2022年6月13日

古田史学会報

170号

 

1、『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識
 古賀達也

2、熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて
 美濃晋平

3、高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して
 大原重雄

4、百済人祢軍墓誌の「日夲」
 「本」「夲」、字体の変遷
 古賀達也

5、「壹」から始める古田史学・三十六
もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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科野と九州 「蕨手文様」への一考察 吉村八洲男(会報168号)

熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、 古代までさかのぼれるか 美濃晋平 (会報170号)


本論文は、記載のみ。Web内で拡散されません。

熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、

古代までさかのぼれるか

東京都練馬区 美濃晋平

 結論:熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、両者が分岐(ヒトの移動)した時代は古代にまでさかのぼると考えられる。その時期は一つの可能性として六世紀の半ば五百五十年頃と考えられる。

 

家族性アミロイドニューロパチー

 家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)は,多発ニューロパチーを主徴とする遺伝性全身性アミロイドーシスの一病型である.日本にも世界有数の集積地(長野、熊本)が存在することが知られている。家族性アミロイドニューロパチーには三病型が存在し、日本では長野と熊本にその集積地が知られている。そのタイプは一型で、二十歳前後で神経障害などが現れるタイプとされている。
 この様に遺伝子変異による疾病が孤立して集積する場合、その孤立した集積地の人々が共通の祖先(集団)から分岐(移動等)したことを示唆している。

図は省略しています。

 

疾病・人類・歴史学

 近年、疾病の研究や疾病の原因遺伝子の変異から人類の移動を推測する疾病・人類・歴史学ともいうべき研究が報告されている。例えば、感染症の分布や歴史を調べることにより人類の移動を推定する例として、ペスト、天然痘、ハンセン氏病、コレラ、スペイン風邪、成人T細胞白血病及びピロリ菌感染などがあげられる。また疾病の原因が特定遺伝子の変異による例として、家族性アミロイドニューロパチー等が知られている。このうち人類の移動した経路や年代に関して研究が進んでいる例としては、B型肝炎、成人T細胞白血病、ピロリ菌感染があげられる。

 

B型肝炎による推定

 B肝炎のウイルスの遺伝子の違いを検討することにより、人類の発祥は十五万年前(アフリカ)で、南アフリカへは十二万年、アジアからオーストラリアへは六万年、ヨーロッパへは三万年、新大陸南アメリカへは一万年前に移動したとされている。

 

人白血球抗原HLAハプロタイプによる推定

 日本人の形成には、(一)韓国北部から北陸、(二)韓国南部から山口瀬戸内海、(三)中国上海辺りから北九州、(四)台湾、沖縄、奄美をへて鹿児島に至る四系統の流れが想定される。その時代は縄文時代、弥生時代とされている。

 

ピロリ菌による推定

 ピロリ菌のタイプ分類の比較から推定した、世界的な人類移動も数万年前、最短でもメラネシアへの伝搬は五千年遡るとしている。この様に、現時点では疾病、遺伝子の特定地域での局在から人の移動を推定する場合、人種、民族という大分類でなされている。従って、熊本県から長野県への人の移動については推測できるものの、その時期を特定するのは現時点では困難である。その理由は、現在得られている情報では時代の区分が五千年~数万年であり、その区分単位が大きすぎて、古代(二千年前程度)での人の移動を推測するのは困難と考えられる。
 一方、日本各地の地名等の類似性から人(氏、族)の移動を推定する方法が考えられる。ちなみに日本書紀に言うところの「磐井の乱」で敗れた磐井の息子の筑紫君葛子くずこは父に連座することを恐れて、糟屋屯倉かすやのみやけを献上して死罪を贖あがなったとある。
 古墳時代の筑紫国にあった糟屋屯倉場所は現在の福岡県糟屋郡付近と推測されてる。 その役所の比定地については同郡粕屋町の国指定史跡「阿恵官衙遺跡」ではないかとする説がある
 この様に「磐井の乱」で敗れた磐井の息子の筑紫君葛子は父に連座することを恐れて、糟屋屯倉を大和朝廷に献上したとされる。この糟屋屯倉のあった福岡県粕屋郡付近は磐井の勢力範囲でもあり、海運は安曇氏の勢力範囲で両者は協力関係にあったと思われる。このような状況のもと、安曇族は海運、水運の流通網を利用して日本各地に移動し勢力を蓄えた思われる。

 

安曇氏の移住先

 尚、磐井の勢力範囲は少なくとも現在で言う、福岡県、熊本県(火の国)、大分県(豊の国)を含む範囲に及んでおり、これらの地区は磐井と協力関係にあった安曇族の活動範囲に含まれていたと思われる。ここでは長野県の地名である安曇野と山名である有明山などについて論考を加える。

 

安曇という地名

 「安曇族」というブログによれば、弥生時代のころ、北九州の福岡市周辺に安曇という氏族がいた。当時北九州には、大陸から渡ってきた人たちが大勢いたという。主に海上を活動の拠点とする人たちで、その中心が安曇氏である。六世紀の中ごろ、この安曇族は全国各地に散らばった。その理由はわからない。として安曇族の移動先として以下の図を示されている。

安曇族の移住先安曇氏の移住先

 尚、筆者は上記「磐井の乱」がその理由と考えている。また移動先には、地名、伝承、遺跡などにその「痕跡」が残っている可能性が高いと筆者も考えている。

穂高神社

 長野県安曇野市にある穂高神社がある、その祭神は穂高見の命で、安曇族の遠祖先であるとされている。長野県安曇野市にある穂高神社の説明によれば、伊邪那岐―綿津見―穂高見というラインがあり、この穂高見命が安曇族の遠祖であり、また穂高神社の主祭神でもある。という。(次頁系図参照)
 同様に長野県神社庁ホームページ によれば「穂高見命は海神族かいじんぞくの祖神であり、その後裔こうえいであります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司リ、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族だったようです。」としている。

綿津見命と穂高見命綿津見命と穂高見命

長野県安曇野長野県安曇野

 次いで安曇氏の移動先の一つ長野県安曇野(図右)を示した後、「移住先の一つ、長野県の安曇野は松本市や大町市周辺の地域である。有名な黒部第四ダム(こちらは岐阜県だが)も近い。北九州を離れて新潟県糸魚川市付近にたどり着いた安曇族は、そこを流れる姫川を遡っていったという。では、なぜ安曇族はこの地を移住先として選んだのかといえば、海洋族として交易に必要な翡翠ヒスイを求めて、という説がある。翡翠は日本古来の宝石であり、国内の産地は限られている。確かに姫川流域国内でも有数の産地ではあるが、これも一つの仮説にすぎない。しかし理由はともかく、安曇族が姫川を遡って安曇野(当時は安曇野という地名はなかったが)にたどり着いたというのは史実であろう。―以下略―」とされている。
 上記報告の中で、安曇族の移動ルートとして、姫川を遡ってと考える理由として、翡翠を求めてという考えは魅力的で筆者もその可能性が高いと考える。一方、安曇野に至る経路としては、木曽川を遡るルートまたは天竜川や富士川を経由するルートも考慮する必要があるかもしれない。
 それは、「安曇族の移住先」の図の厚見郡は現在岐阜市に含まれているが、この厚見郡は木曽川に近接した地域である。木曽川を遡り塩尻から信州に入るルートは明治の頃まで良く知られた道であった。また熱海が安曇族の進出地であるならば、熱海からほど近い天竜川や、富士川の水運を活用して諏訪、松本を経て安曇野に至る可能性も残されていると考えられるからである。
 この様に六世紀の中頃、九州の地から長野県へ、安曇族がまとまった集団で移動した可能性が推測される。その移動の原因は定説に至っていないが、安曇族が磐井に与し、その磐井が磐井の乱で敗れたからとの説がある。もしそうであるなら、磐井に与した安曇族が磐井の勢力下かあるいは磐井の勢力に好意的(大和朝廷とは別の勢力)を頼って移動した可能性がある。またその異動の時期は六世紀半ばの磐井の乱(五二七~五二八)の少し後の頃と推定される。

 

穂高神社の祭神

 穂高神社の境内には以下の六柱の神が祀られている。

中殿には穂高見命(泉小太郎)
左殿には綿津見命
右殿には瓊瓊杵命
別宮には天照大御命
若宮には安曇連比羅夫命
相殿には信濃中将(ものぐさ太郎)

 主祭神は穂高見の命である。また相殿には信濃中将が祀られている。この信濃中将は御伽草子のものぐさ太郎として広く知られている説話である。穂高見の命の化身とされる小泉小太郎(日光小太郎ともいう)は安曇野の古墳時代における開拓者の物語であり、ものぐさ太郎は平安時代に安曇地方を再興した人物の物語で、いずれも安曇野の発展に寄与した偉人ということで穂高神社の祭神として祀られているという。

 

泉小太郎伝説と安曇野の開墾

 泉小太郎伝説は長野県松本~安曇野地区に伝わる民話で泉小太郎以外に日光泉小太郎、泉小次郎などの名前で呼ばれ若干内容が異なるが安曇野を開拓した話である。(小泉小太郎 信濃の民話 日本の民話Ⅰ 日本の民話 未来社)またこれらの民話を基に松谷みよ子(作家)により『龍の子太郎』として紹介され広く知られるようになった。
 上記複数ある泉小太郎伝説は各伝説により内容は多少異なる部分はあるが、その要旨は以下のとおりである。

 『大昔この安曇野一帯が満々と水を湛えた湖であった頃、この湖に犀龍と云うものが住んでおりました。この犀龍と東高梨(今の須坂市高梨のあたり)の地に住む白龍王との間に男の子が生まれましたので、日光泉小太郎と名付けました。母の犀龍さいりゅうは自分の姿を恥じて水底深く隠れ住んでおりましたが、小太郎は母をたずね探し熊倉下田の奥の尾入沢と云う処で初めて母に逢うことができました。
 この時犀龍は「私は諏訪大明神の化身である、これからお前と力を合わせて、この湖の水を落とし陸地として人が住めるようにいたしましょう」と語って山清路さんせいじの大岩を突き破り、さらに水内みうち橋下の岩山を開いて安曇、筑摩両郡にわたる平野を作り上げ、それ以来この川を犀川と呼ぶようになったと伝えられています。また、小太郎の父白竜王は綿津見神わたつみのかみであり小太郎は穂高見命ほだかみのみことの化身といわれ、治山治水の功績を称えております。』ブログ『信州の人』の「穂高神社に祀られる神々」より

 尚、穂高神社では現在でも御船祭りが行われている。山国である安曇野で行われるこの船を曳いて安曇野各地を練り歩く御舟祭りは安曇の人たちが海の民であったことを示す象徴的な祭りと考えられる。
 この様に穂高神社には上記六柱神が祀られているが、主祭神は穂高見の命(小泉小太郎)で、綿津見命、安曇連比羅夫命が祀られていること、さらに山国である安曇野の地において、海の祭りと考えられるお舟祭りが伝えられていること、加えて伝説小泉小太郎の中で安曇野の開墾話が語り継がれてきた。これ等のことは海の民である安曇族が遠く北九州から移動して、安曇野の開墾発展に寄与した歴史を示唆していると考えられる。

 

有明山と有明湖

 安曇野における有明という名前は、安曇族の故郷である九州の有明海を連想しての命名と思われる。泉小太郎伝説ではこの地(安曇野)に有明の湖がある。このことは九州から来た安曇族がこの地で開墾していった過去の出来事を説話化したと思われる。ブログ『メタボ大王さんの長野県旅行記』の「明科廃寺は阿曇族の氏寺か~阿曇族の行方を追って~」によれば「長野県北安曇郡池田町に川会神社がある。川会神社の「泉小太郎の碑」にはこの地に「有明の海」があったとしている。九州から来た海神族=安曇族にとって「有明の湖」とは有明海に他ならない。有明海はかつてはもっと広かったが、筑後川などの土砂が堆積し、海が後退している。九州の八女地方にいた磐井氏は、磐井の乱に敗れ屯倉を明け渡し許されたとされるが、磐井の乱に加担して信濃に逃亡したともされる安曇族は、この地の湿地帯のような湖を「有明湖」としその山を有明山としたのではないか。」と記述している。

 

明科廃寺

 次に安曇族が集団移住した可能性を推測させる遺跡の存在を検討する必要がある。「明科遺跡群明廃寺科廃寺四」個人住宅建設に伴う第四次調査報告書(安曇野市の埋蔵文化財第十二集 平成二十九年(二〇一七)三月三十一日)は以下に要約する内容を報告している。明科廃寺は、昭和二十八年(一九五三)の遺跡発見以来、県内でも数少ない白鳳時代の古代寺院跡であろうと 推測されていた。その後、発掘調査の結果、同報告書の考察で以下の様に報告されている。
 「ピット(ASH15P1)内採取試料より抽出した炭化材(試料一)は、放射性炭素年代測定結果に基 づく暦年較正結果(2σ)を参考とすると、 六世紀中頃から 七世紀前半頃の年代が推定される。明科廃寺は、これまでの発掘調査で出土した須恵器や瓦などの考古学的な検討から 七世紀後半(七世紀第三四半期)頃の創建と推定されており、今回の試料はこれよりも古い暦年代範囲と言える。なお、本試料は部位不明の炭化材であったことから、伐採年代(使用年代)ではなく測定した年輪の年代を反映していると考えられる。そのため、炭化材試料が出土したピットが帰属する建物跡の年代については、遺構の調査所見および上記した古木効果の影響も含めた検討が必要である。」
 すなわち明科廃寺は当初の予想七世紀後半ごろの創建と推定されていたが、放射性炭素年代測定結果からは六世紀中頃から七世紀前半の可能性が推定されるとしている。磐井の乱が五二七年であり、その後九州から長野県安曇野に安曇族が移住して土地を切り開き、河川や農地を開拓しながら寺を建立していったと想定すれば安曇族により六世紀中ごろから七世紀に明科寺が建立されたとしても矛盾は少ない。
 以上より一つの可能性として安曇族が北九州から移動して長野県安曇野に移動した際、その中に家族性アミロイドニューロパチー遺伝子の保持家系が含まれ、これが現在まで保持されて伝えられた可能性が考えられる。その移動時期は六世紀の半ば五五〇年頃と考える。
 今回は公表されている文献や情報などをもとに考察を加えた。しかし、遺伝子解析の技術は日進月歩である。熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーの患者の遺伝子サンプルを入手出来れば、そのサンプルのターゲット遺伝子の配列を詳細に比較し、両者が枝分かれしたであろう時期をある程度特定することも理論上は可能と思われる。

 


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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