2020年8月12日

古田史学会報

159号

1,移された「藤原宮」の造営記事
 正木 裕

2,造籍年のずれと王朝交替
 戸令「六年一造」の不成立
 古賀達也

3,「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について
 「九州倭国王権」の貨幣として
 阿部周一

4,「俀国=倭国」説は成立する
 日野智貴氏に答える
 岡下英男

5,磐井の乱は南征だった
 服部静尚

6,「壹」から始める古田史学
 二十五 多利思北孤の時代
仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生
古田史学の会事務局長 正木裕

 

古田史学会報一覧

七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで(会報157号)
磐井の乱は南征だった 服部静尚 (会報159号) ../kaiho159/kai15905.html
改新詔は九州王朝によって宣勅された(会報160号)

「壹」から始める古田史学 十七「磐井の乱」とは何か(1) (会報151号) 十八 十九 正木裕

九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎 合田洋一(会報130号)


磐井の乱は南征だった

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 『日本書紀』では多くの漢籍の文章を転用しての記述がなされていますが、継体紀磐井の乱の記述では唐の『芸文類従』よりの転用が集中しています。ここではこの転用に注目し、そこから磐井の乱について考察します。

 

二、『古事記』と『日本書紀』における磐井の乱の記述

 左に磐井の乱記述を私訳で示します。尚、【】内は『芸文類聚』よりの転用部です。但し固有名詞はその限りではありません。
(古事記の記述)
◆此御世に、竺紫君石井は天皇の命に従わず、礼無きことが多かった。故に、物部荒甲之大連と大伴之金村連の二人を遣わして、石井を殺させた。
(日本書紀の記述)
◆廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣が六萬の兵を率い任那へ行き、新羅に破れた南加羅・喙己呑とくとこんを復興させて任那に併せようとした。是に、筑紫國造磐井は密かに反逆の隙を狙っていた。新羅は是れを知り、密かに磐井に賄賂を贈って、毛野臣の軍を阻止するよう勧めた。
 是に、磐井は火・豊の二國に勢力を及ぼし(朝廷の)職務を行わせなかった。外は海路を遮さえぎって、高麗・百濟・新羅・任那等の國の年ごとの貢職船を誘致して、内は任那に遣わした毛野臣の軍を遮り、乱語揚言して曰く「今は使いだが、昔は吾が伴であって、肩すり肘を触れあって、共に同じ器で食した仲だ。使者になった途端にどうして、お前の前に伏せなければならないのだ。」と、遂に戦となり受け入れず、驕おごり自らほこった。是によって、毛野臣は中途で阻止され滞留した。天皇は、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔みことのりした「筑紫の磐井は叛いて、西戎の地を占有した。今、誰を将軍にすればよいだろう」。大伴大連等は皆「正直で仁勇で兵事に通じているのは、今は麁鹿火の右に出る者はいない。」と申し上げた。天皇は「よし」と仰せられた。
 秋八月辛卯朔、「大連よ、磐井が従わない。お前が行って征伐せよ【①咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征】」と詔した。物部麁鹿火大連は再拝して「磐井は西戎の狡猾な輩で川の阻はばみを頼みにして朝廷に従わず【②嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭】、山の険しさを利用して【③憑山峻】、反乱を起した【④稱亂】。徳を破り道に背き傲慢でうぬぼれている【⑤敗德反道、侮嫚自賢】。我らは道臣より大伴室屋に至るまで帝を助け戦い、民を苦しみから救ってきた、昔も今も変わらず臣は常に、ただ天が助ける所に【⑥在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊】重きを置いており、つつしんで討伐します。」と答えた。
 詔して曰く「良将の戦とは厚く恩恵を施し慈悲をもって人を治め、攻撃は川の決壊のように激しく戦法は風のように早いものだ【⑦良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發】」。重ねて詔して曰く「大将は民の生死を握っている国家の存亡はここにある【⑧大將、民之司命。社社稷存亡於是乎在】。力を尽くせ、つつしんで天罰を加えよ【⑨勗哉、恭行天罰】。」天皇は自ら斧とまさかりを取って大連に授けて曰く「長門以東は私が統御しよう、筑紫以西はお前が統御せよ。賞罰は頻繁に奏上せず専行してよい【⑩長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏】。」
 廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火はみずから賊帥磐井と筑紫御井郡で交戦した。軍旗・軍鼓が土ぼこりの中に両陣が向き合って必死に戦った【⑪旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地】。遂に磐井を斬って、ついに境界を定めた。十二月、筑紫君葛子は父の罪によって誅殺されることを恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪の免除を願った。

 

三、記紀の記述より言えること

(1)記紀ともに、物部アラカイらに磐井が殺されたと言う点では一致しています。ただし、『古事記』はその点だけの記述であるのに対して、『日本書紀』は圧倒的に詳しい。古田武彦氏の指摘通り、七一二年の『古事記』完成後に九州王朝の史書を手に入れた大和朝廷が、これを取り込んで七二〇年『日本書紀』を完成させたとすると、この磐井の乱についての詳細記述は九州王朝の史書に書かれていたものを元にして創作されていることになります。『芸文類聚』よりの①~⑪の転用も、元は九州王朝による記述にあったものに手を加えたと考えられます。

 

(2)『芸文類聚』は唐の時代六二四年に成立した、過去の名文・名句を集めた百科事典のような書物です。第一巻の天部上から第百巻の災異部までの構成であって、磐井の乱の記述では第五十九巻の武部からの転用が集中しています。この武部は「将帥」と「戦伐」に二分類されていて、継体天皇がアラカイを出征させるやりとりの部分の①~⑥は「戦伐」からの転用です(⑦~⑪は将帥および戦伐からの転用ですが、ここでは省略します)。この「戦伐」部には、添付表に示すとおり合計九十七件の名文・名句が掲載されています。この「戦伐」には概ねどちらの方向への出征を記述したものかが判るものがあります。これを私なりに分類して、添付表の最右欄に示しました。東征九件、西征九件、南征二十二件、北征二十二件、不明なものも含めてその他三十五件となります。

 (添付表)『芸文類聚』/巻059 武部ー戦伐

 

(3)繰り返しますが、継体天皇がアラカイを出征させるやりとりに転用された漢籍は、全て『芸文類聚』「戦伐」よりの転用です。畿内にいた継体天皇が九州の磐井を討つ話しなので、当然『日本書紀』の立場は西征となります。
 ところが驚くことに、そこに転用された①~⑥までが南征に関する名句名文なのです。①「禹が南方の敵、苗を征討」、②「魏の楊脩が呉征討に出征」、③「晋の張載が呉を討つ」、④「晋の陸士竜が南征」、⑤は①と同じ、⑥は「魏文帝の黎陽作詩」からの転用で鄴城から韓陵へととると南征となります。
 ちなみに、⑦は「将帥」太公望が書いたとされる兵法書『黄石公三略』よりの転用で方向はなく、⑧も「将帥」『抱朴子』よりの転用で方向はなく、⑨は「戦伐」『尚書』よりの転用で東征、⑩は「将帥」『漢書』よりの転用で特に方向はないのですが敢えて言えば対匈奴で北征となります。⑪は「将帥」北魏の廣陽王が北征大将を請けた際の表で北征という具合です。

 

(4)『芸文類聚』「戦伐」には九件の西征に関わる名句名文があるのに、なぜ西征は一件も無く、南征に関わる名句名文を六カ所続けて転用しているのか、これは偶然とは言いがたく、この編纂者は意識してこの転用をしていると考えられます。つまり、磐井を攻めるための進軍は実は南征であった可能性が高いと考えられるのです。この結論付けには二つの反論が予測されます。一つ目は添付表に示した私の南征等の分類が正しいかどうかです。これについては『芸文類集』はインターネット上『維基文庫』で全文公開されていますのでご確認ください。二つ目は、述作者は南征とかそのようなことを気にせず転用しているに違いない。偶然が重なっただけだという見方です。もちろん断定はできませんが、これは確率の問題です。この母数の中で、六回続けて南征を選ぶ確率を計算すると約一万分の一なのです。やはり述作者は南征を意識していたと考えるべきでしょう。

 

 (5)次に⑩に出てくる長門地名です。大化六年(六五〇)穴戸の国司が白雉を献上、天智四年(六六五)には長門国に築城と(国名としての長門が)初見されます。この穴戸と長門は同じ国を指しているようなので、六五〇~六六五年の間に穴戸国から長門国に改められたようです。その長門がここに出てくるので、後代の知識で書き換えられたもしくは書き加えられたと考えられるのです。ちなみに、⑩で転用された『漢書』の「闑以内は寡人(朕)が之を制する。闑以外は将軍が之を制せよ、軍功爵賞は皆外に決せよ」は、天子が将軍を派遣する際の言葉です。派遣先での論功報償は全て将軍の一存で決めて良い、一切を任せて帰国後もそれを翻すようなことはしない、それが名君だと、こう教訓する文章です。
 この名句の闑以内を長門以東に、闑以外を筑紫以西に入れ替えているのですが、六五〇年以降の知識で長門以東・筑紫以西を挿入していることが自明となります。

 

(6)継体紀では、先の通り関門海峡で統治を分けようという話しですが、その後「御井郡で交戦し磐井を斬った」、そこで「境界を定めた」、「葛子が糟屋屯倉を貢いで死罪をまぬがれた」と続きます。
 ここに出てくる境界、つまりこの戦争の後に決められた境界を考えると、アラカイ側の戦利領地は博多湾岸から糟屋屯倉を含めて御井郡あたりまでで、これらの地域は元々磐井の勢力範囲であったようです。負けた葛子は勢力範囲を大きく失って、御井郡から肥後辺りまで押しやられたと、文脈からは想定できます。つまりこの戦後の境界、ここからもアラカイは東からではなくて北からやってきたと考えられるのです。北と言っても、前後の記事から朝鮮半島からとは考えにくいので、壱岐・対馬からと考えて良いのではないでしょうか。

 

(7)ここまで考察を進めてくると、茂山憲史氏が提起された「倭」から「アマ」への九州王朝内の政権交代(注)説が有力となってきます。⑥および⑨の転用文で「天」が出てきます。原文に天があるのですが、これもたまたまとは考えにくいのです。アマ族の本拠であった壱岐・対馬そこから博多湾岸そして御井へ攻め上った、その際に活躍したのが、大伴と物部という構図でしょうか。八世紀の大和朝廷の史官が、この構図を、(正木裕説が言う)朝鮮半島の話しを加えて、全く別の構図に置き換えたと考えられるのです。

 

(8)磐井の乱は六世紀初頭の事件と考えられますが、『芸文類聚』は六二四年の成立で、その後我が国に伝わったと考えられます。そこに六五〇年以降の知識で「長門」地名が加えられています。
 そうするとこれらの記述は、おそらく事件後百年以上経て九州王朝の史官によって『芸文類聚』の名句名文で修飾成文化されて、その後(事件から二百年後)その九州王朝史書の記録を元にして、大和朝廷の史官によって全く別の構図の事件に書き換えられたものと考えられます。

 

(注)『宋書』で倭讃・倭済・倭隋などと残る倭王(倭隋は高臣?)の姓は「倭」ですが、『隋書』の日出る処の天子の姓は「阿毎」です。つまりこの間に、九州王朝内で「倭」から「アメ」に政権交代があったとする説です。ちなみに、同じ王朝で王姓が変わる例は朝鮮半島にもあります。
 『三国史記』によれば、高句麗の場合、扶余王の解夫婁かいふるが石の下から生まれた金色の蛙の形をした子ども(金蛙きんあを世継ぎにした。金蛙の子の一人である卵から生まれた朱蒙(後の東明聖王)が、金蛙の跡を嗣いだ長子の扶余王から逃れて、高句麗を建国したので、「高」を氏の名としたとあります。つまり「解」から「高」に代わっています。
 同じく新羅の王姓は、卵から生まれた初代は「朴」(瓢箪)、四代目の脱解王からは「昔」、十三代目の味鄒からは「金」氏となったとあります。朴氏と昔氏の二姓(後に金氏を加えて三氏)の中で年長者が王位を継ぐとされています。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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