「倭国年号」と「仏教」の関係(会報157号)
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移された「藤原宮」の造営記事 正木裕(会報159号)
「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について
「九州倭国王権」の貨幣として
札幌市 阿部周一
「論旨」
「無文銀銭」はその「銀銭」の形状のまま「半島」から流入したと推定されること、「藤原宮」遺跡から出土した従来型と異なる「富本銭」は「初期型」と理解され、その鋳造時期は「無文銀銭」の使用開始時期(「隋末」から「初唐」)とあまり違わないという想定ができること、「富本銭」は「九州倭国王権」の手によるものと推定できること、以上を考察します。
(前論)
本論に入る前に、以下で述べる「富本銭」の性格とも関係してくることから、以前投稿した「無文銀銭」に関する拙稿(註一)の中で「無文銀銭」を「国内製造」として考えていたものを改め、海外から(半島から)「銀銭」の形で流入したものと見直しすることをここに簡単に述べます。
その理由としては当時「銀」についての「精錬」及び「鋳造」に関する技術が全くなかった、あるいは整っていなかったという知見が得られたためです。
「銀精錬」の工程を見ると、「灰吹き法」として「素吹すぶき」という工程があり、ここでは「細かく砕いた銀鉱石」に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除くことにより「貴鉛きえん」(銀と鉛の合金)を作ります。このような工程は「銀鉱石」が採掘される現場で行われるのが通例であり、これを行わず「銀鉱石」のまま「海外」から流入したとは考えられません。「銀山」の存在とそこから採掘された「銀鉱石」を精錬する技術は一体のものと考えられ、当時倭国内には「銀山」がなかったと考えられますから、それは即座に「製錬技術」もなかったと考えざるを得ないこととなります。
また、それは「開通元寶(或いは開元通寶、以降は開通元寶と表記する)」に同調させるために新しく「貨幣」を作らず、「小片」(これは「無文銀銭」を切断したものと推定される)を付着させて対応していると推定されることからも言えることです。本来ならば「新貨幣」を作るべきであったものですが、そのためには「銀材料」から精錬して「貨幣」を作るという工程を経なければならず、それが「国内」では「不可能」だったことを示していると思われるからです。そう考えると「半島」で既に「銀銭」の形状とされてから国内に流入したこととなると思われ、「新羅」などからの「調」として「倭国」に貢上されたものと推定します。
「新羅」では「文武王」の時代に「唐」に対する「謝罪」の一環として「金銀」等を貢上していますが、それを見ると単位が「分」で表されており、これは「重量」と言うより「枚数」の単位としての表現と考えられます(註二)。これは「銭貨」の形で製造されたものを「貢上」したことを示すと推定され、同様なことがそれ以前に「倭国」に対しても行われていたと見るのが相当と思われます。(これは「松村恵司氏」の意見(註三)を参考としました)
(以下本論)
・新型の「富本銭」出土について
「二〇〇七年十一月」に「藤原京」遺跡から「富本銭」が出土しましたが、それはそれ以前に発見されていたものとは異なる種類のものでした。「飛鳥池工房」などで造られていたものよりやや厚く(そのため重量もやや増加しています)(註四)、「アンチモン」を含有していないものがあったというのが大きな特徴です。
「銅鐸」を初めとした「青銅製品」には欠かせないものが「錫」でした。前代より「銅製品」を作るには「錫」との合金が最も伝統的であり、ポピュラーであったものです。その意味では「アンチモン」という元素が「富本銭」で「合金材料」として使用されたこと自体が「イレギュラー」であったのではないかと考えられます。
「アンチモン」は「融点管理」も困難であり、そのことが「鋳上がり不良」が多発する誘因ともなったものと見られ、また「毒性」も「錫」よりはるかに強く、「銅合金材料」として好んで選ぶものとはいえないと思われます。その様なものが合金材料として使用されているというのは、「錫」が「銅」と共に国内には当時産出していなかったと見られることにつながっています。つまり本来の調達ルートに何らかの支障が発生したため、国内に「錫」ないしは「錫」の代替材料を探した結果、「アンチモン」を採用したという経過が想定されるものです。そしていずれも入手が困難であった段階では「錫」も「アンチモン」も含まない「純銅」ともいえるものも生産されたようであり、かなり試行錯誤が行われていたことが窺えます。(ただし、「純銅」の場合その色合いは「金」には似てくるものの、「銀」とは明らかに異なるものとなります。「銀銭」との互換性を目指した「倭国王権」にとって見るとそれは不都合であったのかも知れません)
一般論的に言うと、貨幣鋳造に当たっては初期よりも後期鋳造品は軽くなる傾向があり、それはその方が原価が下がるため(原材料使用量が減少するため)、採算性の点からも軽量化されるのが普通であるのに対して、この場合では逆に重量化されていることとなります。
そもそもこの発見された「富本銭」は「鋳上がり」も余り良いとはいえず、線も繊細ではありませんし、それ以前に発見されていたものが「富」の字であったものが「冨」になっており「ワ冠」になっています。また「内画」(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため「冨」と「本」がやや扁平になっており、窮屈な印象を与えます。「冨」の中の「横棒」がないのも特徴ですが、これは「スペースがない」という制約から来るものでしょう。また、「七曜紋」も粒が大きく、各粒間の距離が取れていないためこれも窮屈に見えます。さらに「従来型」の「富本銭」が全体としてほぼ「左右対称」になっているのに対して「新型」の場合「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっており、このため全体としても非対称の印象が強くなっています。
これら意匠の部分でも「従来型」の「富本銭」と比べて「洗練」されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆されます。そのことはこの「冨」の字に使用されている「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するものであって、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀氏による指摘(註五)との関連を踏まえると、この「富本銭」についてはその製造時期がかなり遡上するものと推定できます。
一般にはこれを「従来型」と同時期あるいはその後期の別の工房の製品と見るようですが(註六)、それは困難であると思われます。そのような事を仮定すると「工房」(というより「鋳造所」)ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなりますが、「富本銭」の鋳造に「国家的関与」があったとするとそのような状況は非常に考えにくいものです。なぜなら当時「重量」は「銭貨」にとり非常に重要なファクターであり、同時代ならば同重量であるのが自然でありまた当然と思われるからです。これらは明らかに「時期」と「状況」が異なることを推定させるものであり、その場合「新型」の「富本銭」は「従来型」に先行すると考える方が状況をよく説明できると思われます。
発見された「富本銭」は「水晶」と共に口の細い「平瓶ひらか」状容器に封入されていました。これはいわゆる「地鎮具」であり、「大極殿」の「正門」と思われる場所からの出土でしたから、「宮殿」全体に対する「守護」を願い、「事故」や「天変地異」などに遭わないようにという呪術が込められていたと思われます。
このような「地鎮具」に封入されるものとして「特別」なもの、あるいは「希少」なものが用意されるというのは当然あり得ることであり、「王権内部」で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来るのではないかと考えられます。
(なおこの「新型」の「富本銭」については含有する「鉛」の放射性同位体比の測定が行なわれていないようであり(註七)、その産出地も国内なのか国外なのかを含めて明確になっていません。ここではその論理的帰結として「銅材料」以下海外からのものと理解していますが、専門機関による分析が不可欠と考えられます) この「富本銭」が「初期」型であったとすると、その平均重量が「6.77g」と言うことから「無文銀銭」との関連が注意されます。
拙稿(註八)で述べたように「無文銀銭」は「当初」「五銖銭」と互換性を持たせられていたとみられ、「6.7g」程度の重量という規格であったと思われますが(後の換算比率から見て「銀」対「銅」は(同重量ならば)一対十で交換されていたものと推定され、この場合「無文銀銭」一枚に対し「五銖銭」二十枚で互換となります)、その後「唐」で新たに作られた「開通元寶」と換算が容易になるように(新貨幣を作る技術がなかったため)「応急的に」「小片」が付加されることとなったものであり、その段階で約10g程度の重量となったものと推定されます。このように「小片」を付加した結果「無文銀銭」二枚が「開通元寶」の五枚分の重量と同重量となりますが、価値の比率は変わらず一対十であったものですから結果として「無文銀銭」一枚に対し「開通元寶」二十五枚で互換となります。
このような「無文銀銭」の流れから推定して、「6.77g」という重量の「新型」の「富本銭」は、「開通元寶」の鋳造前かあるいは「唐」の「開通元寶」鋳造という「情報が伝わっていない時点」での製造ではないかと考えられることとなり、「隋末」から「初唐」の時期が推定されることとなります。このことからこの「富本銭」は「倭国年号」でいう「倭京」改元付近にその鋳造時点が推定できそうですが、それは「富本銭」について「新日本王権」(近畿王権)の手によるものとは言えなくなることを示すものであり、それはまた「地鎮具」として埋められていた「藤原宮」そのものについての考え方にも影響するものとなるでしょう。
(註)
一.拙稿『「無文銀銭」―その成立と変遷―』「古田史学会報一一〇号」二〇一二年六月十日
二.『三国史記』「文武紀」によれば「(文武王)十二年九月…伏惟 皇帝陛下 明同日月 容光並蒙曲 德合乾坤 動植咸被亭毒 好生之德 遠被昆蟲 惡殺之仁 爰流翔泳 儻降服捨之宥 賜全腰領之恩 雖死之年 猶生之日 非所希冀 敢陳所懷 不勝伏劒之志 謹遣原川等 拜表謝罪 伏聽勅旨 某頓首頓首 死罪死罪 兼進貢銀三萬三千五百分 銅三萬三千分 針四百枚 牛黄百二十分 金百二十分 四十升布六匹 三十升布六十匹…」とされ、「唐」への謝罪の一環として「金」「銀」「銅」などが大量に貢上されており、それらは全て「分」で記載されており、大きな「インゴット」ではなく既に小さいパーツとなっていたことを窺わせます。
三.松村恵司『日本の古代銭貨』「国士舘大学主催シンポジウム「古代における東西の銭と文字瓦」より基調講演として」二〇一〇年十二月
四.飛鳥池工房跡から出土したものは重さが4.5グラム前後です。
五.古賀達也「古賀達也の洛中洛外日記 第二〇九九話『「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見』(1)からその(5)までの論
六.当時調査を担当した「松村恵司氏」(現「奈文研」所長)の見解では『日本書紀の六八三年に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ」と記されたのが飛鳥池遺跡出土の富本銭とみられ」るとされ、「六九四年の遷都を機に、富本銭の鋳造場所が飛鳥池遺跡から藤原宮内の鋳銭司へと移ったのではないか』とされているようであり、「新型」の「富本銭」の方が新しいとされているようですが。これに疑問があるのは上に述べたとおりです。
七.当方が「奈文研」に照会した返答によれば『表面を僅かに削ることさえも「破壊検査」となるため、当該富本銭については「鉛の放射性同位体分析」は行っていません』とのことでした。(二〇一三年七月十六日に「松村恵司所長」よりメールにて回答あり)
八.註一に同じ。拙稿『「無文銀銭」―その成立と変遷―』「古田史学会報一一〇号」二〇一二年六月十日
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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