移された「藤原宮」の造営記事 正木裕(会報159号)
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九州王朝の天子の系列 1 多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った王子の即位 正木裕 (会報163号)
九州王朝の天子の系列 1 2 3 正木裕
「壹」から始める古田史学二十七 多利思北孤の時代II 仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生正木裕(会報159号)
近江の九州王朝 -- 湖東の「聖徳太子」伝承 古賀達也(会報160号)
「高良玉垂大菩薩」から
「菩薩天子多利思北孤」へ
川西市 正木 裕
1、「聖徳太子」のモデルと釈迦三尊像の「上宮法皇」は多利思北孤
『聖徳太子伝記』等で太子の「国政執行」は「太子十八才(五八九年・九州年号「端政元年」)とされるが、『書紀』で厩戸皇子が推古天皇の摂政となり「万機を悉く委ねられた」のは五九三年だ。
このように、
①執政年次が違うこと、
②「端政」は「政治の始め(端緒)」の意味を持つこと、
③九州では端政元年に九州王朝の系列と考えられている筑後の「高良玉垂大菩薩」が崩御していること、(注1)
④六〇〇年に多利思北孤が隋に遣使していることなどから、『伝記』で太子とされているのは厩戸ではなく多利思北孤で、その即位は「端政元年(五八九)」だと考えられる。
また、聖徳太子の像とされる法隆寺釈迦三尊像の光背銘に記す「上宮法皇」は、『書紀』に見えない「法興」年号を用い、没年や母・后の名が厩戸皇子と異なること、崩御の翌年(六二三年)に九州年号が「仁王」に改元されていることなどから、やはり多利思北孤を指すと考えられる。
2、多利思北孤の即位年と上宮法皇の法興元年には二年の差がある
ところで、「上宮法皇」の年紀「法興」は五九一年~六二二年まで続くが、その間九州年号端政・告貴・願転・光元・定居・倭京と重複することから「上宮法皇独自の年紀」と考えられる。ただ、元年は五九一年で、多利思北孤の即位の五八九年の二年後にあたる。この「天子の即位年」と法皇の年紀の「法興元年」の差はどう考えればいいのだろうか。
仏教で「法皇」とは仏門に帰依し僧籍を得た天子(皇帝)を言い、受戒し戒名(法号)を持つことになる。
隋の楊堅(文帝)の場合は、五八一年に即位し、開皇五年(五八五)に「菩薩戒」を受戒した。次代の楊広(煬帝)も開皇十一年(五九一)に智顗から「菩薩戒」を授かって「総持」という「法号」を与えられている。
『隋書』では多利思北孤が煬帝に対抗し、自らを「海東の菩薩天子」に擬えている。「菩薩」というからには多利思北孤も「戒」と「戒名(法号)を授かることになる。つまり「法興年号」の実態は、「受戒し法皇となってからの年紀を示すもの」で、多利思北孤は五九一年に菩薩戒を授かり「法興法皇」となったと考えられる。
それでは「政治上」の最高位「天子即位」から「仏教上」の最高位「法皇即位」までの二年の間隔はどう考えればいいのか。
実はそこには「高良玉垂大菩薩の崩御」が関係すると考えられるのだ。
3、二年の差を埋める「始哭しこく年号」
『二中歴』には見えないが、『和漢年契』や『茅窻漫録』ほかの九州年号史料には「始哭」という年号が見られる。(以下『古事類苑』による)。
◆『和漢年契』「凡例」推古帝之時(略)
告貴〈十年終。按一説推古元年為喜楽。二年為端正。三年為始哭。自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。始哭一作大〉
◆『茅窻漫録』
告貴〈推古帝二年甲寅改元、七年終、年代、皇代記、春秋暦略皆同、諸國記告貴作從貴、一本作告言、如是院記二年改元、作告貴〉
始哭〈推古帝三年乙卯改元、一年終、見古代年號〉法興〈推古帝四年丙辰改元、五年終、見古代年號(以下略)〉
これらの資料では「始哭」元年を推古三年乙卯(五九五)とする一方で、「端正(政)元年→ 始哭元年→ 法興元年」とし、始哭は両年号の間の存在とする。
九州年号「端政元年」は五八九年が元年で五九三年まで続き、光背銘の「法興」は崇峻四年(五九一)が元年だ。従って、これらの年号を推古期とするのは推古天皇との接合を図った結果の産物であり、始哭の本来形は「端政」と重複する形で、端政元年(五八九)~法興元年(五九一)の間に存在した「年号」だと考えられる。
4、アジアの葬儀における「哭礼」と「始哭」年号の正体
前述の通り『太宰管内志』では五八九年に「高良玉垂大菩薩」が崩御している。従ってこの年には玉垂命の崩御に伴う葬儀や、多利思北孤の即位の式典などの行事が盛大に執り行われたと考えられる。崇峻元年(五八八)から三年(五九〇)にかけての百済からの法師来朝や多数の出家は、高良玉垂命の延命祈願や法要のためとすれば自然に理解でき、また葬儀に関する仏教行事が盛大に開催されたことの裏付けともなるだろう。
ところで、中国では漢代から葬儀の際に「哭礼」という儀式が広がっていた。「哭礼」とは、葬儀に際し特別な声をあげて泣き、追悼の意思を表示する儀礼で、泣き終わるのは「卒哭そつこく」といい、日本では今も卒哭忌そつこくき、即ち亡くなった日を含めて百箇日目の法要という仏教上の儀式として続いている。
「卒哭」という泣き終わりの儀式があるなら、「始哭」もあってしかるべきだ。現に、『書紀』では朱鳥元年の天武の崩御記事の中に「始発哭」とあり、これを略せば「始哭」となる。天武の哭礼は朱鳥元年・持統元年・二年の三年間続けられている。
このほか、『魏志倭人伝』に倭人は葬儀に際し、喪主が十余日間哭泣するとあり、『書紀』では五世紀允恭の崩御に際し新羅王が弔問の使節を送り、彼らが各所で「大哭・歌舞」したとある。
◆『書紀』允恭四二年癸巳(四五三)春正月乙亥朔戊子(十四日)に、天皇崩りましぬ。時に年若干。新羅の王、天皇既に崩りぬと聞きて驚き愁へて調船八十艘と種々の楽人八十を貢ぎ上ぐ。是に対馬に泊し大哭す。筑紫に到り亦大哭す。難波津に泊するに、則ち皆素服し、悉に御調を捧ぎ、且つ種種の楽器を張す。難波より京に至るに、或は哭泣し、或は歌儛し、遂に殯宮もがりのみやに参会す。
新羅弔使らが喪礼を終えて帰還するのは同年十一月だから、殯は一年弱となろう。そして『隋書』では貴人の殯は三年であると記す。
◆『隋書』(俀国伝)死者は棺槨に収め、親しき賓(客)は屍に就き歌舞す。妻子兄弟は白布を以て服を製る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜ひて瘞(うず 埋)む。葬に及ぶや、屍を船上に置き、陸地に之を牽く、或いは小輿を以てす。阿蘇山あり、其の石故無くして火起し天と接するに、俗以て異となし、因りて禱祭を行う。
そして、『隋書』(高句麗伝)では喪に服する間「哭泣」するとされる。
◆『隋書』(高句麗伝)死者は屋内に殯し、三年を経て吉日を択びて葬す。居する父母及び夫の喪では皆三年、兄弟では三月服し、初めて哭泣を終る。
従って、玉垂命の殯に於いても哭泣の儀礼が行われ、埋葬まで続いたと推測される。その主催者は当然次代の天子たる多利思北孤となろう。
この「哭泣の儀礼」を始めた、即ち「始発哭」という「法興法皇即位前」の多利思北孤の事跡が、玉垂命の崩御後の五八九年~五九一年の間の記録として残り、「法興」とセットで「年号」であるように伝承したのではないか。そして「哭礼(喪)」の期間が明けて、多利思北孤が「大菩薩」の地位を継ぎ「法興法皇」に即位した、これが端政から法興までの二年間の正体だと考えられよう。
5、「豊国法師」とは誰か
玉垂命が「大菩薩」と呼ばれているのも「菩薩天子多利思北孤」の前代に相応しいのだが、そうであれば「豊国法師」の正体もわかってくる。
用明天皇の臨終に際し、守屋が詔に反し排仏を主張するが、馬子は「豊国法師」を招き、内裏へ穴穂部皇子に引率させる。これを見た守屋は阿都の別邸に退き、戦の準備を行ったとある。「豊国法師」が誰かは不明とされているところ、通説では豊国は百済と考えられているが、この場合は筑紫・豊・火という九州王朝の主要領域たる豊国(福岡県北東部から大分県)と指すと考えられ(注2)、その名を冠した法師の出現が排仏派の劣勢を決定づけ、守屋の身の危険を感じさせることとなったと考えれば、「大菩薩」たる玉垂命が馬子の導きで用命に「引導」を渡したのではないか。この九州王朝の直接介入により、ヤマトの王家や豪族の大部分も「崇仏派=九州王朝派」につくことになり、丁未の乱での圧倒的な優位につながったと考えられよう。
しかし用命は「天然痘」で五八七年に崩御した。その臨終に玉垂命が臨んだとすれば、玉垂命も罹患した可能性が高くなる。そしてついに薨去し五八九年の多利思北孤の天子即位と五九一年の法皇即位に繋がっていくことになる。「始哭」年号は、玉垂命から多利思北孤への「天子の地位」と「法皇(菩薩)の地位」の引継ぎの経緯を示すものと考えられよう。(*ただし、『伝記』で太子の執政は五八九年正月とされているから、前代の玉垂の崩御は五八八年と考えるべきことになる)
注
(注1)『太宰管内志』三瀦郡。御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉(五八九)
高良玉垂命が倭王の系列であることについては、古賀達也「九州王朝の築後遷宮 -- 玉垂命と九州王朝の都」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年、新泉社)。
古田武彦『高良山の「古系図」 -- 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』(古田史学会報第三五号。一九九九年一二月一二日)ほか多数の論文がある。
(注2)『日本霊異記』では守屋は仏像を難波の堀江に捨てる際「仏像を豊国に流せ」と言ったとされ、この場合「豊国」は瀬戸内海を挟んで仏像が流れ着く先と想定される九州福岡県北東部~大分県(※豊前国・豊後国設置以前の「豊国」)と考えるのが合理的。
尚、『書紀』の百済からの法師や新羅王の朝貢記事は、「九州王朝への朝貢」を「ヤマトの天皇家への朝貢」のように書き換えたものと考えられる。なぜなら、通説では倭の五王とされる允恭の時代、百済西南部における多数の北部九州式古墳の存在等から半島に進出していたのは九州の勢力であると考えられること、六世紀初頭には「高麗・百済・新羅・任那」が磐井に毎年朝貢していたと書かれていること、『隋書』には七世紀初頭、新羅・百済は多利思北孤の俀国を大国とし恒に通使往来していた、とあるからだ。
これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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