2020年6月10日

古田史学会報

158号

1,『隋書』俀国伝の
「俀王の都(邪靡堆)」の位置
 谷本茂

2,俀王の都への行程記事
 『隋書』俀国伝の新解釈
 野田利郎

3,『隋書』音楽志における
 倭国の表記
 岡下英男

4,都城造営尺の論理と編年
 二つの難波京造営尺
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学二十四
 多利思北孤の時代Ⅰ
 「蘇我・物部戦争」以前
古田史学の会事務局長 正木裕

6,会員総会中止と代替措置
 編集後記

 

古田史学会報一覧

「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI(①) VII(②) VIII(③) IX(④) X(⑤)
 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三

『「壹」から始める古田史学二十五 多利思北孤の時代 仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生 正木裕(会報159号)
「壹」から始める古田史学・二十四 多利思北孤の時代Ⅰ 「蘇我・物部戦争」以前 正木 裕(会報158号)
「壹」から始める古田史学二十三 磐井没後の九州王朝3 正木裕(会報157号)

欽明紀の真実 満田正賢(会報160号)


「壹」から始める古田史学・二十四

多利思北孤の時代Ⅰ

「蘇我・物部戦争」以前

古田史学の会事務局長 正木 裕

一、九州王朝とヤマトの王家による高句麗「外交」

1、『書紀』の六世紀の高句麗との戦闘記事は九州王朝の事績

 磐井没後の六世紀、半島では高句麗・百済・新羅が合従連衡を繰り返しながら覇を競い、倭国もその渦中にあって半島に出兵し、新羅や高句麗と戦うことになります。『書紀』では欽明紀(五四〇~五七一)に新羅や高句麗との戦の記事が集中していますが、前号・前々号で、こうした戦闘は、実際は九州王朝の事績であり、『書紀』記事はこれを剽窃したものであることを述べました(注1)。それでは当時ヤマトの王家(近畿天皇家)はどのような立場にあったのでしょうか。今回は欽明・敏達紀の「高句麗との戦闘と外交記事」を取り上げ、これらの主体は九州王朝であり、ヤマトの王家は九州王朝傘下の地方政権(豪族)だったことを示します。(注2)

 

2、倭国の高句麗討伐

 欽明紀はそのほとんどが新羅・高句麗との戦い記事で占められています。それは、「新羅」の語が実に九四回、「高麗」が三五回記されていることでわかります。その中で倭国は、欽明二三年(五六二)八月には大伴連狭手彦が百済と共に高句麗を討伐し、宮城(平壌)深く進攻し王(平原王)を追い、多大な戦利品を獲得する大勝利を挙げています。
◆欽明二三年(五六二)八月、天皇、大將軍大伴連おおとものむらじ狭手彦さでひこを遣して、兵数万を領て、高麗を伐たしむ。狭手彦、乃ち百済の計を用て、高麗を打ち破りつ。其の王墻かさを踰えて逃ぐ。狭手彦、遂に勝に乗りて宮に入り、盡ことごとくに珍宝貨賂たからもの・七織帳・鉄屋くろがねのいへを得て還来まうけり。《旧本に云はく「鉄屋は高麗の西の高樓上に在り」(細注及び本文を略して後の細注に続く)鉄屋は長安寺に在り。是の寺、何れの国に在りといふことを知らず。一本に云はく「十一年、大伴の狭手彦の連、百済国と共に、高麗の王陽香ようこうを比津留都ひしるつに驅ひ却しりぞくといふ。」》

 ただ不思議なことに倭国は七月に新羅に将軍らが捕虜となり、また戦死する大敗北を喫しており、その翌月に高句麗を追い数万の兵を半島深く派遣したというのは、不自然です。また高麗の王「陽香」とは、その名から「陽原王陽崗ようこう」と思われるところ、陽崗は欽明二〇年(五五九)に没しています。そこから、岩波『書紀』の注釈でも「このころは、既に新羅が韓城・南平壌の地を領有していて、海路以外に高句麗に侵攻する途はないから、あるいは下の分注の一本に十一年とあるのが正しいかもしれない」としています。

 

3、狭手彥の高句麗討伐は九州王朝の事績

 ところで、注釈は「十一年」を欽明十一年と考えているようですが、高句麗の当時の王城の平壌が討伐されたのは、『書紀』では欽明十二年(五五一)で、年次が合いません。ところが、九州年号で五五一年は「明要十一年」にあたります。これは、「一本」は九州年号で書かれていたこと、つまり狭手彦の高句麗討伐は、五五一年の九州王朝の事績であり、「天皇」とは欽明ではなく九州王朝の天子だったことになるのです。
 そして、この「戦利品の鉄屋」をもとに、古田武彦氏は次のように述べ「高句麗遠征の倭国軍は九州王朝の軍」とされました(『邪馬壹国の論理』「九州王朝の古蹟」。朝日新聞社、一九七五年。二〇一〇年ミネルヴァ書房より復刊。)。(以下要約)
◆「天皇」の命による狭手彦の高句麗遠征記事に「A鉄屋は長安寺に在り。B是の寺、何れの国に在りといふことを知らず。」とある。Aの筆者にとり長安寺の所在は、「~の長安寺」という必要もないほど自明だったが、Bの筆者(『書紀』の編者)は全く知らなかった。これはAの筆者とBの筆者(近畿)とは、地域が遠くはなれているだけでなく、文明圏がちがうことを示す。そして、九州の筑前朝倉には「長安寺」があり(注3)、太宰府に近く、筑前の筆者・読者にとり周知の寺だ。以上により、この「天皇」の所在を太宰府と見なした。そしてこのときの高句麗遠征の倭国軍を、当然九州王朝の軍と見なした。
 この古田論証の正しさは、「分注の一本の十一年」が九州年号であることにより、改めて確認できたことになります。

 

二、ヤマトの王家による高句麗「外交」

1、不自然な高句麗の使人のヤマトの「朝廷」への朝貢

 こうした九州王朝の半島での軍事行動に対比して、ヤマトの王家は高句麗との正式な外交関係を持つことすら出来ない立場にあったことが、欽明三一年の高句麗の使人の越への漂着記事からわかるのです。
 先掲の岩波注釈のように、五六〇年代には新羅が勢力を強め、任那を領有するのは勿論、百済・高句麗にも進出していき、その中で高句麗は新羅と対抗するため、五七〇年代には旧来敵対してきた倭国との国交を求めてくるようになります。そして、欽明三一年(五七〇)には高句麗の使人が越に漂着しその後ヤマトの「朝廷」に朝貢し、これが「高句麗との国交に関する最初の確かな記事」とされています(岩波注釈)。
 ところが、この国交記事には不可解な点が見受けられます。記事では高麗の使人は、欽明三一年(五七〇)四月「風浪に辛苦たしなみて、迷まどひて浦津とまりを失うしなへり。水の任ままに漂流ただよひて、忽たちまちに岸ほとりに到いたり着く。」とあります。つまり、この高句麗の使者は「別の目的地に行くはずが、偶然水難により越の岸に着いた」ということになり、これは、高句麗の使節がヤマトの王家を目指していのでないことを示していると考えます。
 そして、注1に記したように、欽明十五年(五五四)、十七年(五五六)、二十六年(五六五)ほかの記事は、高句麗との軍事・外交の主体が「筑紫・九州王朝」であることを示すものです。そこから、高句麗は「筑紫」に使者を送ろうとしたところ、遭難して越に漂着した可能性が高いと考えられます。

 

2、ヤマトの「朝廷」の官吏が読めなかった高句麗の表疏ふみ

 これを裏付けるのが、敏達元年(五七二)の「高句麗の表疏(国書)が読めなかった」と言う記事です。
◆敏達元年(五七二)五月の朔に、天皇、皇子と大臣に問ひて曰く、「高麗の使人、今何にか在る」とのたまふ。大臣奉對こたへもうして曰さく、「相樂館さがらのむろつみに在はべり」といふ。天皇、聞きこめして、傷惻いたみたまふこと極きはめて甚にへさなり。愀然みこころあよき(*悲しみ悩むさま)たまひて、歎なげきたまひて曰はく、「悲しき哉、此の使人等、名は既に先考さきの天皇に奏聞きこえまうせり」とのたまふ。乃ち群臣を相樂館に遣して、献る所の調物を検録かむがへしるして京師に送らしむ。丙辰(十五日)に、天皇、高麗の表疏ふみりを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸の史ふひとを召し聚つどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日の内に皆読むこと能あたはず。爰に船史の祖王辰爾じんに有りて、能く読み釈き奉る。(略)又、高麗の上れる表疏、烏の羽に書けり。字、羽の黑き隨ままに、既に識る者無し。辰爾、乃ち羽を飯の気に蒸して、帛ねりきぬを羽に印して、悉ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふくつに異あやしがる。

 倭国と高句麗とは高句麗好太王(三七四~四一二)の碑文や、倭の五王の「武」の上表にあるように、長い抗争の歴史があります。また、「筑紫」には欽明二六年(五六五)に高句麗人が渡来したほか、欽明十一年(五五〇)に百済より高麗の奴六口、虜十口が送られたとあるように、高句麗人はこれまで何度も来朝(投化)しています。それなのに、ヤマトの朝廷の史ふひと、即ち文筆の専門職である官吏が、誰一人読解できず、外部から渡来人を招聘して(注4)やっと解読できたというのは不可解です。
 しかし、高句麗と軍事・外交関係を持ち、高句麗人が投化してきたのは筑紫・九州王朝で、ヤマトの王家は倭の五王は勿論、欽明期においても、これに関係しなかったと考えると何の矛盾もありません。
 そもそも、烏の羽に墨書した判別しがたい文書(後に「烏羽の表」(注5)という)がヤマトの王家への外交文書であるとは考えづらいことです。なぜなら、高句麗からヤマトに送られた国書だとすれば、当然高麗の使者自身が欽明・敏達に解読・解説してしかるべきです。しかし解読時に高句麗の使者の姿はありません。これは「烏羽の表」が、使の意に反して「検録」された、高句麗として秘匿すべき文書であることを示しています。
 しかも、ヤマトの王家は、高句麗の使者が欽明三一年(五七〇)七月に相楽館に到着以後、翌年になっても表疏(文書)を入手できなかったと書かれています。
◆欽明三二年(五七一)三月是の月、高麗の献物と併せて表、未だ呈げ奏まうすこと得ず。数旬あまたひを経歴て、良き日を占ひて待つ。

 そして、やっと入手できたのは、先掲のとおり、到着の二年後の敏達元年(五七二)五月になってからです。もしヤマトの王家への国書であれば、直ちに奏上してしかるべきで、そうではないから「検録」されるまで秘匿されていたと考えられます。敏達が「愀然」としたのは「中々入手できないこと」を嘆いたもので、ついに業を煮やし、「検録」の名目で提出させたのだと思われます。

 

三、隠されたヤマトの王家の高句麗「外交」

1、口封じされた高句麗の大使

 しかもこの時来朝した高麗の大使は殺害されてしまいます。大使は表疏が敏達に「検録」された翌月の、敏達元年(五七二)六月に次のように語ります。
◆高麗の大使、副使等に謂ひて曰く、「磯城嶋の天皇の時、汝等吾が議はかる所に違たがひて、他ひとに欺かれて、妄みだりに国の調みつきを分かちて、輙たやすく微者いやしきひとに與あたふ。豈あに汝等の過に非ずや。其れ若し我国の王聞きこしめさば、必ず汝等を誅ゆみなひたまはむ」といふ。

 「大使の意に反し、副使らは騙されて高句麗の調を微者に渡した。このことを高句麗王が知れば重い罪に問われるだろう」というもので、これを聞いた副使らは帰国後大使の報告により誅されることを恐れ大使を暗殺します。『書紀』欽明三一年記事では「国の調」を与えた「微者いやしきひと」とは、漂着した越の道の君で、欽明の使者膳臣かしわでのおみは「その調みつきを探さぐり索もとめ」て、使者に取り返したように書かれています(注6)。しかし、高句麗の「献る所の調物」は、先の敏達元年の記事のように「検録」されて、結局は敏達のものになっています。しかも大使の言葉は「検録」され敏達に奏上された直後に発せられたものです。そうした結果を見れば、調を得た「微者いやしきひと」とはヤマトの天皇・敏達を指すのは明らかです。
 朝貢の先がヤマトの天皇であれば、一時の過誤で渡す先を違えたとしても、結局目的は達成されたのですから、大使を暗殺してまで隠す必要があったか疑問です。しかし本来の朝貢先が九州王朝であり、かつ秘匿すべき表䟽を「検録」されたとすれば、厳罰は免れませんから「口封じ」するのも理解できます。

 

2、再び口封じされた再度の高句麗からの使者

 さらに、使者が帰国した翌年の敏達二年(五七三)五月に、再び高句麗の使者が越に漂着しますが、今度は「朝廷、頻しきりに路に迷まよふことを猜うたがひたまひて、饗あへたまはずして放還かへすつかはす。仍りて、勅して吉備海部直難波に高麗の使を送らしむ」とあります。使者に応接しなかったのは、「高句麗は、ヤマトの王家が国書を奪い、かつ大使を殺害したと疑義を抱き、その調査のため再度の使節を派遣した」のではないか、と疑ったからではないでしょうか。
 しかも難波は「波浪なみに恐畏おそりて、高麗の二人を執とらへて海に擲げ入る」と、高句麗の再度の使者を殺害します。波を恐れて高句麗の使者を海に投げ入れるなど、到底信じられません。これも「口封じ」のためであり、これを実行した難波を「官に駈使つかひて、国に放還かへさず」、即ちヤマトに留め置き、朝廷で雑用に使役して、郷里(吉備)に帰らせなかった(岩波注釈)のも、一連の出来事を隠匿するためだと思われます。

 

3、知られてはならなかったヤマトの王家の高句麗外交

 そこから、
➀高句麗と軍事上・外交上関係を持っていたのは九州王朝であり、

②ヤマトの王家の独自外交は認められていなかった。

③しかしヤマトの王家としても、何とか外交機会を見出そうとしていた、

と考えられます。

 九州王朝は、五七年に光武帝から金印を下賜されて以来、俾弥呼から倭の五王まで倭国の盟主として中国と関係を持ち、六世紀には半島で新羅・高句麗と激しい戦闘を繰り広げ、また軍事のみならず外交上の駆け引きも盛んにおこなわれてきました。その中でヤマトの王家が別途高句麗と接触し、かつ「欺いて」国書を入手し、高句麗の大使の殺害を招いたことが、高句麗はもちろん九州王朝に明らかになれば、倭国内で「別の外交姿勢」をとる勢力の存在が容認できないことは当然であり、重大な事態を引き起こすことは確かです。
 欽明・敏達紀の「高句麗の使節」に関する事件を整理すると、次のようになります。
➀高句麗の使節が遭難して越に漂着し、欽明は彼らを相樂館に招き留めた。

②欽明は使節から本来九州王朝に届ける秘匿すべき表疏(国書)を得ようとしたが果たせず、二年たっても得られなかった。

③敏達は、業を煮やして、「検録」との名目で高句麗の国書を入手した。しかし、ヤマトの「朝廷」の官吏では解読できず、百済系の渡来人を外部から招へいして解読した。

④高句麗の大使は、副使らが本来の朝貢先(吾が議はかる所)でないヤマトの王家に文書を渡したことを叱責した。

⑤副使らは大使が帰国すれば厳罰は免れないと考え、大使を暗殺した。

⑥翌年、この経緯を怪しんだ高句麗は、疑いを確かめるため再度使節を送ってきた。

⑦敏達はこの使節に対応せず、かつ高句麗に送り返す際に、吉備海部直難波に使節を殺害させた。そして難波も事件の隠匿の為ヤマトに留め置いた。

 

4、高句麗の使節記事の示すもの

 この経緯は、以下の事を示していると考えられるでしょう。
➀ヤマトの王家は、倭国の代表者九州王朝の傘下の位置にあり、独自の軍事・外交権を有していなかった。
②しかし、機会があれば独自外交を行いたいと考え、高句麗の使節の漂着を契機に、これを実現しようと試みた。
③しかし成就せず、高句麗の意に反して強引にことを進め、結果的に大使を殺すことになった。
④ヤマトの王家は、この事実を高句麗から隠匿するとともに、九州王朝からも隠すことに努めた。何故なら、九州王朝に無断で独自外交を行うのは、九州王朝からの独立を企図する動きとなるからだ。
 こうした「脱九州王朝」の姿勢は、六世紀末の仏教を梃として、全国支配を一層強化しようとした九州王朝と、これに反発し廃仏を掲げて抵抗したヤマトの物部氏らとの抗争、いわゆる「蘇我・物部戦争」に繋がっていくことになるのです。

 

(注1)対高句麗戦の主体が九州王朝であることは、欽明十五年(五五四)百済の対高句麗戦支援のため「筑紫」から数千の兵を派遣。十七年(五五六)正月、「筑紫」の舟師、百済王子を送る。「筑紫火の君(筑紫君の子、火中君の弟)」が勇士千名を率い半島に出兵。十月高麗人を小身狭をむさの屯倉の田部にす。二十三年(五六二)(*欽明十一年(五五〇)とも)大伴連狭手彥が高麗を破り宮城に侵攻。二十六年(五六五)高句麗人頭霧唎耶陛むずりやへい等が「筑紫」に投化した等の記事からわかる。

(注2)『旧唐書』には「日本は元小国、倭国の地を併せたり」とあり、日本国は大和朝廷、倭国は九州王朝を指すと考えられ、これは、六世紀のヤマトの王家が九州王朝傘下の小国だったことを示す。

(注3)『太宰管内志』筑前二十。上座かみつあさくら郡朝鞍寺(略)
 「昔ここの朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此の郡の山田村にありしと云。いつの比に亡びたるにや、すべてさだかなる事はしりがたし。」

(注4)「今より始めて、殿の中に近侍はべれ」とあるのは、それまではヤマトの「朝廷」外の人物だったことを示す。

(注5)「烏羽の表」は、判読しがたいことから「密書」に用いるに相応しいところ、欽明十年(五四九)に、日本府から高句麗に「密使」が派遣されたことが次の文から伺える。「(任那の日本府の官人の)延那斯えなし・麻都まつ、陰私ひそかに使を高麗に遣せるは、朕當まさに虚実いつはりを問ひに遣すべし」。そこから「烏羽の表」もそのような秘密外交に用いられた可能性が高いのではないか。

(注6)欽明三一年(五七〇)に高句麗の使節が越に漂着した際に、道の君に欺かれたとするのに平仄を合わせ、漂着時の天皇(磯城嶋の天皇=欽明)の名を加えたと考えられる。


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


古田史学会報一覧

ホームページへ

Created & Maintaince by" Yukio Yokota"