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栄山江流域の前方後円墳について
京都府大山崎町 大原重雄
朝鮮半島の南西部の栄山江流域には、前方後円墳が存在している。そこにほぼ同型の円筒埴輪なども配置されるなど、倭の古墳と考えてもいいような特徴がいくつもみられる。ただ、そこに前方後円墳があるからといってそこが倭国の支配地とは考えにくい。この点について説明する。
【1】前方後円墳が列島以外に存在すると、そこは倭の地、支配領域と言えるのか。
もしそうなら、列島の各地にみられる渡来系と考えられる墓制の施設がまとまってみられるところはどう考えるのか。信州の東北、長野市松代町に大室古墳群がある。五世紀から八世紀にかけて五百基あまりの積石塚が谷筋に造営されていた。板石を重ね合わせた合掌形石室など、渡来系の特異な埋葬施設が集中するこの
地は、だからといって渡来人の占拠したクニとは言わない。奈良県明日香村の都塚古墳は石室構造、石棺は倭製だが外形は高句麗積石塚に酷似しており、これをもって明日香は高句麗が占拠したとはならない。また逆に列島に前方後円墳がある地域は、ヤマト王権の支配地だとは言い切れないのと同じことではないか。
この栄山江以外の半島エリア、特に任那日本府と考えられた地域には前方後円墳は見当たらない。任那の地域はその前は金官加耶でありその元は狗耶韓国の地である。前方後円墳の存在で倭国の領地とするなら、どうして任那や新羅の地域に前方後円墳はないのか。三韓征伐というなら、半島の随所に前方後円墳があってもいいはずだ。以前騒がれた加耶領域の松鶴洞1号墳は、調査の末に前方後円墳ではないという日本の研究者の判断があったが、その一方で、韓国側は「念には念を」とばかり前方後円墳と見られないように中央部に土盛りをしてしまっているのは残念なことだが。また栄山江地域は戦前より任那地域という主張もあるが、現在そのように考える研究者はいない。この栄山江の古墳が5世紀末から6世紀前半までのきわめて限定的な造営であったことも、特殊な事情があってのことと考えられる
【2】栄山江流域の墓制の特徴
この地に存在する前方後円墳や円墳に九州の墓制の特徴が多くみられるのは事実。しかし、重要な埋葬施設のほとんどが木棺であることなどから、この地域を制圧した首長の埋葬とは考えにくい。現在確認されている14の方円墳のうち九州系石室、玄門立柱と腰石に赤色原料の使われた古墳は9カ所である。一方で半島の特徴をしめす木棺墓は7カ所である。また百済の装飾品や加耶系の遺物もあり、単純に被葬者と出自を結び付けられない。
前方後円墳の例としてよく紹介される月桂洞1号墳は、方部の前面が三角形状という表現をされる研究者もいるが、円部とはなだらかな斜面でつながっており、このような形状のものは2基あるだけだが、その埋葬施設については他の古墳と同様の特徴がある。石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっている点は見逃せない。ところが、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済や中国の特徴を持っている。このような多数の外来の要素を持つが、その一方で甕棺での埋葬という独特の葬制を続けていた。伏岩里3号墳という円墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例もあった。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきた。独特の文化を維持してきたという点では、古代社会の実相を知るうえで興味深い地域といえる。
栄山江流域の最近の日韓の研究者の認識では、百済の支配を早くから受けていたのではなく、大方は6世紀にはいってからとのことだ。よってそれまでは、特に九州方面の倭人も多数入り込んでいたと思われるが、それでも独特の社会体制にあったと考えられる。
【3】栄山江の前方後円墳の埋葬者
では倭国の強い特徴を持つ古墳が多数存在することを、どう理解すればいいのか。これは諸説あり、今のところ決定的なものはないようだ。
①この地域に進出した倭人説
②倭との関係によって倭形の墓制を採用した地元首長説
③百済の官僚となった倭人説
などである。また磐井の乱による敗残勢力の移動も検討の余地がある。いずれにしても今後の調査や研究の進展で明らかになるであろう。
ここで私見を出しておきたい。何故6世紀前半という限定された期間だけでその造営は終わったのかという点から考えたい。
百済蓋鹵王の殺害で倭国から戻る末多王は、日本書紀によると筑紫より五百人もの護衛がついていた。彼らが戻ってきたという記事はない。百済は高句麗の圧迫から栄山江地域の確保を志向していた。南斉書百済伝によると、四九〇,四九五年に百済王は自らの臣下のために、半島西南部の地名を付した王号や候号を南斉に要求している。百済は栄山江流域社会の統合を目論んでいた。その中で、衛していた人物かどうかの確証はないが、日羅のような倭人で百済の官人が栄山江の各地に配されて、やがては方円墳も造営した。しかし百済の統治が進むと、大きな墳墓を作らない百済の葬制であったために、限定されたほぼ一代の造営で終わったとは考えられないか。適格な例えでないかもしれないが、阿蘇ピンク石の石棺の古墳が、奈良地域の南北にそって間隔を開けて配置されたかのように存在する。これは九州勢力の進出の先遣隊の首長墓となったかもしれず、植山古墳をのぞいて特定の期間に集中したと考えるなら、似たような事情があったかもしれない。
いずれにしても、まだまだ調査途上であり、百済、任那、倭との関係では慎重な判断が必要。しかしわれわれは、古墳が九州の特徴を強く持つことから、ヤマト王権ではなく九州王朝の存在を関係づけることは必要かもしれない。以下、参考にさせていただいた文献などを挙げておく。
山本孝文「古代韓半島と倭国」
高田寛太「『異形』の古墳」
権五栄「栄山江流域の古代政治体を見とおす多様な視角」(ネット掲載)
林智娜「栄山江流域における前方後円墳の築造技術」(ネット掲載)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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