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移された「藤原宮」の造営記事
川西市 正木 裕
一、『書紀』に盗用された九州王朝の事績
1、『書紀』に盗用された九州年号「大化」
『二中歴』その他の資料には、わが国には六一七年の「継体」、あるいは六二二年の「善記」から「大化(六九五~七〇〇)」まで、連続した年号の存在が記され、鶴峯戊申(一七八八~一八五九)の『襲国偽僭考』に「今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり」とあることから、この年号は「九州年号」と呼ばれています。
また、年号を建てることが出来るのは、
①その国における最高権力に限定されること
②年号の存続期間に『隋書』で「阿蘇山あり」と書かれ、九州を拠点としたと考えられる俀王多利思北孤が存在したこと
③『旧唐書』に、漢の光武帝以来歴代中国王朝と交流してきた「倭国」が、大和朝廷を指すことが確実な「日本国」に併合された、と記されていること、
などから、「九州年号は大和朝廷以前に九州を拠点とし、我が国の代表者として歴代の中国王朝と交流してきた九州王朝が制定した年号」だと考えられます。(注1)
一方、『日本書紀』にも、七〇一年の「大宝建元」以前に、九州年号にも存在する「大化・白雉・朱鳥」の三年号が記されていますが、これらの年号は
①不連続(大化・白雉のあと空白で朱鳥も一年限りで、後が空白)であること
②大化は初めての年号なのに「改元」とあること
③『続日本紀』に大宝は建元、即ち「初めての年号」だと書かれていることから、「九州年号から盗用」された年号だと考えられます。
そこから、六四五年に始まる『書紀』「大化」年号は、「六九五年に始まる九州年号大化を、五〇年遡らせて盗用したもの」といえるでしょう。
2、九州年号大化期の九州王朝の事績も盗用された
そして、年号を盗用するには、その目的があったはずで、最も可能性が高いのは「九州年号大化期の九州王朝の事績」を、「『書紀』大化期のヤマトの天皇家の事績に盗用する」ことだと考えられます。
ただ、『書紀』大化期には、『伊勢皇大神宮儀式帳』や『常陸国風土記』等から全国に「評制」が敷かれ、七〇〇年まで存続したことが藤原宮木簡からわかっています。そして、評制は、『書紀』では「無かった」ことにされ、始めから大和朝廷の制度「郡制」だと改変されているところから、九州年号と同じく「九州王朝の制定した制度」であり、九州王朝はこの時期に我が国に集権体制を敷いたことになります。
従って『書紀』大化期の記事には
①当時の九州王朝の事績(但し、ヤマトの天皇家の事績に見せている)と
②九州年号大化期のヤマトの天皇家の事績が混在していることになるでしょう。
3、九州年号の「大化改元理由」は「藤原宮遷都」
先に「九州年号大化期の九州王朝の事績」を、「『書紀』大化期のヤマトの天皇家の事績に盗用した」と述べましたが、『書紀』に記す九州年号大化期の「最大の事業」(明確に持統の事績である文武への皇位継承を除く)は「藤原宮遷居(遷都)」です。藤原宮遷居は次の記事から六九四年十二月であり、他にも遷都時に九州年号の改元がみられることから(注2)、六九五年の九州年号大化改元は、「藤原遷都」を記念するもので、かつ「藤原宮造営」は九州王朝の事績である可能性を示していると考えられます。
二、『書紀』大化期に盗用された「藤原宮・藤原京完成後」の記事
『書紀』大化期の「宮・京」に関する記事には次のとおり不審な点が多いのですが、これらの記事を「九州年号大化時代の『藤原宮・藤原京』での出来事」と考えれば、矛盾なく解釈できるのです。
①「条坊制」と「初めて京師を脩おさめ」との記述があること
◆大化二年(六四六)春正月甲子朔(略)初めて京師を脩おさめ(略)凡およそ京みやこには毎坊まちごとに長をさ一人を置け。四坊よつのまちに令うながし一人を置け。戸口へひとを按かむがへ検をさめ、姧かたましく非あしきを督ただし察あきらることを掌つかさどれ。
「初めて京師を脩め」とは新宮(新京)が完成し、そこに遷居した天子に相応しい言葉ですが、前期難波宮の完成は六年後の六五二年です。
また、「条坊制」を示す「毎坊・四坊」も「藤原京の条坊」と考えればよく理解できます。前期難波宮にも条坊が存在しましたが、六四六年に存在したとは考えられません。当然ですが飛鳥板蓋宮に「条坊」はありません。
②同年三月辛巳(十九日)に「始めて新しき宮に處をりて」とありますが、孝徳の難波宮遷居は六五一年十二月です。さらに、これに続く「諸の神に幣みてぐらたてまつらむとおもふこと、今歳に屬あたれり」とは、「即位の大嘗祭」の挙行についての詔と考えられていますが(*「孝徳天皇の即位大嘗祭か」岩波注釈)、孝徳紀に大嘗祭記事はありません。
ところが、文武二年(六九八)に文武の即位の大嘗祭が挙行されており、文武が初めて藤原宮で執政し、藤原宮で大嘗祭を執り行っているのです。
◆『続紀』文武二年(六九八)十一月癸亥(七日)。使を諸国に遣して大祓おほはらへせしむ。己夘(二十三日)、大嘗おほなめす。直広肆榎井朝臣倭麻呂、大楯を竪たて、直広肆大伴宿祢手拍たうち、楯桙たけほこを竪つ。
従ってこの②の記事は、藤原宮での文武(幼名「軽皇子かるのみこ」)即位二年(六九八)の事績を、幼名が同じ「軽皇子」である孝徳の即位二年(『書紀』大化二年・六四六年)に移したものと考えれば、「新しき宮」も「即位の大嘗祭」も当然のことになるのです。なお、六九五年が元年の九州年号大化と、六四五年が元年の『書紀』大化は「五〇年」ずれており、この記事も「五〇年」前の「六四八年」に移されるべきところですが、「即位の大嘗祭」記事ですから、孝徳の大嘗祭とするために即位二年(六四六)に移されたのだと考えられます。
③「宮の東門」への行幸と右大臣の詔
◆大化二年(六四六)二月戊申(十五日)天皇、宮の東の門に幸す。蘇我の右大臣をして詔せしめて曰く「明神御宇日本根子天皇、集侍うごなりはべる卿等・臣・連・国造・伴造及び諸の百姓に詔はく(以下略・鐘匱の制)」
これは天皇が難波宮の内裏にいてこそ成立する記事で、六四六年には「内裏」も「東門」も存在しません。そもそも前期難波宮に「東門」の存在は確認されていません。一方、奈良文化財研究所二〇〇三年の発掘調査により、藤原宮の十二の朝堂の外側に、大極殿院から伸びる回廊(複廊)が巡らされ、「東門」は北から二番目の「朝堂院東第二堂南東」に設けられていたことがわかっています。藤原宮であれば、天皇は大極殿院から回廊を渡り東門に幸したことになります。そして、朝堂院東第一堂には大臣が椅子に着座。最大の朝堂である第二堂では大臣に次ぐ納言・参事等の官僚が床に座り執務したと言われています。「東門」は「宣政門せいせんもん」(政を宣する門)と呼ばれますから、天皇の命で、右大臣が、東門付近の第二堂に参集した官僚に詔を発したと考えれば、『書紀』の文言と藤原宮の遺跡状況が附合します。
さらに「明神御宇あきつみかみとあめのうみしらす日本根子やまとねこ天皇すめらみこと」といった称号は、文武即位時の「現御神あきつかみ止と大八嶋おほやしま國所知くにしらす倭やまと根子天皇すめら」と同工の表現で、これが文武期(藤原宮時代)のものであることを示しています。
④「朱雀門」への天子の行幸
◆大化五年(六四九)三月の「乙巳の朔辛酉(十七日)」に、阿倍大臣薨せぬ。天皇、朱雀門に幸して、挙哀みねたてたまひて慟まどひたまふ。皇祖母尊、皇太子等及び諸の公卿、悉ことごとく随したがひて哀哭みねたてまつる。
「東門」と同様に、六四九年には「内裏もなく天子も不在」の前期難波宮では、この記事は成立せず、藤原宮の朱雀門と考えられるでしょう。(注3)
通説ではこれら条坊や門は『書紀』編纂時の「あと付け」だとしていますが、わざわざ「無いものを有る」と書く必然性はありません。やはり「原典(引用元)」に存在したからそのまま書いた、と考えるのが合理的でしょう。
三、九州年号大化期以前の藤原宮造営記事も移されていた
九州年号大化期の藤原宮関連記事が、『書紀』大化期に移されていたと述べましたが、藤原宮の造営は九州年号大化期以前から始められていたことが、『書紀』持統紀記事からも分かります。
1、『書紀』持統紀に記す藤原宮造営の経過
先ず
①持統五年(六九一)十二月乙巳(八日)に、新益京(しんやくのみやこ・あらましのきょう 藤原京)での宅地の配分についての詔が出され
②持統六年(六九二)正月戊寅(十二日)に「天皇」が街路を視察(「天皇、新益京の路を観す」)します。その後
③同年五月丁亥(二三日)に宮の地鎮祭が行われ(「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」)、
④六月癸巳(三〇日)に「天皇」により宮殿の予定地が視察され、宮室の位置が確認されます(「天皇、藤原の宮地を観す」)。
そうした手続きを経て、宮地の掘削が開始され
⑤持統七年(六九三)二月己巳(一〇日)には、掘り出した屍が別途埋葬されます(「堀せる尸を収めしむ」)。「屍が掘りだされた」というのは、藤原宮が多くの古墳を掘削して造成されたためでした。(注4)
そして同年八月と、翌持統八年(六九四)正月二一日には宮地に行幸し、年末十二月六日に藤原宮に遷居しています。
◆持統八年(六九四)十二月庚戌朔乙卯(六日)藤原宮に遷うつり居おします。戊午(九日)百官拝朝す。
2、舒明・皇極紀の二つの大宮・大寺造営記事
実は、こうした持統紀に記す、「九州年号大化元年(六九五)以前」の藤原宮造営の事績が、「『書紀』大化元年(六四五)以前」に移されていると考えられるのです。そうした例として、舒明紀・皇極紀には共に「大宮・大寺」の造営記事があります。
◆(舒明紀)『書紀』舒明十一年(六三九)七月条に「今年、大宮及び大寺を造作つくらしむ。則ち百済川の側ほとりを以て宮処とす。是を以て西の民は宮を造り、東の民は寺を造る」、同年十二月是月条に、「百済川の側に九重の塔を建つ」、舒明十二年(六四〇)十月是月に「百済宮に徒ります」とあり、この大寺は「百済大寺」、大宮は「百済宮」を指すとされています。
一方、その二年後の『書紀』皇極元年(六四二)九月にも、天皇が「大寺と宮室を造れ」との詔を発した記事があります。
◆(皇極紀)皇極元年(六四二)九月の癸丑の朔乙卯(三日)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「朕、大寺を起し造らむと思欲ふ。近江と越の丁(よほろ *人夫)を発おこせ」とのたまふ。《百済大寺ぞ》復た諸国に課おほせて、船舶を造らしむ。
辛未(十九日)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「是の月に起おこして十二月より以来このかたを限りて、宮室おほみやを営らむと欲ふ。国々に殿屋材とのきを取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮造る丁よほろを発せ」とのたまふ。
この大寺は、文注(《内》)では舒明紀と同じ「百済大寺」とあり、宮室は次の記事から「飛鳥板蓋宮」のこととされています。
◆皇極元年(六四二)十二月壬寅(二一日)に、息長足日広額天皇を滑谷岡に葬りまつる。是の日に、天皇、小墾田宮に遷移りたまふ。
◆同二年(六四三)夏四月丁未(二八日)に、権宮かりみやより移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す。
3、不自然な「飛鳥板蓋宮」の造営記事
しかし、この『書紀』の「宮室を飛鳥板蓋宮とする記事」には大きな疑義があるのです。まず、「是の月に起して十二月より以来を限りて、宮室を営らむと欲ふ」とあるのは、
①「今月から十二月までの間に、宮殿(板蓋宮)を造りたいと思う。」(宇治谷孟・『日本書紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫)とか、
②「この月からはじめて、十二月までには、宮室(飛鳥の板蓋の宮)を(造)営したいと思う。」(山田宗睦・『原本現代訳日本書紀(下)』ニュートンプレス)と訳されています。
しかし、百済宮の造営は六三九年七月~六四〇年十月までの十五か月かかっていますから、九月から十二月までに造営するという計画は非現実的であり、実際は翌年四月完成したとしても七ヶ月しかありません。まして、遠江から安芸までの国々に指示して、工夫を徴発し、かつ各地から木材を集めて造営する大規模な宮ですから、七ヶ月で完成するとは考えられません。
安芸・遠江から人夫を召集するだけでも数ヶ月仕事で、いわんや伐採、運搬、加工し、宮を建設する過程を勘案すれば、完成まで数年は要したと考えるのが常識的です。つまり、皇極元年(六四二)九月の造営詔に言う「宮室」が、六四三年四月に遷居した飛鳥板蓋宮だとは考えづらいのです。
それでは皇極元年(六四二)九月の「宮室」とは何の宮なのでしょうか。
四、九州年号大化期以前の「藤原宮造成の事績」も盗用されていた
1、藤原宮造営詔なら十分な工期が確保される
第二章で述べたように、藤原宮完成後の事績が『書紀』大化期に移されているとすれば、藤原宮完成前の造営の経過が、『書紀』大化以前に移されていることも十分に考えられるのです。九州年号大化が五〇年前の『書紀』大化に移されたように、皇極元年(六四二)九月の「宮室造営」が、「六九二年九月」の藤原宮の造営詔から移されたものであれば、藤原宮遷居は「六九四年十二月」ですから、「十二月より以来を限りて」という詔の期限とも合致します。また、完成までは「二年三ヶ月」かかり、近江と越に加え「遠江を限り、西は安芸」まで「宮造る丁」を徴発し、各国から用材を集めるにしても十分な工事期間となります。
2、「藤原宮之役民作歌」が示す藤原宮造営詔
さらに、皇極元年(六四二)九月の宮室造営詔が藤原宮の造営詔であったことを示すのが、万葉五〇番の「藤原宮の役民の作れる歌」です。
◆万葉五〇番藤原宮之役民作歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 圖ふみ負へる くすしき亀も 新代あらたまと 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝のぼすらむ いそはく見れば 神ながらにあらし
この歌では、藤原宮造営のために、近江の田上山で木材を伐採し、筏を組んで宇治川から藤原宮まで約一〇〇㎞を運んだと歌われています。発掘等の調査では次のような経路で運ばれたと考えられ、宮内には大きな運河の跡も発掘されています。
◆近江田上山→瀬田川→宇治川→巨椋池→木津川→泉の津(陸路)奈良山(陸路)佐保川→飛鳥川・寺川→運河→藤原京
皇極元年(六四二)記事では、宮室と大寺の造営のために「丁(工夫)」の徴発と、諸国・国々に殿屋材(木材)の伐採及び造船が指示されています。「丁」について、十九日記事の「遠江から安芸の丁」は『宮造り担当』(宮造る丁)と明記されていますが、九月三日記事の「近江と越の丁」の担当が記されていません。同じ宮造り担当なら一括して指示すればいいのですが、わざわざ分けています。これは「近江と越の丁は別の担当」すなわち「殿屋材(木材)の伐採」だったからと考えれば、「石走る 近江の国」で殿屋材を伐採し運搬したという藤原宮之役民作歌と整合することになります。
近年、奈良県明日香村で飛鳥板蓋宮(六四三年~六五五)とされる遺跡が発掘されていますが、その全容はまだ明らかではありません。しかし、今後「壮大な」宮が発掘されたなら『書紀』の記述では「工期」が短かすぎ、その逆に「簡素な」宮だったとすれば「遠江から安芸の丁」を徴発するという大規模工事と合いません。つまり、皇極元年の宮室建設詔は「飛鳥板蓋宮」のものではなく、藤原宮造営の詔が皇極紀に盗用されたものと考えるのが合理的なのです。
そして、皇極元年記事の「宮室」が、実は藤原宮だったとすれば、「大寺」は文注にある百済大寺ではなく、文武期大官大寺ということになります。文武期大官大寺は、その金堂と藤原宮の大極殿の大きさが、共に東西四十五m、南北二十一mと一致すること、条坊と合うように計画されていること、出土物(土器や複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、藤原宮と同時期の持統末期から文武初期に建設されたと考えられるからです。
五、盗用された九州王朝の藤原宮と大官大寺の造営
藤原宮や大官大寺造営の事績が、大化年号同様に五〇年前に盗用されているなら、これらの造営は九州王朝の事績となるでしょう。もちろん完成後の文武の時代には藤原宮や大官大寺の主がヤマトの天皇家に代わってしまいます。『旧唐書』に「日本国は元小国、倭国の地を併せたり」と書かれている通りです。『書紀』編者は、この盗用により、「ヤマトの天皇家は七世紀前半の飛鳥時代には既に全国を支配し、北は越・近江、東は遠江、西は安芸まで動員して飛鳥板蓋宮を建設した」という歴史を創造したのだと考えられます。
注
(注1)『襲国偽僭考』でも歴代中国と交流してきた九州の「熊襲・隼人」が年号を建てたと記す。
(注2)①六五二年の九州年号白雉改元は、難波宮完成年と一致すること
②六六一年の白鳳改元は、『海東諸国紀』の近江遷都年と一致すること、
◆「『海東諸国紀』(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」。
(注3)『阿倍大臣』とは大化元年左大臣に任命された阿倍内麻呂(倉梯麻呂)とする。しかし『阿倍大臣』は藤原宮時代にも一人存在する。それが「右大臣従二位阿倍朝臣御主人みうし」で、彼は大宝元年(七〇一)七月に左大臣が空白になって以降、臣下の最高位を務め、「大宝三年(七〇三)閏四月『辛酉』(朔日)」に逝去している。彼の逝去なら天皇(文武)・皇太妃(母の阿部皇女、後の元明天皇。持統崩御後は事実上の太上天皇)らが弔意を表しても全く不自然ではない。
そして『書紀』の『阿倍大臣』の逝去は「大化五年(六四九)三月『辛酉」(十七日)」。この暦日(干支)に注目し、大宝三年(七〇三)閏四月「辛酉」の記事を、干支付きで大化五年に移せば、大化五年四月に「辛酉」は無いため、大化五年三月辛酉(十七日)となる。
なお大化五年は九州年号「常色三年」にあたるので、より正確には「大宝三年記事を九州年号常色三年に移した」となろう。
(注4)「京内の至る所にあった全ての古墳が削平されました。四条町にある四条古墳の藤原京造営時の削平は非常に有名です。」「藤原宮跡の正面(南側)の日高山(低丘陵地)横穴墓には削平され改葬されたことが明らかなものが存在します」(橿原市教育委員会)、とある。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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