六世紀から七世紀初頭の大和政権 -- 「船王後墓誌」銘文の一解釈 日野智貴(会報162号)
九州王朝の「法皇」と「天皇」 日野智貴
(会報163号)
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「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 西村秀己
(会報163号)
九州王朝の「法皇」と「天皇」
たつの市 日野智貴
はじめに
「天皇」の称号を九州王朝の「天子」の支配下にある「ナンバーツー」の称号とする仮説に対して、西村秀己(以下、敬称略)より「倭国のナンバーワンの称号を探すに「天皇」以上のものを提示してもらわねばならない」という批判が存在する。(註一)
これについて私は「法皇」が九州王朝(倭国)の「ナンバーワン」の称号であり、「天皇」は倭国内の「ナンバーツー」の称号である、という結論に至ったので報告する。
確認できる倭国の君主の称号
倭国(九州王朝)の君主の称号として用いられたことが確実な称号としては、次のものを挙げることができる。
「王」「倭王」「大倭王」(中国の各史書)
「委奴国王」(志賀島出土金印)
「天王」(『百済新撰』)
「筑紫君」(『古事記』『日本書紀』)
「上宮法皇」(法隆寺釈迦三尊像光背銘)
「中皇命」(『万葉集』)
なお『日本書紀』で磐井の称号とされる「筑紫国造」の表記については、『古事記』では「筑紫君」とあるため、本来の表記であるかはここでは判断できない。
いずれにせよ、この中で「天子」の称号に相応しいのは「法皇」と「中皇命」のみである。「王」や「君」「国造」では「ナンバーワン」であることが、必ずしも明確ではない。
西村の批判に対しては「ナンバーワンの称号は『法皇』(又は『中皇命』)であった」という回答が出来る。だが、西村はあくまでも「『天皇』以上のものを提示」するよう求めている。そこで、今から「法皇」が「天皇」以上の称号であることを論じさせていただく。
「先例」の存在しなかった「法皇」号
この、倭国の天子が名乗っていた「法皇」号は他に例が無い称号である。従って、その意味をまず問わなければならない。
これについて正木裕は、多利思北孤が「菩薩戒」を受戒した後に「上宮法皇」と称したとし、「仏教で「法皇」とは仏門に帰依し僧籍を得た天子(皇帝)を言う」としているが(註二)、この主張は二つの意味で問題がある。
第一に、「僧籍を得た天子(皇帝)」とは具体的にだれを指すのか、正木は示していない。正木が例に挙げている隋の文帝と煬帝の例は、あくまでも在家の信者でも受けることのできる「菩薩戒」を受戒した例である。「僧籍」つまり「僧侶としての戸籍」を得たわけではない。
第二に、その「菩薩戒」を受戒した天子を含め、現役の天子が他に「法皇」と呼ばれた例は皆無なのである。
中国の魏晋南北朝時代と隋唐の時代の史書を確認したところ、「法皇」と言う用語は一切確認できなかった。唯一、『魏書』及び『北史』の「(北魏)世宗宣武帝紀」(即位前記)に王恵定という反乱軍の首領が「明法皇帝」と称した、とする記事があるのみである。この「明法皇帝」は恐らくは道教の影響を受けたものであり、仏教上の称号ではない。
日本においても、孝謙天皇以降、清和天皇を始め在位中に「菩薩戒」を受戒した天皇は存在するが(註三)、彼らが「法皇」と呼ばれたことは無い。「法皇」と言うのは譲位後の上皇に用いられた例ならば後世にも存在するが、現役の天子が「法皇」と名乗った例は無いのである。
正木説は「菩薩戒」と「法皇」号の関係を論じた点で画期的であり、また「法皇」号の成立についてもっとも説得力のある仮説であると言える。しかしながら、私は「菩薩戒」を受けた天子が他に「法皇」を名乗った例が無いことに注目したい。このことに九州王朝独自の思想乃至制度を見ることができると考えるからである。
「法王」を「如来」とは解釈できない
正木は「法皇」の称号を「菩薩戒」との関係で理解し、私もそれを支持するのであるが、古田学派におけるそれ以前の仮説についても触れさせていただく。
古田武彦は「法皇」について「通例の古代の熟語にはない」としながらも、「ただ「法王」はある。釈迦如来のことだ。」として『法華経』の例を引用し、「法皇」は「法王」を踏まえた「仏法に帰依した権力者」であることを示す「造語」であるとした(註四)。
この主張の問題点は、「王」と「皇」であれば当然「皇」の方が上位であるから「法皇」(多利思北孤)が「法王」(釈迦如来)よりも「上位」になってしまう、ということである。本当に「仏法に帰依した権力者」が「釈迦如来、以上」の称号を「造語」するとは、考えられない。
それでは「法王」とはどういう意味なのか。実は「法王」を「菩薩」や「正法によって統治する国王」の意味で用いている仏典も存在する(註五)。そうであるとすると、やはり「法皇」は正木の言う通り「菩薩戒」受戒の関係で説明されるべきであると言え、さらに「法皇」という用字をしていることから「菩薩の中でも上位に立つ存在」としての自負が込められていると考えられる。
「法皇」と「天皇」は両立しない
では、九州王朝の天子が一方では「法皇」の称号を用い、また他方では「天皇」の称号を用いた、ということが考えられるであろうか?
それは有り得ない。何故ならば仏教において「天部」(神々)は「菩薩」よりも数ランク下の存在である。その「菩薩」の中でも「法王」ではなく「法皇」であることを自負した、九州王朝の「菩薩天子」がどうしてわざわざより「下位」の「天皇」を名乗ることがあるだろうか?
儒教や道教、キリスト教における「天」やヒンドゥー教の「神々」と仏教でいう「天(部)」が全く異なることに異論は皆無であると思われるが、敢えて例を示すと次のようなものがある。
終にその余の天神に帰依せざれ。(『大般涅槃経』巻八)
仏法は帰依の対象であるが、天界の神々は帰依の対象ではないのである。念の為に言うと、これは仏典上の「建前」の話であって全ての仏教徒がこの通りにしていたことを示すものではないが(註六)、わざわざ仏典に「帰依するな」と明記してある「天」の称号を「仏法に帰依した権力者」が用いることは、考えられない。
大和政権における「法皇」と「法王」
「法皇」の称号に「天皇、以上」の意味合いがあるとする認識は、大和政権も持っていたはずである。
一例を挙げると『上宮聖徳法王帝説』では、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」における「上宮法皇」を「聖徳太子」と「合成」するために「法皇」を「法王」へと「原文改定」した上で、引用している。「法皇」では「天皇の下の、皇太子」の称号として不適切だが「法王」ならば問題ない、ということであろう。
後世称徳天皇が道鏡に与えた称号も「法王」である。称徳天皇が道鏡を用いている際には聖徳太子を意識していたとされる(註五)。
「法皇」の用例は宇多天皇以降の「すでに譲位した天子が、出家した後に名乗った称号」を待たなければならない。また、そうした後世の例を含めても「天皇」と「法皇」を同時に名乗った天子は存在しないことから、九州王朝の「天子」だけ「天皇」と「法皇」の双方の称号を用いていた、と解釈するのは困難である。
「○○天皇」の用例は「ナンバーツー」の証左
さらに念押しして述べると、「法皇」と「天皇」は仏教の教義上も対等では無いのみならず、倭国時代の用例を見ると「天皇」が天子ではないと言える証拠もある、ということである。それが「○○天皇」の用例である。
具体的には、「中宮天皇」(野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像)「大王天皇」(法隆寺「薬師」如来坐像光背銘)「大后天皇」(『懐風藻』)がある。「中宮」も「大王」も「大后」も、いずれも「天子」の称号であるとは言えない。
「法皇」が天子の称号であることは、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」の用例からも明らかである。一方、「天皇」が「非、天子」の称号と共に使用されていることは、やはり「法皇」とは「格が違う」ことを意味するものではあるまいか。
特に「中宮天皇」の用例は、確実に九州王朝滅亡前の時期のものであるだけに、「法皇」との対比がしやすいものであると言えよう。これを「中宮(皇后)でもある天皇」と解釈しても「中宮(皇后宮)に居する天皇」と解釈しても、いずれも「天子」の用例にはふさわしくない。
なお、女帝であれば中宮にいても可笑しくないのではないか、という指摘があるかも知れないが、それは少なくとも日本の場合は当て嵌まらない。日本の女帝は中国の「垂簾聴政」の例とは異なり、男性天皇同様大極殿等に赴いて職務をしている。例えば、『続日本紀』において
秋七月壬子。天皇大極殿において即位す。(元明天皇)
秋七月甲午。皇太子、大極殿において受禪即位す。(孝謙天皇)
と言ったような記述があり、さらには女帝による行幸記事もあり、日本には女帝が後宮に籠る文化は無かったのである。(なお、寝食を後宮で行っていたから「中宮天皇」だ、と言うのは成立しない。それを言い出すと男性天皇も「中宮天皇」になってしまうからである。)
結論
倭国の天子の称号は「法皇」である。「天皇」はその「格下」の称号であり、そのことは仏教における「天」の位置づけから判断できる。また、「中宮天皇」等の金石文の存在もそうした結論を支持する。
以上の立場を前提に、残りの論点についても軽く触れたい。
まず、『万葉集』の「中皇命」は「中天皇」ではないことに注目したい。「法皇」と「天皇」という複数の「皇」が存在していたため、ナンバーワンであることを明確にするために「中(中心)」の「皇命(スメラミコト)」と表記したのではないだろうか。
次に、西村によるナンバーワンとナンバーツーの双方の子供が同じ「皇子」を名乗っていたとは「想像がつかない」という主張であるが(註一)、例えば後世の「蔭位の制」においては正一位の子供も従一位の子供も「同格」の「従五位下」である。「法皇」と「天皇」の差が「正一位」と「従一位」程度の差であったと考えれば説明がつくし、それは『魏志』「倭人伝」や『隋書』「俀国伝」にみられるような「兄弟統治」の伝統が九州王朝にあったことを考慮すると、全く不審では無いのではあるまいか。
最後に、大和政権において「天皇」に統一された理由は、まさに「皇」の字を用いる者が複数いることについて「煩雑」な印象があったから、と言えるであろう。その際に「法皇」ではなく「天皇」に統一したことについては、大和政権において現役の天子が初めて「菩薩戒」を受けたのは孝謙天皇の時代である(註三)、ということと無関係ではないと考える。「法皇」が倭国の天子の称号だとすると、九州王朝においては天子が「菩薩戒」を受けることが常態化していたと考えられるが、大和政権においてはそうではなかった、ということである。
註
一西村秀己(二〇二一年二月)「「天皇」「皇子」称号について」会報一六二号
二正木裕(二〇二〇年二月)「「高良大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ」会報一六二号
三河上麻由子(二〇一三年)「清和天皇の受菩薩戒について」『日本仏教綜合研究』
四古田武彦(一九八五年)『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』朝日新聞社
五勝浦令子(一九九七年)「称徳天皇の「仏教と王権」」『史学雑誌』
六しかしながら、この「如来」「菩薩」等と「天部(神々)」の区別については、日本仏教においても概ね守られていることであり、いわゆる「神仏習合」は『涅槃経』等の規定を無視したものでは、無い。日本において仏教側は神道の神々への祭祀を「帰依」ではなく天部乃至仏・菩薩の垂迹への「崇敬」であると解釈したのであり、今でも神社本庁は「崇拝」の用語を避けて「崇敬」を用いている。これは一見「言葉遊び」「詭弁」のようではあるが、仏教と神道の双方がお互いの教義を守りつつ共存するために知恵を絞った結果である、とも言える。無論、日本の伝統仏教でも浄土真宗や日興門流各派(日蓮正宗等)のように「神祇不拝」を厳格に守る宗派も存在する。いずれにせよ、「天部に帰依しない」規定自体を無視する宗派は存在しないのである。
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