2020年4月13日

古田史学会報

157号

「倭国年号」と「仏教」の関係
 阿部周一

2,九州王朝系近江朝廷の「血統」
「男系継承」と「不改常典」「倭根子」
 古賀達也

3,七世紀後半に近畿天皇家が
政権奪取するまで
 服部静尚

4,松江市出土の硯に「文字」発見
銅鐸圏での文字使用の痕跡か
 古賀達也

5,三星堆の青銅立人と
土偶の神を招く手
 大原重雄

6,沖ノ島出土のカット
グラスはペルシャ製
『古田史学会報』編集部

7,「壹」から始める古田史学・二十三
磐井没後の九州王朝3
古田史学の会事務局長 正木裕

8,新型コロナウイルスの
 対策方針として
代表 賀達也

 編集後記

 

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曹操墓と日田市から出土した鉄鏡(154号)
造籍年のずれと王朝交替 -- 戸令「六年一造」の不成立 古賀達也(会報159号)
田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 古賀達也 (会報162号)


松江市出土の硯に「文字」発見

銅鐸圏での文字使用の痕跡か

京都市 古賀達也

一、松江市出土硯に「文字」

 報道によれば、島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡が発見されたとのことです。その写真を見たところ、わたしも文字(漢字)のように思われましたが、松江市埋蔵文化財調査室による「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とする見解もありますので、今後の科学的分析が待たれます。
 墨(カーボンブラック=煤)の他にも黒色無機顔料(鉱石)や天然タンニン(ポリフェノール)の鉄錯体、アスファルトなども黒色色素として使用可能ですので、赤外線撮影だけで「墨書ではなく汚れ」と判断するのはあまり科学的判断とは言えません。
 もしこれが文字だとしたら、メディアで紹介された学者の見解にとどまらず、もっと重要なテーマへと進展します。

島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡

 

二、銅鐸圏での文字使用の可能性

 松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」があることに間違いがなければ、その年代が重要となります。報道によれば、「弥生時代中期後半(紀元前後)」とされており、この時代であれば、当然、倭国は漢字を受容していたと古田史学では考えられています。ところが、「紀元前後」であれば、当地(宍道湖の東南)は「出雲王朝」の中枢領域であり、かつ銅鐸文明圏の時代の可能性もあるのです。
 古田説では神武東征をこの「紀元前後」頃と推定していますから、微妙な時期ではありますが、この硯と文字の使用者が銅鐸文明圏に属していたという可能性があるのです。少なくとも、この時代に「出雲王朝」が文字を使用していたことは確実となります。
 志賀島の金印や漢式鏡など、文字の痕跡が多数出土している北部九州(倭国)とは対照的に、銅鐸には文字が記されていないことから、銅鐸圏では漢字が受容されていなかったのではないかとする見方もあります。しかし、今回の「文字」発見により、銅鐸圏の王者は文字を受容し、『三国志』の時代に至り、倭国(邪馬壹国)を支援する魏と対立していた呉と「文書外交」を行っていたという可能性も否定できません。まずは、科学的検査の結果が待たれます。

【毎日新聞WEB版から転載】
    二〇二〇年二月一日
弥生時代「すずり」に最古の文字か
松江の田和山遺跡から 慎重な意見も,

 松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を二〇〇~三〇〇年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で一日にあった学会で久住氏が発表した。
 田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
 さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
 これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも二~三世紀だった。
 九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
 一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の二文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。
 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話 これまで見つかった三世紀ごろの文字はいずれも一文字で、記号かもしれない。しかし、二文字なら名前やえとなどの意味を持つ。中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。
 武末純一・福岡大教授(考古学)の話 私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。判断は慎重であるべきだ。

 

「文字使用の起源」数百年さかのぼるか

 松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
 出土遺物などから文字の本格的使用は三世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。紀元五七年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある。
 しかし、国内で書かれた文字史料はこれまで、大城(だいしろ)遺跡(津市)で出土した「奉」とみられる字が刻まれた土器など二~三世紀以降にしか確認できなかった。
 このギャップを埋めたのが、筆記用具のすずりに着目した近年の調査研究だ。端緒は大陸への「玄関口」である北部九州に位置する福岡県糸島市の三雲・井原遺跡。二〇一六年に一~二世紀のすずりとみられる破片が確認され、文字使用との関連で一気に注目された。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らによるグループはこれを受け、全国の遺跡の出土品を精査。従来砥石(といし)や用途不明などとされていた石製品のうち、墨をすり潰すために研石で擦った痕跡などから北部九州を中心に山陰、近畿などの一〇〇点以上がすずりで、最古は紀元前一世紀と判断した。
 ただ、すずりは筆記用具に過ぎず、文字使用の確実な証拠とするには異論もあった。
 研究者グループは、今回確認されたのが二文字である点も強調する。漢字が記されていても、人々が具体的な意味を示すものと認識しなければ「文字」とは言えない。この点で「子」「戊」などの連なった字とすれば「えとや人名など意味があるもの」(柳田氏)になる可能性がある。
 一方、今回発表された内容について、文字かどうか慎重な意見が出ている。
 石製品を発掘した松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの指摘を受け、「文字ならば大ごとになる」として赤外線撮影を実施。ただ、肉眼で見えた文様は、赤外線写真で鮮明に写らなかった。同室は「墨ならば赤外線でよりはっきり写る。墨以外なのか、そもそも文字なのか分からない」とする。
 久住氏は「墨が剥落して赤外線で見えにくい可能性がある」などと反論するが、松江市側はあくまで一研究者グループの見解として「今後の議論を待つ」姿勢だ。二~三世紀よりさかのぼる文字の直接的な痕跡が、他にも今後確認されるかが焦点となる。
 倭国に文字(漢字)をもたらしたのが渡来人だった可能性は高いが、伝来はいつまでさかのぼり、倭人にどのように受容されていったのか。文明の礎である文字の起源を巡る論争は尽きそうにない。【大森顕浩】


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