文献上の根拠なき「俀国=倭国」説 (会報156号)
九州王朝の「法皇」と「天皇」 日野智貴
(会報163号)
戦後学界は「神武天皇実在説」にどう反応したのか
たつの市 日野智貴
Covid-19(通称:武漢肺炎)の影響で今年の橿原神宮の神武天皇祭は参列者のいない状態で行われた。神武天皇祭は毎年四月三日に行われる。『日本書紀』によると「神武」(註一)は三月十一日に崩御されたが、そのときの日付を今の暦に直すと4月3日になる。
皇室関係の祭祀に一般の国民が参列できるようになったのは、比較的後世のことである。奈良時代には伊勢神宮参拝すら、臣民が許可なく行うことは出来なかった。それを考えると「神武天皇祭に参列できない」と言って嘆くことは、贅沢な悩みなのかもしれない。少なくとも、我々は伊勢神宮にも橿原神宮にも参拝自体は自由に行うことができるのだから。
戦後、神武天皇架空説が定説視された。保守派の間でも「神武天皇は学問的には架空」とか「神武東征はあくまでも神話だが尊重するべき」とか言った言説を言うものは少なくない。
しかし、そう言った主張をしている方は「神武天皇架空説に本当に学問的根拠があるのか?」と、一度検証したことはあっただろうか?
存在しない「神武天皇実在説」への反論
私も一応歴史学を学ぶ者として、神武天皇架空説と実在説との間にある論証を見てみようと思った。だが、我が国最大の論文検索サイトである「CiNii」で調べて見ても、神武天皇実在説そのものを学問的に批判している論文は見つからなかった。
戦後、神武天皇実在説を唱えた歴史学者は少なくない。保守論壇でも著名な学者としては田中卓皇學館大学元学長がいる。また、「九州王朝説」「多元的古代史観」で著名な古田武彦昭和薬科大学元教授もそうである。歴史学自体が専門ではないものの、「邪馬台国の会」を主宰するなどして歴史学者たちと互角な論争を繰り広げた心理学者の安本美典元産能大学教授も神武天皇実在説論者だ。
在野の研究者の稚拙な、「学説」とは到底言えないような「思い付き」の「作業仮説」が学界で無視されることは、ままある。しかしながら、田中卓氏も古田武彦氏も安本美典氏も歴史学界において定説派の学者と激しい論争を繰り広げた人物である。にもかかわらず、学界からの反応が無いのはどうした訳か。
こういうと私が見落としていると言われるかもしれないので、客観的な証拠を挙げると歴史学で最も権威のある学術雑誌に『史学雑誌』と言うものがある。この『史学雑誌』で「神武」がどのように扱われているのか、CiNiiで検索してみた。
結果は衝撃的なものだった。なんと、『史学雑誌』に掲載された学術論文のうち、「神武」について言及した論文は二件しか無かったのである。網野善彦氏の「中世文書に現われる「古代」の天皇」(西暦一九七六年)と前述の古田武彦氏の「多元的古代の成立」(西暦一九八二年)の二本だけだ。
この内、網野論文は「神武」が実在か、架空かを論点にしたものでは、無い。古田論文に至っては神武天皇実在説に立つものである。そう、『史学雑誌』に神武天皇実在説を具体的に批判している論文は、皆無なのである。
さらに念押しして言うと、『史学雑誌』も平成二八年(西暦二〇一六年、皇暦二六七六年)以降の論文についてはネット上では公開していないものの、表題は全て公開されている。しかし、「神武」を表題に入れた論文は皆無だ。網野氏と古田氏の二論文も「神武」の名前が表題に記されているわけではない。どちらも「神武」が主題ではないから当然である。
つまり、「神武」を主題にした論文は『史学雑誌』に一本も掲載されていない。神武天皇実在説は論争以前に、主題として研究もされていないのである。それが現状だ。
『史学雑誌』には「回顧と展望」というものもある。これは毎年の歴史学界の研究や論争の内容を纏めたものであり、『史学雑誌』に掲載されていない学術論文についても触れている。その中には一般人には入手しにくい各大学の「紀要」に掲載された論文も含まれており、「回顧と展望」は歴史学界の様子を知る格好の資料だ。
では、この『史学雑誌』「回顧と展望」には「神武」についての論争は載っているか、と言うと、これまた載っていない。私が「CiNii」で調べたところ、「神武」について「回顧と展望」で触れているのは二回だけ、その内一つは中国の「黄帝紀元」が日本の「神武天皇紀元」をモデルにしたという研究を紹介するもので、「神武」の実在論争とは直接には関係ない。
もう一つは原島礼二氏の著書『神武天皇の誕生』を紹介するものであるが、ここでは原島氏が神武天皇架空説論者であることには触れられているものの、神武天皇実在説への反論は載っていない。
どうして「神武天皇は架空」と言えるのか
学問と言うのは論争によって発展するものである。神武天皇架空説が定説であるからと言って、それに対する学問的な批判があれば適宜反論しなければならない。実在説への反論を行わずに「神武天皇は架空である」等と主張する学者は学問的であるとは言えないし、ましてや歴史教科書やマスコミが実在説の存在を隠して一方的に架空説だけを国民に刷り込んでいくのは大きな問題である。
無論、神武天皇架空説に全く根拠がない訳ではない。言い古されたことではあるが、これまで神武天皇架空説論者は主に次のような主張をしてきた。
1.「神武」は『古事記』では百三十七歳、「日本書紀」では百二十七歳で崩御したと記されているが、とても史実であるとは思えない。
2.初代天皇である「神武」についての記録は比較的詳細に残っているのに対して、第二代「綏靖」から第九代「開化」までの記録が『古事記』『日本書紀』には皆無である。より古い「神武」の記録だけが残っている、等ということは考えにくいことから、初代「神武」から第九代「開化」までの天皇は実在しない架空の天皇である。
3.初代「神武」も第十代「崇神」もどちらも「ハツクニシラス天皇」と記されているが、「ハツクニシラス」と言うのは「初めて国を統治した」という意味であり、「初めて国を統治した」天皇が二人もいるはずがない。「崇神」が本当の初代天皇であり、「神武」は後から造作された架空の「初代天皇」である。
だが、こうした主張は実は神武天皇架空説の決定的な論拠とはなりえないものである。何故ならば、
1.『魏略』逸文には古代倭国では一年を二年と数える「倍数年暦」が使用されていたことが記されており、事実、『魏志』「倭人伝」には倭人の寿命が「或いは百年、或いは八、九十年」と記されており、倭国で倍数年暦が使用されていたことはほぼ確実である。すると、「神武」についても実際には六十代で崩御されたことになり、特に不信ではない。(註二参照)
2.初代の記録が詳細に伝えられるのは、むしろ自然なことである。この場合、「神武」の事績について多少の脚色があっても架空説の根拠にはならない。(そもそも「天皇」と言う称号や「神武」という諡号自体が後世の脚色であるが、それは他の多くの天皇も同様である)記録が比較的多い近代になってもアメリカのジョージ・ワシントン大統領については様々な伝説が生まれているぐらいである。第二代から第九代の天皇の記録が残っていないことは、当時の大和政権の規模から考えてむしろ自然なことである。(註三)
3.「ハツクニシラス天皇」と訓みは一緒であるが、漢字ではこの「国」の部分は「天下」(神武)と「国」(崇神)という風に使い分けわれている。日本語でいう「クニ」に多義性があることは「故郷」という意味で「クニ」と呼ぶことでも明らかである。この問題は「神武」の時代の「クニ」と「崇神」の時代の「クニ」とは発音が一緒でも実態が違う(だからこそ、表語文字である漢字では書き分けられている)ということで説明がつく。そもそも、本当に「神武」が後世の造作であり、しかも「ハツクニシラス天皇」が「初代天皇」という意味であるならば、どうして『日本書紀』の作者は「ハツクニシラス天皇」の称号を二人にも使用させるという不体裁なことをしたのか。
というように、容易に反論が出来るからである。
古代史において一次史料の欠如は当然である
こう言うと、次のような反論が返ってくるかもしれない。
「しかし、『神武』の実在を示す直接的な史料(一次史料)は存在しないではないか!」
だが、これは文献史学についての無知からくる言葉である。
歴史学において一次史料の欠如している事例は多い。そして、過去には「一次史料の欠如」を論拠に学説を唱えるものも確かにいた。だが、そうした学説の多くは後に誤りが指摘されている。
有名なものでは「法隆寺再建論争」がある。法隆寺は『日本書紀』では一度焼失されたことが記されている。しかし、古代のことという事情もあり法隆寺が焼失したことを示す証拠は『日本書紀』以外には無かった。法隆寺側の文書にも「法隆寺は一度焼失し、その後再建された」等と明記するものは皆無であったのである。
そのことから法隆寺について「再建説」と「非再建説」の学者とが激しく論争した。一時期はむしろ「『日本書紀』の記述は一次史料の裏付けがない限り信用できない」という立場に立脚した「非再建説」の方が優勢なこともあったようである。
だが、若草伽藍の発掘の結果、法隆寺は一度焼失していたことが明らかとなった。今の法隆寺は聖徳太子が築いたままの姿ではない、ということである。
このことの教訓は「『日本書紀』の記述をむやみやたらに疑えば良い訳ではない」というものだ。無論、『日本書紀』には数々の「造作」の跡は見られる。ほぼ同時期にできた『古事記』とさえ、矛盾する部分は少なくない。だが、だからと言って「一から十まで造作である」等と言っていると、法隆寺再建論争と同じ過ちを犯すことになる。
そもそも古代史においては一次史料が見つからないことはざらにある。邪馬台国論争にせよ、主要な根拠となっている『魏志』「倭人伝」や『後漢書』「倭国伝」は厳密には「一次史料」ではなく「二次史料」だ。「一次史料の欠如」を理由に「造作だ」「架空だ」等と言っていると、古代史における文献史学そのものが成立しなくなる。
古代河内湾の地形を反映している『古事記』「神武東征」説話
神武天皇架空説には明確な根拠がないばかりか、『古事記』『日本書紀』の記述の中には後世の造作では説明のつかないリアリティのある記述もある。
例えば、古田武彦氏が指摘したことであるが(註二)『古事記』には神武東行について次の記述がある。
浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美の那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。(略)今者に日下の蓼津と云ふ。
「神武」が長脛彦と戦った最初の場面として著名だが、ここで注目すべきは「神武」が今の「日下」まで船で「渡」って来た、ということである。この「日下」は今の東大阪市だ。当然、海から船で行くことは出来ない。
だが、弥生時代中期以前までの間はここに「河内湾」と呼ばれる湾が広がっていた。弥生時代以降になるとここは「河内湖」となり陸地化が進むようになり、さらに『古事記』『日本書紀』の編纂された奈良時代には河内湖は消滅している。
つまり、この記述は後世の造作では不可能であり、弥生時代中期以前に神武天皇が実在したことを示す強力な証拠となる。
政治にも悪影響を及ぼす「造作史観」
神武天皇架空説に明確な根拠がないどころか、『古事記』『日本書紀』の記事の中には到底造作できないような、当時の地形に基づいた記述があるということは、神武天皇実在説に架空説論者も反論のしようがない。それならば神武天皇実在説が定説になればよいものだが、既に述べたようにそもそも『史学雑誌』において「神武」を主題に扱った論文が皆無なのである。
定説になる云々以前に、歴史学者の間では「神武」に対する奇妙なまでの「無関心」があるのだ。そして、それが「建国記念の日」(紀元節)を巡る無意味な論争へと繋がることになる。
今年二月十一日の『しんぶん赤旗』には「神話復活は史実と憲法に背く」と題する「主張」(社説)が記された。日本共産党機関紙の「主張」であるから、そのまま日本共産党の公式見解なのであろう。そこには次のようにある。
「紀元節」は、明治政府が一八七三年、天皇の支配を権威づけるために、天照大神あまてらすおおみかみの子孫とされる架空の人物「神武天皇」が橿原宮かしはらのみやで即位した日としてつくりあげたもので、科学的にも歴史的にも根拠はありません。
神武天皇実在説を唱えている歴史学者は少なからずいるのであるが、もしも神武天皇が本当に「架空の人物」でその存在は「科学的にも歴史的にも根拠はありません」と言いきれるのであるならば、是非とも神武天皇実在説を如何に「根拠がない」かを指摘した学術論文を紹介してほしいものである。
こうした現状を踏まえると歴史教科書においては神武天皇実在説の存在も記すべきだろう。それどころか、神武天皇架空説側からの実在説への学問的な反論が殆どない現状、神武天皇については実在説をまず記した上で「一部の学者は架空説も主張している」と追記するぐらいが、丁度良いはずである。
【追記】
本稿はニュースサイト『選報日本』に掲載された拙稿「「神武天皇架空説」の学問的根拠を調べてみてわかった衝撃の事実」(二〇二〇年四月十五日公開)に最低限の加筆修正を加えたものである。ニュースサイト掲載記事の性質上、『史学雑誌』での議論を主に紹介したが、古田学派内部ではその後神武東行説話の原型を巡る議論が進んでいる。その中で大きな成果は神武東行説話に天孫降臨神話からの盗用があったとする古賀達也氏の研究である。
無論、古賀氏も神武東行説話の全てが造作であると言っている訳ではない。どこまでが史実でどこまでが造作乃至盗用であるかの議論は今後も行われるべきである。例えば、古賀氏が「川の上流を川尻と表現するとは考えられず、天孫降臨神話からの盗用である」と指摘した部分について、谷本茂氏が過去に例会で「河口に対する川尻の可能性」を指摘されたこともある。筆者は今回『史学雑誌』等の内容を元にこれまでの議論の経過を整理したが、機を改めて「神武」の実像についても研究したいと考えている。
註
一 ここでは便宜上「神武天皇実在説」「神武天皇架空説」という用語を用いたが、言うまでもなくこれは「後世『神武天皇』と諡号された人物」が実在したか、架空であったか、というものである。(「厩戸王はいたが、聖徳太子はいなかった」というような専ら用語を巡る議論とは異なる。)『古事記』『日本書紀』の本文には「神武」という表記は存在しないが、古田学派の論文も含め便宜上「神武」の表記を用いているものもあるので、「後世『神武天皇』と諡号された人物」については「」付きの「神武」と表記した。
二 古田武彦(一九八四年)『古代は輝いていた1 風土記にいた卑弥呼』朝日新聞社
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