2022年 2月15日

古田史学会報

168号

1,「壹」から始める古田史学 ・三十四
「邪馬壹国九州説」を
裏付ける最新のトピックス
 古田史学の会事務局長 正木裕

2,失われた九州王朝の横笛
「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝
 古賀達也

3,『隋書』の「水陸三千里」について
 野田利郎

4,科野と九州
「蕨手文様」への一考察
 吉村八洲男

5,栄山江流域の前方後円墳について
 大原重雄

6,古今東西の修学開始年齢
『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』
 古賀達也

 

古田史学会報一覧

科野と九州 「蕨手文様」への一考察 吉村八洲男(会報168号)../kaiho168/kai16804.html

熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、 古代までさかのぼれるか 美濃晋平 (会報170号)


科野と九州

「蕨手文様」への一考察

上田市 吉村八洲男

1.始めに

 筆者は、長野県上田市に在住します。長野県第三位、人口十五万の地方小都市ですが、古代「科野の国」の要衝地と思われ、何故か「信濃国分寺」も身近です。手前味噌になりかねないが、古代における「科野」の重要性、「上田」が果たした意味について皆様の御関心・ご認知を頂きたく、愚論考を進めます。
 初学者と言える私ですが、周囲に散見される古代遺品・遺跡・事績の多くが、九州由来説を受け入れるとスムースに解釈出来る事にかねて驚きを持っていました。だから、既存歴史界(「九州王朝」論者も含め)が、それらを正鵠に説明していないとも思っていました。遺品・遺跡の多くが「一元歴史論・九州王朝論」では説明出来ず、謎・結論不明のままで放置されていると思われたからです。
 古田先生は、古代に全国各地に王朝が存在していたとされ、それらを「関東王朝」「東北王朝」などと命名されました。「多元論」として説明されたのです。この「多元的古代」は疑えない事と思われます。
 そう考えた時、いち早く勢力を伸長させ出雲王朝を支配した九州王朝が、次なる進出先に東日本を考え、ある時期「科野の国」をその足掛かりにした事は十分にあり得る事と思われます。
 北アルプスを「果て」としながら、同時にその向こうに肥沃な地が広がる事を九州王朝の人々は認知していたと思えます。「和田家古文書」での「アソベ(阿蘇辺)族」末裔が住み、勢力を張った処が、熊本県・「阿蘇」だとも思えるからです(上田にも、群馬にも、「アソ地」がある)。
 九州勢は、「鉄」を主武器とし科野への進出を果たしたと思われます(BC一~AD一世紀頃)。この支配を確定した以後、九州と科野とは直結していたと私は思います。「科野」は九州勢の東国進出の入口で、ここから東国に向かったと考えられます。科野に残る「文化や体制支配の先進性」を示す数々の考古事例がそれを証明すると私は思えます。(九州王朝の科野進出に関しては、「古田会ニュース」№一九九・二○○・二〇一を御覧ください)
 古代東国を理解する際、『九州王朝が「科野の国」から東国へと伸長した』、この観点から古代史を推定する事が必須であろうと私は感じています。「鉄」への理解だけでなく、「土器」を始めとした多くの考古事例からもそう言えると思っています。
 これから古代九州と科野の結びつきを示す一例として、両地での「蕨手文様」の濃厚分布を説明します(六世紀中期・末期か)。この事例から「科野の国」への新たな理解がなされる事を私は心から切望したいと思います。

存在していたとされ、それらを「関東王朝」「東北王朝」などと命名されました。「多元論」として説明されたのです。この「多元的古代」は疑えない事と思われます。
 そう考えた時、いち早く勢力を伸長させ出雲王朝を支配した九州王朝が、次なる進出先に東日本を考え、ある時期「科野の国」をその足掛かりにした事は十分にあり得る事と思われます。
 北アルプスを「果て」としながら、同時にその向こうに肥沃な地が広がる事を九州王朝の人々は認知していたと思えます。「和田家古文書」での「アソベ(阿蘇辺)族」末裔が住み、勢力を張った処が、熊本県・「阿蘇」だとも思えるからです(上田にも、群馬にも、「アソ地」がある)。
 九州勢は、「鉄」を主武器とし科野への進出を果たしたと思われます(BC一~AD一世紀頃)。この支配を確定した以後、九州と科野とは直結していたと私は思います。「科野」は九州勢の東国進出の入口で、ここから東国に向かったと考えられます。科野に残る「文化や体制支配の先進性」を示す数々の考古事例がそれを証明すると私は思えます。(九州王朝の科野進出に関しては、「古田会ニュース」№一九九・二○○・二〇一を御覧ください)
 古代東国を理解する際、『九州王朝が「科野の国」から東国へと伸長した』、この観点から古代史を推定する事が必須であろうと私は感じています。「鉄」への理解だけでなく、「土器」を始めとし

た多くの考古事例からもそう言えると思っています。
 これから古代九州と科野の結びつきを示す一例として、両地での「蕨手文様」の濃厚分布を説明します(六世紀中期・末期か)。この事例から「科野の国」への新たな理解がなされる事を私は心から切望したいと思います。

2.「蕨手わらびて文様」

 「蕨手文様」から説明します。これは考古学上の用語で、「の」の字・その類似形を意匠(デザイン)した文様と考えて良いと思います。大別すると、「の」の字形状を持つ基本形とそれを組み合わせた「複合」蕨手文があります(「図」を参照)。基本形と言える「の」の字形文様は、日本ではすでに縄文期から各地で見られ、中国でも古くから頻出します。(この「文様の意味」については、諸説があります)

蕨手文様

 この文様が注目されるのは、装飾古墳との関連からです。「の」の字形・「複合」形の蕨手文様は、七○○はあると言われる九州装飾古墳中に僅か六例(九例説も)しかなく、しかも特定の時代(六世紀)に出現するからです 貴重・稀少な文様が、なぜかこの時期集中して出現すると言えるからです。目立たなかったこの文様が一気に花開いたといえるのが「王塚古墳」だと言えます。この「文様」が壁画主要部、玄室入り口に数多く描かれ、占拠しているとも言えるのです。(「図」を御覧ください)

王塚古墳壁画絵図

 ここでは、「複合蕨手文様」が数多く見られます(無数にあるから、分類されたのです!)。古墳の数としては、「1」ですが、その中には「蕨手文様」が異常とも言える程、使用され、濃厚分布しているのです。
 そして、特定地域古墳に急増したと推定されるこの出現例から、この「文様」の発生・意味について学者は様々に理解・憶測を試みて来ました。
 発生時期からは、ダンワラ古墳出土「鉄鏡」にある「複合蕨手文様」と何らかの関連があるかと推定され、だから名称自体を「雲文」と呼ぶべきだという意見さえ出て来ているのです。

蕨手文様1蕨手文様2蕨手文様3


 この王塚古墳・蕨手文様に画期的新見解をもたらしたのが、James Mac(阿部周一)氏です。その論考は『「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と停止』(氏のブログ「古田史学とMe」中の題名)とそれに関連する一連の論考に詳しい(先行して「伊東義彰」氏論考にも類似の見解があります「古田史学会報№六十九・七十七)。端的に言うと文様・古墳・考古・文献などから「九州王朝内部には権力争いがあった」と言う推定・解釈になるのですが、さらなる追及は「磐井の乱(王権の移動)」解釈とも繋がり、私の力では到底及びません。諸氏の更なる究明・解明に期待する他はないでしょう。

3.科野の「蕨手文様」

 3年前、「科野の国」の「高良社」に興味を持ち、関連して真田町出速雄(いずはやお)神社を訪れた。その時、石祀に残された奇妙な文様・三個に遭遇したのです。(前頁の図を御覧ください)
 既に「蕨手文様・瓦当」が、全国で「上田」に「6例」しか発見されていない事に興味を持っていた私は、これに驚きました。案内された神社氏子からは、「石祀」とは過去には社名・祭神名を持つ神社であった事、この文様が「神紋」と思える事を教えられた。確かにこの文様すべてが、これを持つ石祀の同一位置(神紋位置)にあった。
 そして追いかけている途中から気付きました。『これは、「外向き蕨手文様」ではないか?』
 それを決定的にしたのが、「足島神社」(上田市)の次の文様です。

足島社

足島社


「王塚古墳」複合蕨手文  A  .外向きタイプ
「王塚古墳」複合蕨手文  A  .外向きタイプ 

 

「足島社」の「文様」は、「王塚古墳複合蕨手文様A・外向きタイプ」と酷似しているのです。
 更に上田市・東御市周辺などを調べました。その結果が、【資料1】です。驚く事に複合蕨手文様・外向きタイプを神紋にした「石祀」は、「五十カ所」近くに及んだのです。
 微妙な違いはあっても明らかに「外向き蕨手文様」と認定できる神紋「石祀」が、これだけの数あるのである。これは、並みの数ではない。偶然の一致ではありません。
 上田市周辺の千曲川流域には、「蕨手文様」が密集し濃厚に存在していたと言えます。所在地の比較からは現在の行政区分とは無関係に存在していたと思えました(それが、今迄気付かれなかった大きな要因でしょうか)。▼ 繰り返します。鮮明に「神紋」と判断出来る「蕨手文・石祀」数が「42」、さらに「断定をためらうが、明らかにそうであろう」と推測されるのも7~8個はあったのです。
 そしてこの地域での私の調査は、完全とは言えません。それでも「約50」は認められるのです。綿密に地域を網羅する調査をしたら、この数が更に増えるのは明らかと思えました。
 当然ながら私は、既存の歴史書(市史・町史・その他文献)にでる「一族」・「有名人」の「家紋」や「類似文様」を調べました。だがいくら調べても、どこにもこの「文様」はありません。「類似を疑える文様」さえないのです。既存の「歴 史書」には、全く登場しないのです。
 私は、「科野の国」古代に関連する「文様だ」と確信しました。

4.「高良社」調査

 この「蕨手文様(複合)」は、何を意味しているのでしょう。私には、3年前の「科野の国・高良社」調査(千曲川中流地を調査・「多元」№一四七・一四八参照)の結果が想起されました。
 その時までに「科野の国」では、「12」の「高良社」の存在が報告されていました。「千曲川水系(特に上田近辺の中流域)」では僅かに「2社」とされていたのですが、この調査の結果、ここには「13の高良社」があったのです。
 つまり、「11社」が新たに確認されたのですが、それまでの神社数が「幟(はた)・泉・石祀」などに微かに認められる「高良玉垂命」・「高良社」名などの推定をカウントした数だったのに比べ、「千曲川水系・高良社」は、「社(建物)」として残るのが多く、「拝殿」が付いているケースさえありました(上田市・五加「八幡大神縣社」)。特徴をもつ「神」も認められました。
 それ迄とは明らかに違う判断が必要と私は思いました(上田市には、「5社」がありました)。明確な「高良信仰」の痕跡と思いました。
 そしてあらためて驚いたのです。3年前の調査の「高良社分布からの推論」と、今回の「蕨手文を神紋とする石祀分布地図」とは重なり合うように思えたのです。いや、重なり合っているとしか判断出来 ませんでした。(【資料2】をご参考に。)
「高良社」は極めて「地域性」が高く、北九州のある部族の持った信仰です。それが何故「科野の国」上田近辺にこの様に濃厚分布するのでしょう。私には、それぞれが「九州」由来を暗示していると判断されました。別々の調査がなぜか同一傾向・同一結果を示していると判断されます。これは偶然でしょうか?

5.もう一つの「蕨手文様(複合)」

 前述しましたが、上田市にはもう一つ、「複合蕨手文だが別タイプ」の「蕨手文様」も出現しています。
 それが全国でも上田市近辺にしか出土しない「瓦当」の文様で、それを「蕨手文瓦当」と呼びます。(図、「信濃国分寺」出土瓦当、「蕨手文様」が内円部に認められます)

蕨手文瓦当
 全国で「6例」しかないこの瓦当だが、その文様は間違いなく「蕨手文様」です。となると、「石祀」以外にも「蕨手文様」がこの地域一帯で使われていたと結論できるかも知れません。同じ部族が、異なる対象に「蕨手文様」を使用したと言えるからです。
 実は「7例目」の「蕨手文瓦当」を私自身が発見したのがこの論考を進める大きな動機なのですが、それをきっかけに地域の「蕨手文様」追求が新たな古代史へ新展開・新見解をもたらしたことになるかも知れません。さらには「蕨手文様の発生」「蕨手文様瓦当の発生」などへの追求も驚きの推論・結論となって来るのですが、これらにはより詳細な論考なくしては皆さまの賛意を得られないでしょう。再論をお約束したいと思います。
 ここでは、こんなにも多くの「蕨手文様」使用例が上田近辺・「科野の国」にある事だけを知って頂けたらと思います。

6.終わりに

 6世紀、「蕨手文様(特に複合文様)」の濃厚な分布は、日本の他地域には見られないものです。「九州」「王宮古墳」にしか濃厚分布が認められないと思われます。地域性が強い「高良社」も同じである。北九州にしか濃厚分布していないと思われます。
「蕨手文様」が、科野で自然に大量発生する訳がありません。確かに上田周辺の「蕨手文様(複合タイプ)石祀」・「瓦当」の製作・使用時期は未確定です。が既に、「蕨手文瓦当」は、「既成歴史観」からさえも7(6)世紀の不明な建物(寺)に使われたかと推定され始めています。
 そう考えても、6世紀・九州「王塚古墳」に使われた「蕨手文様」の「科野」への波及(到来)を想定すると、「石祀」・「瓦当」での使用が、ピッタリ説明できると私は思います。

 「この文様はある氏族により九州からもたらされた」、つまり『「王塚古墳」築造者達が「科野の国」へ来ていた』、そう断言出来るのではないでしようか?両地域は、古代から往来があった、「複合蕨手文様」の濃厚分布がそう言っていると思えます。「高良社」の濃厚分布もそれを裏付け確定させていると私は思います。
「蕨手文様」が示す古代「某」部族の「科野(恐らくは、全国へも)到来」は、各種の古代史推定を生む事になると思えます。Mac氏の論考はそこからも再評価されるべきと私は感じています。  

 【資料1】
「蕨手文様(外向きタイプ)」を「神紋」に持つ石祀
○東御市=美都穂神社4、和神社4、祢津建事神社4、白鳥神社1
○佐久市=大塚諏訪神社1
○上田市真田町=出早雄神社3、山家神社2、皇大神社2、戸沢神社1、自性院1、十林寺諏訪神社1、表木神社1、実相院1、宮原神社1、横尾神社1、天満宮1
○神科・塩田他=足島神社1、鴻臚館跡1、染谷英神社1、弥吾平神社1.
 青木村・・日吉神社1.村松1、阿鳥川神社1
○筑北村=神名宮4
○千曲市=治田神社1.須々岐水神社1.

【資料2】
3年前の「高良社」調査の一部を表示します(これへの詳細な見解は「多元」誌で)。

番号・所在地・神社名・主祭神名・「高良社」の状況 
一・飯山市瑞穂・小菅神社・伊弉諾尊、他6神・「玉垂社」(今は無い)
二・長野市塩崎・軻良根古神社・誉田別命、他2神・石柱上の「高良社」石祠 
三・長野市松代・祝神社・生魂命、他2神(境内社に「応神天皇」)・「高良社」(現在は無い)
四・須坂市小山・墨坂神社・品陀和気尊、他3神・境内社「高良社」同市「芝宮」地にも同名社
五・千曲市八幡・武水別神社・誉田別命、他3神・境内社「高良社」(鳥居あり)
六・千曲市上山田・佐良級神社・誉田別命、他2神・境内社「高良社」(鳥居あり) 
七・上田市本原・誉田足玉神社・誉田別命、他2神・境内社「高良社」(鳥居あり)
八・上田市国分・国分神社・応神天皇・境内社「高麗社」 
九・上田市下之条・葦原淵神社・大鷦鷯命(社伝では応神天皇と同一人物とのこと)・「高良社」(樹の洞中)
十・上田市下本郷・誉田別神社・応神天皇・境内社「高良社」「高良玉垂命」あり 
十一・上田市五加・八幡大神縣社・誉田別神、他2神・境内社「高良社」「高良玉垂命」拝殿あり
十二・佐久市蓬田・浅科八幡神社・誉田別命、他2神・境内社「高良玉垂社」
十三・佐久市岩村田・若宮八幡社・誉田別命、他4神・「高良社」額、説明板
*「高良社」は、「科野」の他地域では新たな追加が認められていない。(二〇二一年現在)

参考

「科野」の「蕨手文様」瓦と多元史観

―上田市在住 吉村八洲男さまからのご寄稿―[著書や論考等の紹介]

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/11/post-a3f3.html

編集だより

 会報一六八号です。
 上田市の吉村さんには久しぶりに登場戴きました。紙面の都合上かなり短縮して戴きましたので、吉村が披瀝なさりたい資料が殆ど掲載できておりません。詳しくお知りになりたい方は、「sanmaoの暦歴徒然草」sanmao.cocolog-nifty.com/にアクセスして戴きますと、『吉村八洲男さまの「科野からの便り』というカテゴリーがありますので閲覧下さい。 高松市 西村秀己

 


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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