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失われた飛天
クローン釈迦三尊像の証言
京都市 古賀達也
一、傷だらけの釈迦三尊像
水野孝夫氏(古田史学の会・顧問)から『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社)をいただいた。同書は平成二十年に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本だ。法隆寺金堂内の釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態がよくわかる。法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部が鮮明だ。それで思い出したのが、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と語っていたことだ。
同写真には釈迦像の顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちた状況がはっきりとわかる。更に二体の脇侍(注①)だが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っているが、右側の方はほとんど残っていない。これは不可解な現象だ。同時期に造られたのであれば同じような経年劣化を示すはずだが、表面の金箔の状態は全く異質だ。この脇侍は左右逆に配置されており、これも奇妙である。
古田学派では、法隆寺の金堂・五重塔などは六世紀末頃に建立された別寺院が斑鳩の地に移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築後に持ち込まれたとされている。移築元寺院は太宰府観世音寺であり、八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されたが、賛否両論(注③)あり、移築元寺院は未解明だ。
脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかった大和朝廷側が誤ったものと考えられてきた。脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっている。寺院を移築できるほどの技術者集団が、これほど明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくい。
二、クローン釈迦三尊像で飛天復原
釈迦三尊像の光背も大きく傷んでおり、その外縁にあった飛天(注④)が失われている。ブログ「観仏日々帖」(注⑤)によれば、同光背周縁に長方形(幅約八㎜、縦約二十五㎜)の枘穴が左右に各々十三個ずつ穿たれており、そこには飛天が装飾されていたと考えられている(注⑥)。その根拠として、国立東京博物館の法隆寺献納宝物「甲寅銘光背」周縁の左右に各七個の飛天が取り付けられており、中国竜門石窟の北魏式仏像の光背も周縁を飛天で囲まれたものが一般的と指摘している。そして、光背の飛天復原を東京芸術大学で行われたことが紹介され、写真が掲示されている。
《以下、「観仏日々帖」より転載
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
二〇一七年、周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、二〇一七年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。《転載おわり》
飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかった。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのだ。すなわち飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まる。ところが飛天が失われた現状の光背では脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くない。そこで短い裳裾が外側になるよう左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのだ。
従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきた。しかしそれは誤解であった。移築された法隆寺金堂に飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないだろうか。これは移築・移転に携わった技術者たちの美的センスのなせる技だったのだ。
なお、飛天が失われた光背や二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させる。光背に至っては上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示している(注⑦)。この状況は釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都、太宰府近辺だったのか、あるいは比較的近距離の難波だったのかという未解決テーマに対し、何らかのヒントになるかもしれない。
原三尊
クーロン三尊
三、法隆寺の私寺説と官寺説
法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいる事実は、法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうだ。「洛中洛外日記」二二六五~二二九九話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介したが、若井敏明氏は法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表した。(注⑧)その概要と根拠は次の点だ。
〔概要〕法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。
〔根拠〕『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、聖徳太子の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・六二二年)二月二二日が採られていないことは、聖徳太子との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。
以上のように若井氏は論じ、法隆寺を再建した在地氏族として山部氏や大原氏を挙げた。この若井説に対して、田中嗣人氏から厳しい批判がなされた。田中氏は、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」とされた。(注⑨)
先に説明したように釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっている。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずだ。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は若井氏の私寺説に有利である。
他方、田中氏が官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする、多元史観・九州王朝説を支持するものに他ならない。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのである。
〔令和四年(二〇二二)三月五日、改訂筆了〕
(注)
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』新泉社刊、一九九一年。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』四三・四四号、二〇〇一年。
川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第一〇八号、二〇〇一年。
飯田満麿「法隆寺移築論争の考察 ─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』四六号、二〇〇一年。
古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』四九号、二〇〇二年。
古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』五〇号、二〇〇二年。
④諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。
⑤https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
⑥平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』六-九号、一九〇七年(後に『仏教芸術の研究』所収)。
⑦川端俊一郎『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房、二〇〇四年)は「三尊像の上から天蓋が落下して、光背先端部分は前方へ折れ曲がり、大きなヒビ割れ(四〇㎝)が生じたばかりか、周縁の透かし彫りの飛天も飛び散ってしまった。」(六〇頁)とする。
⑧若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』二八八号、一九九四年。
⑨田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』二一冊、塙書房、一九九七年。
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