2020年12月14日

古田史学会報

161号

1,女王国論
 野田利郎

2,称制とは何か
 服部静尚

3,戦後学界は「神武天皇実在説」
 にどう反応したのか
 日野智貴

4,王朝交替のキーパーソン
 「天智天皇」
鹿児島の天智と千葉の大友皇子
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学二十七
 多利思北孤の時代 IV
多元史観で見直す
「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」
 正木裕

 

古田史学会報一覧

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「壹」から始める古田史学・二十六 多利思北孤の時代Ⅲ 倭国の危機と仏教を利用した統治 (会報160号)

「壹」から始める古田史学・二十九 多利思北孤の時代Ⅵ 多利思北孤の事績 正木裕 (会報163号)


「壹」から始める古田史学・二十七

多利思北孤の時代IV

多元史観で見直す「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」

正木 裕

 前回は、多利思北孤が、東アジアの諸国の王、特に隋の文帝の「仏教治国策」に倣い、仏教の力による全国の円滑な統治を図ったことを述べました。ただ、この施策は、逆に国内の諸王・豪族、特にヤマトの王家側から見れば、「仏教受容」に名を借りた「倭国(九州王朝)の支配の容認」を迫るものとなります。そこからヤマトの王家と倭国(九州王朝)の対立が激しくなり、結果として「蘇我・物部戦争」を引き起こすこととなります。
 今回は、「蘇我・物部戦争」が、「仏教受容」に名をかりた倭国(九州王朝)の統治強化と、畿内進出のための戦だったことを述べます。

1、「蘇我・物部戦争(丁未ていびの乱)」とは

 蘇我・物部戦争とは、蘇我馬子・厩戸皇子ら崇仏派が、物部守屋ら排仏派を討伐する事件で、五八七年(丁未)におきたことから、一般に「丁未ていびの乱」と言われており、「ヤマト一元説」による理解では、全て「ヤマトの王家・豪族の中の争い」とされています。
 一方、「多元史観」による理解では、我が国の支配強化を目指す倭国(九州王朝)と、これに反発するヤマトの王家・豪族の争いで、当時の「倭国全体の政治状況」や「東アジアの政治と仏教の状況」を色濃く反映していると考えます。
『書紀』に記す乱の要点は、以下のとおりです。
➀仏教の受容を認める(崇仏ー蘇我氏)と、認めない(排仏ー物部氏)の争いで、

➁蘇我馬子・炊屋姫(後の推古天皇)の推す泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)と、守屋が推す穴穂部皇子の皇位継承争いが背景にある。

③「聖徳太子」とされる厩戸皇子が参戦し、四天王に加護を求め勝利する。その後厩戸は四天王寺を、馬子は法興寺を建立し、仏教による統治策を推進していく、というもの。

 

2、「丁未の乱」の前哨戦➀―崇仏と排仏

 ただ、乱に至るまでには、「前哨戦」ともいうべき事件があります。それは欽明十三年(五五二)十月に百済聖明王から仏像・経典が送られ、仏教受容を求める表ふみも齎もたらされます。これが一般に「仏教公伝」とされる事件です(注1)。欽明天皇は蘇我稲目に仏典等を授け礼拝させますが、疫気(おそらく天然痘)が流行し、物部尾輿らはこれを理由に、仏像を廃棄し寺を焼くなどの「排仏(第一次)」を行います。その際には欽明は尾輿に同調し、排仏を容認します。これが稲目と尾輿による「第一次の蘇我・物部の争い」です。
 欽明は五七一年に崩御。翌五七二年に敏達が即位し、その際、大臣は蘇我馬子に、大連は物部守屋に変わります。そうした政権交代の中、敏達六年(五七七)に、再び百済から経典や僧侶、仏師らが送られ、「難波の寺」に納められます。敏達十三年(五八四)には、さらに百済から弥勒像などが渡来するなど、ヤマトの王家に対する仏教受容への「外圧」が強まります。
 実は、当時の百済威徳王(在位五五四~五九八)は、父聖明王が新羅によって殺された際に、「竹紫の嶋の上の諸の軍士いくさ・筑紫国造鞍橋君くらぢのきみ」により救出され、即位することが出来た人物です。つまり倭国(九州王朝)の支援で即位した人物ですから、その要請により仏像・経典等を送った可能性が高いと思われます。
 馬子はこれを受け、播磨から還俗僧高麗の恵便を招請し、尼三人を出家させ、仏殿を造り仏像を安置、法要を行うなど仏教の受容を進めます。『書紀』には「仏法の初め、これより作おこれり」と記していますから、ヤマトへの「仏教初伝」は「『書紀』では五八四年」になります。翌敏達十四年(五八五)二月に、馬子は仏塔を建て仏舎利を納め、再び法要を行いますが、馬子自身が天然痘に罹患してしまいます。
 そこで守屋は、天然痘が仏教興行によるものだとして「排仏」を奏上、敏達もこれを認め、仏像・仏殿を焼き、僧侶や尼を痛め、馬子をも辱めるなど、再び「排仏(第二次)」を行います。馬子は「惻愴啼泣いたみなげき」ながら、これに従ったと『書紀』に書かれています(馬子と守屋による「第二次の蘇我・物部の争い」)。しかし天然痘の流行は止まず、排仏を行った守屋・敏達も揃って天然痘に罹患します。その苦しみを『書紀』は次のように記しています。
◆『書紀』敏達十四年(五八五)三月。又瘡かさでて死みまかる者、国に充盈てり。其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧くだかれるが如し』といひて、啼泣いさちつつ死る。

 また、この時に「仏像を焼いた罪か」という流言飛語が囁かれたと記しますが、これは、『正法念処経』(地獄品)に、僧寺・仏像を焼けば、第五地獄「鉄野干食処」に堕ち、火の雨や、熱鉄の狗・炎の嘴の鉄鷲により「常に焼かれ、常に食われ悲苦号哭す」とあるのを踏まえたものです。つまり仏罰があたったということで、排仏を容認した敏達も、さすがに馬子には仏教崇拝を認めます。しかし、時すでに遅く、敏達は崩御し、五八六年に用明天皇が即位します。

 

3、「丁未の乱」の前哨戦➁―皇位継承争い

 この敏達の葬儀に際し、欽明の皇子で守屋が推す穴穂部皇子は、武力で皇位を狙いますが(「穴穂部皇子、天下を取らむとす」)、敏達の寵臣で内外の政治を任されていた、三輪君逆が配置した「隼人」に阻まれます。
 さらに、穴穂部は用明元年(五八六)に、敏達の皇后であった炊屋姫を強引に自らのものにしようと殯宮に乱入しますが、再び逆に阻まれます。
 前号で、『伊予温湯碑文』などから「蘇我馬子はヤマトの王権における親九州王朝派の豪族か、あるいは九州王朝が各国・地域を統括するために任命した国宰(国司)・惣領であった可能性が高い」と述べましたが、そうであれば、「九州の隼人」が馬子側で警護していたのも、よく理解できるでしょう。穴穂部は直接手を下しませんでしたが、結局、守屋が逆に殺し、炊屋姫・馬子は穴穂部・守屋を深く恨みます。

 

4、「丁未の乱」に突入

 そして、用明も丁未年(五八七)に瘡(天然痘)に罹患し、「朕、三宝に帰らむ」と詔し、仏教を敬うよう朝議にかけます。その際守屋は依然反対しますが、馬子は詔を楯に穴穂部に引率させ「豊国法師」を臨終の床に招き入れます。「豊国法師」は「闕名(誰か不明)」とされていますが、豊国とは一般に豊前豊後を指しますから、九州から派遣された僧であることは疑えません。その法師が臨終に臨んだのは、用明や群臣が仏教受容に賛成し倭国(九州王朝)側についたことを示すものです。

 そのため、守屋は危険を感じて自宅に退き、兵を集めて対抗しようとします。
◆『書紀』用明二年(五八七)四月二日。是の時に、押坂部史おしさかべのふひと毛屎けぐそ、急あわて来て、密かに大連に語りて曰はく、「今、群臣ら卿を図る。復將またまさに路を断ちてむ」といふ。大連聞きて、即ち阿都に退きて人を集聚あつむ。

 これに対抗して、馬子は大伴毗羅夫らに我が家を護らせるなど、両者の関係は切迫し、その渦中の四月九日に用明は崩御します。そこで、守屋は五月に穴穂部を皇位に付けようと、狩を名目に穴穂部を誘い挙兵を図りますが、露呈し、六月に馬子は炊屋姫を推戴し穴穂部と穴穂部に近い宅部皇子を誅します。
 そして七月、馬子は、泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子等の皇族や、紀男麻呂ら豪族を率い、物部守屋討伐に出陣。守屋は渋河(八尾市)に稲城を作り対抗します。

 

5、創られた「厩戸皇子」の活躍と四天王寺建立

 物部陣営は強く、野戦・籠城戦とも優勢に推移しますが、その際に聖徳太子とされる厩戸皇子が四天王に、馬子が諸天王・大神王にそれぞれ勝利を祈願し、四天王寺と法興寺建立を約します。
◆是の時、廐戸皇子、束髮於額(ひさごはな *十六歳)ちて軍後に隨したがへり。自ら忖度はかりて曰のたまはく、「將はた、敗やぶらるること無からむや、願ちかひことに非あらずば為り難かたし(願いをかけなければ負けるかもしれない)。」とのたまふ。乃すなはち白膠木ぬりでを斮り取り、疾くと四天王像を作りて、頂髮たきふさに置きて誓ちかひを發てて言のたまはく「今若し我を敵に勝たしめば、必ず護世四王ごせしほうの奉為みために寺塔てらを起立てむ。」とのたまふ。
 蘇我馬子大臣、又誓をたてて言はく、「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衞まもりて利益つこと獲しめたまへば、願はくは當まさに諸天と大神王の奉為みために、寺塔てらを起立て三寶を流通つたへむ。」といふ。誓ひ已おはりて種種の兵を厳よそひて進みて討伐つ。

 厩戸皇子が約した「四天王寺建立」ですが、九州年号史料の『二中歴』「倭京」(六一八~六二二)の細注に「二年(*六一九)難波天王寺聖徳造」とあります。四天王寺の創建は、瓦の編年から六二〇年ごろ(*大阪市文化財協会ほか)とされており、『二中歴』記事の正しさが証明されています。
 そして、『二中歴』に九州年号の細注で記す事績は、倭国(九州王朝)の事績と考えられますから、四天王寺を建立したのは倭国(九州王朝)の多利思北孤であり、従って守屋討伐に活躍したのも、「太子時代の多利思北孤」(注2)ということになります。つまり、四天王寺は、本来六一九年の倭国(九州王朝)の多利思北孤により建立されたものだったところ、『書紀』編者は、これを守屋討伐時の必勝祈願に由来する、ヤマトの厩戸皇子の事績としたと考えられるのです。そして、これを証するのが守屋討伐時の厩戸の言葉です。
 『書紀』の厩戸の「將無見敗はた、やぶらるること なからむや」との言は、金光明最勝王経の「將無猛獣損害我はた、もうじゅうの われをそこなうこと なからむや」との類似が指摘され、同じく「厳種種兵、而進討伐。くさぐさのへいを よそひて すすみてうつ」は同経の「厳四兵発向彼国、欲為討伐。くさぐさのへいを よそひて かのくににむかひ うたむとす」との類似が指摘されています(岩波『書紀』注釈)。
 ところが、この『金光明最勝王経』は、「八世紀」にわが国に齎され、四天王らによる護国思想を強調する経として、聖武天皇の「国家仏教」施策の基となりました。このことからも「厩戸の言葉」は、八世紀の『書紀』編纂時に『金光明最勝王経』に基づき創作されたものとなります。

 

6、「法興寺」建立も多利思北孤の事績だった

 さらに、「丁未の乱」勝利後、蘇我馬子は明日香に「法興寺」を建立したと記されています。
◆『書紀』崇峻元年(五八八)四月。蘇我馬子宿禰、百済の僧等を請せて、受戒の法を問ふ。善信尼等を以て、百済国の使恩率首信等に付けて、学問に発て遣す。飛鳥衣縫造きぬぬひのみやつこの祖おや樹葉このはの家を壊ちて、法興寺を作り始む。

 「法興寺」の「法興」は、法隆寺釈迦三尊像光背銘に記す「上宮法王」の年号で、九州年号端政三年(五九一)を「法興元年」とし、「上宮法皇」の薨去年の法興三十二年(六二二)まで続きます。これは、『隋書』の多利思北孤の在位年間を含むため、「上宮法王」とは多利思北孤を指すことになり、翌六二三年に九州年号が「仁王」と改元されるのも、これを裏付けています。

 ちなみに、通説では「上宮法王」は厩戸皇子としますが、「法興」年号は天皇家に無く、また銘文に記す「上宮法皇」の登遐年や母・妻の逝去は、つぎのとおり厩戸皇子と合いません。
➀「上宮法皇」の登遐は「法興三十二年(六二二)」二月二十二日で『書紀』に記す厩戸の逝去(六二一年二月五日)とあわない。

➁「上宮法皇」の母は「鬼前太后きせんたいこう」妻は「干食王后かんじきおうごう」 で、廐戸皇子の母は「穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ」、『書紀』に記す后は「菟道貝蛸皇女うぢのかいだこのひめみこ」で名前も異なる。(注3)

 そして、『隋書』では多利思北孤が「自ら仏法を興した」と自負しており、「法興」とはこの「仏法を興す」を略したものと考えられます。
◆『隋書』大業三年(六〇七)其の王多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰はく、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。」

 従って、「法興寺」は多利思北孤にちなんで建立されたことになります。蘇我馬子が九州王朝派の豪族か、九州王朝の任命した国宰等であれば、『書紀』に記す通り、馬子が飛鳥に建立し、ヤマトの王家が仏教を受容した、すなわち倭国(九州王朝)の「仏教治国策」を受け入れた証しとしたと考えられるでしょう。
 「丁未の乱」勝利後、崇峻元年(五八八)には百済から僧惠総・令斤・惠寔ゑしょく等が仏舍利を献上。百済の恩率首信らも仏舍利を献上し、僧聆照律師ほか五人の僧侶・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工らが送られてきます。また、蘇我馬子は、百済僧等に要請し、戒を授かる方法を問い、善信尼等を、仏教を学ばせるために派遣します。このようにヤマトへの仏教の浸透策が急テンポで実施されていきます。
 ただ、倭国(九州王朝)はヤマト地域だけではなく、摂津・河内・和泉にも進出していきました。これが『書紀』では「守屋の資人つかいひと」としか記されていない、「捕鳥部萬ととりべのよろず」の討伐譚だと考えられるのです。次回は「捕鳥部萬討伐譚」の真実と、倭国(九州王朝)のさらなる東方進出について述べます。

 

(注1)「仏教公伝」には、ヤマト一元説で五三八年戊午説と、五五二年説があるが、何れにも難点があり、倭国(九州王朝)への伝来は四一八年戊午と考えられる。この点、会報一五九号の「壹」から始める古田史学(二五)を参照されたい。

(注2)『聖徳太子伝記』では、聖徳太子の生年を九州年号「金光」三年壬辰(五七二)年としているから、太子十八才は五八九年・九州年号「端政」元年となる。
 しかし、厩戸が推古の摂政として万機悉く委ねられた、つまり国政を執行したのは推古元年(五九三)であり、五八九年ではない。従って五八九年に「国政を執行した」即ち即位したのは多利思北孤であり、五八七年では即位前、即ち太子時代となろう。

(注3)「鬼前太后」・「干食王后」について、通説では「鬼前太后」とする厩戸の母穴穂部間人皇女には「鬼前」の名はないので、通説では「キサキ」と読む。しかし「キサキの太后」という変な呼称はどんな史料にも無い。また、干食王后について、『書紀』で厩戸の后は敏達天皇と後の推古天皇の娘「菟道貝蛸皇女」だが「干食」 の名はない。そこで通説では、「干食」を「かしはで」と読み、「膳大娘」を「膳部かしはべ傾子臣の女菩岐々美郎女ほききみのいらつめ」とする。
しかし、
 ➀「干食」は「析薪者(薪木を割る者)」で「炊烹供养(養)雑役」つまり雑役夫の下で、彼らに炊烹を供する最卑職であり(『尚書正義』など)、これを王后名とするのは不自然。

 ➁菩岐々美郎女を「妃とした」とあるのは、十世紀に成立した「聖徳太子伝暦」で『書紀』には見えない。

 ③四妃中最も出自が低い美郎女を「王后(皇后)」 とし、臨終の床を共にしたとする等、通説には無理がある。(出自の高低)

  ➀菟道貝蛸皇女(敏達天皇と推古天皇の皇女)
  ➁橘大郎女(推古天皇の孫)
  ③刀自古郎女(蘇我馬子の娘)
  ④膳部菩岐々美郎女(膳傾子の娘)

 なお、釈迦三尊像光背銘に記す「法王大王」が厩戸皇子ではなく、『隋書』の多利思北孤であることは、古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社一九八八年六月)、古田武彦・家永三郎『聖徳太子論争』(新泉社一九八九年十月)ほかに詳しい。


 これは会報の公開です。

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