿の天子の乳母が同地出身であったなどという話は聞いたこともない。やはりこれは、九州王朝の天子の乳母と考える他ないであろう。出土した銀の警や鏡は、いずれも女性の使用する道具であり、天子の乳母の墓に埋納されるにふさわしい品々である。現地に伝承されていたチンのウバ塚という名称とも矛盾しない出土物だ。まことに地名の伝承力は侮りがたいものである。(3)
こうして、新世紀最初の元旦は、数々の知見と研究テーマを与えてくれた。それまで、星野家発祥の地としてしか捉えていなかった星野村が、わたしの生涯の研究テーマともいうべき九州王朝と深く関係しており、現在にまでその文化が伝承されていたのであった。その縁を取り持っていただいた大円寺御住職に深く感謝申し上げるしだいである。父、正敏はその二週間後の一月十五日、記録的な大雪の朝、息をひきとった(享年六八歳)。末期の肝臓癌であった。本人には告知していなかったが、父は悟っていたようだ。葬儀は遺命通り、大円寺御住職に導師をしていただいた。また、寒星院釈仁西敏信士という立派な院号まで賜った。御住職の説明では、大円寺禅宗開山の祖師、寒巖義弄大和尚(4) と星野より一字ずついただいたものとのことであった。仁西敏信士の部分は、生前父が自ら決めていた「仁西道敏信士」をもとにして字数をそろえたもの。従って、大円寺は禅宗(5) であるが、故人の意志を尊重していただき、真宗の戒名である「信士」が付くということになった。父にとっては願ってもない最高の戒名であろう。
葬儀の後、末の弟正司と共に大円寺へ御礼にうかがった。その時、御住職は静かに言われた。
「わたしが院号をお付けしたのは、あなたのお父さんが初めてです」
わたしは深く頭を垂れた。
大円寺からの帰り道は、まだ雪が残っていた。思えば、通夜の晩、御住職はあの大雪で危険な山道を、自ら車を運転し、かけつけて下さったのだ。父がどうしても紹介したいと言っていた意味を深く了解したのである。今、父は浮羽町御幸の古賀一族墓地に眠っている。久留米藩宝暦大一揆のリーダーで、さらし首になった先祖、古賀勘右衛門と共に。
平成十三年の夏、父の初盆供養のため帰省したおり、また星野村へ足を運んだ。今回の目的は、チンのウバ塚を実見することと、麻生神社に合祀されている人麿神社の調査だ。弟、直樹の運転する車で、まず浮羽郡浮羽町御幸の古賀一族墓地に寄り、墓掃除を終えた後、水縄山地を山越えして星野村へ入った。昨年までは、父が運転する車に同乗し、何度も訪れたルートだった。
いったん星野村へ入ってしまえば、星野川沿いの小さな村なので、道に迷うことはない。まず星野村中央部、標高三百メートルの山中にある麻生池に向かう。そのため、この山は「池の山」とも呼ばれ、その湖畔に麻生神社がある。麻生池は周囲七百メートルの自然湖で、干ばつの際も水が枯れたことはなく、古くから雨乞いや風鎮などが行われた所という。
麻生神社では毎年九月十九日に近い日曜日に「反哉はんや舞」が奉納される。境内の一画に舞台が設けられている。摂社を捜すが、人麿神社らしきものは見当たらない。麻生池にある中島(なかのしま)には小さな社殿があり中島弁財天社と表示板にある。御祭神は市杵島姫命で、本地仏が弁財天とのこと。阿蘇山伏の峯入修行が行われていた時代には、この弁財天社にも必ず納礼していたらしい。その小さな社殿には大きすぎるほどの屋根が載せられているが、度重なる台風にも耐えてきた。
どうしても人麿神社が見付からないので、宮司さんの家にも寄ったが、あいにくの留守で、すぐには帰らないとのこと。仕方がないので、もう一つの目的地、チンのウバ塚を探すことにした。こちらはすぐに見付かった。
星野川沿いの一本道を矢部村の方向へ走ると、「古陶星野焼展示館」と「チンのウバ塚」の標識があり、展示館裏手の道路と川の間に塚はあった(星野村千々谷)。それは高さ二メートルほどの異様な形をした積石塚だった。説明板によると、「塚の形状は、一説に双円墳と伝えられていましたが、一辺が八・〇メートル以内の方墳か長方形墳と考えられます。遺物は、伝えられている鏡二面とカンザシ一本のほか土師器、陶磁器類が出土していますが、時期は平安時代から近世までと幅があります。築造年代は、二面の鏡と出土土器から平安時代初頭(八世紀末)前後と考えられます。」とある。
近年、年輪年代測定法により従来の土器片年が百年ほど遡る可能性があり、そうするとこの塚の築造年代は七世紀末前後となり、まさに九州王朝滅亡前後の時代に相当する。そして、それは柿本人麿が活躍した時代と重なるのだ。そうなると、先の人麿神社と何等かの関係があるかもしれない。なお、二面の鏡(海獣葡萄鏡)のうち、白銅鏡は中国製、青銅鏡は国産と説明板にはあったが、その根拠までは記されていない。現在は東京国立博物館収蔵となっているこの鏡についても実物に当たっての調査が必要だ。なお、レプリカが星野村土穴の大円寺にあることを後で知った(銀のカンザシは行方不明)。
チンのウバ塚のことを星野村教育委員会の栗秋恵二氏に電話でうかがったところ、ある郷土史家の説として、ウバとは仏教信徒を意味する優婆塞・優婆夷のことではないかとする見解があることを教えていただいた。確かに検討に値するかもしれない。また、古田先生からうかがったことだが、福岡県小郡市に「北のウバ塚」「南のウバ塚」という字地名があり、「ウバ塚」という特定の概念があるのではないかということであった。今後の研究課題としたい。
ところで、わたしが星野村に人麿神社があることを知ったのは、国武久義著『筑後星野風流「はんや舞」の研究(6) 』に紹介されていた『福岡県神社誌・中巻(7) 』の次の記事からだった。
「神社 麻生神社
祭神 建磐龍命 柿本人麿
由緒 不詳 或伝に祭神懐良親王
祭神柿本人麿は同大字石原無格社人麿神社として祭祀ありしを明治四十四年一月十三日合併許可。昭和七年七月十九日村社に列せらる。」
結局、人麿神社を見つけられないまま、星野村を後にしたのだが、その日の夜、麻生神社宮司の氷室説義(とくよし)氏に電話がつながり、詳しくお聞きすることができた。人麿神社は社殿横にあった小さな石の祠がそれで、何も表示がないので探しても判らないはずとのことであった。そう言われれば確かに社殿横に小さな石の祠が二つあったが、まさかその内のひとつが人麿神社だったとは思いもしなかった。
人麿神社はもともとは山の下の集落にあったもので、四〜五軒の家で祭っていたものを昭和十年頃麻生神社に合祀したものらしい。今でも毎年十月一日にお祭りをするとのこと。伝承として、火災を人麿が和歌を詠んでくい止めたことにより、火災避けとして祭っていたことをうかがった。この伝承は恐らく、人麿(火止まる)の語呂合わせから発生したものと思われるが、興味深い伝承だ。
もっと詳しい話しを聞くために、人麿神社を祭っている家の長老格である江良節男氏をご紹介いただいた。そして後日、江良氏より次のようなお話を聞くことができた。人麿神社を祭っている家は、江良家・森松家(二軒)・高木家・江田家の五軒で、ずっと昔から祭っていた。今はなくなったがご神体は丸石だった。江良家のお墓は浮羽郡吉井町にあり、おそらく元々は吉井町の方に住んでいたものと思われる。高木家は星野村の旧家である。以上のようで、人麿神社祭祀の由来は不明とのことだった。ただ、以前は現星野村役場付近にあったもので、工事のため麻生神社に合祀してもらうことになったとのこと。
このように現地での伝承などは絶えてしまったようだが、人麿の妻の依羅(よさみ)娘子の依羅が音読みでエラとも読めることから、江良家と何等かの関係があるのかもしれない。これも今後の楽しみな研究課題だ。
そしてやはり、ここで問題となるのが『万葉集』の次の歌だ。
天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に こぎ隠る見ゆ
右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出でたり。
(『万葉集』巻七、一〇六八)
この歌にある「星の林」は星野村と関係があるのではないか、とは古田先生からうかがった話しだが、どうやらその可能性の高いことがわかってきた。その根拠として、一つは『万葉集』の同じく人麿の次の歌だ。
大船に 真楫(まかじ)しじぬき 海原を漕ぎ出て渡る 月人壯子(をとこ)
右は、柿本朝臣人麿の歌なり。 (『万葉集』巻十五、三六一一)
そして、もう一つは『肥前国風土記』養父郡曰理(わたり)郷に見える次の地名説話だ。
「曰理の郷 郡の南にあり。 昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚だ広く、人畜渡り難し。ここに、纏向(まきむく)の日代の宮の御宇麻天皇、巡狩の時、生葉山に就きて船山と爲し、高羅山に就きて梶山と爲して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。因りて曰理の郷といふ。」
水縄山地の東の生葉山を船山に、西の高良(羅)山を梶山に見立てているが、高良山に鎮座する高良大社の祭神、高良玉垂命は月神(8) とされており、先の人麿の歌にある真楫を漕ぐ「月人をとこ」と見事に対応している。この「月人をとこ」とは、安曇族を中心とする、月神(高良玉垂命)を信仰する船乗りたちのことではないだろうか。たとえば、玉垂命巡行説話の舞台でもある大川市酒見(旧三潴郡)にある風浪宮の祭神は、少童命・八幡大神・高良玉垂命であり、神職の酒見氏は安曇磯良の子孫といわれる。境内には磯良塚もある。また、この地方一帯は濃密な玉垂命信仰圏でもある。
このように、人麿の歌や『肥前国風土記』に筑後地方の地名や神名が取り込まれているのだ。したがって、同じ人麿の一〇六八番歌の「星の林」も、同様に地名の星野が詠み込まれていると見ても問題ないように思われる。
そうすると、これら二首の作歌場所は筑後国と考えざるを得ない。人麿はやはり筑後国に来たことがあるのだ。おそらく星野村にも。もしかすると、あのチンのウバ塚の被葬者を知っていたかも知れない。あるいは、葬儀にも参列したのではないか。もちろん、まだ空想に過ぎないが、そうであっても不思議ではない。
最新の古田先生の万葉集研究によれば、人麿はあの白村江戦に参加しているらしいとのこと。もし、そのとおりであれば、人麿を乗せた「月人をとこ」たちが漕ぐ大船は、筑後川を下り、河口の熟田津(にきたつ 佐賀県諸富町新北、下山昌孝説(9) )より有明海から白村江へと向かったのではないか。その時、船乗りたちの長、額田王が歌ったのがあの熟田津の歌ではなかったか。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(『万葉集』巻一、八)
ここにもやはり「月」が詠み込まれている。目に浮かぶような光景だ。こうして、わたしの星野村歴史探訪は柿本人麿の人生と折り重なりながら、いよいよ佳境へと船出したようだ。
平成十四年の一月二日、母と弟直樹家族と共に星野村大円寺へ新年の挨拶にうかがった。母には初めての大円寺行きであった。元旦から降りだした雪もやみ、星野村への道は積雪もなく無事お寺に着くことができた。御住職のご母堂と奥様の歓迎を受け、しばし亡き父の思いで話となった。年始の挨拶回りでご多忙にもかかわらず、御住職から父の初正月の供養をしていただくこととなった。
読経の声を聞きながら、外に目をやると、また激しく吹雪きだしていた。父が亡くなった日も福岡県は記録的な大雪で、そのため交通機関が麻痺し、病院から連絡を受けたものの家族は誰も死に目に会えなかったことが思い出された。四十九日もそうだった。納骨を済ました後、浮羽郡は冷たい雨交じりの雪が降りだした。父の死は、よくよく雪に縁が深いようである。いただいた院号も「寒星院」だ。これから雪の日には父を思い出すことであろう。
焼香を済ませ、この後、耳納峠を越えて浮羽町のお墓まで行くことを御住職に告げると、ここから先は雪が積もっているので、峠越えは危険だからやめた方がよいと止められた。星野村から浮羽町に抜けるには、水縄連山を峠越えしなければならないが、もともと星野村は生葉郡(現、浮羽郡の一部)に属しており、距離的にはそれほど離れていない。耳納連山の最高峰、鷹取山(八〇二メートル)の東側にある合瀬耳納峠を車で越えればすぐである。しかし、積雪で凍結したこの峠越えは確かに危険だ。墓参りは断念せざるを得なかった。
この鷹取山の峠を越える度に、わたしはある想像をしてしまう。それは、あの有名な竹取の翁の説話、竹取物語である。この鷹取山の北側は旧竹野郡であるが、この竹野郡と鷹取山こそ、あの竹取の翁の出身地であり、竹取物語はこの筑後地方で生まれた物語ではないかと想像されるのだ。
源氏物語の中で、わが国の物語の初め親と言われた竹取物語は、その作者や成立地について様々な説が出されており、未だ定説を見ない。各地に、わが町こそ竹取物語の舞台であると主張する所はあるのだが、いずれも決め手を欠いているように思われる。そこで、今回わたしは竹取物語筑後発生説なるものを提案してみたいと思う。何を突拍子もないことをと思われるであろうが、さにあらず。きちんとした根拠があるのだ。
まず第一に、竹取物語には竹取の翁の住んでいる場所が書かれていないとされているが、それも変ではあるまいか。竹取の翁と呼ばれているのだから、竹取(たけとり)という地域に住んでいる翁と考えてみるべきではないか。とすれば、竹は古来「たか」とも呼ばれているから、鷹取山という山名がある耳納連山が舞台であっても問題ない。鷹取山は各地にあるので、もちろんそれだけでは筑後の鷹取山や竹野郡と特定するに至らない。
第二に、翁がかぐや姫を見つけた所は、『今昔物語集』では篁(たかむら)とされているが、このタカムラとは耳納連山の西端、高良山のことではあるまいか。高良山は古くは高牟礼の山とも呼ばれており、タカムレはタカムラと同義で、これも当てはまる。
第三に、高良山は金明竹の産地であり、金色に光る竹も、この金明竹のことと理解されうる。もっとも、高良山の金明竹はそんなに古くから自生していたものではないとする説もあるので、この点についてはあまり断定的には主張できない。
第四に、かぐや姫は最後は生まれ故郷の月へ帰るが、高良山の神様は月神とされており、麓にある御井寺は月光院ともいい、この点も見事に一致する。
第五に、翁は金のある竹を見つけて裕福になるが、星野村は古くからの有名な金の産地である。江戸時代の地誌、『筑後志』にも次のように記されている。
「金 生葉郡星野村・上妻北川内村に産す。就中北川内の産は沙金にして無上の好金なり」
第六に、これが決め手となるのだが、時の天子から求婚されて断った美女の伝承がこの筑後地方にあるのだ。三瀦の大善寺玉垂宮の縁起絵巻(建徳元年〔一三七〇〕成立、重要文化財)に次のような説話が記されている。
「三池長者が娘、容顔美麗なるを聞しめされ、牛車をつかはして禁中にめさる。されども一女の事なれば、両親なげきにたへずして、娘の病死したるを火葬したりとて、コノシロといふ魚をやきて、其臭気を勅使にかがせてかへす。その時よめる歌、立出て池のほとりをながむれば我子のしろにつなじやくらん。」(句読点は古賀による)
ちなみに、焼くと人間を焼いたような臭いがするというコノシロを用いた同類の説話は、「コノシロ伝説」として各地に存在するようである。
大善寺玉垂宮の絵巻に記されたこの説話の特徴は、勅使を派遣し、禁中に牛車で召されたとあることから、相手が天子であることだ。そうすると、三池の長者の娘を牛車で迎えられる程度の所に天子の宮殿があったことになるのだが、これが近畿の天皇家では離れすぎていて、物語としても実感がわかない。ところが、太宰府に都を置いていた九州王朝(倭国)の天子ならば大変リーズナブルな話となる。すなわち、この天子の求婚譚は九州王朝内の説話、恐らく実話だったのではあるまいか。もし、後世の造作であれば、求婚の相手を天子にしなくても近隣の殿様や長者に設定すればよいのであるが、「禁中」や「勅使」という用語が示すように、相手は天子である。従って、近畿から遠く離れた筑後地方で後代に造られた説話とは考えにくいのだ。
以上、竹取物語の原形ともなる説話や関連する地名・産物などが筑後地方にそろっていることをおわかり頂けたであろう。従って、竹取物語筑後発生説は一仮説として、それなりに根拠があるど思われるのである。
こうしたわたしの仮説が正しければ、「物語のはじめのおや」「神代のこと」と紫式部が『源氏物語』に記したように、竹取物語は九州王朝内の宮廷文学として筑後地方で成立したものが、後に近畿天皇家の時代になって、現在の形に変形されたものと思われる。大和朝廷に先住した九州王朝(倭国)が実在していたとする多元史観の立場に立って初めて、議論百出していた竹取物語成立の謎が解けるのではあるまいか。
そしてもしかすると、絶世の美女、かぐや姫のモデルとなった女性の子孫が、今も高良山近辺に住んで居られるかもしれない。是非、会ってみたいものだ。などと、よこしまなことを考えながら、降り積もる雪の中、大円寺を後にしたのであった。
《注》
(1)行基の創建と伝承されている寺院が筑後地方に散見されるが、行基が筑後地方を行脚したとする史料根拠は未見である。これらの伝承は、後代において行基に仮託されたものであり、本来は九州王朝系の僧侶による創建説話だったのではあるまいか。今後の研究課題としたい。
(2)明治三十七年の、米一俵の価格は四円四十銭(『星野村史年表編」)。
(3)太宰府にある字地名「紫展殿」「大裏」、長岡京跡の「大極殿」、平城京跡の「大極の芝」など地名の伝承力については、「筑後の九州年号」(『耳納」No.二三六所収)にて述べた通りである。 筑後地方の九州年号 ーー古代九州王朝の真実 古賀達也(『古田史学会報』第44号)
(4)大円寺にある御位牌によれば、正安元年(一二九九)八月二十一日没とある。
(5)大円寺は、律宗・成実宗・真言宗を経て現在禅門曹洞宗に属し、大本山越前永平寺の末寺である(『星野村史年表編』)。
(6)国武久義『筑後星野風流「はんや舞」の研究』昭和六三年、葦書房。本書を大円寺御住職より御紹介いただいた。
(7)昭和十九年刊。
(8)『高良記』『八幡愚童訓』になどに、玉垂命は月神であり、神功皇后の船を先導したと記されている。
(9)下山昌孝「にぎたつ考」、『多元』No.三六所収二〇〇〇年四月、「多元的古代」研究会・関東編。
古代の佐賀平野と有明海(古田史学会報No.四十四号 )
〔初出一覧〕
「反哉舞とチンのウバ塚」『耳納』No.二三七(二〇〇一年五月) 福岡県浮羽三井教育耳納会。
「反哉舞と人麿神社」『古田史学会報』No.四六(二〇〇一年十月)古田史学の会。
「筑後のかぐや姫」二〇〇二年一月、書き下ろし。
「日出ずる処の天子」の時代ーー試論・九州王朝史の復原 古賀達也(『新・古代学』 第5集)へ