八女郡星野村行 古賀達也(『新・古代学』第6集)


古田史学会報
2001年 8月 1日 No.45
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八女郡星野村行<

反哉舞とチンのウバ塚

京都市 古賀達也

 二十一世紀最初の元旦、父がどうしても紹介しておきたい人がいると、星野村へ行くことになった。父は病身であったので、弟直樹の運転する車で、まず本星野にある古賀家の祖、星野一族の墓に詣でた後、土穴の玉水山大円寺を訪れた。大円寺は太宰府観世音寺の末寺として神亀二年(七二五)行基により創建されたという伝承を持つ古刹1). であり、星野一族の菩提寺でもある。父が紹介したいという人物は、この大円寺の御住職であった。
 「先代の住職もよか人やったばってん、今の住職もほんに人柄がよか。」と大円寺に向かう車中で父は言った。大円寺は檀家を持たない寺なので、寺の維持も大変だろうとも語った。拝金主義に堕落した僧侶が多いこと常々批判していた父であっただけに、その父が僧侶を気に入るということは、どうした心境の変化かと少なからず怪訝に思った。が、御住職にお会いして、納得した。父と御住職とは星野氏顕彰会などの行事を通じて知り合ったようだ。以来、父は大円寺にしばしば通い、自作の三重塔模型や刀を奉納している。
 本堂にて御住職と歓談のおり、わたしが古代史研究をしていることを述べると、御住職から星野村に伝わる反哉(はんや)舞のことを教えていただいた。星野村麻生神社(池の山)で九月十八日に舞われる反哉舞で詠われる歌には『古今和歌集』などに見える古い歌もあり、その淵源は頗る古いもののようであるとのこと。何故星野村のような山中にそうした雅な古歌と舞が伝承されているのか不思議であるとのことであった。

 話をお聞きして、わたしにはひらめくものがあった。それは古田武彦先生(元昭和薬科大学教授、古代史・日本思想史)からうかがった『万葉集』の次の歌の存在であった。

 天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林にこぎ隠る見ゆ
 右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出でたり。(『万葉集』巻七、一〇六八)

 古田先生より、この「星の林」とあるのは星野村のことではないか、という示唆を得ていたのである。柿本人麻呂が九州王朝(倭国)の宮廷歌人で、九州王朝滅亡後に大和朝廷(日本国)へ仕えたという説を、古田先生は近著『古代史の十字路…万葉批判』(東洋書林)等にて発表されているが、星野村の反哉舞に見られる歌や舞も、九州王朝の宮廷文化が現代まで残されたものではないか。たとえば、麻生神社に人麻呂神社が合祀されていることも、こうした仮説を支持すると思われるのである。
 星野村と九州王朝を結ぶもう一つの「証拠」があった。これも御住職からお聞きしたのだが、星野村のチンのウバ塚から銅鏡が二面出土しており、その塚の名前から天子の乳母の塚と思われるが、南北朝時代(一三八三)大円寺で没したとされる懐良(かねなが)親王では時代があわないので、困っているとのことであった。もっとも、懐良親王の乳母としても、親王のことを「チン」とは称さないので、問題の解決にはならないであろう。
 『星野村史年表編』(平成七年発行)によれば、問題の銅鏡は海獣葡萄鏡とよばれるもので、チンのウバ塚より明治三六年(一九〇三)九月頃に銀製簪(かんざし)一本と共に出土している。それは白銅鏡と青銅鏡の二面で、いずれも唐代のものと思われる見事な鏡である。翌三七年には、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)より金四〇円で購入したい2). との申し入れがあり、明治三九年六月に、「星野村助役の今村和方、東京帝室博物館に対して村誌資料とするために、宮原林太より譲渡した海獣葡萄鏡の鑑定を依頼する。」とある。現在、同鏡は東京国立博物館に収蔵されていることから、そのまま帝室博物館に渡ってしまったものと思われる。ここで、重要なことは帝室博物館が欲しがったほどの貴重な鏡であるという点である。
 星野村のような近畿から遠く離れた筑後の山中の塚から、このような見事な鏡が出土したことは、近畿天皇家一元史観からは説明困難である。近畿の天子の乳母が同地出身であったなどという話しは聞いたこともない。やはりこれは、九州王朝の天子の乳母と考える他ないであろう。出土した銀の簪や鏡は、いずれも女性の使用する道具であり、天子の乳母の墓に埋納されるにふさわしい品々である。現地に伝承されていたチンのウバ塚という名称とも矛盾しない出土物だ。まことに地名の伝承力は侮りがたいものである。 3).
 こうして、新世紀最初の元旦は、数々の知見と研究テーマを与えてくれた。それまで、星野家発祥の地としてしか捉えていなかった星野村が、わたしの生涯の研究テーマとも言うべき九州王朝と深く関係しており、現在にまでその文化が伝承されていたのであった。その縁を取り持っていただいた大円寺御住職に深く感謝申し上げるしだいである。
  *      *
 父、正敏はその二週間後の一月十五日、記録的な大雪の朝、息をひきとった(享年六八歳)。
 今、父は浮羽郡浮羽町御幸通(大字浮羽)の古賀一族墓地に眠っている。久留米藩宝暦大一揆のリーダー(生葉郡頭取)で、さらし首になった先祖、西溝尻村庄屋古賀勘右衛門と共に。
    (平成十三年四月十五日筆了)
(注)
 行基の創建と伝承されている寺院が筑後地方に散見されるが、行基が筑後地方を行脚したとする史料根拠は未見である。これらの伝承は、後代において行基に仮託されたものであり、本来は九州王朝系の僧侶による創建説話だったのではあるまいか。今後の研究課題としたい。

 明治三七年の、米一俵の価格は四円四十銭。(『星野村史年表編』)

 太宰府にある字地名「紫宸殿」「大裏」、長岡京跡の「大極殿」、平城京跡の「大極の芝」など地名の伝承力については、「筑後地方の九州年号」(『耳納』No. 二三六所収、福岡県浮羽・三井教育耳納会会誌)にて述べた通りである。

※ 大円寺は、律宗・成実宗・真言宗を経て現在禅門曹洞宗に属し、大本山越前永平寺の末寺である。(『星野村史年表編』)

【編者部】本稿初出は『耳納』No. 二三七。 一部添削し、転載させていただいた。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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