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「壹」から始める古田史学・二十九 多利思北孤の時代Ⅵ 多利思北孤の事績 正木 裕
(会報163号)
「壹」から始める古田史学・三十 多利思北孤の新羅征服戦はなかった 正木 裕(会報164号)
「壹」から始める古田史学・二十八 多利思北孤の時代Ⅴ 多元史観で見直す「捕鳥部萬討伐譚」 正木 裕 (会報162号)../kaiho162/kai16207.html
「河内戦争」冨川ケイ子(『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学論集十八集。二〇一五年)
「壹」から始める古田史学・二十八
多利思北孤の時代Ⅴ
多元史観で見直す「捕鳥部萬ととりべのよろず討伐譚」
古田史学の会事務局長 正木 裕
一、丁未ていびの乱と「捕鳥部萬の討伐譚」
1、萬討伐譚の多元史観による新たな位置づけ
前号では、五八七年(丁未)におきた「丁未の乱(蘇我・物部戦争)」を取り上げ、「ヤマト一元説」による理解では、全て「ヤマトの王家・豪族の中の争い」とされる丁未の乱は、「仏教受容」に名をかりた倭国(九州王朝)の統治強化と、畿内進出のための戦だったことを述べました。
ただ、『書紀』では物部守屋が討伐されて乱が終結したのではなく、その後に「捕鳥部萬の討伐譚」が、守屋討伐記事に匹敵する長さで記されています(注1)。
萬は『書紀』では物部守屋の「資人つかひひと」、つまり朝廷から貴族・豪族の警護や雑役のために与えられた下級官人とされていますから、守屋討伐と同じ重さの事件として扱われるのは不自然なのです。
このことを初めて指摘したのが古田史学の会全国世話人の冨川ケイ子氏です。冨川氏は「河内戦争」(注2)で、萬は河内を中心に近畿一円に影響力を持つ、天皇にも比すべき大王であり、萬を討伐することにより、九州王朝は近畿を支配し、さらに東国進出への橋頭保を築いたとされました。が、ここではその骨子を冨川氏の見解に私見も交えて紹介していきます。(詳細は「河内戦争」をお読みください)
2、「捕鳥部萬の討伐譚」とは
『書紀』に記す討伐譚の概要は次のとおりです。
◆物部守屋の「資人」とされる捕鳥部萬は、百人を率い難波の守屋の邸宅を守っていたが、守屋の敗北を聞き、難波から馬で南方に逃れ、茅渟県の有真香邑(ありまかむら 阿理莫ありまか神社のある旧和泉郡、現在の貝塚市久保付近か)を経て山中に逃亡した。「朝廷みかど」は萬と一族の討伐を命じ、逃れられぬ萬が一人で出てきたところを、数百人の衛士で囲む。萬は「天皇の楯として働いたのに何故攻めるのか」と叫び、河を挟んで弓矢で抵抗するも、敗れて自害する。
「朝廷」は「苻おしてふみ」を下し、萬の死体を八つに切り、梟くしざしにして八つの国に散らせ(「斬之八段、散梟八国」)と河内国司に命じた。
時に雷鳴し大雨となる。萬が飼っていた白犬は萬の頭を咥え墓に収め、傍らで見守りながら餓死する。「朝庭」は哀れんで「苻」を下し、萬と犬の埋葬を許した。餌香ゑがの川原に(羽曳野市恵我川か)数百の遺骸が残されていたという。
3、萬討伐譚の疑問
①「萬」は単なる守屋の資人ではあり得ない
萬は百人を率いており、一人の萬を数百人で囲んで討ったという重要人物のはずで、討伐後に「数百の遺骸が放置された」のは、萬側の戦死者が数百を数え、軍勢はその数倍だったことを表し、これは、萬は到底「守屋の資人」ではあり得ないことを示しています。また、守屋討伐では守屋の軍は「狩をする真似をして逃げ、一族は葦原に逃げ隠れた」とあるのに比べると、数百人が萬を護り、斃されるまで戦った「萬の軍の忠誠心の高さ」がわかります。
②時期や内容からみて丁未の乱の一環とは考えられない
守屋討伐譚には見えない「朝廷」や「資人つかひひと・苻おしてふみ」等、後代の「律令制の用語」が用いられています。また、苻は「朝廷」が発する命令書ですが、そもそも用明天皇の崩御後で泊瀬部皇子(崇峻天皇)の即位は八月。七月の丁未の乱当時、ヤマトの王家に「朝廷に該当する天皇」は存在しません。また、守屋討伐譚には四天王寺・法興寺の創建といった「記事の時代の特定できる名詞」がありますが、萬討伐譚にはありませんし、丁未の乱の原因となった、仏教の受容をめぐる「崇仏・排仏」争いに関係したとも書かれていません。
こうしたことから捕鳥部萬は守屋の「資人」 などではなく、摂津・河内・和泉を拠点にする豪族で、大規模な軍を保持する勢力であり、「捕鳥部萬討伐」は「物部守屋討伐」とは別の出来事だったと考えられます。
4、萬は八国に影響力を持つ豪族だった
これを証するのが「朝廷」の「萬の遺骸の扱い」です。「朝廷」は「苻」を下し萬の遺骸を八国に切り散らせと命じます。「八国」の範囲は不明ですが、後の畿内国とその周辺(注3)でいえば、大和・山城・摂津・河内・和泉・近江・紀伊・伊賀などでしょうか。これでは、萬の死を地元の河内のみならず「八国」に宣言する必要があったことになります。
これは、一資人の遺骸を晒す範囲としては不自然で、「萬」が摂津・河内・和泉を拠点に、畿内一帯「八国」に影響力を持つ豪族だったことを示しています。
5、誰が萬を討伐したのか
こうした「萬討伐」の真相は、丁未の乱が、「仏教受容」に名を借りた、「倭国(九州王朝)のヤマトの天皇家への統治強化のための戦い」であり、一方、萬の討伐は、これとは別の、倭国(九州王朝)による「摂津・河内・和泉の支配と畿内一円への影響力の拡大のための戦」だったと位置付ければ、明らかにできます。
萬の討伐記事に見える「朝廷」や「律令制用語」ですが、前述のとおり、ヤマトの天皇家に天皇は不在で、また律令もまだ存在しません。しかし、守屋を討伐した倭国(九州王朝)なら当然朝廷が存在しました。多利思北孤が「日出る処の天子」を名乗って隋に遣使したのは六〇〇年で、『隋書』には「王の『朝会』では、必ず儀仗を陳設し、その国の楽を奏す」とあり「朝廷の会議・儀礼」の存在が記されているからです。
また、『筑後国風土記』の「筑紫君磐井」の墳墓(岩戸山古墳)の描写に、「衙頭(がとう 大将軍の陣営)」「解部(ときべ 裁判官)」「偸人(とうじん 盗人)」「贓物(ぞうもつ 盗んだ物)」等の律令用語が見られ、倭国(九州王朝)は六世紀に「律令」を有していたと考えられます。
このように倭国(九州王朝)であれば、萬討伐記事に「朝廷」とあることや、下命の書の「苻」が発せられたのも理解できるのです。
6、倭国(九州王朝)はどのように萬を討伐したのか
もし萬が丁未の乱に関連し、馬子らにより討伐されたとすれば、逃走経路は不自然です。馬子らはヤマトから生駒山を超え、河内渋河(大阪府八尾市付近)の守屋を攻め、これを滅ぼしたことになります。そうした戦いの状況下で、難波から馬で南方の泉州和泉に逃れた萬が、一転して北上し、馬子の軍に接近する河内の恵我川付近にわざわざ出るというのは不自然です。また、渋河から難波はわずか一〇㎞ほどで、馬子軍は接近していますから、逃れるなら「海路」を選択してしかるべきところです。
捕鳥部萬の逃走経路
しかし、九州王朝が難波・河内・和泉を勢力下に置くため、萬を討伐したなら、当然「神武」のような「海路・大阪湾からの侵攻」となるはず。大阪湾が押さえられ、丁未の乱の結果、ヤマトの天皇家も仏教を受け入れ、九州王朝の支配が強化されていたなら、海にも逃れ得ず、大阪湾に面する泉州も安全ではなく、生駒の山中に逃れても大和に入れず、河内に下り戦いを挑むほかなくなります。そう考えて始めて『書紀』に記す萬の逃走経路が理解できることになります。
7、「萬討伐」は「不正義の戦」だった
丁未の乱では、守屋が討伐される理由や経緯が記されており「仏法を敵視したから」という「討伐の正当性」が語られています。しかし、萬は仏教受容に反対したとも、守屋とともに馬子らと戦ったとも書かれていません。守屋の陣営に萬の記述はなく、『書紀』の記述を見る限り、萬には、殺された挙句八つ裂きにされるような何らの罪はありません。
萬は最後に、「天皇の為に戦おうとしたのに何故殺されなければならないのか、理由を聞かせてくれ」(天皇の楯みたてとして、其の勇いさみを効あらはさむとすれども、推問とひたまはず。翻かへりて此の窮きはまりに逼迫せめらるることを致いたしつ。共に語るべき者来きたれ、願ねがはくは殺し虜とらふることの際わきだめを聞かむ。)と言いますが、問答無用で攻撃され、抵抗の甲斐無く、自決に追い込まれます。九州王朝が萬の支配地を奪うために萬を討伐したとすれば、萬の言葉は「天皇、即ち九州王朝の天子は何故私を殺すのか」という意味となり、萬討伐が「不条理・不正義な戦い」だったことを示すものといえるでしょう。
二、九州王朝の九州から畿内への進出
1、多利思北孤の即位と地方統治制度整備
『聖徳太子伝記』等で太子の「国政執行」は「太子十八才(五八九年・九州年号「端政元年」)とされますが、『書紀』で厩戸皇子が推古天皇の摂政となり「万機を悉く委ねられた」のは五九三年です。このように執政年次が違うこと、「端政」は「政治の始め(端緒)」の意味を持つこと、九州では端政元年に筑後の「高良玉垂大菩薩」が崩御していること(注4)などから、『伝記』で太子とされているのは厩戸ではなく多利思北孤で、その即位は「端政元年(五八九)」だと考えられます。
そして『伝記』等で、太子は五八九年に我が国を「六十六ヶ国に分国」したとあり、また『書紀』では、崇峻二年(五八九)に近江臣・宍人臣・阿倍臣らをそれぞれ東山道・東海道・北陸道に派遣し、国々の境を確認させています。「六十六ヶ国分国」とは、新たな地方統治制度を創設・整備し、諸国の領域を定めることを意味しますから、多利思北孤はヤマトの守屋と難波・河内の萬の討伐により、広く「八国」とされる畿内一帯を勢力下におき、さらに全国の支配を目指し、東国に「道制」を敷き「道」ごとに統治・管理する官を任命したことになります。
そして、畿内の支配を固めるため、難波~河内~斑鳩を結ぶ大道(渋川道・龍田道)を作り、道に沿い、後述のような数々の大寺を造立します。
2、多利思北孤の寺院建立と仏教治国策
このうち、難波から斑鳩への「大道」の建設については、『書紀』推古二十一年(六一三)に「難波より京に至るまでに大道を置く」とあります。
また、寺院については、『伝記』では太子二十三歳(五九四年・九州年号では告貴こっき元年)」条に、「六十六ヶ国に大伽藍を建立し国府寺と名づく」と書かれており(注5)、『書紀』でも推古二年(五九四)記事に「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて仏舎を造る。即ち、是を寺という」と記しており、おそらく東山道・東海道・北陸道にも道沿いに大寺(国府寺か)を建立したと考えられます。
そして、瓦の編年や文献から、七世紀初頭のほぼ同時期に、難波に四天王寺、河内に渋川廃寺(大阪府八尾市)、竜田に西安寺廃寺(奈良県王寺町)、斑鳩に法隆寺若草伽藍・中宮寺(同斑鳩町)が建立されます(注6)。これらの寺は四天王寺の南から東南に河内を通り、竜田から斑鳩に抜ける「渋川道・竜田道」に沿って造立されていることから、「大道」とは、前期難波宮時代の「難波大道」とは異なり、四天王寺の南から東南に河内を通り、竜田から斑鳩に抜ける「渋川道・竜田道」だと考えられます。
このように、多利思北孤は新たに支配下に置いた難波・河内・大和の統治の円滑化のために「大道」を建設し、大寺院を造立し仏教による支配「仏教治国策」を進めたのだと考えられるのです。
3、「新拠点」畿内への進出と全国統治
そして、多利思北孤は本拠の九州のほかに、拠点を新支配地たる畿内にも置くこととします。これを証するのが、次のような「端政」年間の九州年号資料に頻出する「瀬戸内海の神の行幸・降臨記事」です。
①『万福寺子持御前縁起』(防長風土注進案・一七二八年)には「端正元年に厳島明神が来臨」し(*山口県山陽小野田市か宇部市)、
②『伊予三嶋縁起』(一五三六年)には「端政元年に厳島にて崇し奉り」、「端正二年(五九〇)に大山積神が天降った」とあり、
③越智氏一族の河野氏の来歴を記す『予章記よしょうき』(十四世紀末頃成立か)には、「端正二年(五九〇)に十五代目越智百男が立官し都に召喚」され、
④『伊都岐島神社縁起』(厳島神社)には「端正五年に厳島明神が来臨御座」したとあります(*端正は端政と同じ)。神代の記事ではなく六世紀末ですから、「神」とされるのは「神とあがめられる人物」を指し、端政年間における多利思北孤の九州から畿内への瀬戸内海行幸が推測されます。
4、畿内進出の動機
この時期に九州王朝が難波・河内に進出し、全国の統治を目指した原因は「隋」の脅威にあると考えられます。
中国では五五七年に梁が滅び、「陳」と「後梁(西梁)」とに分裂します。一方北朝では五八一年に楊堅(文帝)が隋を建国し、五八七年には後梁を廃し、五八九年に陳の首都建康を陥落させ、九州王朝が臣従していた南朝は途絶えます。
『隋書』には阿蘇山の噴火が描かれ、かつ水多く陸少ないと記されていますから、その本拠は有明海や筑後川河口と近接していたことが伺えます。そうであれば、隋とは東シナ海を挟んで「一衣帯水」、つまり、「目と鼻の先」の地が、従来臣従してきた南朝を滅ぼした国、いわば仮想敵国となり、直接その脅威を感じることとなりました。
現に『隋書』「琉球国伝」に、隋の煬帝は大業四年(六〇八)に「流求」に侵攻、宮室を焚き男女数千人を捕虜としたとあり、多利思北孤の使者はその戦利品を見て、「夷邪久国人の布甲だ」と述べています。脅威は現実化していったのです。
こうした状況の下、九州王朝は隋の脅威に備え、守屋・萬を討伐し畿内に進出していったのだと考えられます。
注
(注1)『書紀』の守屋討伐記事・萬討伐記事は、それぞれ約五六〇字で同じような長さとなっている。
(注2)冨川ケイ子「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学論集十八集。二〇一五年、明石書店所収)より。
(注3)以下、後の畿内国(山城・摂津・河内・大和・和泉)とその周辺を便宜上「畿内」という。
(注4)『太宰管内志』三瀦郡。御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉(五八九)
(注5)九州年号「告貴(五九四~六〇〇)」は、各地に寺院を建立し、貴い仏法の教えを告げる年号に相応しい。
◆『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性がある。
*古賀達也『「告期の儀」と九州年号「告貴」』(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学論集二〇集。二〇一七年、明石書店所収)より。
(注6)『二中歴』には、倭京二年(六一九)「難波天王寺聖徳造」とあり、大阪歴史博物館も四天王寺の創建瓦の編年より、その建立は六二〇年ごろとしている。
これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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