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古今東西の修学開始年齢
『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』
京都市
一、『論語』の学齢
令和二年(二〇二〇)十月の「古田史学の会」関西例会で〝「二倍年暦」と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟というテーマで、周代の二倍年暦(二倍年齢)の存在について発表しました。また、『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの周代史料でも、年干支や日付干支が後代の編纂時(注①)に一倍年暦に書き換えられている可能性について論じました。その上で、周代が二倍年暦であれば、『論語』中の年齢表記も二倍年齢で理解する必要を説き(注②)、例えば次の有名な記事も二倍年齢で読むことで、よりリーズナブルな内容になると指摘しました。
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」『論語』爲政第二
わたしはこの記事の年齢、特に修学開始が「十有五」歳では遅すぎるので、半分の七・五歳であれば妥当と考えています。たとえば現在でも六歳で小学校に入りますし(学に志す)、一昔前は中卒(十五歳)で就職(立つ)していました。このように二倍年齢で理解したほうが自らの人生を振り返っても妥当ですし、この拙論に賛同する声も聞かれました。
ところが、奈良大学で日本古代史を専攻されている日野智貴さん(古田史学の会・会員)から次の質問が出されました。
「周代史料が後に一倍年暦(年齢)に書き換えられたケースがあるとされるのであれば、『論語』のこの年齢表記も後代に書き換えられている可能性がある。従って、人生を年齢別に語った二倍年齢による同類の史料提示が、論証上必要ではないか。」
大学で国史を専攻されているだけあって、鋭い批判です。そこで、日野さんの批判にどのように答えればよいか考えてきたのですが、能楽・謡曲の勉強のために読んでいた、世阿弥の『風姿華傳』に面白い記事を見つけました。
二、世阿弥『風姿華傳』の学齢
『歌論集 能楽論集』(日本古典文学大系・岩波書店)を購入し、世阿弥の『風姿華傳』を数年ぶりに読みました。そこには能役者としての年齢毎の稽古のあり方が示されていました。「風姿華傳第一 年来稽古條々」(同書三四三~三四八頁)において次のように記しています。年齢別に要点を抜粋します。
《七歳》「此藝にをひて、大方、七歳をもて、初とす。」
《十二三(歳)より》「此年の比よりは、はや、ようよう、聲も調子にかかり、能も心づく比なれば、次第〃〃に、物數を教ふべし。」
《十七八より》「この比は、又、あまりの大事にて、稽古多からず。先聲變りぬれば、第一の花、失せたり。」
《二十四五》「この比、一期の藝能の、定まる始めなり。さる程に、稽古の堺なり。」
《三十四五》「此比の能、盛りの極めなり。ここにて、この條々に極め悟りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得べし。(中略)もし極めずは、四十より能は下がるべし。それ、後の證據なるべし。さる程に、上るは三十四五までの比、下るは四十以来なり。返々、此比天下の許されを得ずは、能を極めたるとは思ふべからず。」
《四十四五》「此比よりは、能の手立、大方替るべし。(中略)それは、五十近くまで失せざらん花を持ちたる爲手ならば、四十以前に、天下の名望を得つべし。」
《五十有餘》「この比よりは、大方、せぬならでは手立あるまじ。麒麟も老いては土(駑)馬に劣ると申す事あり。(中略)
亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の國浅間の御前にて、法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。(中略)これ、眼のあたり、老骨に残りし花の證據なり。」
能役者の世阿弥と思想家の孔子とでは人生の目標は異なりますが、その道を究めた人物の人生訓として通底するものがあり、『論語』爲政編と比較すると興味深い一致点があります。
世阿弥は能役者としての初学(稽古の初)年齢を「七歳」としており、これは現代日本の小学校入学年齢(六歳)とほぼ同じです。従って、孔子の言う「十有五にして学に志す」とは二倍年齢表記であり、一倍年齢の七・五歳とする理解が穏当です。
また、『論語』の「五十にして天命を知る」に対応するのが、『風姿華傳』の「《二十四五》「この比、一期の藝能の、定まる始めなり」であり、「一期の藝能の、定まる始め」とあるように、〝一生の芸の成否のきまる最初〟が二四~二五歳であり、二倍年齢の五十歳頃に相当します。すなわち二四~二五歳を、能役者としての「天命」が定まる年齢と、世阿弥は指摘しているのではないでしょか。
最後に、『風姿華傳』では、世阿弥の父、観阿弥(一三三三~一三八四年)が亡くなった年齢を「五十二」歳と記しており、「老骨」とも表現しています。中国漢代と同様に「五十歳」(周代では二倍年齢の「百歳」)が人の一般的な寿命、あるいは「老後」と、世阿弥は認識していたことがわかります。同じく世阿弥の著『花鏡』にも、「四十」「五十」を「老後」と表現しています。
「是、四十以来の風體を習なるべし。五十有餘よりは、大かた、せぬをもて手立とする也。(中略)かようの色々を心得て、此風體にて一手取らんずる事をたしなむを、老後に習う風體とは申也。」世阿弥「花鏡」『歌論集 能楽論集』(日本古典文学大系・岩波書店)四三五頁。
三、『礼記』の学齢
『論語』爲政篇の孔子の年齢記事と同類のものが『礼記』曲礼上篇に見えます。
「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、頤わる。」『礼記』曲礼上篇。(『四書五経』平凡社東洋文庫、竹内照夫著)
おそらくは貴族や官吏の人生の、十年ごとの名称と解説がなされたものですが、百歳まであることから、二倍年齢であることがわかります。『礼記』は漢代に成立していますが(『周礼』は周代成立)、周代あるいはそれ以前の遺制(二倍年齢、短里)が、その中に散見されるのは当然でしょう。
この『礼記』の記事と『論語』の孔子の生涯を比較すると、まず目に付くのが「学」の年齢差です。『礼記』では十歳(一倍年暦では五歳)ですが、『論語』では十五歳(一倍年暦では七~八歳)です。孔子は家が貧しくて学問を始める年齢が遅かったのではないでしょうか。とすれば、この爲政篇の一節は、孔子の自慢話ではなく苦労話かもしれません。
四、プラトン『国家』の学齢
プラトンが著したソクラテス対話篇『国家』第七巻に(注③)、国家の教育制度の年齢についてソクラテスが語っている部分があります。その要旨は次の通りです。
○十八歳~二十歳 体育訓練
○二十歳~三十歳 諸科学の総観
○三十歳~三十五歳 問答法初歩
○三十五歳~五十歳 実務
○五十歳~ 善の認識の問答法
これらの修学年齢も一倍年齢とすれば遅すぎます。国家の治者を教育するプログラムとしても、三五歳まで教育した後、ようやく実務に就くようでは教育期間としては長すぎますし、体育訓練が十八~二十歳というのも人間の成長を考えた場合、これではやはり遅過ぎます。ところが、これらを二倍年齢と理解すれば、一倍年齢換算で次のような就学年齢となり、リーズナブルな教育プログラムとなります。
○九歳~十歳 体育訓練
○十歳~十五歳 諸科学の総観
○十五歳~十七・五歳 問答法初歩
○十七・五歳~二十五歳 実務
○二十五歳~ 善の認識の問答法
『礼記』や『論語』の年齢記事と比較しても矛盾の無い内容です。更に『国家』第十巻には人間の一生を百年と見なしている次の記述があり、これも二倍年齢表記と考えざるを得ません。
「それぞれの者は、かつて誰かにどれほどの不正をはたらいたか、どれだけの数の人たちに悪事をおこなったかに応じて、それらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、その刑罰の執行は、それぞれの罪について一〇度くりかえしておこなわれる。すなわち、人間の一生を一〇〇年と見なしたうえで、その一〇〇年間にわたる罰の執行を一〇度くりかえすわけであるが、これは、各人がその犯した罪の一〇倍分の償いをするためである。」プラトン『国家』第十巻(注④)
この百年という人間の一生も『礼記』に記された二倍年齢表記の百歳という高齢寿命とよく対応しており、この時代、洋の東西を問わず、人間の一般的な寿命が百歳程度(一倍年齢の五十歳)と認識されていたことがわかります。すなわち、ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたのです。
五、古代ギリシア哲学者の超・長寿
ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちが二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたことを裏付ける記録が遺っています。
ソクラテス(七〇歳、刑死)やプラトン(八〇歳)に代表される古代ギリシア哲学者の死亡年齢が高齢であることは著名です。たとえば、 紀元前三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』によれば、次の通りです(注⑤)。これら哲学者はいずれも紀元前四~五世紀頃の人物であり、日本で言えば縄文晩期に相当し、常識では考えにくい高齢者群です。
フランスの歴史学者ジョルジュ・ミノワ(Georges Minois)は「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(注⑥)とこの現象を説明していますが、はたしてそうでしょうか。やはり、古代ギリシアでも二倍年暦により年齢計算されていたと考えるべきです。そうすれば、当時の人間の寿命としてリーズナブルな死亡年齢となるからです。中国だけではなく、ヨーロッパの学者にも二倍年暦(二倍年齢)という概念がないため、「ほとんどが長生きをした」という、かなり無理な解釈に奔るしかなかったと思われます。
その証拠に、古代ギリシアでの長寿は哲学者だけに限らず、クセノファネス(紀元前五~六世紀の詩人、九二歳)や(注⑦)、三大悲劇作家のエウリピデス(七四歳)、ソポクレス(八九歳)、アイスキュロス(六九歳没)もそうです(注⑧)。このように、古代ギリシアの著名人には「長寿」が多く、こうした現象は二倍年齢という仮説を導入しない限り理解困難です。
【ギリシア哲学者死亡年齢】
名前 推定死亡年齢
アナクサゴラス 七二歳
アナクシマンドロス 六六歳
アポロニオス 八〇歳
アルケシラス 七五歳
アリストッポス 七九歳
アリストン 「老齢」
アリストテレス 六三か七〇歳
アテノドロス 八二歳
ビアス 「たいへんな老齢」
カルネアデス 八五歳
キロン 「非常に高齢」
リュシッポス 七三歳
クレアンテス 八〇歳、九九歳説あり。
クレオブウロス 七〇歳
クラントル 「老齢」
クラテス 「老齢」
デモクリトス 一〇〇か一〇九歳
ディオニュシオス 八〇歳
ディオゲネス 九〇歳
エンペドクレス 六〇か七七歳
エピカルモス 九〇歳
エピクロス 七二歳
エウドクソス 五三歳
ゴルギアス 一〇〇、一〇五か一〇九歳
ヘラクレイトス 六〇歳
イソクラテス 九八歳
ラキュデス 「老齢」
リュコン 七四歳
メネデモス 七四歳
メトロクレス 「非常に高齢」
ミュソン 九七歳
ペリアンドロス 八〇歳
ピッタコス 七〇歳
プラトン 八一歳
ポレモン 「老齢」
プロタゴラス 七〇歳
ピューロン 九〇歳
ピュタゴラス 八〇か九〇歳
ソクラテス 七〇歳、六〇歳説あり(刑死)
ソロン 八〇歳
スペウシップス 「高齢」
スティルポン 「きわめて高齢」
テレス 七八か九〇歳
テオフプラストス 八五か一〇〇歳以上
ティモン 九〇歳
クセノクラテス 八二歳
クセノポン 「高齢」
ゼノン 九八歳
(注)
①『竹書紀年』の出土は三世紀だが、その後散佚した。清代に諸史料中に遺る佚文を編纂したものが現『竹書紀年(古本)』。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界3 孔子の二倍年暦」『古田史学会報』五三号、二〇〇二年十二月。
古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』七集、二〇〇四年。
古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理」『東京古田会ニュース』一七九号、二〇一八年三月。
③田中美知太郎編『プラトン』(中央公論社、一九七八年)の解説による。
④同③。
⑤ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』(筑摩書房、一九九六年。大野朗子・菅原恵美子訳)
⑥同⑤、七二頁。
⑦ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語ギリシャ哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち』(而立書房、一九八六年刊。谷口勇訳)
⑧同⑤、六六頁。
《追記》西周の二倍年齢について
周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査を続けています。周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展しました。その根拠は次の通りです。
(1)建国時四代の王の長寿(約百歳)
○武王の曽祖父、古公亶父〓百二十歳説あり。
○武王の祖父、季歴〓百歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
○武王の父、文王〓九七歳。在位五十年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
○初代武王〓九三歳。在位十九年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
「古代にも百歳の人はいた」と主張する論者でも、紀元前十二世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。これが二倍年齢であれば、六〇歳、五〇歳、四八・五歳、四六・五歳となり、古代人の寿命として常識的です。
(2)五代穆王は五〇歳で即位し、五五年間在位。百五歳で没した (『史記』)。
(3)九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は八年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は十六年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。
(4)十代厲王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を三七年、その後「共和の政」が十四年続き、これを合計した五一年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では二六年としています。
(5)十一代宣王の在位年数四六年、東周初代の平王の在位年数五一年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)
以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。
しかしながら、中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」を含む従来の周代暦年復原作業はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと思います。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。
〔令和三年(二〇二一)八月八日、改訂筆了〕
(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、十二代幽王までの約四百年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約二百年間となる可能性が生じる。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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