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三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手
京都府大山崎町 大原重雄
日本の稲作の開始のみならず、時代を大きくさかのぼる縄文時代においても中国文明との関係は大きなものがある。古田先生も『後漢書東夷列伝』の堯が使者を日本と考えられる嵎夷に送った話は伝説でない可能性にふれられ、さらに井戸尻などを例に縄文時代中期の文化と中国との関係に言及しておられる。古代日本に江南文化の影響が大きいことは以前から指摘されているが、私は縄文中期の土器文様や土偶の形に青銅器のみならず、それ以前の玉文化の時代とも密接な関係があったと考える。ここでは手の造形や双眼の表現などの古代信仰に関わる遺物を通じて、解釈のしづらい不可思議な文化についてみていきたい。
①三星堆遺跡(BC二八〇〇~BC八〇〇)の 青銅立人の両手の意味
図①の台座を含め高さ二メートルを超えるこの人物は何かを手に持っていたよ うに見える。デフォルメされた両手は容器でも持っているかのような筒状に作られている。
しかし発掘された土坑からはそれらしきものは見つかっていない。先頭で国旗や武器をもつ人物のように思えたが、よく見ると、手を丸めて円筒形にしているその中心軸は違う方向を向いており、一本の棒状のものをもってはいないのだ。このことから、左右で別の祭器を持っていたという説や、苦肉の案としてカーブしている象牙を持っているといった説もある。しかし何か物を持っていたとしたら、それを固定する際のなんらかの細工や傷などの痕跡があってしかるべきだが、そのようなものはないのだ。よって手には何も持っていないという説もあり、祭祀に関する手の動きの表現ではないかと考える研究者もいる。図②の人物も明らかに両手は連続しておらず、一本の何かを持っているわけではない。他にも全く手が離れているものや、右肩にまるで鼓でも持って叩いているようなポーズの人物像もあることが傍証となる。
呪術の動作と言った解釈などあるが、私は手を筒状にしてあの世の神にこの世に生まれ出てもらうための空間を作っていると考えたい。その両手をまるでお手玉やジャグリングをしているかのように祈りの言葉を発しながら動かしているシャーマンの姿なのだ。
図②三星堆銅獣首冠人像
図③三星堆2号祭祀坑の銅神壇
その一方で、図③の同じ三星堆2号祭祀坑の銅神壇を支えるかのような四人の人物が、蛇と思われるひも状のものをつかんでいるとする曾布川寛の指摘がある。これはどう考えたらいいのだろう。神様に願いを託すためには最大限のおもてなしが必要だが、その前にまずはあの世にいる神様にこの世に出てきてもらわなくてはならないのだ。この世に出てきてもらうことを、古代人は人間の誕生のように考えて、生まれ出る場所をイメージした手の形を作って手招きするのだ。その際には誕生の手助けとして蛇の造形も必要になるのだろう。臍の緒と見立てた蛇の造形をもって祈りを捧げ、神の誕生を促す力になると考えたのだ。かたや何も持たない青銅の人物は自らの手を器に変えて神を招くのだ。このような器を持つような手の形と同じものと考えられる表現が縄文時代の土偶などに存在すると私は考える。
②縄文土偶のスプーンの形をした手
土偶の手はたいてい簡略化されたり、腕だけの表現になったりしている。小さな粘土細工で五本の指など作るのは容易でないこともあり、先端部に4本の線を引いて指を表しているのもあるが、なかには図④(岩手県夫婦石袖高野遺跡後期土偶)のように手をまるでスプーンのように作り何かを受けるかのような土偶も見つかっている。出土する土偶の多くは手など欠けたものが多いが、それでも他にも図⑤(秋田県塚ノ下遺跡後期土偶)のように両手が同様の形をした土偶もある。
図④(岩手県夫婦石袖高野遺跡後期土偶)
また土器の中には図⑥(岩手県滝沢市けや木の平団地遺跡人体文土器)のような人の張り付いた文様があるのだが、その人物の右の手がやや大きくスプーンのように描かれている。左手は手のひらを胴部に向けているので確認できない。この人物は壺の壁に張り付いているのでわかりにくいが、三星堆の人物のように、手をやや卵型に親指と人差し指をくっつけて筒状にしていたかもしれない。
図⑤(秋田県塚ノ下遺跡後期土偶) 図⑥(岩手県滝沢市けや木の平団地遺跡人体文土器)
図⑦(長野県岡谷市目切遺跡中期)
土偶も人体文土器もこの世に神様に生まれ出てもらうために、このような造形を作ったのだ。
他にも壺を抱えた図⑦(長野県岡谷市目切遺跡中期)の土偶があり、当初出産におもむく妊婦が胞衣を収めるために用意した壺だと思ったが、この場合も神様を招くために壺をもっていると考えたい。他にも図⑧(長野県尖石遺跡中期)のように壺を抱えるようにした腕の表現があるが、壺と腕が同化したかのような表現とも言える。手や腕が道具に変わって祈りを行うのだ。図⑨(長野県松本市生妻遺跡中期)の土偶は左手がきれいな円を作っており、まるで三星堆の人物のような筒状の表現とも言える。
図⑧(長野県尖石遺跡中期)
図⑨(長野県松本市生妻遺跡中期)
③手が道具に変わると考えた古代人
記紀の中のイザナギ・イザナミやスサノオは体のあらゆる部位から神の子を産んでいる。アマテラスとの対峙の場面でスサノオが神の子を次々と生む様子が日本書紀に描かれており、その中の一書の第三に次の下りがある。
囓其瓊端(そのたまのはしをかみて)、置之左掌而生兒(ひだりのたなこころにおきてなすみこ)、正哉吾勝勝速日天忍穗根尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと)。復囓右瓊(またみぎのたまをかみて)、置之右掌而生兒(みぎのたなこころにおきてなすみこ)、天穗日命(あまのほひのきこと)、
ここで自分のたなごころ、すなわち手のひらを少しくぼめてかじった瓊をおくとそこに子が生まれるというのは、手のひらが子供の生まれる場所として考えられていたのだろう。土偶も玉をかじったかどうかはわからないが、手をスプーン状にして神様に生まれ出てもらおうとしたのではないか。
古事記の国譲りの場面ではタケミナカタに腕をつかまれたタケミカヅチのその手が剣に変わっている。これに驚いてタケミナカタは退散するのだが腕をもがれて諏訪の地にこもることになる。古代人の考え方として手が道具に変わるという観念があったのだ。力士が賞金を受け取る際の手刀を切るのも、また柏手を打つのも、手を使って神とつながる動作なのだ。
図⑩(青森県平川市程森遺跡晩期)のように手がねじれたような土偶もある。この不思議な表現もおそらく図⑪(湖南省長沙子弾庫帛書紀元前十一世紀)の文様にある操蛇神からきているのではないだろうか。中国古代の『山海経』に蛇を操る神が、登場するが、手と腕があたかもねじれた蛇に変化したと考えられる。先ほどの青銅の四人のように蛇をもって祈っているのだろう。頭に蛇を載せた表現の土偶もあるが、手と腕を蛇の表現にした土偶もあるのだ。
三星堆遺跡以前より大陸にあった信仰の考え方が、縄文の地でも継続され、個性的に発展したのだろう。縄文の遺物の玦状耳飾りの起源と指摘されるのと同じく、それは中国文明のはじまる興隆窪こうりゅうわ文化の頃から縄文文化、信仰は影響を受けているのだ。
図⑩(青森県平川市程森遺跡晩期) 図⑪(湖南省長沙子弾庫帛書紀元前十一世紀)
④縄文時代中期の北陸中部関東域に見られる異彩を放つ文化
江南文化の担い手であった人たちは蛇信仰をもち、さらに神様に生まれ出てもらうために、手を使った呪術を行っていたのだろう。日本に移住した集団は土偶や土器で、大陸の山間部に逃れた三星堆では青銅立人が手を器のようにして神を招く祭祀を行っていたと考えられる。もちろん他にも様々な祭器、玉製品が使われ、農耕などに関わる文化を日本に持ち込んだのだ。
縄文研究の大家の小林達雄は、縄文人の物質文化から世界観を理解するのは困難とされ、「少なくとも現在では、その異次元に踏み入る有効な方法論がないのだ」とおっしゃるが、大陸文化をよく見れば、その関連性は明白であり説明は可能なのだ。いい意味でも好ましくない意味でも、隣国から古代より直接影響を受けているのだ。不可解な土偶の形などをつくった縄文人の思考、異彩を放つ文化はけっして四次元やエイリアンのものではなく、現代につながる古代人の信仰の原点の姿を現しているものなのだ。
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