2020年 2月12日

古田史学会報

156号

1,神功紀(記)の
「麛坂王(かごさかおう)・
忍熊王(おしくまおう)の謀反」
 正木裕

2,九州王朝の「都督」と「評督」
 古賀達也

3,文献上の根拠なき
 「俀国=倭国」説
 日野智貴

4,卑弥呼のための舶載鏡
 大原重雄

5,梅花歌卅二首の序の新解釈
 正木裕

6,書評
小澤毅著
『古代宮都と関連遺跡の研究』
 古賀達也

7,「壹」から始める古田史学
 ・二十二
 磐井没後の九州王朝2
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,【令和二年、新年のご挨拶】
「古田史学の会」の事業にご協力を
古田史学の会・代表 古賀達也

9,割付担当の穴埋めヨタ話
『太平記』の中の壬申の乱

編集後記

 

古田史学会報一覧
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なぜ蛇は神なのか? どうしてヤマタノオロチは切られるのか? ( 会報155号)
三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手( 会報157号)

曹操墓と日田市から出土した鉄鏡 古賀達也(会報154号)


卑弥呼のための舶載鏡

京都府大山崎町 大原重雄

 

はじめに

 近畿一元論者のかたくなな態度は銅鏡をめぐっての解釈にも端的に表れている。それを疑問視する研究者の苦渋の表現や、本音は別としての追従するような見解を少し紹介するとともに、思い込みが判断を誤らせているような可能性にもふれたい。

 

①鳥居山古墳の銅鏡伝世論

 先日、京都の大山崎町で「鳥居前古墳の被葬者と王権」というミニシンポジウムがあり百名あまりの参加者があった。この古墳からは巴形銅器や甲、刀剣などの出土に加え、石室の端からは漆塗りの容器に刀剣が十本ずつ三段に重ねられていた。近くにある恵解山古墳の刀剣類の大量埋納と規模は違うが、同じような儀礼が考えられるなど重要な古墳であると言える。この古墳の立地がふもとに湧水地がある丘陵部に位置し、近くに小倉神社があり龍王社もあることなどから水利との重要な関係が見て取れる。
 鏡研究で著名な森下章司氏が破片の出土した画文帯環状乳神獣鏡についての解説もあった。同型の鏡が向日市の芝山古墳からも見つかっている。司会役の研究者からこの両者の鏡の経路を伝世論で解説されている。ここでは鏡が三世紀初めに王権に移入されてすぐに乙訓地域に配布され、地元の長が卑弥呼の頃に受け取ったとされる。それが五世代にわたって受け継がれて鳥居前古墳に副葬(ただし正確な場所は不明)されたという。鏡製造の時代とこの古墳の年代の二百年もの差を説明するための苦肉の伝世論だが、さすがに森下氏からこの古墳のある地域に他に古墳などなく、祖先の系統がうかがえないのにどこで継承されてきたのか?との突っ込みも入るぐらいの唖然とする見解だ。一元論者の中でも伝世論については異論があるのに、もう少し客観的な内容で発表できなかったのか極めて残念だ。またこの鏡が三世紀はじめの製造かどうかの説明もない。とにかくヤマト王権や邪馬台国と関係させたいという意図からだが、もっと諸説を紹介するとか、わからないことはわからない、と何故言えないのか。予想通りの残念な内容だった。だがことは伝世論だけではなく「舶載」「仿製」の区分の考え方にも深刻な状況がある。

 

②黒塚古墳の調査報告書

 三角縁神獣鏡については「舶載」(中国製)と「仿製」(中国以外での製造)があるとされる。黒塚古墳出土の三十三枚はすべて「舶載」とされる。しかし報告書の中の水野敏典氏の「黒塚古墳出土鏡の意義」ではその区分に否定的なのだ。工人たちの作鏡姿勢を、同笵技法の使用による鏡背面の笵傷の増加と文様の崩れ、加えて銘文の誤字、文様割り付けの錯誤を容認している、これは短い製作期間での大量注文への対応とみられる、などとされ、この点で「舶載」「仿製」三角縁神獣鏡はほぼ同じ内容の注文に沿った制作と考える。歯切れは悪いが、要はすべて仿製ということだ。そして最後に「黒塚古墳出土鏡が提起する問題は多岐にわたり、多くは再論を必要とするが、まずは問題点を提起しておく」とされる。どうしてはっきりと三角縁神獣鏡は国産と言えないのか。
 黒塚古墳の鏡などを直接研究された鈴木勉氏は「同笵(型)鏡論の向こうに」などで、同笵鏡とされているもののなかには、文様の彫りがオーバーハングしており、鋳型を壊さないと取り出せないものがあると指摘する。中国製の重厚な彫りに近づけるためにヘラを使ってオーバーハングさせて、文様を浮き上がらせるようにしたのだという。同じ文様でも同笵でないことや仕上げ加工の仕方の違いが同型ごとでなく、同一工房で作られたものでもなく、出土した古墳ごとに共通性があることから、工人たちが古墳の地域に出向いて鋳造する「出吹き」と指摘。椿井大塚山古墳出土鏡を中心とする同笵鏡の関係図で有名な小林行雄のヤマト王権配布論を真っ向から否定されている。鈴木氏は最後にこう述べている。「いま若い研究者達はこぞって『前方後円墳体制論』を支持するような王権論を書き続けている。そうすることが唯一考古学に於ける成功の道であると考えているのかもしれない。」考古学の現状を鋭く突いている。にもかかわらず、次に述べるように批判をものともしない姿勢はあいかわらずなのだ。

 

③問題ある鏡の「講義」

 北条芳隆編「考古学講義」は比較的若い研究者による最新の考古学を学べる一冊だ。ここでは瀬口眞司氏のもう一歩踏み込んだ土偶論もあるなど、各時代の整理された興味深い情報を知ることができるのだが、中には残念な論調もある。辻田淳一郎の銅鏡に関して少し紹介する。

 「近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入と流通を差配していた可能性が高い。弥生時代後期から終末期までは北部九州が対外交流の窓口として大きな役割を果たしていたことからすれば、古墳時代開始期前後において、こうした対外交流の窓口や経路が近畿地域へと転換した・・」

 これは弥生時代の九州の優位性は否定できないので古墳時代からは近畿だという、なにか新しい修正近畿一元論のように思える。他にも、

「銅鏡百枚は大型後漢鏡(古墳時代の近畿出土)及び魏鏡と、景初三年や正史元年の紀年銘鏡を含む、舶載三角縁神獣鏡の初期型式によって構成されていた可能性も想定される。」

とにかく近畿出土の鏡を卑弥呼の鏡にしたいのだ。
 黙視できなのは平原古墳の鏡について、「内行花文鏡五面を含む四十面の中国鏡の副葬事例が知られており」とすべて舶載とされているのだ。ところが後の頁には沖ノ島十九号遺跡の内行花文鏡は倭製とされる。独自にアレンジした中国鏡にはない構図などとされているが、平原の十六号鏡の文様と似ているように思うのだがさて。この件については、古田武彦先生追悼会で講演をされた新井宏氏が既に問題を指摘しておられる論考がある。

 

④考古学界の体質を突く

新井宏氏の「平原鏡から三角縁神獣鏡へ」から少し長いが引用する。

「その後二〇〇〇年になって前原市教育委員会が発行した『平原遺跡』では、柳田康雄氏が数多くの論拠を挙げて、内行花文鏡一面と虺龍鏡一面を除外した他の鏡を全て仿製鏡と認定した。筆者も、東アジアにおける鉛同位体比の研究を通して、平原鏡に朝鮮半島産の鉛が添加されていることを明らかにし、柳田氏の見解を裏付けた。その当時の筆者の考えでは、前原市の公式報告書で論証したことであり、その後正式な反論も無かったようなので、この見解が考古学界の共通認識となったものだとばかり思っていた。したがって、鉛同位体比の研究結果もそれと矛盾していないことを示すだけで十分であった。ところが、考古学界というところは、それほど単純ではなかったようである。権威ある考古学界の方々から、『柳田見解が考古学界にすんなりと認められているわけではありませんよ』とのコメントを頂いた。認めないのであれば、何らかの反論をすれば良いのにと考えるのが、理系的な発想であるが、考古学界では漠然とした反対意見をそのまま温存させておく慣習があるらしい。もっと良く調査し再検討しなくてはなるまいと思った。」

 考古学界の体質への憤りが、新たな研究の動機になられたようだ。
 引用した「考古学講義」の表紙には以下の文が掲載されている。

「温存されてきた閉鎖性ともいうべき学界の古い体質は確実に克服されつつある。考古学に対する冷静な、もしくは冷徹な眼差しが社会の側から注がれ、忌憚のない批判が各方面から寄せられる現在の環境は、事態の改善に役立っているとみてよい。」

 この書物の謳い文句のつもりなのか?古田史学などを無視してはたして「忌憚のない批判」が改善に役立つなどといえるのでしょうか?この書物の冒頭でふれられている「旧石器捏造事件」の反省も不十分で教訓も活かされていないように見える現状を懸念するしかない。

 森下章司 大手前大学総合文化学部教授 銅鏡など古墳時代の研究 鏡を中央政権による参向型の授受とされるも、地域による違いは指摘される。「古墳の古代史 東アジアのなかの日本」など。

 水野敏典 奈良県立橿原考古学研究所所属 黒塚古墳の調査報告

 鈴木勉 奈良県立橿原考古学研究所共同研究員 古代の金属工芸の研究 「三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)で国産説を解明 七支刀の鋳造復元もされる。他に金印は偽作との見解もある。

 北条芳隆 東海大学文学部教授 古墳の方位の精緻な分析など従来と異なる手法で古墳の姿にせまる。「古墳の方位と太陽」など

 辻田淳一郎 九州大学大学院人文科学研究院准教授 古墳時代の九州中心の研究をされる「同型鏡と倭の五王の時代」など

 柳田康雄 久留米大学経済学部非常勤講師 糸島市の弥生時代の遺跡など精力的に研究 「九州弥生文化の研究」「伊都国を掘る」など

 新井宏 工学博士 古韓尺の提唱、弥生時代の製鉄の可能性の検討、 鉛同位体比研究から平原鏡や三角縁神獣鏡の製作地は朝鮮半島か日本とされ、炭素年代法の問題点も指摘「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡」など

 

⑤NHKでも放送された古墳の複数埋葬に関して

 一瀬和夫氏は大山古墳に関してのシンポジウムの中で、前方部から石棺が出ているが、主体の後円部でも江戸時代に埋葬部が確認されているが、それは中心部でなく広いから他にもあり、三桁はいかないにしてもかなりの埋葬者があると発言。NHKの番組(古墳ミステリー)では数名と控えめな発言だったが。実は前方後円墳は一人の首長だけが埋葬されている事例は少なく、この番組のテーマのように多くが複数埋葬である。
 千曲市の森将軍塚古墳は全長一〇〇mほどの前方後円墳だが、前方部には十基ほどの埋葬があり、ふもとには周囲を取り囲むように埋葬がされ、計八十一基も確認された。これは極端な例だろうが、高松茶臼山古墳は計八基確認される。大仙陵には周囲に培塚があるが、墳丘主体部にも多くの埋葬があったかもしれない。実際墳丘部にどれだけの埋葬施設があるかはわからないが、一族郎党を一つの墓に眠らせたいと考えてこの墓の初代の王が巨大な墳墓を造らせたのだろうか。大きさは最大でも、埋葬者一人当たりの面積は意外に小さいかも知れない。
 また複数埋葬が多く見られることに関して、広瀬和雄氏は埋葬施設や副葬品の状況に格差を見ない場合が多くあり、これは一つの古墳に複数の王が眠っているのではと問題提起されている。大山古墳も後方部から王のクラスと考えられる長持形石棺が出ている。大王の兄とそれを受け継いだ同じ立場の弟などが一つの墓に眠っている。そうすると番組の中でも同様の説明だったが、一人の大王以外はその下のランクの部下などの埋葬と考えるのは思い込みかも知れない。すなわち一つの古墳に一人の天皇を当てはめることに見直しがいるのではないか。
 古墳の副葬品の問題については複数の王の存在という以外に、信仰による埋納が考えられ、必ずしもすべてが埋葬者個人の所有物だったとは言えないと私は考えるが、いずれにしても問題は多く残されている。

参考

一瀬和夫(司会)「徹底分析・仁徳陵古墳」堺市文化財講演会録第4集

広瀬和雄 「古墳時代の首長 前・中期古墳の複数埋葬をめぐって」国立歴博研究報告一七五集H二五


 


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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