都城造営尺の論理と編年 -- 二つの難波京造営尺(会報158号)
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造籍年のずれと王朝交替
戸令「六年一造」の不成立
京都市 古賀達也
一、はじめに
本年十一月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー二〇二〇)で〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―〟というテーマで研究発表するにあたり、以前から気になっていた問題を論じます。それは七世紀中頃から八世紀初頭にかけての古代戸籍の造籍年間隔の〝ずれ〟についてです。
二、『養老律令』の「六年一造」
古代戸籍には基本となる二つの定点があります。一つは現存最古の「大宝二年籍」(七〇二)で、もう一つは最古の全国的戸籍と考えられている「庚午年籍」(六七〇)です。両戸籍の造籍年は九州王朝と大和朝廷の王朝交替の七〇一年をまたいでおり、その痕跡が古代戸籍の造籍年間隔に現れています。
古代戸籍は六年間隔で造籍することが『大宝律令』や『養老律令』で規定されています。通説では、「庚午年籍」(六七〇)と「庚寅年籍」(六九〇)・「持統十年籍」(六九六)、そして「大宝二年籍」(七〇二)へ続くとされています。なお、「持統十年籍」に対して「持統九年籍」(六九五)とする説(注①)もあります。
「凡戸籍六年一造」『養老律令』戸令
「庚寅年籍」(六九〇)・「持統十年籍」(六九六)・「大宝二年籍」(七〇二)は六年間隔で造籍されているのですが、最初の「庚午年籍」と「庚寅年籍」とは二十年の間隔があり、六年では割り切れません。この現象を多元史観・九州王朝説で説明すれば、「庚午年籍」は九州王朝による造籍、「庚寅年籍」以降は近畿天皇家による造籍であり、王朝交替期での混乱の結果、六年ごとの造籍がなされなかったと考えることができます。
しかし、大和朝廷は自らが滅ぼした九州王朝時代の「庚午年籍」を基本戸籍として永久保存を律令に規定し、そのことを全国の国司に命じています。それでは九州王朝の造籍年間隔はどうだったのでしょうか。
三、九州王朝も「六年一造」か
「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表格は「庚午年籍」です。この庚午年(六七〇)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究によれば、『日本書紀』に九州王朝の造籍の痕跡と考えられる記事があります。孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の次の記事です。
「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年(六五二)正月条
この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前の二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(注②)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(六五二)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(六五二)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条に移動されたものと考えられます。
こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田した主体も九州王朝となります。そして、班田のためには直近の戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(六五二)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(六五二)と「庚午年籍」(六七〇)の間隔は十八年であり、六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような六年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。
四、九州王朝初の「命長七年籍」
九州王朝が六年ごとに造籍していたことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。
「東国等の国司に拜めす。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校かむがへよ。」大化元年(六四五)八月五日条(東国国司詔)
「甲申(十九日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録しるす。」大化元年(六四五)九月条
「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(六四六)正月条(改新詔)
このように大化二年(六四六)に、初めての造籍・班田収授之法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したとあり、このとき初めての造籍が開始されたことがうかがえます。この大化二年(六四六)は先に指摘した「白雉元年籍」(六五二)造籍の六年前です。従って、この大化二年の記事も六年ごとの造籍を示しているのではないでしょうか。
もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(六四六)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍(命長七年籍)を行い、その六年後の白雉元年(六五二)に二回目の造籍(白雉元年籍)を実施し、その後も六年ごとに造籍し、白鳳十年(六七〇)の「庚午年籍」(白鳳十年籍)に至ったと推察できます。もしかすると、白鳳四年(六六四)については白村江戦の翌年であり、敗戦時の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
「庚午年籍」(六七〇)造籍後も、「庚寅年籍」(六九〇)までは造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとっても造籍のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、六七二年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統四年(六九〇)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており(注③)、大宝元年(七〇一)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
以上の考察の結果、六年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(六七〇)と「庚寅年籍」(六九〇)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。
五、「庚午年籍」を造った王朝
本稿では、九州王朝と近畿天皇家が「六年一造」で造籍を行ったことを明らかにし、「庚午年籍」(六七〇)と「庚寅年籍」(六九〇)の間で造籍年間隔にずれが生じていることを、王朝交替(七〇一年)に向けての混乱の結果であるとしました。その前提の一つに、「庚午年籍」(六七〇)を九州王朝による造籍とすることがありますが、このことは白村江戦以後の九州王朝の実態研究において重要な意味を持ちます。
一例をあげると、『続日本紀』によれば、「庚午年籍」は筑紫諸国でも造籍されており(注④)、この庚午年(六七〇)の頃は唐軍による筑紫進駐の時期と古田説では理解されています。このことは唐の筑紫進駐軍の下で「庚午年籍」が造籍されたことを意味します。
たとえば、唐軍から筑紫を追われた「九州王朝の斉明」(注⑤)なる人物が愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地に遷都したとする仮説(合田洋一説、注⑥)があります。その仮説に従えば、「九州王朝の天子(斉明)」以外の筑紫にいた権力者により筑紫の「庚午年籍」が造籍されたことになります。筑紫を追われた勢力に、筑紫諸国の造籍などできるはずがないからです。
更に『養老律令』戸令では、諸国の国司に命じて戸籍を作成し、その写し一通を当該国に、二通を太政官へ提出することを命じています。律令制下における戸籍とは、徴税や徴兵そして班田収授の際の基本台帳ですから、中央政府による統一した管理運用が必要であることは当然です。従って、「庚午年籍」を造籍した九州王朝はそれにふさわしい規模の官僚群(注⑦)と大規模中央官衙を擁していたと考えざるをえません。
『大宝律令』と「大宝二年籍」に基づき全国統治した大和朝廷(日本国)は日本列島中最大規模の藤原宮(藤原京)、その後の平城宮(平城京)に君臨していました。古代日本の代表王朝として当然のことです。そうであれば、七世紀における代表王朝の九州王朝(倭国)もそれにふさわしいの規模の王都を持っていたと考えるべきです。「庚午年籍」が造籍された六七〇年当時、そのような官僚群が居住できる大都市遺構や政務遂行が可能な宮殿・官衙群遺構は、太宰府条坊都市、前期難波宮と官衙群(難波京条坊都市)、全体像未詳の近江大津宮くらいです。それ以外に、全国統治が可能な規模の都城遺構は発見されていませんし、西条市「紫宸殿」の地も都城遺構出土の報告はありません。
七世紀(律令時代)における九州王朝の都城や遷都を論じる場合、この考古学的事実と整合しない仮説は学問的に成立困難です。このことを明確にするために、わたしは〝「庚午年籍」を造った王朝〟を執筆中です。
〔令和二年(二〇二〇)六月十日筆了〕
(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』吉川弘文館、一九九二年。
②古賀達也「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
④『続日本紀』聖武天皇、神亀四年(七二七)七月条に「筑紫の諸国、庚午年籍七百七十巻、官印を以て之を印す。」とあり、筑紫諸国の「庚午年籍」が造籍されたことがうかがえる。
⑤『日本書紀』成立の数十年後に、淡海三船により追記された漢風諡号「斉明」を九州王朝の天子の名前とする仮説には史料根拠がなく、論理的にも成立し難いとわたしは考えている。別途、詳述したい。
⑦服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京 -- 太宰府都城と官道』(古田史学の会編・明石書店。二〇一八年)所収によると、古代における律令制中央官僚の人数は約八千名であり、それら官僚と家族が生活できる大規模な条坊都市が不可欠とされた。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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