2020年10月12日

古田史学会報

160号

1,改新詔は九州王朝によって宣勅された
 服部静尚
   編集後記

2,「防」無き所に「防人」無し
 山田 春廣

3,西明寺から飛鳥時代の
 絵画「発見」
 古賀達也

4,欽明紀の真実
 満田正賢

5,近江の九州王朝
湖東の「聖徳太子」伝承
 古賀達也

6,『二中歴』・年代歴の
  「不記」への新視点
 谷本 茂

7,「壹」から始める古田史学二十六
多利思北孤の時代
倭国の危機と仏教を利用した統治
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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「壹」から始める古田史学・二十六 多利思北孤の時代Ⅲ 倭国の危機と仏教を利用した統治 正木裕(会報160号)../kaiho160/kai16007.html

十七条憲法とは何か 服部静尚(会報145号)

『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 正木裕(会報132号)
鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末〜七世紀初頭、多利思北孤造営説(会報135号)

「壹」から始める古田史学二十七 多利思北孤の時代IV 「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」 正木裕(会報161号)

近江の九州王朝 湖東の「聖徳太子」伝承 古賀達也(会報160号)


「壹」から始める古田史学 ・二十六

多利思北孤の時代Ⅲ

倭国の危機と仏教を利用した統治

古田史学の会事務局長 正木 裕

一、六世紀の新羅の強勢と倭国(九州王朝)の半島支配の危機

1、悪化する半島情勢

 ここで、これまでに述べてきた、六世紀の我が国をめぐる内外情勢を纏めてみましょう。
 中国の史書で、歴代中国と交流し倭国の代表者とされていたのは、九州の倭国(九州王朝)で、一世紀に金印を下賜された倭奴国(『後漢書』)や三世紀の俾弥呼・壹與(『三国志』)、五世紀の「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」(『宋書』など)の後継国だとされています。そして倭王武の時代には、列島内では「東の毛人国」まで、北方では渡海して朝鮮半島南部に進出し勢力下に収めていました(「倭王武の上表文」)。
 しかし六世紀に入ると新羅が強勢を得て、北は高句麗国境まで進出、南は九州王朝が持っていた半島南部の権益を侵害する様になり、紛争が激化していきます。そして五三〇年ごろには、新羅は「任那」と呼ばれる南加羅諸国にまで侵攻してきます。
 その際には、「筑紫・豊・肥を支配し、半島諸国が朝貢していた」と『書紀』に記される「九州王朝の大王磐井」は、大軍を半島に派遣し、権益の奪還を図りますが失敗し、磐井も命を落とします。これが『書紀』に記す「磐井の乱」の実態でした。
 つまり、『百済本記』に「五三一年辛亥に崩御したとある日本天皇」は継体ではなく磐井であり、継体が物部麁鹿火に述べたとされる「社稷くにいへの存亡、是に在り」との言葉は、実際は新羅との決戦に臨む磐井の言葉でした。『書紀』編者は、任那に進出した新羅との軍事衝突と、その結果の磐井の死を、継体への磐井の反乱と磐井討伐に「すり替えた」と考えられるのです。(詳しくは会報一五一号~一五四号に連載した「磐井の乱とは何か」を参照ください)。
 磐井の没後も倭国(九州王朝)は百済に働きかけ新羅からの任那奪還を図りますが、成就せず欽明二十三年(五六二)に、任那諸国は新羅によって滅亡させられてしまいます。
◆『書紀』欽明二十三年(五六二)春正月に、新羅、任那の官家を打ち滅しつ。〈一本に云はく、二十一年に、任那滅ぶといふ。総ては任那と言ひ、別ては加羅国・安羅国・斯二岐しにき国・多羅国・卒麻そちま国・古嗟こさ国・子他した国・散半下さんはんげ国・乞飡こちさん国・稔禮にむれ国と言ふ。合せて十国なり。〉

 従って六世紀前半、特に磐井晩年から崩御後の倭国は戦時体制下にあったことになります。『書紀』では安閑紀の五三四年~五三五年にかけて全国に屯倉が設置され、宣化元年(五三六)には全国の屯倉から「筑紫娜大津」に穀物を運ばせた記事があります。この時期における全国的な食料徴発と筑紫での備蓄は、半島での戦に備えるためだったと考えればよく理解できるのです。

2、倭国(九州王朝)とヤマトの王家との軋轢

 宣化元年には、ヤマト近辺の河内・尾張・新家・伊賀等の屯倉の穀物が筑紫に運ばれており、これはヤマトの王家も物資徴発に協力させられたことを示しています。しかし、もともと九州王朝が主な利権を有していた(注1)任那諸国が回復したとしても、ヤマトの王家にとっては、「労多くして益が少ない」ことは疑えません。
 そこから、国内においても倭国(九州王朝)とヤマトの王家との軋轢・緊張関係が生じることになります。その表れが、前々回に述べた、『書紀』欽明三一年(五七〇)に見える、ヤマトの王家が独自外交を試みた「高句麗の使節譚」です(会報一五八号)。そしてこれは、五六二年の任那滅亡に象徴される倭国(九州王朝)の退潮を見ての機敏な対応だったことになるでしょう。

二、危機を乗り切るための「宗政一致」施策

1、南朝「梁」の「宗政一致」

 これに対し、倭国(九州王朝)は半島での利権確保のみならず、我が国を安定的に統治していくための新たな施策を模索することとなり、その結果採用されたのが「仏教を梃とした統治」即ち「宗政一致」施策だったのです。
 前号で述べたように、六世紀の中国では、南朝「梁」の武帝(在位五〇二~五四九)は「菩薩皇帝」と呼ばれ、三度捨身出家し二八〇〇余所とも言われる寺を建立、僧尼は八〇余万に達しました。「菩薩皇帝」とは、現世における仏教上の最高権威「菩薩」と、政治上の最高権威「皇帝」を兼ね、「宗政一致」を具現した称号といえます。

2、新羅の「宗政一致」

 前号で、半島では高句麗・百済が仏教の受容を進めてきたこと、さらに九州王朝にはいち早く五世紀初頭には伝来していたことを述べました。
 そして、六世紀初頭には、発展著しい新羅が、積極的に仏教の受容を進め、王自らも仏門に帰依していきます。まず「募秦(法興王)」(在位五一四~五四〇)が仏教を公認、出家して「法空」(法雲とも)と号し、その子「真興王」(在位五四〇~五七六)は、「法雲」と号しました。
◆「王(*法興王)、位を遜しりぞきて僧と為り、名を法空と改め、三衣と瓦鉢を念い、志も行いも高遠にして一切を慈悲せり」(『海東高僧伝』法空条)
◆「王(*真興王)、幼年にして祚(そ *帝位)に即きたれども、一心に仏を奉じ、末年に至り祝髪し浮屠(ふと 仏教信者)と為り、法服を被り自ら法雲と号し、禁戒を受持し三業清浄となり、遂に以て終焉せらる」(同、法雲条) 

 これは、あくまで「結果として」ですが、新羅は「宗政一致」施策により勢力を拡張したことを示すことになります。

 

三、九州王朝の「宗政一致」の統治

1、ヤマトの王家への仏教受容

 こうした各内外の情勢の中で、倭国(九州王朝)も「政教一体政治」による国内統治を行うこととし、ヤマトの王家をはじめ東国に「仏教の受容」を進めていきます。
 まず、『書紀』では、欽明十三年(五五二)に百済聖明王から仏像・経典が送られ、蘇我大臣稲目がこれを受容しますが、物部大連尾輿・中臣連鎌子らは強く反対し、欽明もこれに同調、疫病の流行は仏教の受容が原因として寺を焼き、仏像を難波の堀江に廃棄します。しかし、敏達六年(五七七)にも百済から経典や僧侶・仏師、寺を建立する工人らが送られ、難波に居住します。さらに、敏達八年(五七九)には新羅も仏像を送ってきます。
 こうした仏教受容の圧力が強まる中、敏達十三年(五八四)には、蘇我馬子が播磨から還俗していた高麗の惠便を召喚し師に任じ、司馬達等の娘嶋、弟子豊女・石女らを出家させ、これを敬い、仏殿を建立します。『書紀』には「仏法の始め茲これより作おこれり」とあり、そこから馬子は急速にヤマトの仏教受容を進め、廃仏派の物部守屋らと激しく対立し、いわゆる「蘇我・物部戦争」に発展することとなります。

 

2、『伊予温湯碑文』と「法王大王」

 ところで、仏教の受容を進めた蘇我氏、特に蘇我馬子とはどのような立場の人物だったのでしょうか。それを示すのが『伊予温湯碑文』です。碑自体は現存しませんが、内容は『伊予国風土記』(逸文)に記され、五九六年に「法王大王」と恵総法師・葛城臣が伊予に行幸したとあります。
◆法興六年(五九六)十月歳ほしは丙辰に在り、我が法王大王と恵総法師ゑそうのほうし及び葛城臣かつらぎのおみ、夷與村に逍遥あそび、正まさしく神の井を観て世の妙くすしき験しるしを嘆きたまひき。(略)(『伊予国風土記(逸文)』『釈日本紀』による)
※編集部注=岩波古典文学大系本『風土記』にはこの法師の名前を「恵慈」としていますが、岩波本が底本とした『釈日本紀巻第十四述義廿三』には「恵忩」とあります。

 まず、ここに記す「法王大王」ですが、通説では、聖徳太子に擬えられる厩戸の皇子のこととされます。しかし、
➀「法興」年号はヤマトの王家の年号には無く、『法隆寺釈迦三尊像光背銘』や『上宮法王帝説』『聖徳太子傳私記』他に残る年号で、元年は崇峻四年(五九一)。末年は法興三十二年・推古三〇年(六二二)で、「上宮法皇」の薨去年にあたり、「厩戸皇子」の崩御年(推古二九年)とはあわない。

➁「上宮法皇」薨去の翌年六二三年に九州年号が「仁王」と改元されている。

③「光背銘」に記す鬼前太后・干食王后は厩戸の母や妻の名前ではない。

④法王大王とは仏教上の権威と政治上の権威を併せ持つ呼称で、『隋書』で多利思北孤が自らを擬えた「海東の菩薩天子」と同じ意味を持つ。

 などから、温湯碑の「法王大王」と、『光背銘』の「上宮法皇」は『隋書』にみえる「日出る処の天子」九州王朝の多利思北孤だと考えられます。

 

3、『伊予温湯碑文』と「恵総法師」

 次に「恵総法師」は、物部守屋討伐後の崇峻元年(五八八)に百済から聆照律師と共に来朝し、馬子は彼らに「受戒之法」(戒を授かり出家する方法)をたずねています。
◆蘇我馬子の宿禰、百済の僧らを請せて、受戒の法を問う。善信尼等以て百済国の使恩率首信等に付けて、学問に遣て発す。飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を壞ちて、始めて法興寺を作る。(崇峻元年是歳条)

 

4、『伊予温湯碑文』と蘇我馬子

 そして、葛城臣ですが、推古三十二年(六二四)十月朔条に、蘇我馬子が「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり」とあることから「葛城臣」とは蘇我馬子を指すことになります。
 つまり「温湯碑」から、多利思北孤が「法王大王」として、ヤマトの王家で大臣として権威を持っていた蘇我馬子と、百済仏教の法師恵総を引き連れて伊予に行幸したことがわかります。これは同時に、九州王朝・多利思北孤が、馬子を通じ、ヤマトの王家への仏教受容を図っていたことを示すものです。
 そこから蘇我馬子はヤマトの王権における親九州王朝派の豪族か、あるいは九州王朝が各国・地域を統括するために任命した「国宰(国司)・惣領」(注2)であった可能性が高くなります。崇峻をも殺害する権威を持ち、多利思北孤の年号である「法興」を冠した法興寺を作ったことはその表れといえるのではないでしょうか。

 

四、隋の「仏教治国策」と多利思北孤の仏教施策

1、隋の「仏教治国策」

 蘇我馬子がヤマトで仏教受容を進めていたころ、中国では五八一年に梁が倒れ、隋が建国されます。そして初代の王「楊堅(文帝)」は、仏教に帰依し、開皇三年(五八三)に仏寺復興の詔を発します。そして開皇五年(五八五)「菩薩戒」を受戒し、大県別に僧・尼両寺建立と四十五州に官寺大興国寺の創設を詔します。
◆(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。因りて獄囚二四九〇〇人放つ。(『弁正論』初唐の護法僧法琳)

 また、仏教を監督し統治する制度として中央に宗教局「昭玄寺」を設置、その長に大統・統などを任命、僧官と吏員を置きます。さらに、州・県にも分局として沙門僧を置くなど、中央・地方に仏教治国組織制度を確立していきます。さらに仁寿元年・二年・四年の三回にわたり、全国百十余箇所の官寺に舎利を分配、舎利塔を起塔させ納めさせます。
 起塔費用は一人十文以下の民衆の布施で賄うとともに、事業開始にあたっては多数の僧が地域を行道し、仏教の浸透・教化をはかることにより、新たに支配下に組み込んだ国々の円滑な統治を進めました。これを隋の「仏教治国策」と呼びます。
 また、次代の煬帝(晋王「楊広」)も、天台宗の宗祖智者大師智顗から、開皇十一年(五九一)「菩薩戒」を受戒し「総持」という「法号」を得ます。
◆(開皇十一年)智顗ちぎ、楊広をして受戒せしめ、(略)并せて、楊広に「総持」の法号を授く。楊広跪ひざまづき受く。(*同)

 

2、多利思北孤の「仏教治国策」

 この五九一年は釈迦三尊像光背銘に見える「法興元年」にあたります。『隋書』で多利思北孤が「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」と述べたとありますが、「仏法を興す」を略せば「法興」です。多利思北孤は自らを「仏法を興す者」と述べ、かつ煬帝(文帝とも)の事績を自らの事績に「重なる」ものだとし、仏教において隋と「対等の位置に立つ」ことを宣したのではないでしょうか。

 「多利思北孤(伝記では聖徳太子とされる)」は、『聖徳太子伝記』『釈迦三尊像光背銘』などから、端政元年(五八九・崇峻二)に即位し、推古三〇年(六二二)に薨去したと考えられますが、その治世下では、法隆寺・広隆寺・法起寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺の七寺のほか、全国に多くの寺院が建立されます。
 また、『伝記』では即位後の端政年間に、それまで三十三国であった日本国を六十六に分国したとされますが、『二中歴』では、その端政年間に「唐より法華経始めて渡る」とあります。そして、我が国では古来より「六十六部廻国行」という全国六十六カ国を巡礼し、一国一カ所の霊場に「法華経」を一部ずつ納める修行があります。
 これは多利思北孤が、文帝の「仏教治国策」である大興国寺等の創設や舎利塔起塔と、これに伴う「行道」等に倣い、六十六カ国に寺を建て、法華経を納めさせ、僧を派遣するなどにより、仏教の力を見せ、全国の円滑な統治を図った事業だったのではないでしょうか。
 次回は、仏教を梃とした全国支配を目指す九州王朝と、「天然痘」を口実に、これに反発する物部守屋らの間で勃発した、いわゆる「蘇我・物部戦争」について述べます。

 

(注1)半島諸国は磐井に朝貢していたと書かれ、考古学上も五世紀末から六世紀初頭の百済地域に、北部九州様式の古墳が多数見られ、九州勢力の進出が確かめられる。

(注2)国宰くにのみこともちは国司の前身で、国が任命し管内で祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司る権限を持った。また、広域を掌る大宰おほみころもちの存在も想定されている。また『常陸国風土記』には、その職掌は定かでないが、中央から任命され数か国を統括する「惣領」職の存在が記されている。従って蘇我氏がこうした職にあったとすれば、天皇を殺害できる権力を持っていたことも頷けるだろう。
◆(總記)高向臣、中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の国を惣領しめき。
(香島郡)惣領高向大夫に請ひて、下総国、海上の国造の部内、軽野より南の一里と、那賀の国造の部内、寒田より北五里とを割きて、別きて神の郡を置きき。
(多珂郡)総領高向大夫に請ひ申して、所部遠く隔り往来便よからざるを以ちて、分ちて多珂・石城の二つの郡を置けり。(略)国宰 川原宿祢黒麻呂の時 大海の辺の石壁に、観世音菩薩像を彫造し、今に存す。

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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