2022年 4月12日

古田史学会報

169号

1,竹内強さんの思い出と研究年譜
古田史学の会・代表 古賀達也

2古田史学会報169号 2022年4月12日

1,「聃牟羅国=済州島」説への疑問
と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説

 谷本 茂

2,失われた飛天
クローン釈迦三尊像の証言
 古賀達也

3,「倭日子」「倭比売」と言う称号
 日野智貴

4, 天孫降臨の天児屋命と加耶
 大原重雄

5,大化改新詔の都は何処
歴史地理学による「畿内の四至」
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学 ・三十五
多利思北孤の時代⑪
多利思北孤の「東方遷居」について
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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「壹」から始める古田史学 ・三十三 多利思北孤の時代 Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号 正木裕(会報167号)
「壹」から始める古田史学・三十六 多利思北孤の時代⑪ -- もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」 正木裕(会報170号)


「壹」から始める古田史学・三五

多利思北孤の時代⑪

多利思北孤の「東方遷居」について

古田史学の会事務局長 正木裕

1、阿毎多利思北孤の事績

 これまで、「多利思北孤の時代」では、十回にわたり多利思北孤の事績として、次のような内容を述べてきました。

①「聖徳太子」や「上宮法皇」のモデルは、「厩戸皇子」ではなく、『隋書』に記す倭国(九州王朝)の天子「阿毎多利思北孤」であり、「菩薩天子」を自認し、宗教と政治の両面での統治(宗政一致)を進めていったこと、

②「政治面」では、物部守屋・捕鳥部萬を討ち、難波・河内・和泉(「畿内」)を勢力圏に収め、さらに東山道・東海道・北陸道へ使節を派遣するなど、東国に勢力を拡大していったこと。(注1)

③「宗教面」では、新たな支配地域に、端政年間(五八九~五九三)に伝わった「法華経」を広め、(注2) 法隆寺・四天王寺等の大寺院を建立するとともに、各地に寺社を建立させ、「仏教」による統治(仏教治国策)を採用したこと。

④同時に、全国の統治を進めるための「基本方針」として「十七条憲法」や「官位十二等」などを制定し、臣下・官僚への規範としたこと、

⑤対外的には、六〇〇年・六〇七年に遣隋使を派遣、国書を送り、隋との対等外交を行おうとしたこと。

⑥その一方で、六〇八年の煬帝による「琉球侵攻」を契機に、隋と断交したこと。(*『隋書』に「此の後、遂に絶つ」とある)

⑦五世紀の倭の五王から六世紀末まで続けてきた「半島への武力進出」路線を転換し、『隋書』に記す通り「征服戦」を行わなかったこと。(注3)

⑧筑紫に首府として倭京(太宰府)を造営し、倭京元年(六一八)に遷居したこと。

などです。

2、多利思北孤の東方進出を示す資料群

 このなかで、多利思北孤が畿内からさらに東方へと「全国の統治」を進めていくため、列島の「西端」に位置する九州の「倭京(太宰府)」に加え、「東方」、特に新たに支配領域に組み込み、地理上も重要な位置にある「畿内」にも拠点を設けたと考えられるのです。
 会報一六二号の「多利思北孤の時代Ⅴ」では、九州年号資料の、『伊予三嶋縁起』の「端政二年(五九〇)」(愛媛県)、『予章記』の「端政二年」(愛媛県)、『伊都岐島神社縁起』の「端正五年癸丑(五九三)」(広島県)、『万福寺子持御前縁起』の「端正元癸丑(*五)年」(山口県)などの「瀬戸内海での『神』の行幸・降臨記事」や、『釈日本紀』の『伊予国風土記』逸文の「法興六年(五九六)」の「法王大王の伊予訪問」は、多利思北孤が「九州から畿内へ向けて瀬戸内海を行幸した」ことを表していると述べました。
 そして、瀬戸内海の西部にこうした伝承が残っているのは、この地域が九州王朝と関係が深い伊予の越智氏や、大内氏らによって長く治められてきたからだと考えられます。越智氏の祖の越智直は、朴市田来津と共に白村江を戦い捕虜になったとされ(注4)、大内氏(本姓は多々良氏)は百済の聖明王の第三王子琳聖太子を祖と称し、(注5)九州王朝の拠点領域と重なる周防・長門・石見・豊前・筑前を長期間所領としていました。九州王朝の伝承は大和朝廷の元で消され、改変されていったのに対し、越智氏や大内氏の管内には残されていたことになるでしょう。
 大内氏の本拠長門国(穴戸・山口県)については、『書紀』の「白雉改元」記事に、孝徳が「今我が親神祖の知らす穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以に、天下に大赦し、白雉と元を改む。」と詔したとあり、「親神祖」、つまり「天皇(孝徳)の神祖」が長門国を統治したようにされています。
 しかし、「白雉」は、「元壬子年」木簡から、『書紀』年号(六五〇年庚戌)でなく、九州年号(六五二年壬子)が正しいことが分かっていますから、この改元の詔勅はヤマトの孝徳ではなく、九州王朝の天子の詔勅であり、周芳や長門を支配した(知らした)のは「九州王朝の祖」だと語ったことになるでしょう。(注6)

 

3、『平家物語』(長門本)が記す「多利思北孤の難波遷居」

 そうした端政年間の資料の中で最も注目されるのが、『平家物語』(長門本)に記す「仏法興行のあるじ」の九州からの来訪記事です。「長門本」は長門赤間関(現下関市)の阿弥陀寺に所蔵されていた本で、長府本・赤間本・阿弥陀寺本などとも呼ばれる「九州年号資料」です。(注7)「延慶本」など他の平家物語の諸本より分量が多く、様々な独自の典拠を用いて編集されたものと考えられます。
◆『平家物語』長門本(平家物語巻第五 厳島次第事一八六頁) 厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行のあるじ慈悲第一の明神なり、娑竭羅龍王の娘八歳の童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉なり、百王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼして、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御宇端政五年癸丑(五九三)九月十三日。

 ここでいう「仏法興行のあるじ」の「法興」は、『隋書』の「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」や、『法隆寺釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の年紀である「法興」と通じています。さらに「端政」という多利思北孤の時代の九州年号が用いられていることから、「仏法興行のあるじ」とは「多利思北孤」を指すことは疑えません。しかも「九州より寄給へり」とありますから、端政五年(五九三)に九州を出発し、厳島を訪れたという記事となるでしょう。

 しかも、ここには「密教を渡さん謀に『皇城をちかく』とおぼして」との語句があります。これは、単に多利思北孤が畿内を訪問しただけでなく、仏教による全国統治(仏教治国策)の推進のため、その拠点(皇城)を「東方」に設け、そこから統治しようとしたことを意味します。

 そして、『書紀』や『聖徳太子伝記』には、翌年の推古二年(五九四)(告貴元年)二月に「三寶を興せ」と命じ、寺を造らせたと記しています。そこから、五九三年~五九四年にかけ、多利思北孤は畿内を訪れ(あるいは遷居し)、そこで統治行為を行ったことが明らかになるのです。
◆『書紀』推古二年(五九四)(告貴元年)春二月丙寅朔、皇太子及び大臣に詔して三寶を興し隆えしむ。是の時に、諸臣連等、各の君親の恩の為に、競ひて佛舍を造る、卽ち是を寺と謂ふ。

 これは推古の詔のように書かれていますが、『聖徳太子伝記』では太子の事績とされており、また、『平家物語』の五九三年の「仏法興行のあるじ」の東方遷居記事と、民に仏塔を建立させるのは、多利思北孤が使節を送った、隋の文帝楊堅の事績を倣ったものであることからも、多利思北孤の詔だと考えられます。
◆『聖徳太子伝記』(太子二十三歳条。告貴元年)「国毎に大伽藍を建て、国府寺と名づく。」「六十六ヶ国に大伽藍を建立して国府寺と名づく。其の後、諸国の民に、財有る者は、一人の願として堂塔を建て、無力の者は衆人合力し精舎を構ふ。」

 

4、多利思北孤の畿内での拠点(皇城)はどこにあったのか

 そこで、問題となるのは、多利思北孤が畿内に滞在したなら、その宮(皇城)はどこにあったのかということです。『大内多々良氏譜牒』では琳聖太子は六一一年に「摂津四天王寺」で聖徳太子とあったとします。
 その四天王寺の創建は、
①『書紀』崇峻即位前紀の五八七年条には、守屋の「乱を平めて後の、摂津の国にして四天王寺を造る」とあり、
②聖徳太子の伝記(『上宮聖徳太子伝補闕記』)でも、五八七年の守屋討伐後に「玉造の東の岸」に造られたとあります。
◆『上宮聖徳太子伝補闕記』(守屋を討ち)玉造に覆奏し〈東生郡の東の岸の上に在り〉、即ち営を以て四天王寺と為す。

 また、③推古元年(五九三)条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」と記しています。
 一方、『二中歴』「倭京年間の細注」には、「倭京二年(六一九)難波天王寺聖徳造」とあり、「創建年次」と「四天王寺と天王寺という名称」に違いが見られます。創建年次については、現在地にある四天王寺(*建物は再建)の旧境内から出土した「創建瓦」の編年(注8)などから、考古学的上、『二中歴』が正しいと考えられます。
 もし、「天王寺は四天王寺の略」で、「五九三年に造営」とある「『書紀』の四天王寺」と、「六一九年に造営とする『二中歴』の天王寺」が同一の寺であれば、五九三年の造営開始から六一九年の完成まで二十六年間を要したことになります。これは、法興寺が崇峻元年(五八七)に造り始め、推古四年(五九六)の九年間で完成したことと比べて、建設期間が長すぎます。
 こうした創建年次と名称の違いから、『書紀』に記す五九三年に「難波の荒陵に造られた四天王寺」と、「聖徳」により六一九年に建立された「難波天王寺」とは別の寺である可能性があるのです。
 そもそも、五九四年には諸臣に仏舎建立を命じ、五九六年には蘇我氏によって「法興年号」を冠する法興寺が飛鳥で完成しているのに、同時期に『書紀』『伝記』ほかに造営場所として記される「摂津・難波・玉造」には、六一九年まで寺院の建立がなかったとするのは不自然です。実際に「玉造の東の岸の上」にあたる難波宮下層から若草伽藍と同笵の瓦が出土しています。そして、古代の上町台地の地形上、もっとも寺院の建立に適した場所は、谷の入込もなく、まとまった区画のとれる難波宮北東の、「現大阪城付近」でした(注9・図1)。

 

5、大阪上町台地の多利思北孤の「皇城」と「寺院」

 上町台地は『書紀』に、難波館(継体六年・五一二)・難波屯倉(安閑元年・五三四)・難波大郡(欽明二十二年・五六一)などの記事が見えるように、六世紀~七世紀前半に活況を呈し、「六世紀になると難波宮下層遺跡では、官衙的な建物群・倉庫群・溝で区画された掘立て柱建物群などが出現(杉本厚典氏)」します。そして「六世紀末~七世紀初頭、つまり推古朝(五九三~六二八)のころには、ほぼピークに達し、人々の大規模な集住が続く(積山洋氏)」とします。このピークのころが多利思北孤の時代にあたるのです。杉本厚典氏は、瓦(当時は寺院用)や、飛鳥寺や山田寺などの寺院で用いられた榛原石の板石、「宿世」と記された木簡が出土していることから「上町台地北部に寺院が存在した可能性が高い」としています。(注10)
 大阪城付近は、石山本願寺~秀吉の大阪城~徳川の大阪城と巨大施設が造営された場所となり、それ以前の遺構は調査が困難ですが、その地形や遺物から何らかの大きな施設が存在していた可能性が高いのです。
 そして、『上宮聖徳太子伝補闕記』には「玉造の東の岸の上の玉造に覆奏し、営を以て四天王寺と為す」とあります。「営」は「営所」つまり「兵隊がいっしょに居住する所。兵営。」を意味します。
 守屋討伐直後であれば、九州から進出した多利思北孤(九州王朝)の兵の駐屯所が難波津にあって当然です。多利思北孤は、まず難波津から現大阪城付近に兵力を伴う居所を造り、政治拠点たる「皇城」とした。そして皇城を守護するため「四天王寺」を造営したのではないでしょうか。(注11) 難波宮下層の官衙群や、寺院の存在を推量させる遺物はそのことを示していると考えます。

 そして、「旅の神」とあり、伊予にも行幸していることから、多利思北孤は、たびたび九州と難波を往復し、全国統治を進めるとともに、定居年間(六一一~六一七)には、隋の煬帝の琉球(*沖縄)侵略に見られる、中国王朝への警戒感から、大陸と一衣帯水の・東シナ海・有明海に接する筑後・或いは肥後から、北方に遷都を図り、筑紫に倭京(太宰府)と、神籠石などの防衛施設群を造営していったと考えられます。
 そして、倭国(九州王朝)は太子・利歌彌多弗利の時代へと移ります。倭京二年(六一九)に、利歌彌多弗利は、晩年を迎えた父のために、現四天王寺の地に「天王寺」を建立した、これが『二中歴』の「難波天王寺聖徳造」という記事だと考えます。「天王寺」は、天子・皇帝を祭り、その弥栄を祈念する寺であり、多利思北孤が自分を祭る寺を自ら造るのは不自然で、太子の利歌彌多弗利の建立とするのが自然です。(注12) そうであれば、利歌彌多弗利は聖徳を名乗ったことになり、多利思北孤とともに、彼も聖徳太子のモデルだったことになります。次回からは利歌彌多弗利以降の七世紀の倭国(九州王朝)の事績について述べていきます。

(図1)「古墳時代における都市化の実証的比較研究資料集」94P。 「図1上町台地北端部の構成」(南英雄氏による)
(図1)「古墳時代における都市化の実証的比較研究資料集」94P。
「図1上町台地北端部の構成」(南英雄氏による)

(注1)『書紀』崇峻二年(五八九)(端政元年)七月壬辰朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遣して、東の方の海に濱へる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ。

(注2)『二中歴』端政年間の細注に「唐より法華経始めて渡る」とある。

(注3)推古八年(六〇〇)と推古三十年(六二二)(*岩崎本)の新羅討伐記事は、五四〇年と五六二年から「一運六〇年」繰り下げられたもので、『隋書』に記す通り多利思北孤は「征服戦」はしなかった。

(注4)◆『日本霊異記』伊予国越智郡の大領の先祖、越智の直、百濟を救わんが為に、遣して軍を到らしむる時、唐兵に虜にされ、其の唐国に至る。我が国の八人、同じ一洲に住む。

(注5)大内氏の伝承(『大内多々良氏譜牒』)では、琳聖太子は、推古十九年(六一一)に周防の佐波郡多々良の浜に着いた後、「摂津四天王寺で聖徳太子に拝謁し、周防国の大内県を賜わった」とする。

(注6)なお、「親神祖の知らす」とは、具体的には『書紀』の「熊襲討伐」記事で、仲哀は穴戸豊浦宮(山口県下関市長府町豊浦とされる)で七年間滞在し、景行や神功も周芳の沙麼(山口縣防府市佐波か)を経由拠点としていることを指すものだが、古田武彦氏はこの討伐譚は、「九州王朝の九州一円平定譚からの盗用」とされている。

(注7)「長門本」については、『国書解題 下』(佐村八郎著 日本図書センター一九七九)の「平家物語」の項には「其の中に、長門本とて、長門の阿弥陀寺に伝えたるは、文体いたく違ひて、普通本に載せざる記事多し。全く別本としてみるべし。」とあり、『広文庫十七』(物集

高見、物集高量著 名著普及会 一九八六)には、「東見記に云く、長門国赤間関に平家物語有り、常の平家より多し」とある。
 なお、「覚一本」には「欽明天皇の御宇に及んで、彼国よりこの国へうつらせ給ひて、摂津国難波の浦にして、星霜をおくらせ給ひけり。常は金色の光をはなたせましましければ、これによツて年号を金光と号す。」とある。

(注8)法隆寺若草伽藍(*『書紀』では六〇七年創建とある)の瓦と同笵(*同一の鋳型を用いてつくられた瓦)の「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土。ただし、鋳型の劣化が見られ、若草伽藍より遅れて創建されたと考えられている。なお、難波宮の下層からも同じ少量の瓦が出土している。

(注9)大阪市立中央図書館所蔵の「難波古絵図」には、大阪城内の東部の川岸(現在の大坂城東外堀の岸)の上に天王寺跡と記されている。

(注10)七世紀初頭の上町台地では、大川南岸に鋳造の、清水谷・竜造寺谷には須恵器生産や鍛造の施設群が出現する(古墳時代における都市化の実証的比較研究)資料集より。

(注11)太宰府の北東の大野山が「四王子山」と呼ばれるのは、宝亀五年(七七四)に、大和朝廷が「四天王寺(四王寺)」を建立したからとされるが、大野城からは七世紀初頭ごろの素弁蓮華紋軒丸瓦が出土しており、これは寺院の存在を示している。多利思北孤は倭京元年(六一八)の太宰府遷都時に、「四天王寺」を建立し、太宰府の安寧を願った可能性が高い。

(注12)なお、多利思北孤に由来する「天王寺」は、大和朝廷の時代になり、「四天王寺」に名称を変えられ、『書紀』では守屋討伐を祈念するため厩戸皇子が建立した寺とされた可能性が高いと考える。(服部静尚氏は、守屋討伐を四天王に祈念するのは金光明経の趣旨からおかしいと指摘している。)


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