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「倭国年号」と「仏教」の関係
札幌市 阿部周一
「要旨」
「聖武」の僧尼の公験に関する「奏上」とそれに対する「詔報」についての解析から「綱帳」(寺院側の資料)にだけ「白鳳」「朱雀」という年号が使用されていたらしいこと、その「綱帳」つまり「僧尼帳」は「公文」とは言えないこと、「墓碑」「骨蔵器」等は「仏教関係資料」とみなすべきこと、「年号」の制定と使用は仏教の伝来・導入と関係していると思われること、「年号」が仏教と関連していることから「阿毎多利思北孤」と「弟王」という「聖」と「俗」の関係の帰結として実際の治世では「年号」が使用されなかったと見られること、七世紀半ばの「白雉」改元以降「仏教」と「年号」が切り離されたらしいこと、新日本王権により「年号」が「統治行為」の一環として「律令」の中に位置づけられるようになったこと、以上を考察します。
Ⅰ.「聖武」への奏上とそれに対する「聖武」の「詔報」
「多元的古代研究会」の会報「多元」(一五四号)に服部氏が私のブログ記事(註一)を引用された上で「金石文に九州年号が少ない理由」というタイトルで「倭国年号」が「金石文」等に見られないのは「倭国律令」に『「公文」の日付には「年号」を使用する』という規定がなかったからという論を発表されました。(註二)それに関して古賀氏から「倭国律令」には「年号使用規定があった」とする論が出されています。そこでは「木簡」には禁止規定があったとされ、それ以外の「仏像」の「光背銘」や「墓碑」「骨蔵器」「縁起録」等々には許可したとされるとされているほか、「僧尼の名簿」(「僧尼帳」)について「公文」であるという認識も示されており(註三)、傾聴に値すべき意見とは思いながら、当方は別の可能性を考えています。
私はブログ記事の中で「木簡」あるいは「金石文」からはほぼ「年号」使用の形跡がないことについて、「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察しました。(『令集解』からの検討による)それと関係していると思えるのが「聖武天皇」への奏上の中身です。
「(神龜元年(七二四年))冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。」(続日本紀)
ここでは「入道」の理由が不明の僧尼について処置を請う担当官僚の奏上に「綱帳にはあるが、官籍にはない」という言い方がされています。(註四)「綱帳」は営々と続く出家の記録であり、その「綱帳」には年号付きで記録が残されていたものと思われるわけです。この「綱帳」つまり「三綱」が保有している寺院側の「僧尼帳」については、「官籍」とは別とする表現からも、さらに「公」という字義からも「公文」とはいえないと思われます。
「公」とは「十七条憲法」などでも際だって説かれている概念であり、「阿毎多利思北孤」当時形成されたと思われるものですが、基本的には最高権力者としての「王権」に直接関わるものについての表現です。つまり「王権」が関わった文書を「公文」と呼称するのであり、「中央官庁」だけではなく地方の役所が発行するような文書等についても適用される概念ですが、他方「寺院」が独自に作成したものは、その趣旨からいって「公」の名を冠して呼称することはあり得ないといえます。
また前述した古賀氏が指摘の「年号資料」などは実際にはいずれも「仏教関係資料」と一括できる性格のものであり、それらは「綱帳」と同様「寺院」側で作成等に関わったものと思われ、いわゆる「公文」ではないと考えられます。そう考えると「公文」には全く「年号」を記載した資料が確認できないこととなりますが、この状況を説明するのにもっとも適切なものは服部氏の論にあるように当時の「律令」にはそのような規定がなかったという解釈でしょう。
Ⅱ.「倭国年号」と「仏教」
「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察したわけであり、また「僧尼」の「戸籍」ともいうべき「綱帳」には「年号」が使用されていた可能性を指摘したわけですが、『書紀』を見ると『推古紀』に「僧尼」の戸籍ともいうべきものが作成されたと書かれています。
「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。 壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。 秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」
このデータベースには「度之年月日」つまり「得度」した日付が「年月日」として記録されているというわけですが、この日付の「年」はどのような「表記」であったのでしょうか。
そもそもこの記事は「観勒」(と称せられている人物)の上奏記事の延長にある関連記事ですが、「観勒」記事そのものが「古賀氏」が検討したように(註五)実際には五世紀末付近のものと推定されており、それと内容的にも関係の深い記事であることから、この「僧正」らを定めた記事も同様に一二〇年ほど遡上すると推定したものです。つまりこの記事は「僧正」「僧都」というような「僧尼」を管理する体制が「五世紀」の通交のあった南朝劉宋から導入されたものであり、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたと考えられる事と関連していると思われます。(「年月日」を記録するには「暦」が必要ですから)そして、この「元嘉暦」の導入と深い関係があるのが「年号」の使用開始です。
『書紀』の日付については「元嘉暦」と「儀鳳暦」(麟徳暦)が両方とも使用されていることが判明しており、特に「元嘉暦」は『書紀』内の日付に使用されはじめたのが、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前は「儀鳳暦」で表記されているというわけです。
日付表記法(「年」について)は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握しなければならず、「暦」と「年号」というものが不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始は本来似かよった時期のはずですが、『二中歴』によれば「年号使用開始」は「五一七年」とされており、「ズレ」があるように見えます。これは本来「干支一巡」遡上すべきものと思われ(註六)、そうであれば「四五七年」となって「元嘉暦」の導入と推定される時期に接する時期となります。
「元嘉暦」の伝来と「年号」(倭国年号)の使用開始が接近しているとすると「得度」の記録などの「日付」にも「年号」が「年」の表記として使用されていたと見るべきこととなります。このことは「聖武」の時代にあっても「白鳳」「朱雀」という「年号」つきで「得度」の日付が書かれたものが「綱帳」として記録されていたとして不審ではないこととなるでしょう。
さらにいうと『二中歴』の『年代歴』をみると「年号」そのものの字義やその「改元」の契機となったものなどその多くが「仏教」に深く関係していることが推察できます。明らかに「即位改元」あるいは「遷都改元」と認められるものは(証拠資料も少ないという事情はあるものの)「倭京」をのぞき確認できないのに対して、「法清」「蔵和」「和僧」「端正」「定居」「仁王」「僧要」など、「年号」そのものや「注」の文章から考えてその改元理由の一端は「仏教」に関係しているのは明らかなものばかりですし、「金光」のように「経典」(『請観音経』)の内容から採ったと思われるものも存在しているなど、全体として「仏教」と「年号」の関係はかなり深いものがあるとみる必要があります。別の言い方でいうと当時の「王権」には「年号」について「絶対的権力」の表象というような意識ではなく、「仏教」という宗教的装いの中で使用されるものという以上の認識はなかったかのではないかと考えられるのです。
Ⅲ.仏教者としての倭国王と、俗世界
『隋書』に出てくる「阿毎多利思北孤」は自らを「天子」と号するなど「公」という立場(絶対的権力者)として認定していたことは確かと思われるものの、それを「年号使用」の強制という方法に結びつけることはしなかったものと思われるわけです。それは『隋書』で「倭国」からの使者が語ったという以下の言葉が示す統治形態と深く関係していると考えられます。
「…使者言…天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟…」(隋書/列傳第四十六 東夷/俀國)
これによれば「兄」たる「仏教者」と世俗を統治する「弟」という立場のものがおり、「跏趺」つまり「結跏趺坐」という正式な作法を行っていた「仏教的雰囲気」にいるのは「兄」であり、俗世界の支配は「弟」であるようですから、彼は「非仏教的」な世界にいたことも考えられます。「年号」という存在が「仏教」と深く関係しているのであれば、この「弟」とされる「非仏教的人物」が支配する「俗世界」の「暦」には「年号」が使用されていなかったということも考えられることとなるでしょう。
このような「統治形態」あるいは「習俗」については「隋帝」から「訓令」により止めさせられたとしますが、それは当然「仏教」の積極的導入と旧習の撤廃を意味するとは思われるものの、「弟」の統治する世界において「年号」使用が「公文」の中で始まったとまではいえないと考えます。
Ⅳ.「倭国年号」と「仏教」の分離
以上のように「倭国」においては「年号」が仏教と不可分であり、俗世界の支配者は仏教と関係が深い「年号」を「紀年」に使用するという「観念」がなかったものとみましたが、その意味で「大宝」が「建元」とされているのは、「年号」が統治の実務に利用されるようになり、名実ともに「絶対権力」の象徴となったことを自覚した故の「宣言」であるとみるべきではないでしょうか。
それまでは「年号」は統治行為の一部ではなかったものであり、あくまでも仏教に関連するものについてのみ表記に使用されていたものが、この「大宝」で明確に仏教と切り離されたものとみられるのです。ただし、それ以前にも「萌芽」といえるものはありました。それは「白雉」改元です。
「倭国年号」資料を見ると「僧要」以前は仏教臭が強いものの、「命長」「常色」というやや仏教に関連しているといえなくもない年号の後「白雉」からはすっぱりと仏教とは縁がなくなっています。(これは「利歌彌多仏利」の死去と関係があると思われます)
「白雉」は明らかに「瑞兆」に基づく「改元」であり、これ以降「仏教」とは違う次元で「年号」が選定されているように見えます。そこには「漢代」の故事などが引用されるなどしていますが、内容としては全く仏教には関係がありません。
これらの「改元」の経過を見ると「七世紀半ば」に「年号」と「仏教」との間でいわば「分離・離脱」が行われたように見え、ここに時代の「画期」があるように思えます。
『書紀』に見える「改新の詔」の内容は中央集権的権力の完成を意味するものであり、その意味で「仏教」が政治と関わる程度が相当程度減少し、時期から見てその流れの中に「年号」を「仏教」から分離して考える立場が発生したように思えます。この段階で「年号」と「仏教」の関係に重大な変化があったものであり、それが「改元」の理由に反映していると思われるわけです。ただしこの段階で「律令」はすでに制定されていたと思われますが(「白村江の戦い」とそれ以前の「百済を済う役」に際して編成された軍の構成を見ると後の「軍防令」のような「決まり」があるとしか考えられず、それは「律令」という存在の一部であったとみるべきことを示します)、当時の王権は「律令」と「年号」を緊結するまでは至っていなかったものであり、「統治」という行為の中に「年号」を落とし込むという発想がまだなかったということではなかったでしょうか。これを一歩進めて「年号」の使用を「律令」の中に明示するという方法で明確化したのが「新日本王権」であったと考えるものです。
註
一https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/43fed8a15ed5361aecdc521c482058b4
「古田史学とMe」 2017年09月10日「那須直韋提の碑文」について(三)
二.服部静尚「金石文に九州年号が少ない理由」(『多元』二〇一九年一五四号 多元的古代研究会)
三.古賀達也「『令集解』儀制令・公文条の理解について」(一)~(六)(『古賀達也の洛中洛外日記』二〇三三話以降二〇四六話までの関係部分)
四.ここでいう「官籍」とは「白鳳以来」「朱雀以前」という表現との関連で考えると六七〇年成立とされる「庚午年籍」そのものであるという可能性が高いと思料します。「庚午年籍」は「律令」で「永久保存」とされ、「氏姓の根本」とされていますから、ここにないとすると判断できないということではなかったでしょうか。さらにいえばここに出てくる「僧尼」たちは「京及び諸国」とは書かれていますが実態としてはその多くが「九州地方」の者たちであり、「筑紫諸国」の「庚午年籍」が入手できていなかったこの時点(七二四年)では判断つかなかったということも意味しているかもしれません。『続日本紀』によれば「筑紫諸国の庚午年籍」を入手したのはこの三年後であり、入手を急いだ理由もこの「僧尼」の公験に関係しているという可能性もあるでしょう。
五.古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
六.拙論「倭国への仏教伝来について」https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/5bbf4c6efbcc4c9a2bc81daab4e8ce07に引き続くいくつかの論 。
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