古田史学会報
2001年 8月 1日 No.45

古田史学会報

四十五号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


教科書の聖域 -- 「新しい歴史教科書」批判 古田武彦


天孫降臨の詳察

向日市 西村秀己

 古田武彦氏はかつて「盗まれた神話」で、天孫降臨は瓊瓊杵尊が対馬海峡領域から進発し筑前日向へ降り立ったものだ、とされた。私にとって、神話が歴史へと進化した一瞬だった。本稿では、その更に詳しい状況が見えてこないかを考察するものである。
 五月の古田史学会関西例会で、私は八幡宮と春日社の比売大神の正体に疑念を抱き、これを瓊瓊杵尊の母親である栲幡千千姫(記:萬幡豊秋津師比賣)とした。 記紀共に瓊瓊杵尊は父親の天忍穂耳が天降りの準備をしている最中に誕生し、これが為に父親に代わって天降りした、とされている。ここで思い起こして欲しいことは、日本神話に登場する神々は特殊な例を除き殆どが生身の人間として活動している、ということだ。彼等はスーパーマンやエスパーではないのである。つまり記紀の記述を信用する限り、瓊瓊杵は天降りの際は乳幼児であったと考えざるを得ない。しかしながら、ここには問題点が二つ生ずる。

一、乳幼児が筑紫進駐軍司令官として相応しいのか?
二、乳幼児でよいなら何故その兄の天火 明が最初の天降り候補者ではなかったのか?
である。

 まず、第一の疑問を考えよう。瓊瓊杵に従って天降りしたとされる五伴緒は全て祭祀関係者てある。実際の統治担当者は、

・・・次思金神者、取持前事為政。(記)

とあるように、母親の兄である思金神なのだ。降臨時、瓊瓊杵には統治能力は特別必要とされていない。つまり、瓊瓊杵は祭祀の象徴であれば十分なのである。従って乳幼児であってもその職分を果たすことが出来る。
 では次に、天降り中心者が乳幼児であってもよいのなら何故最初の天降り予定者が天火明ではなかったのか、という問題に進もう。これは、天照にとって最も重要な子孫は誰なのか、という問題と同一である。当時(現代でも殆ど一緒であろうが)の人々にとって、自らの子孫を(それも直系を)出来るだけ永遠に残したい、という命題がかなり重要な部分を占めたことは想像に難くない。そして、敵地である葦原の中國に天降りするという行為は、その当事者の命を危険にさらすことと同様だったと思われる。さて、天照のことである。天火明が生まれた段階に於いて、天照にとって天忍穂耳と天火明の(敢えて言う)どちらの命が重要だったのだろうか。勿論、天火明だ。天忍穂耳が葦原の中國で万が一死亡したとしても天照の直系孫は残されるからである。これが逆であれば、天忍穂耳は一から天照の子孫を残す努力を始めなければならない。この状況で瓊瓊杵が生まれたのだ。もうお解りだろう。天照にとっての優先順位は 1)天火明 2)天忍穂耳 3)瓊瓊杵なのである。極論を許して戴くなら、天照にとって最も不必要な子孫は瓊瓊杵だということである。
(このことからも、従来の記紀造作説の中で、天照と瓊瓊杵の関係を持統と文武の関係の反映とする説が成立しない事が理解できる。文武は持統の最愛の孫だったのだから)
 さて、では乳幼児の身のままで天降りをする瓊瓊杵には近親者は同行しなかったのだろうか。

 既而天照大神、思兼神妹萬幡豊秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊為妃、令降之於葦原中國 (紀:神代紀第九段第一一書)
 
  則以高皇産霊尊之女號萬幡姫、配天忍穂耳尊為妃降之 (紀:神代紀第九段第二一書)

 ここには、我々の思い込みに反する事実が顔を出す。ここで述べられていることは、当初の天降り予定者は萬幡姫だ、ということだ。勿論、天忍穂耳も天降り予定者の一員だ。しかし

 然後、天忍穂耳尊、復還於天 (紀:神代紀第九段第二一書)

 天忍穂耳は(更に言えば、天忍穂耳だけは)高天原に還ってしまうのである。そしてその事実関係を追って行くならば、必然的に導き出される答えは「瓊瓊杵は母親の萬幡姫と一緒に(或いは、萬幡姫に抱かれて)天降った」なのである。 ではこの萬幡姫はどの様な神だったのだろうか。記紀によれば、高皇産霊の娘、思金の妹、忍穂耳の妻、火明と瓊瓊杵の母である。周囲は日本神話上の有名神ばかりだ。日本神話に興味を持った人ならば、例え記紀を読んだことがなくとも名前位は聞いたことのある神々である。その中で萬幡姫一人が蚊帳の外なのだ。記紀においても、その事跡は何一つ記されていない。我々が彼女のイメージを求めるとすれば、それはその名前からだけしかない。だが、日本神話の神の性格を名前から求めることは非常に危険だ。

 瓊瓊杵尊(紀)邇邇藝命(記)

等のように使われている漢字が全く違うケースが殆どだからである。それでは記紀に現れる萬幡姫の表記を全て書き出してみよう。

栲幡千千姫(紀本文) 萬幡姫(紀一書)萬幡豊秋津媛(紀一書) 萬幡豊秋津師比賣(記)

  使われている漢字は微妙に異なるが、伝わってくるイメージはほぼ同一と言えよう。名前からでも類推を許される可能性が高い。

 「栲」梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布(幡の材質を表す)「幡」のぼり・軍旗「千千」多くの「萬」多くの「豊秋津」豊國の安芸の港(別府湾岸)「師」軍隊或いは軍隊の統率者。

 これらから想像出来る彼女の姿は、「数多くの軍旗に囲まれ豊秋津軍を指揮する女将軍」である。そう彼女こそが幼い瓊瓊杵に代わって筑前を討伐(侵略)した主体なのである。
 では、この(九州王朝にとっては)嚇々たる功績が史書に記載されていない理由は何か。
第一の理由は、後に九州王朝の祖となる天照・忍穂耳・瓊瓊杵の直系の系譜から外れていることが考えられる。彼女の功績をあまりに麗々しく取り上げると瓊瓊杵の功績がかすむからである。つまり、九州王朝史官の削除である。
第二の理由としては、同じく幼児を胸に抱いて戦った女将軍である神功への転用が考えられる。つまり、大和王朝史官の盗用である。そうこの萬幡姫こそが、古田武彦氏がかつて論証した「香椎宮の女王」である可能性が高いのである。(萬幡姫と思兼神の関係は卑弥呼と男弟の関係を連想させる)

 ここで萬幡姫と八幡の比売大神の関係を考えてみよう。「萬幡」「八幡」は共に「多くの軍旗」を表している。そして共に軍神である。また、瓊瓊杵が成長するまでは萬幡姫は筑前の女王であったのだから比売大神と呼ばれるに相応しい。(もし、萬幡姫以後長い間彼女以外に女王が出現しなかったとすれば、彼女が固有名詞を失って、ただ「比売大神」とのみ称されることは更に相応しいこととなろう)更に、宇佐と別府湾岸は国東半島を挟んだ隣接地だ。
 もし萬幡姫が八幡の比売大神であるならば、これに応神と神功が合祀された理由は明快だ。先に述べたごとく、萬幡姫と神功が同じイメージを持っているからである。  さて萬幡姫が豊秋津の軍を率いて筑前領域を攻撃したとするなら、どういうルートで移動したのだろうか。

 豊前風土記にいう、———宮処の郡。むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の神京である。云々。  「中臣祓気吹鈔」    (平凡社 東洋文庫:風土記)

 ここには神代紀とも景行紀とも矛盾する記事が載せられている。日本書紀成立以降にこの豊前風土記が作られたとは信じ難い。
 やや先走り過ぎたようだ。話を萬幡姫の天降りの前に戻そう。記紀には天降りの準備中に瓊瓊杵が生まれた、とある。では、その出生地は何処だろうか。そんなものは記紀の何処にも書かれていない。そんなことをいくら論じても、お前の想像に過ぎない。——と、識者は言うかもしれない。だが、一ヶ所だけ瓊瓊杵の出生地を書いた記事が日本書紀にはあるのだ

  故時居於虚天而生兒、號天津彦火瓊瓊杵尊。  (神代下 第九段一書第二)

 萬幡姫は「虚天に居する時に」瓊瓊杵を生んだ、とされているのである。ではこの「虚天」とは何処だろうか。岩波の古典文学大系では、これに「おほぞら」と訓を振り、その注では「高天原と地上の国との途中のつもりであろう」としている。「空中出産」という訳だ。古田史学成立以前ならそれでも良かったのかもしれない。だが、今やそうはいかない。古田武彦氏は「高天原」を地上に引きずり降ろした。では「虚天」も地上の何処かでなくてはならないのである。
 萬幡姫と関係の深い「豊秋津」は古事記ではどう表現されているだろうか。

 次生大倭豊秋津嶋。亦名謂天御虚空豊秋津根別。(古事記 上巻 国生みの段)

  何と、豊秋津が「天御虚空」とも呼ばれているではないか(この点、我が畏友古賀達也氏の示唆を受けた)。「天」は「天国」を意味し、「御」は美称であろうから、残るは「虚空」である。「虚天」「虚空」と表記は若干異なるものの、共に「そら」と訓むに相応しい。つまり、日本書紀に従う限り、瓊瓊杵は「虚空」すなわち豊秋津(別府湾岸)で生まれたと考えざるを得ない。

 別府湾岸は「国譲り」以前より、「天国」の領域に入っていた。そして「国譲り」の交渉中(或いは戦闘中)密かにここに乗り込んだ忍穂耳と萬幡姫が、筑前攻撃準備中に瓊瓊杵が誕生したのである。
 更にこの傍証がある。

 何虚空津日高之泣患所由。 (古事記 上巻 海幸山幸の段)

 此人者、天津日高之御子、虚空津日高矣。 (古事記 上巻 海幸山幸の段)

 虚空彦者歟。 (日本書紀 神代下 第十段(海幸山幸)一書第一)

 ここでは瓊瓊杵の息子の彦火火出見が「虚空津日高」或いは「虚空彦」と呼ばれている。彦火火出見が「虚空」で生まれ、或いは成長した場合のみ、この呼び方が適当となる。父親が豊秋津すなわち「虚空」で生まれたのであれば、その息子がその地で誕生し、もしくは扶養されることは極めて自然なことと言えよう。
 実は私が八幡の比売大神の正体を探り、ほぼ彼女が萬幡姫であろうと結論づけた時には、瓊瓊杵の出生地などは念頭になかった。その後全く別の論証を経て瓊瓊杵の出生地を見出した。それらが共に「豊秋津」を指差しているのである。
 そして萬幡姫を祀った「宇佐」、更には先述した豊前風土記逸文の「京都」。これらは瓊瓊杵を胸に抱いた萬幡姫の進路を表しているのではないだろうか。安芸→宇佐→京都→筑前である。
 天国から筑前を攻撃する場合、天国領域から一直線に筑前を目指すならば、筑前勢力の対応は極めて単純である。全戦力を海岸に布陣させ敵の上陸を阻止すればいいのだから。ところが、天国勢力が豊から侵攻する場合はこうはいかない。筑前の勢力は兵を二分し豊方面と天国方面に振り分ける必要がある。天国勢力は豊から侵攻することによって、つまり唯それだけで筑前軍を二正面作戦に陥れ兵力を分断することが可能なのだ。この場合天国本国は兵を動かす必要すらない。ただその兵力を誇示するだけでいいのだ。
 こう考えると、萬幡姫の豊秋津からの侵攻と瓊瓊杵の豊秋津における出生は非常にリアルなのである。

 さて、現時点でこれ以上進もうとすれば、これはもう論証の世界を離れ想像の世界へと入るしかない。現時点であれば、である。更に細かく史料を分析することによって、日本の神話世界は史実へとその相貌を変化させる可能性を持つことを、今の私には疑うことが出来ない。
 

 追記
 本稿の後半部を六月の例会で発表した際、奈良の太田齊二郎氏から「『虚天』や『虚空』は単純に『そら』と訓むとは限らないのではないか」との指摘を受けた。卓見である。「虚」は「むなしい」「うつろ」「からっぽ」等々の意味を持つ。従って、「むな」「うつ」「うろ」等の訓み方も可能かもしれない。豊秋津にて該当地名を探る際の課題としたい。


年号「継体」をめぐって

日進市 洞田一典

 『二中歴』年代歴の部に掲載された三十一個の年号群のうち、最初の年号「継体」は、二中歴以外の文献には、これらの連続年号を種々のバリエーションを伴いながら引用することはあっても、すべて「継体」を欠いて二つ目の「善記(あるいは善化)」から始めています。この現象は八世紀半ば各天皇に中国風の「おくり名」が追贈されて以後、天皇名である「継体」が年号名から排除された為だと考えられます。
 さて、継体とは一体何を意味する言葉でしょうか。使用例を調べてみました。

1)継体廿四年二月丁未朔詔に曰く、「磐余彦の帝・水間城の王より皆、博物の臣・明哲の佐(たすけ)に頼る。(中略)継体の君に及びて中興の功を立てんとするときは、いずれかむかしより賢哲の謨謀(はかりごと)に頼らざらむ。(下略)」(日本書紀)

2)元明天皇霊亀元年九月二日、天皇位を氷高内親王に禅り詔して曰く、「(前略)昔揖譲の君はあまねく求めて歴試し、干戈の主は体を継ぎて基を承け(下略)」 (続日本紀)

3)桓武天皇延暦元年八月十九日詔して曰く、「殷周より以前は未だ年号あらず。漢武に至りて始めて建元を称す。これよりその後、歴代因循せり。是を以って継体の君受禅の主、祚に登りて元を開き瑞をたまえば号を改めざること莫し。(下略)」 (続日本紀)

 とりあえずこれだけにしておきますが、いずれも皇位を嗣ぐ者の意に用いられているようです。確認するため諸橋大漢和を引くと、【継体】天子の位を継承する。あとつぎ。継嗣。継体之君を見よ。

【継体之君】世つぎのきみ。皇太子。〔史記、外戚世家〕自古受命帝王及継体守文之君、非独内徳茂也、蓋亦有外戚之助焉。〔前記書の注〕索隠曰、継体、謂非創業之主、而是嫡子継先帝之正体而立者也。

と出ていて、先の解釈は正解でした。この作業をしているうちに、おもい出した字があります。それは「后」です。大漢和辞典を大幅にカットして引用します。

【后】○1 きみ。(イ)先代についで立った君。〔説文〕后、継体君也。象人之形、从口。易曰、后以施令告四方。〔段玉栽の説文解字注〕后之言、後也。開剏之君在先、継体之君在後也。析言之如是、渾言之則不別矣。(ロ)天子。(ハ)諸侯。国君。○2 きさき。(中略)○6 のち。後に通ず。〔儀礼、聘礼記〕君還而后退。〔同書の注〕而后、猶而後也。(以下、厚・項などと通用する旨の記述がありますが省略) 《解字》会意。人の横写(坐人の義を示す)と口との合字。君は坐して号令を四方に告げるから、后を君の意とする。又、后は後を意味し、開剏の君は先にあり、継体の君は後にあるから、継体の君とする。(引用おわり)

 剏は見なれない字ですが、音はソウ・ショウ、はじめる(創)・やぶる(傷)意をもちます。開剏之君は王朝の創始者を指す言葉になります。

 これで倭国年号「継体」を建てたのは、初代王ではないことがはっきりしました。この大王名を仮にXとします。前記「年代歴」は、

 年始五百六十九年、内卅九年無号不記支干。其間結縄刻木以成政。
 継体 五年(元丁酉)
 善記 四年(元壬寅、同三年発護成始文。善記以前武烈即位)

からはじまって、
 大化 六年(乙未、覧初平集、皇極天皇四年為大化元年)
 已上百八十四年、年号卅一代□年号。只有人伝言、自大宝始立年号而已。

 に至ります。ただし、カッコ内は原注で、干支は元年のそれです。
 
この記述から、年始が、倭王武の即位年=武の南斉朝への最初で最後の遣使(四七八年戊午)に一致することは、『古代に真実を求めて・第4集』の拙稿でくわしく述べておきました。年代歴の初代王は武王で、継体元年は書紀の継体十一年(五一七)になります。

 目標は「大王Xは誰か?」にあります。『失われた九州王朝』や『古代は輝いていた㈼』で古田先生が詳述されているように、隅田(すだ)八幡神社鏡の銘文の

○癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 にある斯麻を百済の武寧王とすれば、即位が五〇二年(書紀)ですから癸未は翌年の五〇三年になります。以後十四年間Xの治世が続いたと仮定すれば、Xは倭王年になりますが、途中崩じたのかもしれません。更なる情報が待たれます。

 余談ですが武寧王は筑紫の生まれで、ながらく倭国に在り、いわゆる「万葉仮名」の知識はあったのでしょう。「意柴沙加」がそれです。古田先生はこれを「イシサカ」と読まれ大宰府の地(福岡県筑紫野市大字原)に当てられました。他の定説本は「オシサカ」と読んで、奈良県にあった古地名「押坂」とします。意をオに当てるのは古事記・書紀・万葉集に共通ですが、イとする例はあるのでしょうか。
 音韻学にはまったくの門外漢である筆者には難問ですが、どうも北九州では古代より意をイにあてていたのではないかと思えるのです。天保時代の本ですが『太宰管内志』筑後御井郡の項には、

○〔延喜式〕に三井郡伊勢天照御祖神社あり、伊勢天照は意世阿万弖留美於也と訓べし

 とあります(御祖の二字が脱落—洞田注)。かかる著名な固有名詞にわざわざ発音を注記しているのは、筑後では江戸末期になってもこの読みが余りポピュラーなものではなかった、とも疑われます。また伊は万葉集をはじめとしてすべてイに用いられたのに対して、わざわざ読み仮名「意」をつけています。この書物の著者は筑前の人「伊」藤常足であるのにもかかわらずです。これも旧倭国人の強烈な反ヤマトの意地なのでしょうか。

 さて肝心のX大王は残念ながら特定出来ませんでした。代わりにと言っては何ですが、最初に触れた「后」について少々駄文を重ねます。
 『日本の古代9』(中公文庫)に「中国都城の思想」と題した礪波護氏の論文があります。小編ながらまことに密度の濃いものです。原文をご覧戴くのが一番ですが、それでは話が始まりませんので、拙いながら要点を抜き出してみました。


 論文の意図するところは、氏が文頭に述べられた、「日本の都城制の源流である中国都城制の思想ないしは理念を、日本都城とのかかわりに重点をおいて概観しよう」にあります。

——中国古代都城の都市計画を論ずるに当って、まず取り上げるべきは『周礼』考工記である。その王城建設計画案は、「匠人」条「営国」に

 方九里、旁三門。国中九経九緯、経?九軌。左祖右社。面朝後市、市朝一夫

と、まことに簡潔に述べられている(一夫は面積で百歩平方。以後は対象を専ら傍線部の「面朝後市」に限らせて戴きます—洞田)。まず、那波利貞氏は「支那首都計画史上より考察したる唐の長安城」(一九三〇)において、『欽定礼記義疏』「礼器図」の「君立朝而后立市。固以寓先義後利之権(君は朝を立て、后は市を立つ。もとより以って義を先にし利を後とするの権を寓す)。」を採用されたのだが、氏が依られた俗本(漢文大系本?)では「后」が「後」に誤植されていたのに氣づかず、そのため市場を立てる皇后と朝廷を立てる天子とを、陰陽の関係において対置しているのを無視されてしまった。  考工記よりも古いとされる『周礼』天官冢宰の内宰の条に、「およそ国を建つるに、后を佐(たす)けて市を立つ。(以下略)」とあり、これに対して漢の鄭玄(じょうげん)は、「王は朝を立て、后は市を立つ。陰陽相成の義なり。」と注している。
 以上のような理由から、私は「面朝後市」を陰陽で説明された上田早苗・福山敏男の両氏の所説に左袒するのである。(要約おわり)


 右の文中、后が後に「誤植」されたは言い過ぎでしょう。理由は前に述べました。それにしても、「俗本」とは、いやはやです。文字は異なりますが、『万葉集』巻一の三番歌、

○やすみしし わご大君の 朝庭(あしたには) とり撫でたまひ 夕庭(ゆうべには) い依り立たし み執らしの 梓の弓の なかはずの 音すなり (以下略)

 の朝庭を「みかどには」、夕庭を「きさきには」と読んだらどうかと、古田先生は提案されました。陰陽五行説には、九州王朝においても早くから接していたはずです。小生など右の解釈は全く理にかなったものだと考えますが、いささか、ごまを摺ったような気分もしないではありません


咋神の研究

奈良市 飯田満麿


                   
   はじめに

 昨年の秋口だったと記憶していますが、毎月第3土曜日に開かれる例会の昼休み、小生、古賀さんと西村さんの雑談に加わって楽しい一時を過ごしていました。話題がたまたま大山咋神に及んだ時、神様の事にはとんと疎い小生は「大山咋神って大山積神と同じじゃないの?」と頓珍漢な問いを発しました。日本の神様に滅法詳しい西村さんから「違いますよ、古事記にちゃんと書いてある別の神様です」、新進気鋭の学徒古賀さんは「日本では『ミ』の神と『チ』の神が知られていますが、もしかすると『クイ』の神の存在が証明出来るかも知れません、そうなると大変ですよ」と二つの答えが返って来ました。そのころ全ての身すぎ世すぎを引退したばかりで、時間に恵まれていた小生、その場で挑戦を表明しました。勢い良く手を挙げたものの、研究には縁遠い小生、何処から取りかかるか悩みました。余り良くない頭を振り絞って、とりあえず次の3項目の事実調査を計画しました。

(1)「古事記」「日本書紀」の咋神の記載を調査する。
(2)「全国神社名鑑」等から咋神の分布状況を調査する。
(3)「咋」字の音訓を数種類の漢和辞典で調査する。


   事実調査

(1)「古事記」「日本書紀」の咋神の記載
●「古事記」
(天地のはじめ)
 次に成りし神の名は、宇比地爾神、次に妹須比智爾神。次に角クイ神、次に妹活クイ神。次に・・・
(伊邪那岐命と伊邪那美命)
 六 禊祓と三貴子
 次に投げ棄つる御冠に成りし神の名は飽咋之宇斯能神。次に・・・
(大国主神)
 七 大年神の神裔
 次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神なり。・・・羽山戸神、大気都比売を娶して生みし子は、若山咋神、次に・・・

●「日本書紀」
 巻第一 神代 上
(天地開闢と神々)
 一書(第一)に曰く・・・次に角クイ尊.活クイ尊あり。・・・


(2)「全国神社名鑑」等の咋神の分布
●「延喜式神名帳」
 これはインターネット上に公開されている、「神南備」と言うホームページに含まれるファイルで、延喜年間に成立した「延喜式神名帳」に記載された旧各国の神社の現状を調査した一覧表です。ここから根気よく拾い出して下記の結果を得ました。但し手作業ならぬ目作業なので、見落とし皆無の自信は有りません。疑問をもたれる向きのために、この章の終わりにこのホームページのURLを記載します。
 この結果延喜式に記載されている全国の神社三〇九三社中「咋神」をお祀りする神社は八四社、率にして二・七%に過ぎぬ事が判りました。因みに八四社の内訳は、大山咋主神五六、配神二三、其の他の咋神五です。

 旧各国の咋神の分布は下記の通りです。  注(主は主神 配は配神を示す)
伊勢十七(主十一 配 六)
近江十四(主十一 配 六 日吉大社を含む)
丹波 五(主 四 配 一)
若狭 四(主 四 配 〇)
越前 四(主 三 配 一)
越後 四(主 三 配 一)
加賀 三(主 二 配 一)
出雲 三(主 三 配 〇)
但馬 二(主 二 配 〇)
山城 二(主 二 配 〇 松尾大社を含む)
摂津 二(主 二 配 〇 三島溝咋神社主神溝咋媛を含む)
尾張 二(主 一 配 一 裳咋神社主 神裳咋船主を含む)
遠江 二(主 一 配 一)
大和・河内・和泉・伊賀・駿河・伊豆・甲斐・相模・下野・陸奥・出羽・因幡・播磨・備前・備中・紀伊・淡路・讃岐 各一社(主九 配十一)
 以上の結果を得ました。

 http://www.ne.jp/asahi/kam/navi/en/

●「全国神社名鑑」
 延喜式は平安時代の延喜五年(AD九〇五)の成立ながら、これに採用されなかった著名な神社も数々存在するし、前章の調査では咋神の痕跡が九州に見られないと云う疑問が有ったので、「全国神社名鑑」も調べようと県立奈良図書館に電話で本の存在を問うたところどうも要領を得ず、いたずらに日々を費やしてしまいました。ほかのことでインターネットの中を彷徨っていたとき、神南備のホームページの一隅に「全国神社名鑑」を見つけました。これは現在進行形のページで完成品では無い様でしたが、気になっていた九州の中の咋神を調べたところ、一箇所見つかりました。長崎県島原市猛島神社です。此処に祀られる多くの神様の中に配神として大山咋神の名を見つけました。社伝によると島原の乱のまえ領主の松倉氏によって他から移されたと有りますので、古代の事実を反映したものでは無いようです。


(3)咋字の音訓調査
●漢和辞典の調査
 大山咋神はオオヤマクイ神と発音します。飽咋・若山咋・溝咋・裳咋、全て咋字をクイと発音します。試みに大辞典(講談社)の音索引でクイ音の漢字を調べた所、おなじみの杭・悔字以外に6字のクイ音が記載されています。合計8字の内悔を除く7字は杭字と同義の標識、係留用アンカー、木の切り株を表す文字です。何れもパソコンに入らない特殊な文字ですがこの中に咋字は含まれません。つまり日本語の文法上咋字はクイとは発音しないのです。しかし現実には神々の名前にクイ音として使われていますし、地名としても能登の羽咋市は有名です。念のため諸橋漢和辞典から咋字の音訓を転載します。

咋 漢音 サク・サク・サ
  呉音 シャク・ジャク・シャ
  字義 1.おおごえ 2.多くの声 3.噛む、食う 4.やかましい 5.しばらく、たちまち 6.あからさま、明白(他の辞典に無い)

 念のため文字の調査に参考にした辞典名を列記します。

 講談社 大辞典。大修館 大漢和林。諸橋大漢和辞典。字通(白川 静)。


 仮説の提示

a.咋神の勢力圏
 延喜式の記述を信用するなら、咋神は日本海沿岸中央部から近畿中央近江から伊勢に至る範囲に存在した。延喜式全神社のわずか二・七%にしか過ぎない分布状況から、傍系の神々だと規定出来る。しかし近畿の中心に近い近江と、天皇家の祖先神の祀られる伊勢に集中的に存在することは注目に値する。又近畿天皇家のお膝元に位置しながら、その祖地で有る九州に分布していないことは特筆に値する。

b.咋神の性格
 クイの字義に付いては所謂杭の意とする見解が多数を占めている(注 講談社「古事記」次田真幸の解説等)。この見解に従えばたちどころに縄張り、測量などがイメージされる。考古学的に縄文後期と呼ばれる時期、日本各地に栽培農業の痕跡が存在した事実から近畿地方に土着し土地の境界を画定し、水路を確立して住民の生活安定に寄与した権力者の姿がかいま見られる。又古事記の記事からその系譜を辿れば、天孫族の出現以前出雲神話の系譜を牽く一派が近畿地方に侵入しその地に定着した姿が想像できる。
 因みに日本語でクイと読まれない咋字をクイと読み、なおかつ所謂杭の意に用いる習慣は何処で生まれたか?。独断と偏見を敢えて怖れず云うなら、この神々を頂く人々は古日本語を使う人々で、聖なるものをカムイと呼ぶ今日のアイヌの人々に連なり、同時に杭の持つ効用をカムイと同列に捉えた人々だった可能性がある。又咋字クイ音使用の習慣は測量に用いる杭を咋(クイ)と書いて他の杭と区別した習慣がいつか咋のみでクイと呼ぶことに固定した可能性がある。今日でも測量に用いるクイを他と区別して仮杭と云う術語が存在する。

c.咋神の政治的性格

 近畿の主要部である近江と伊勢に、大山咋神を祀る神社が集中している事実は、大和平定を終わって更なる発展を期した近畿天皇家は、大和平定の際の教訓に学び(記紀 崇神記大物主説話)、近畿中央部進出に当たっての計略として、在地の銅鐸系住民の祭祀する咋神を尊重する方針を採用した事実を物語る。今日の比叡山麓の日吉大社の繁栄はその証明である。又近畿天皇家の畿内進出の先兵を勤めた、秦氏、賀茂氏も在地住民の宣撫に咋神を尊重した。京都の松尾大社はその証である。この事を更に演繹すれば古田武彦氏による、古事記垂仁記の沙本毘古と沙本毘売の説話は近畿天皇家による銅鐸圏侵略の事実反映と言う、優れた論証の力強い傍証を為すものと確信する。

d.山末之大主神との関連
 古事記の大山咋神又の名は山末之主神と言う記事は注目に値する。古田武彦氏は常々又の名と来れば違う名だと思いなさいと説かれる。その法則に照らせば、これは別の神様で、銅鐸民定住以前の人々の存在を予測させる。因みに西村さんの経験によると比叡山頂上には巨大な岩鏡が存在し、いまも太陽を反射し続けているそうだ。西村氏は山末神は山据神と同義だと推測される。我が日本列島に幾度もの民族流入が存在した証だと確信する。

       二〇〇一年六月九日


長江文明と東アジアの胎動

泉南郡 室伏志畔

 東アジアの古代史における画期であった。本邦においては日本国に先在する九州王朝・倭国が古田武彦によって掘り起こされ、中国では中華史観イコール黄河文明という図式は、河母渡遺跡、良渚遺跡、三星堆遺跡の発掘によって、それと併立する長江文明をあらわにし、それまでの歴史観を根底から一掃した。
 私は長江文明が稗・粟文明である黄河文明とちがい稲作文明であるところから、本邦の稲作文明とどう関係するかについて思案してきた。そんなとき、現代思想研究会で藤田友治が、三角縁神獣鏡が呉の工人一万人によってもたらされたという説を改めて蒸し返しているのを、『悪魔の飽食』のルポで知られる下里正樹が、「その次は蜀というわけですか」と半畳入れるのをおもしろく聞いたことがある。
 そう言われて見れば確かに、本邦の『三国志』研究が、いわゆる卑弥呼に関わるところから、魏志に偏重し、呉志や蜀志への目配りを欠いてきたことは否めない。呉や蜀をおろそかにしたことは、本邦の歴史学者は頭から長江文明をオミットしてきたも同じである。とするときその長江下流の呉の工人が本邦に至り、中心となって神仙思想を三角縁神獣鏡に盛り、それ以前に秦の始皇帝の命を受けた徐福が三千人と不老不死の薬草を求め本邦に至ったことを思うとき、中国にあって蓬莱と意識されていたのが本邦であったことを知るのである。そればかりか、すでにそれへの太いルートがそれ以前につけられていたとするほかないのである。
 というのは記紀の記す天孫降臨は、北九州の縄文稲作である板付遺跡の征服にほかならない。素戔鳴命の八俣大蛇退治(八蜘蛛征服)による出雲王国の成立や、大国主命の布都主命への国譲りは、天神、天孫族によるかつて八雲国と呼ばれた出雲征服と別でなかったからである。そしてそこに奇稲田姫がおり、それを迎え入れることなく素戔鳴命の支配が成り立たず、またその娘・須世理姫に大国主命を迎えたというのは、素戔鳴命の側からの言い分で、実際は大国主命のいる出雲の於宇と縁組するほか支配の道がなかったのではあるまいか。大国主命は商取引に長けていたばかりか、縄文稲作を主宰したにちがいない。
 私はこの縄文稲作をもたらした民が何であるかについて思案したとき、九十歳越え今も健筆を奮っている平野雅曠が『晋書』や『梁書』にある倭人を「呉の太伯の後」とする説に注目しているのが気になった。もとよりこの呉は先の三世紀の『三国志』にある呉ではなく、紀元前八世紀から同五世紀にかけての遠い春秋戦国時代の呉王夫差や越王勾践の戦いで知られる呉にほかならない。
 平野雅曠によれば、「呉の太伯の後」は肥前に入り筑前に進み、後に肥後に構え、熊襲となったという。「松野連系図」はそれを呉王夫差の姫氏の流れと書く。彼らはそれゆえ後に紀氏を名乗ったのであろう。内倉武久が採取した話によれば、松は「木の公」すなわち「姫の君」に由来するという。とするとき同様に前後して滅亡し、呉越同舟して流れた越の民はどこに消えたのであろう。そう考えたとき、私は能登半島を前後する越(高志)の国を思わないわけにはいかなかった。
 というのは蓬莱は夷洲と亶(たん)洲から成るという。かつての呉越の熾烈を極めた仲を思ったとき、越人は夷洲である九州を呉人に譲り、自らは丹後半島を境とし越の国を形成していったのではあるまいか。それでは彼らが大蛇族と呼ばれるようになったのはなぜであろうか。
 出雲大社の神在月の神事は稲佐の浜でウミヘビを拾うことに始まり、日御碕神社や佐太神社もウミヘビを祭祀すると言う。それは越の国の方ではさらに濃厚となるのは、彼らが黒潮に乗って南方からウミヘビと共に来ったことを伝えるものであろう。また隼人族の犬吠えは天皇家への服属儀式の一面もあるが、彼らの犬祖伝承に由来すると武光誠は、長江下流の江南のシャ族が危機に陥ったとき、ひさごから飛び出した犬が敵将の首を持ち帰ったので、姫を与えられたとする伝承を拾っている。それは江戸時代の『南総里見八犬伝』につながる。この江南起源説話が倭人に関係することをよく承知した滝沢馬琴だからこそ、本居宣長の国学の大和心の無知を軽くいなせたのである。南総里見が南に総ての里が見えるとあるのは笑わせる。この犬祖伝承に注意するとき、熊襲の元になった狗奴国は犬の国と読め、また朝鮮半島南岸に狗奴韓国があることは、彼らは本邦にも朝鮮にも来ったことを告げるものであろう。
 呉がBC四三六年に、越がBC三三三年にそれぞれ滅び、その上流にある蜀も秦にBC三二九年(あるいは三一二年)に滅ぼされたことによって、長江文明は滅び。黄河中心の中原史観はそそり立つこととなった。しかし歴史の逆説はこの長江文明の滅亡によって周辺に押し出された江南の民によって、周辺の東アジアの国々は新たな胎動期に入るのである。その意味で日本古代史は東アジア民族移動史の一齣でしかない。
 そうした中、今度、古田武彦が長江に飛び、中国側との学術交流をもった意味は大きい。そこでどんな新たな発見があったかに期待を寄せながら、私はその長江上流の蜀の王権幻想と天皇制について一言したいと思う。
 これまで伝説の域をでなかった夏の遠祖に当たる黄帝と蚩尤の戦いが、良渚文明の最後を伝えるもので、それに被さる秦の長江流域の楚の攻略に始まる中国統一によって、長江文明はまったく見失なわれた。中国二十四史の最初を飾る司馬遷の『史記』がそれに輪をかけ、夏や殷に始まる黄河流域の中原史観をもって中国史を完成する。この中国古代史における水平的な江南文明の無視は、日本国の統一を記念した『日本書紀』においては、縦軸における江南文明の無視となって発現した。日本国はそれに先立つ九州王朝・倭国を、かつての昔の名として取り込んだばかりか、その倭国建国の端緒となった天孫降臨以前の歴史を、神代として人代と区別し、長江の呉越の民の渡来によって開かれた縄文稲作文明の成立と破壊を隠した。しかし、『史記』は禹の浙江省への帰葬を伝えたように、その江南の血統を記さざるをえなかったように、記紀は、日本国の出自が倭国に淵源し、その倭国が出雲王朝の衣鉢を引き継ぐものであることを忍びやかに記さざるをえなかった。というのは王朝交替を否定する万世一系の天皇制を立ちあげながら、その王権の系譜の由来を記すことなくその権威の確立はありえなかったからである。
 長江上流の成都から出た三星堆遺跡の王権祭祀を伝える夥しい青銅製作物、金製品、貝や象牙の発見は、驚くほど高度な蜀文化が遠い古代にあったことを明らかにしたが、新聞は今年、その近辺の金沙遺跡から同規模の大発見を伝える。
 長江流域における七〇年代からの発見によって、これまで怪奇・伝説の域をでなかった『山海経』や『淮南子』の話が、いま忘れられた歴史と接点をもとうとしている。それは本邦のかぐや姫の話が、倭国滅亡にまつわる話に私が奪回したように、今後、長江文明史の内に位置づけられることであろう。牽牛と織姫の七夕の話について、梅原猛はそれを良渚文明の織り娘が、北に連れて行かれたことに関係するとしているのは興味深い。
 これは同時にこれまで偽書扱いされるしかなかった前漢時代末期の楊雄の作である『蜀王本紀』や晋代の常醵が記した『華陽國史』の面目を一新した。それらによると三星堆遺跡から出現したあの異様な目を突き出した青銅仮面で知られる「縦目王」は今から四千年程前に蜀王に君臨した蠶叢(さんそう)に当たるという。それを柏潅(はくかん)が受け継ぎ、魚鳬(ぎょふ)に引き継がれたという。その蠶叢は蚕が群がる意であり、柏潅は潅漑に功あった人物と取れ、また魚鳬は川鵜のことであるという。これらはすべて日本王権のシンボルの背景にあるもので、それらがはからずも、蜀王権に発していたことが確認された意義は大きい。その魚鳬を西王母とする説があり、長江文明はますます目が離せないといえよう。
 ところで、その魚鳬王朝を受け継いだ杜宇が、蜀王を名乗り、望帝と号し、遷都し、天より来ったと述べている矛盾を鋭くついて、徐朝龍は、杜宇は魚鳬王朝を滅ぼした跡こそ、三星堆遺跡そのものなのだと、これら一トンを越えた出土物を覆ってあった三立方メートルにのぼる骨灰について、魚鳬王朝一族の変わり果てた姿だとしているのは興味ふかい。
 本邦の歴史論に欠けているのはこの政治的転換の契機となる王朝交替論で、前王朝の殺戮隠しの上にその継承が謳われあるのをまったく丸呑みするので、歴史がまったく歪んだものとして語らるほかないのだ。私は天武王朝から天智の血統を戴く藤原王朝に至るプロセスに、この魚鳬王朝から杜宇王朝に至る転換を読むものである。なぜ石舞台の石室が露出し、石室の一部である鬼の雪隠や鬼の爼が野晒しになっているかについて、ただ漫然としか見ることのできない歴史眼に果たして天皇制の変質が読めるであろうか。藤原不比等が平城京への遷都を急がせ、『日本書紀』が大和朝廷一元史観をもって歴史を覆ったのは、彼らの歴史偽造を隠蔽する以外ではない。そして藤原京から平城京にすっかり落ち着くに至る間に天武の血を引く皇子は蛇が生殺しに会うように、次々と姿を消したのである。
 しかしその杜宇王朝もまた、開明王朝に簒奪され、続いて秦の中国統一に会う中で、まったく蜀の国は歴史の影に没したのである。
 出雲の荒神谷遺跡からの三五八本の「銅矛」の原材料は、含まれる鉛の比率から三星堆遺跡や二里頭遺跡の青銅製品と同じくするという研究がある。蜀人もまた呉越の民と共に本邦に、その王権の象徴を伴って本邦に渡り、新たな王権シンボルにそれを作り替える歴史を、今語られている歴史の影で営んできたのではなかろうか。
         (H一三・五・一八)


日本人はどこから来たか

熊本市 平野雅曠

 去る六月二日の夜、私は「世界不思議発見」と題するテレビ放送を見た。放送途中からだったが、インド南部にある古代遺跡の中には、日本のものと殆ど共通するものがあることを知らせる取材の放送であった。例えば、福岡や佐賀辺りの九州北部に見られる弥生時代の甕棺墓や、大きな天井石をかぶせた支石墓、或は土器に線描された鹿の絵などいろいろあり、またインド古寺院にあって、日本の神社にも見られるものとは何か、とのクイズの答が、一対の「こま犬」だったりして驚いたものである。
 この事は、取りもなおさず、古代の日本列島に、インド南部の種族が縄文・弥生時代の昔から、多数渡来して、われわれの祖先となったことを証明するものにほかならない。
 言語学者の安田徳太郎氏は、昭和三十年、著書『万葉集の謎』の中で、

 万葉集・古事記・和名抄の言葉と、レプチャ語、チベット語の比較から、人類の三つの波が、南方から次々に日本列島に押しかけて来て、これらが古代日本の社会を作ったことが、手に取るように解ってきた。

と述べている。以下請け売りの概略である。

 第一の波は原マレー族で、彼等は南支那海の沿岸に住んでいた古代海人族で、紀元前にクバン(kbang)と呼ばれた船に乗って南九州にやって来て、そこを根城にして、太平洋や日本海の沿岸に広がった。このクバンが古代日本で、クマノ、クマヌ、クモ、クヌ、クメ等と発音され、彼等の種族名や地名になった。例えば、熊野や熊襲、土蜘蛛、狗奴、久米などである。
 彼等の言葉は、日本語の主流とはならなかったが、それでも今日の日本語に相当な単語が残っている。例えば、鯛・鯉・エビ・針・網・灰(アク)・臍など、立派な原マレー語である。

 第二の波は、レプチャ語をしゃべるヒマラヤ族の波である。今日のチベット人は、レプチャ族を?モン?と呼んでいるが、古代チベット族は、ヒマラヤ山人族もひっくるめて?モン?や?ツミ・パ?と呼んでいた。このモンが、古代日本で物部や大物主になったし、ツミの方は『日本書紀』の山祇(大山積見)になった。
 モン族は、古代からインドの有名な交易民族で、チベットへ茶や米を運び、ベンガル方面へ盛んに塩を買い出しに行った。そうした関係から、山住みのモン族は非常に早くにベンガル湾の沿岸に進出して、海人族としてのサンタル族から漁労や航海術を学び、更には交易民族の本領を発揮して、海洋に進出するようになった。これが『古事記』に出る安曇族である。
 レプチャ語でア・ズム(ア・ズミ)とは組合となっているから、彼等は海人組合ではなかったろうか。これらの進出は大体、紀元前二世紀頃と見てよかろう。
 カンボジアは紀元前から、インドの古い植民地だった。そこで、モン族は先ず
ベンガル湾からビルマ、マレー、カンボジアに進んで、そこを足溜りにし、次は安南の沿岸から、更に延びて広東に進み、こんどは黒潮に乗って日本列島へとやって来たのである。
 モン族は、先住民の原マレー族に比べては、いやしくも古代インド文明を身に付けたアジアの優秀民族であった。だから日本列島移住に当たっては、先住地のインド文明も片っぱしから持ってきた。その中で一番大切なのは、古代インドの鉄器文明であった。
 彼等は鉄器の農具と工具とを皆持ち込んだ。その証拠に、クワ・カマ(鎌)・ノコ・キリ・ツチ・デバ・クギ・カマ(釜)と言う日本語がレプチャ語やチベット語に全部揃っており、三本足の釜(鼎)まで持って来たのである。
 モン族は、こうした鉄器類に物を言わせて、日本列島の処女地を片っぱしから開拓していった。そして、これまで石器しか知らなかった先住民を押除けて、みるみる裡に列島の主流となり、彼等のしゃべる言葉が日本語の土台になってしまったのである。
 さて、モン族の成功を知ってやって来たのが、第三の流れ「天孫族」である。彼等もモン族の一派であるが、先住地では相当の資本を持った支配階級で、庶民語としてのレプチャ語を土台にして、当時一番ハイカラ語とされたチベット語やサンスクリットも知っていた。
 この天孫族は、先発の大山積見を頼りに、やはりベンガル湾から、先と同じルートを辿って、紀元後の南九州へやって来た。彼等は別に武装してやって来たのではない。先住地では、アーリヤ族やペルシャ族に絶えず押されて一向うだつの上がらない不平組で、新しい日本列島で自由の空気が吸いたかったのである。

 この徳田説は、天孫降臨が未だ宮崎県の高千穂時代の想定なので、ご注意願いたい。
 中国江南で越国との戦いに破れ、国を失った呉王夫差の支庶一行が、海に逃れて日本列島に安住の地を求めたのは、紀元前四七三年(縄文晩期)であった。もっとも、原マレー族による我国向けの航路は既に拓かれていたものであろうが、一行は有明海から菊池川をさか登り、火ノ国山門(現、菊池市隈府)に落ち着き、この辺りを後の狗奴国の中心として、先は新しい国造りとして、豊かな田園を拓くことから始めた。この事に関して、平成九年八月七日の熊本日日新聞記事を参考にしよう。

  菊池郡大津町の弥護免遺跡から、稲も みの圧痕がある縄文晩期の土器片二点 が出土したと発表された。石包丁など も見つかっている。調査員は、福岡の 板付遺跡よりも年代は若干古いと言っ ている、と。
  また同所のワクド石遺跡でも、昭和六 年同様の例が見付かっている。……

 火ノ国での生活が一応軌道に乗った後、支庶二代目は新しい開拓地を求めて北上し、筑前の委奴(現、前原市)に移り、ここを拠点として活動を始めた。後年、例の「金印」を中国皇帝より受け、「委奴国王」となるまでにはいろいろの苦労もあり、曲折もあったことであろうし、ヒマラヤ諸族との交流援助も考えられるが、日本語の源流の一つとしては彼等の使ってきた中国江南語(呉音による)の影響も大きく係わりを持っていることだと思う。また時代が下がると、鮮・満方面からの移住も増えて来ていること御存じの通りである。
   (平成十三年六月記)


古田史学の会

第7回会員総会開催

七月一日 大阪・天満研修センター
七月一日、古田史学の会第七回会員総会が開催され、事業報告・決算・予算・人事が提案通り承認されましたので、報告します。
(決算・予算報告は十三頁、ただしインターネット上は省略)

二〇〇〇年度事業報告
1.「古田史学会報」6回発行 (担当古賀)

2.会員論集『古代に真実を求めて』
三集発行(担当 吉森・水野)※四集からは北海道の会(鈴木)担当。

3.古田武彦氏講演会等
 本部行事として会員総会当日(7/09)と『¢邪馬台国£はなかった』発刊三十周年福岡記念講演会(11/11)を開催。この他、九州の会(6/17)・仙台の会(5/12、 12/02)・北海道の会(8/06)・関西の会(1/20)で開催。なお、福岡記念講演会においては東京古田会と多元的古代研究会・関東のご協力を賜った。

4.『¢邪馬台国£はなかった』発刊三十周年のお祝いとして古田氏へパソコン・プリンター一式を贈呈

5.古田武彦氏調査活動の協力

6.インターネットホームページ 『新・古代学の扉』(担当 横田)

7.遺跡めぐりハイキング(関西の会)
  十一月より毎月開催(担当 木村)
8.『¢邪馬台国£はなかった』再版のため百冊購入(海外研究機関へ贈呈予定)

二〇〇一〜二〇〇二年度人事(略)


◇◇ 連載小説 『 彩  神 (カリスマ) 』 第 八 話◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

  青 玉(5)

−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美

 「姫君もお気の毒に……。」

 後で話しを聞いて、熊谷(くまがい)は溜息ををついた。
 「御兄妹の父君が健在だった時分は、決してこうじゃなかったんだが……。」

 「昔の事が良く思い出されるのは、年寄りの証拠だぜ。」
 八島士奴美(やしまじぬみ)は、稲藁(いなワラ)で高足駄(たかあしだ)の緒をすげ替えながら笑ったが、

 「わしゃ、餓鬼(がき)の頃から末廬王家に奉公しているんでな。」

 熊谷は首を振った。
 「先代(さき)の大王(おおきみ)は慈悲深いお方でな。よくお子方を連れてわしらの仕事場を巡察(まわ)っちゃ、労(いたわ)って下さったもんだった。そうやってお子方に世の中の仕組やら、弱者、貧者を守ってやる義務を教えようとしてなすったんだろう。姫君も父上の血を受けたのか、お小さい時からわしらの事を気にかけて下さる。だが、お妃というのが、えらく尊大な女でな。奴婢なんぞは家畜と同じで口を利き合うものじゃないと、わしらを見ただけで袖や領巾(ひれ)で顔を覆って逃げ出すし、ある冬の夜、父君の留守中、裏小屋で怪我人の手当をしていた姫君を、末廬の王女ともあろう者が賤民の相手をするとはと、志々伎(シジキ)様にまでムチを持たせて打擲(ちょうちゃく)なすったんだ。その場に居合わせた男奴(おやっこ)共は全員、いたいけない姫を汚したとの罪状で売りとばされちまった。志々伎様が、父君の目を盗んで妹君を虐(いじ)めるようになったのは、それからだよ。いずれ末廬の王座は自分の物、自分は国中で一番偉い人間なんだ、と母親や乳人(めのと)に吹き込まれたんだろう。あの乳人はお妃が選んだ志々伎様の新枕(にいまくら)の相手で、姫君なんぞ頭からバカにし切っているからな。両親(ふたおや)が亡くなられた後、志々伎様は笹部様を遊び仲間に引っ張り込まれて横暴は募るばかりだ。今日の狩りも口実で、本当は七ツ釜の岩屋荒らしに出かけたんじゃないかな……?」

 「どういう意味だい?」
 八島士奴美が訝(いぶか)ると、

 「末廬の海岸は、神様の灯す幻火(げんか)が現れると言ったろうが。」
 熊谷は困ったような視線を投げた。
 「七ツ釜の岩屋は、その神の御座所(おしまどころ)でな。水底には青玉造りの御座船(ござぶね)が沈んでいる、と専らの噂なんだ。志々伎様は、何とかしてその船を手に入れようとしてなさるのさ。」

 熊谷の不安は的中した。

 翌日、志々伎が脱穀場に現れ、
 「おい、新米、お前らも共をしろ。」
 八島士奴美らに声をかけたのだ。

 「大王、今日はどちらへ狩りに?」
 「狩りではない。魚獲(と)りだ。銛(もり)や網を用意してついて来い。」
 命令通り釣り道具を整えて行くと、志々伎は笹部やみちると共にもう馬上の人になっていた。
 「猿(サル)はどうした?」
 一睨(いちげい)され、

 「爺さんは、昨夜(ゆうべ)から腰を痛めて臥(ふせ)っております。」
 八島士奴美が答えると、
 
「だから、今度の奴らは役立たずだと言ったんだ。」
 笹部が吐き捨てた。

 「代りに孫を倍、働かせれば良いだろう?」
 志々伎は事もなげに言い、
 「八島とかいったな。みちるの手綱を引いてくれ。妹は、馬に乗るのがへたくそなんでな。」
 後ろを指さした。

 確かに、みちるは兄の共をするのが気が進まない風だった。志々伎や笹部が奴婢達を従えて大股に駆けて行くのに、八島士奴美が追いつこうと急(せ)かすとすぐ、
 「お願い、もっとゆっくりーー」
 馬の背にしがみつく。
 
「姫のお気持ちは判りますが、現在、末廬の大王は兄上ーー姫君とて御命令に逆う事は出来ますまい。」
 みちるが項垂(うなだ)れる。言われるまでもなく、兄上は国中が絶対服従を要求されていた。特に自分がおかしな行動を取っては、回りに累が及んでしまう。熊谷初め従者・貧者の為良かれと思ってした行為が裏目に出た事が、何遍あったか……
 (所詮、私は飾り物。王女という肩書きばかりで、何の力もない・・・)

しおしおと足包*(だく)を打たせるみちるに、
 「姫君、ご覧下され。」
 八島士奴美は、丁度通りかかった高原を指さした。
 「まあ……!」
 みちるの目が、俄(にわか)に輝く。緩やかな斜面には見渡す限り、金貨をまき散らしたようなタンポポの花が咲き乱れていた。白爪草や白粉花〈おしろいばな)、熊谷草が所々に明るい彩(いろど)りを添えている。早や綿毛と化した花々は青い蝶の大軍のように野を覆い尽くし、彼方の森や丘を越え、日の入り駆けた空へと広がって行く。

 目を瞠(みは)っているみちるに、八島士奴美は囁いた。
 「あなたのお名前は、みちるでしたね。そのお名前のように、あなたの徳は国中に満ち溢れねばなりません。勇気をお出し下さい、姫君。七ツ釜の神は、必ずや姫君を照覧(みそな)わしておられますでしょうから。」

 「又、妹がゴネていたな……。」
 殿(しんがり)に到着した二人を見て、志々伎はいまいまし気な顔になった。みちるが元々、七ツ釜行きに反対しているのは判っていた。幾ら大王でも、人間が神の船を引き上げるなどもっての他だと言いたいらしい。みちるの髷(まげ)には美しいタンポポの花輪が飾られていたが、館を出る時にはなかった物だ。奴婢の数が揃わねば岩屋へは入れないから、道々従者に野花をつませたりしてわざと到着を遅らせ、作業を滞(とどこお)らせようとしたのだろう。現にもう日は暮れ、松明(たいまつ)を灯さねば人々は動き回れなくなっている。

 「八島、縄をかけろ。」
 志々伎は先端に鈎の付いた粗縄(あらなわ)の束を、八島士奴美の足元に放り出した。

 八島士奴美はみちるに手綱を渡し、無言で縄を拾い上げると岩場に張り巡らせ始めた。その際、二人が微笑を含んで交わし合った視線が余計、志々伎の神経を逆撫でした。みちるの髷を飾るタンポポの花輪は、貴様が編んでやったのか?
 妹の身なりが王女らしくなくみすぼらしいのを、奴婢の分際で憐(あわれ)んだとでもいうのか?
貴様なら、妹を身分に適しく華やがせる事が出来るというのか?
ーー思い上がるな! 末廬の大王は俺だ。妹をどう扱おうと、こっちの勝手だ。

 「大王、反応(てごたえ)がありましたぞ!」
 縄で海中を探っていた奴婢達から、歓声が上がった。中央に取り巻かれた八島士奴美の胸には、大きな珊瑚樹が八方に枝を伸ばしていた。単なる海底植物ではない。葉も茎も根っこに至るまで、海水に劣らぬ深く透明な色を湛えた青玉造りだ。
 「舳(へさき)の一部が転げ落ちていたんでさア。」
 「嘘だと思し召すんなら、大王自身の目でご覧下せエ。」
 奴婢達は口々に勧め、
 「判った。」
 志々伎も好奇心をそそられて馬を下り、縄をつかんだ。

 「待て、俺も行くぞ──。」
 後に続こうとした途端、笹部は何本もの手に背中を突き飛ばされ、絶叫を残して崖を転落して行き、飛沫(しぶき)に埋没した。
 「何をする!?」
 愕然とした志々伎に、

 「寄るな! 一歩でも動いたら、縄を切り落とすぞ。」
 いつの間にか八島士奴美が、鋭い切っ先を縄に当てがっていた。
 「さては貴様、敵の間者(かんじゃ スパイ)か……!?」
 志々伎が歯がみをすると、

 「このお方は先代(さき)の大国主、須佐之男様が嫡男、八島士奴美様じゃ。」
 猿田彦が、白衣と青銅の杖に威儀を正して歩み寄って来た。背後には矛や太刀で装い、松明を掲げた若武者が勢揃いしている。猿田彦は腰を痛めたと偽って、志々伎らが七ツ釜へ赴いた隙に木の国の軍隊を呼び寄せたのだ。

 「今よりは、みちる殿が末廬の盟主、そして大国の皇子(みこ)の后となる。」
 八島士奴美はみちるの手を取って天地の神々に宣言すると、海底から採って来た青玉の枝を、
 「末廬の麗(くわ)し女(め)にーー。」
 膝まづいて、みちるに捧げた。

 宙吊り状態の志々伎は抗議しようとしたが、思うように口が動かない。焦る中、海底に巨大な二つの青玉が燃え上がって来た。船?ーーいや、あれは魚の目玉だ。やはりここは妹の言った通り「聖域」ーー人間が近づいてはならない場所なのか?船が怪魚に姿を変え、襲って来るーー
 慚愧(ざんき)も束の間、視野一杯に濃青の闇が広がり、志々伎を飲み尽くした。
 
〈「青玉」・完〉


歴史教科書問題は絶好のチャンス

奈良市 太田齊二郎

 「新しい歴史教科書を作る会(代表西尾幹二)」(以下「作る会」)による「新しい歴史教科書(扶桑社)」が文部科学省の検定に合格してからというもの、教科書論議が最高潮です。
口に教科書問題といっても、乱暴とはおもいますが、大雑把に二つに別けられるのではないでしょうか。一つは主に、現代史の記述内容に関連して、日本の戦争責任を問う近隣諸外国特に中国朝鮮からの反発に対する政治外交問題に絡むもの(A)。他は、古代史などにの記述における個々の事象あるいは歴史事件などの事実関係に関するもの(B)です。
 (A)については、日本国内でもイデオロギーや政治的立場の違いが事をややこしくし、ましてや外交問題が絡むとなれば一朝一夕では解決しそうにはありません。「作る会」でも、「個々のことよりも、全体の流れを確認して欲しい(文責太田)」として、なかなかその要求に応える姿勢を見せてはいないようです。
 (B)は、当該教科書に記述されている内容が正しいものかどうか、もしそれが誤っていたならばその訂正を求めるというものです。こちらの問題は比較的単純で、今回の「新しい歴史教科書」でも、訂正を求められた扶桑社は、確認個所については即刻訂正しているようですし、(A)とは比較にならないほど楽なものと思われます。何故なら、記述内容の正否は、「客観的或いは科学的な検証によって、その信憑性が確認されている関連古資料」との整合性を量ることによって、つまり「古田史学の方法」によって、その判定が可能だからです。それに、決して外交問題に巻き込まれる心配はありません。
 ともあれ、関連団体も、マスコミも、本来正しい教育を受けるべき子供の立場を無視し、この教科書問題を政治外交問題として取上げるだけです。
 ところで、「古田史学の会」は、表立ってこの教科書問題を取上げたことはないようですが、分裂前の「市民の古代研究会」では発会当初「市民の古代(第2集)」に特集しております。詳細については当該特集版に譲りますが、古代に関する記述内容が、「古田史学」前後において、あまり変わっていない状況や、教育現場における(「古田史学」に触れたために生じた)歴史教師の悩みなどの報告記事が多い中、古田武彦先生は「現行の教科書に問う」と題し「邪馬台国」と「日出づる処の天子」の比定問題を取上げ、最後に、権威による、例えば、出土状況を無視した歴史記述を否定された上で
 「教科書は、わたしたちの世代が次の世代に渡す遺言書である」・・・「(教科書を)権威をもって彩ろうとするとき、教科書の利ではなく、教科書の悪が生まれる。若い人々、幼い人々の純粋な頭脳に汚染の毒水を注入することとなろう」・・・「その、魂の公害を避けるため、現場の心ある教育者、一般市民の手によって、本書の実現が企てられたのである」
と結ばれています。しかしこの特集では、「古田史学」の立場から今後この問題に対してどう取り組むかなどの討論はなかったように思います。
 このたび(2001/01)古田先生は中国訪問の際、北京大学において、歴史学の諸先生と彼我の歴史教科書についてご懇談され、教科書の記述にはその事実確認が必須ということと、他国の教科書をいう前に先ず自国の教科書内容の充実を「隗より始めよ」、と説く古田先生の説得に、北京大学の先生たちが賛成されたというご報告をお聞きし、改めて先生の、歴史教育に対する熱意を感じた次第ですが、「古田史学の方法」によって裏づけされた説得に、さすがの先生たちも、同意せざるを得なかったのでしょう。先生たちのご意見が、日本への苦情窓口である中国外務省に、きっと反映されるよう願っております。
 さて、「古田史学の方法」によって得られた新事実を社会へ還元することが私たちの目的の一つであるのは勿論ですが、その最も効果的な手段は、教科書への記述にあることは申すまでもありません。そこで、本会は勿論ですが、友好団体に対しても、是非この問題についての議論が展開されることを提言いたします。
 『「邪馬台国」はなかった』出版三十年を迎えた今日まで、学界からの認知を、今か今かと「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで(古田/2001・07・01総会後の懇談会席上)」きたものの、相変わらず、シカトされたままであり、先生のみならず、我々の堪忍袋の緒も切れかゝっているのが現状です。しかし、教科書問題という追い風の中、私たちは今こそ、その目的を達成する千載一遇のチャンスを迎えているのではないでしょうか。
 機はまさに熟せり。是非私たちの本願成就のための議論を展開していただきたいものです。


反哉(はんや)舞とチンのウバ塚 京都市 古賀達也


□□ 事務局だより □□
号は、古田先生より「教科書の聖域」を頂いた。短いが核心を突いた重要論文。五百部増部し広く配布される予定だ。
▼西村稿や飯田稿も実証的で手堅い好論。いずれも先駆的な研究で、発展が期待される。平野、太田両氏は久々の登場。
▼本号が会員の皆様に届く頃、私と古田先生は札幌入りする。私にとって北海道の皆様とは五年ぶりの対面。
▼山崎、吉森両氏が全国世話人を退任。永年の貢献に感謝します。
▼『古代に真実を求めて』4集の発行が遅れるとのこと。なるべく早くと、明石書店にはお願いしている。
▼本年最大のイベント、三十周年記念講演に多くの参加を。盛夏、ご自愛下さい。koga@


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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