古賀達也の洛中洛外日記 ブログ「 百済人祢軍墓誌 」一覧 へ
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)
「祢軍墓誌」を読む 石田泉城(東海の古代№248 2021年4月)直リンクです。ブロウザーにより表示したり、直接ダウンロードします。
「百済禰軍墓誌」について -- 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)
百済人祢軍墓誌の「日夲」 -- 「本」「夲」、字体の変遷 (会報170号)
これらは翻案です。史料批判される場合は、必ず論文と拓本で確認して下さい。
資料
水野孝夫 翻案
王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)氏「百済人祢軍墓誌論考」(「社会科学戦線」7月号発表)より
________________________________
大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序
公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;淼淼熊水,臨丹渚以南流。
浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
忠侔鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。
去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。
聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公侚臣節而投命,歌皇華以載馳。
飛汎海之蒼鷹, 翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数
十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
局影彤闕,飾恭紫陛。亟蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六
古賀達也の洛中洛外日記 ブログ「 百済人祢軍墓誌 」一覧 へ
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)
ホームページ へ
新・古代学の扉事務局へは、ここから。
Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“