2020年 2月12日

古田史学会報

156号

1,神功紀(記)の
「麛坂王(かごさかおう)・
忍熊王(おしくまおう)の謀反」
 正木裕

2,九州王朝の「都督」と「評督」
 古賀達也

3,文献上の根拠なき
 「俀国=倭国」説
 日野智貴

4,卑弥呼のための舶載鏡
 大原重雄

5,梅花歌卅二首の序の新解釈
 正木裕

6,書評
小澤毅著
『古代宮都と関連遺跡の研究』
 古賀達也

7,「壹」から始める古田史学
 ・二十二
 磐井没後の九州王朝2
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,【令和二年、新年のご挨拶】
「古田史学の会」の事業にご協力を
古田史学の会・代表 古賀達也

9,割付担当の穴埋めヨタ話
『太平記』の中の壬申の乱

編集後記

 

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梅花歌卅二首の序の新解釈

川西市 正木裕

 次に掲げる万葉八一五番以下の、大伴旅人による梅花歌卅二首の序が、「令和」年号の典拠となったことは、あまりにも有名で、中西進氏ほか多数の方が訳を試みている。
◆万葉第五巻、八一五番以下の梅歌卅二首併序
 天平二年(七三〇)正月十三日 帥老(そちのおきな *大伴旅人)の宅に萃つどひ、宴會を申ひらく。時は初春の令月にして、氣は淑きよく風は和ぎ、梅は鏡前の粉を披ひらき、蘭は珮後はいごの香を薫くゆらす。加て以て、曙の嶺に雲移り、松に羅うすものを掛け 盖かぶりものを傾く。夕の岫みねに霧結び、鳥は縠こくに封じられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ 空に故鴈こがん帰る。ここに天を盖にし地を座にし 膝を促ちかづけ觴さかづきを飛ばす。言を一室の裏うちに忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自放じほうし、快然と自足す。もし翰苑かんえんにあらずは、何を以てか情を攄べむ。詩に落梅の篇を記す、古と今と夫れ何か異ならむ。宜く園の梅を賦して聊いささかに短詠を成すべし。

 ただ、例えば「梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている(中西進「萬葉集 全訳注 原文付」)というように、ほぼ全て「初春の自然の情景を讃えた歌」として訳されている。しかし、そうではなく、この序は主人・ホストである旅人が、「宴に集った人々をもてなすため、彼らを自然の風物に事寄せて歌った」ものと考えるべきではないか。そうすると以下のように全く新しい解釈が可能になる。

➀梅は鏡前の粉を披ひらき、蘭は珮後はいごの香を薫くゆらす。

 宴に侍る遊行女婦うかれめの白粉は梅のように香り、その後ろ姿は蘭のようにかぐわしい。
 *大きな宴席には「うかれめ」と呼ばれ、教養もある女性が加わり、客をもてなすことが多い。太宰府博物館の梅の宴のジオラマにも、そうした女性が描かれている。

②曙の嶺に雲移り、松に羅うすものを掛け 盖かぶりものを傾く。

 羽織っている羅を、嶺にかかる雲のように木に掛け親しく語り合おう。
 *(羅)本来は鳥や小動物などを捕獲する網。転じて網のような薄物を指す。(傾蓋)親しく話すこと。『孔子家語けご』孔子が、道で偶然に出会った程子と、車の蓋きぬがさを傾けて、親しく話したことによる。

③夕の岫みねに霧結び、鳥は縠こくに封じられて林に迷ふ。

 人々は縠が網のように掛けられた木々の中で宴に興じている。その様子は、あたかも夕べの峰にかかる霧中の林に迷う鳥のようだ。
 *(縠)「縠織こめおり」で、薄くて透けた貴族の服装。「羅」と同じ。

④庭に新蝶舞ひ 空に故鴈帰る。

 ここには「新蝶」即ち新たに赴任してきた役人も、「故鴈」即ち任期を終えて都に帰る役人も一堂に会している。
 *(故鴈)巣を目指す雁。

⑤天を盖かぶりものにし地を座にし 膝を促ちかづけ觴さかづきを飛ばす。

 皆庭に出て空の下で大いに盃をかわそう。
 *(盖)きぬがさ。貴人の日よけ傘。(飛觴)盛んに酒杯のやり取りをすること。出典は李白「春夜宴桃李園序」の飛羽觴而酔月。

⑥言を一室の裏うちに忘れ、衿を煙霞の外に開く。

 お互いそれぞれ言いたいこともあるだろうが、それは会議の席にとどめ、庭での宴席では胸襟を開いて交わろう。
 *この宴は九州一円の主要官吏が集う会議に併せて開かれたと考えられる。これは、このあと三月に太宰府から朝廷に薩摩・大隅班田を免除し墾田に留めるよう申請されていることからもわかる。

⑦淡然と自放じほうし、快然と自足す。

 皆思うまま、好きにふるまって楽しんでもらいたい。

⑧もし翰苑んにあらずは、何を以てか情を攄べむ。

 太宰府には貴重な「翰苑」という書が伝わっているが、こうした文章に記すことなくしては想いを表すことは出来ない。

 *(翰苑)直接には「文章」の意味だが、太宰府には世界でただ一つ唐代の初期六六〇年以前に、張楚金が書いた『翰苑』という地誌が残されている。『翰苑』には、倭国は建武中元(五七年)に光武帝から金印を下賜され、景初年間に朝貢し馬臺に居した卑弥呼(卑弥娥)の国であり、『隋書』に記す多利思北孤(阿輩雞弥)の国で、その所在は「邪ななめに伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」という博多湾岸・北部九州だとする。太宰の帥で文人の旅人がその内容を知らないわけはなく、あえて文章の意味に翰苑の語を用いたのは、倭国を滅ぼして成立した大和朝廷の、藤原四兄弟が専横を極める状況を暗に批判したものではないか。

⑨詩に落梅の篇を記す。古と今と夫れ何か異ならむ。

 落梅を歌うが、その心は昔も今も変わらない。
 *(落梅の篇)漢・魏代の古体詩「梅花落」を意識したものか。宋代の『楽府詩集』に見え、辺境に置かれた者が梅を見て懐旧の念を抱き故郷を思う内容の詩。「古」とは直接には漢・魏代を指すと思われる。ただ「懐旧の念」とあるのは、漢・魏代よりの歴史を記す『翰苑』にも通じるのではないか。
 八二二番歌に(主人=旅人)と題し、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」という歌が詠まれていることから、「序」が旅人作であることがわかる。
 以上のように梅花歌卅二首の序を単なる初春の自然をめでた歌ではなく、「人物」を主題にした歌とすれば、歴史的背景も含めた新たな解釈が可能となると考える。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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