2022年6月13日

古田史学会報

170号

1、『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識
 古賀達也

2、熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニュ ーロパチーについて
 美濃晋平

3、高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して
 大原重雄

4、百済人祢軍墓誌の「日夲」
 「本」「夲」、字体の変遷
 古賀達也

5、「壹」から始める古田史学・三十六
もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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失われた飛天 -- クローン釈迦三尊像の証言 (会報169号)

 

百済人祢軍墓誌の「日夲」 -- 「本」「夲」、字体の変遷 (会報170号)../kaiho170/kai17004.html

百済人祢軍墓誌の「日夲」

「本」「夲」、字体の変遷

京都市 古賀達也

一、墓誌の「日夲」は「日本」か

 「古田史学の会・東海」(注①)の会報『東海の古代』№二四八(二〇二一年四月)に「百済人祢軍墓誌」に関する論稿二編が掲載されており、興味深く拝読しました。それは、畑田寿一さん(一宮市)の「祢軍墓誌からみる白村江の戦い以後の日本」と石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」です。いずれも新たな視点と仮説が提起されています。
 畑田稿は〝祢軍墓誌の記述からは、白村江戦以降の日本列島に東西二つの国があったことが読み取れる〟というもので、西の九州王朝と東のヤマト朝廷の併存という仮説へと展開しています。
 石田稿は、祢軍墓誌に記されている文字は「日夲」であり、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、通説のように「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)と訓むのではなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と訓むべきとする読解を提起され、この「夲餘噍」を百済の残党と解されました。(注②)
 わたしはいずれの説にも賛成できませんが、学問研究には異なる説が自由に発表でき、批判を歓迎し、真摯に論争・検証することが大切と考えており、批判を歓迎します。石田稿では、わたしが『古田史学会報』一〇八号で発表した「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」(注③)への批判もなされていました。そこで、石田稿で指摘された論点について説明します。

 

二、古田先生との冨本銭研究

 石田稿の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。
〝文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。〟
 このことについては、わたしも全く同感です。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲フトウ』であり、それを「フホン」と読んでもよいものか」という疑義が呈されました。(注④)

富本銭

 その問題提起を受け検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解でした。当時、信州で出土した冨本銭(注⑤)を古田先生と見に行きましたが、先生は一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました。(注⑥)
 わたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。
 「此是 大委国上宮王私
     集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼かなたの夲ほんに非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)とされています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。
 木簡研究においても、七~八世紀の木簡に「夲」の字は散見されますが、「本」の字を目にしたことはありません。当時は「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどの史料状況なのです。たとえば「本」の異体字として「夲」を用いた八世紀初頭の木簡に次の例があります。
 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)
 これは山部乎夜部やまべのおやべの昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことがわかります。この「本位」の「本」の字体が「夲」です。
 以上の史料事実により、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、見なすべきです。
 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、七~八世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。例えば『通典』(八〇一年成立)の北宋版本(十一世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは不明ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(一六三頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。
 また、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(六七八年没)よりも六十年ほど後れますが、井真成墓誌(七三四年没)には国号としての日本が見え(注⑦)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
  公姓井字眞成國號日夲」(後略)
 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記としては、「日夲」が使用されていた可能性が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく理解です。

 

三、対句としての「日夲」と「風谷」

 石田稿では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表しています。
 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。
 「于時日夲餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」
 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注⑧)
 「時に日夲の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋のがれ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」
 この「日夲の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日夲」を国名とはされず、「日夲餘噍」を百済の残党とされています(注⑨)
 この東野さんの訓みは優れたものですが、わたしは「日夲餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なります。言わば一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注⑩)の主宰者が既に発表しており、当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
 私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
 掲載誌『図書』二〇一二年二月号(岩波書店)
 (前略)
 東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
 ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
 つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
 ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
 従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 なお、『古代に真実を求めて』十六集(二〇一三年、明石書店)で百済人祢軍墓誌を特集しており、次の論稿が掲載されています。阿部周一「『百済祢軍墓誌』について ―劉徳高らの来倭との関連において―」、古賀達也「百済人祢軍墓誌の考察」、水野孝夫「百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験」。

 

四、「本」の字体の変遷

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から次の情報(メール)が届きました。
〝『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていました。〟
 わたしは正木さんからのメールを拝見し、腑に落ちました。以前、北魏~隋唐時代の字体調査を行ったとき(注⑪)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、逆に「本」の字を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。従って、当時の国名表記としては、「日夲」が使用されていた可能性が高いとするのが、史料事実に基づく穏当な判断です。
 〔令和四年(二〇二二)三月十六日、改訂筆了〕

(注)

①「古田史学の会・東海」は二〇二一年十月に名称を「東海古代研究会」に変更した。

②餘噍とは残党の意味。

③古賀達也「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月。これに先だち、「洛中洛外日記」三五三話(2011/11/22)〝百済人祢軍墓誌の「日本」〟、三五五話(2011/12/01)〝百済人祢軍墓誌の「僭帝」〟、三五六話(2011/12/03)〝南郷村神門神社の綾布墨書〟で同墓誌について触れた。

④水野孝夫氏は「『富本銭』の公開展示見学」(『古田史学会報』三一号、一九九九年四月)において、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。

⑤一九九九年四月二二日、長野県の高森町歴史民俗資料館所蔵の富本銭を拝見した。同館のご所望により、来訪者名簿に「富本銭良品 古田武彦」と先生は大署された。同富本銭は高森町の武陵地一号古墳から明治時代に出土したもの。

⑥『古代に真実を求めて』第三集(二〇〇〇年十一月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿を収録した。

 古賀達也 プロジェクト貨幣研究規約
 古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
 山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
 木村由紀雄 古代貨幣研究方針
 浅野雄二 第一回報告
 古賀達也 古代貨幣異聞
 古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
 古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
 古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
 古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)

⑦井真成墓誌には「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
 歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

⑧東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』七五六号、二〇一二年二月。

⑨東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、二〇一五年。初出は『東方学』一二五輯、二〇一三年。

⑩https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

⑪「洛中洛外日記」二〇九〇~二一〇五話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟。
 「同」二〇九九~二一〇二話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟。
 「同」二一〇六(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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