戦後学界は「神武天皇実在説」にどう反応したのか 日野智貴(会報161号)
『隋書』における「行路記事」の存在について 阿部周一(会報145号)
『隋書』俀国伝を考える 岡下英男(会報155号)
『史記』の中の「俀」 野田利郎(会報152号)
文献上の根拠なき「俀国=倭国」説
たつの市 日野智貴
はじめに
『隋書』及び『北史』においては、他の史書において「倭国」と記されているはずの部分が「俀国」と記されている。一方で「倭国」との表記も存在する。
これについて定説では「誤字説」が主流であった(註一)。一方、そのような「原文改訂」を拒否して「俀国=九州王朝」「倭国=大和政権」としたのが古田武彦氏である(註二)。もっとも「十二年後差説」の導入によって『隋書』の「倭国」記事と『日本書紀』の「遣唐使」記事は年代的には一致しないことになったが、その後も古田氏は「可能性がいちばん高い」仮説として『隋書』における「倭国=大和政権」説を唱えている。(註三)
一方、この度岡下英男氏より「俀国=倭国」説が提唱された(註四)。これは「俀国」を「倭国」の誤字とするのではなく、『隋書』において「同一実態」の国が「政治的」理由により「倭国」と「俀国」とに書き分けられた、とする説である。
本稿では『隋書』における「俀国」と「倭国」とが別国である論点を示し、それに対して岡下説が反論できていないため、岡下説には文献史学上の根拠があるとは言い難いことを論ずる。
第一「書き換え」問題
『隋書』では過去の史書における「倭」を「俀」と書き換えるのは、徹底している。「倭奴国」も「俀奴国」へと書き換えられている。さらに「俀国伝」だけでなく「百済伝」や「琉求伝」においても「倭」は一切出現せずに「俀」との表記のみが用いられている。
ここまで徹底して「倭」が「俀」と書き換えられているのに、どうして「帝紀」と「志」においてはこの種の書き換えがないのか、不信である。「同一実態」であるならば、当然同様に「書き換え」がないとおかしい。
第二「分流政権不列伝」問題
また『隋書』においては「一つの国に主流ではない政権(便宜上「分流政権」とする)があっても、列伝を立てない」という編集方針が存在する。
(大業)十一年春正月甲午朔、大いに百寮を宴す。突厥、新羅、靺鞨、畢大辭、訶咄、傳越、烏那曷、波臘、吐火羅、倶慮建、忽論靺鞨、訶多、沛汗、龜茲、疎勒、于闐、安國、曹國、何國、穆國、畢、衣密、失范延、伽折、契丹等の國並びに使を遣して朝貢す。(『隋書』「煬帝紀」)
傍線を引いた国は列伝のない国々である。正月に合わせて朝貢するからには以前から中国と通交の会ったことがうかがわれるが、その詳細の記述は一切ない。そして、注目すべきは「忽論靺鞨」の存在である。
靺鞨は複数の部族の集合体であり、中国史書には各部族の名称は「○○靺鞨」としばしば記される。そのことから「忽論靺鞨」も靺鞨の一部族の呼称であると思われるが、彼らについては独自に列伝がないばかりか、靺鞨伝にも一切記載がない。つまり、本家の靺鞨と並んで中国と通交を持つような勢力であっても、列伝に一切掲載しない、というのが『隋書』の編集方針なのである。
こうしたことから『隋書』において「倭国」に列伝が存在しないのも「分流政権」だからである、という推論を行うことができる。
第三「国交断絶」問題
『隋書』「俀国伝」では「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の著名な、多利思北孤による「対等外交」の宣言の後、裴世清が俀国を訪問し「其の後遂に絶つ」と「国交断絶」が記されている。それは「この皇帝の治世において、一切国交が無くなっている」場合に使用される表現であること、古田氏が既に論証している。(註五)
一方、「倭国」は「俀国」との「国交断絶」後も隋に「朝貢」しているのである。これは「俀国」と「倭国」が「別実態」であることを示す。
第四「朝貢」問題
「俀国」は隋に「対等外交」を求めたが、一方の「倭国」は一貫して「朝貢外交」である。これも両者が「別実態」であることを示す。
第五「『発音・字形』相違」問題
「倭」と「俀」では発音が全く異なる。『隋書』編纂時点での発音はほぼ「漢音」であるが、それぞれ「ワ」と「タイ」である。また、それぞれの旁の部分である「委」と「妥」は「ヰ」と「ダ」である。
字形についても、「誤字」説論者をはじめ字形の類似を説くものは多いが、『隋書』においてこの両者が混同されている例は皆無である(旁が共通の他の文字においてもそうである)ことから、少なくとも明確に「区別」された文字である。(註五参照)
岡下説の問題点
岡下氏の論稿を見る限り、「倭国伝は無い。不審である。」「(帝紀に)俀国からの遣使は一切記載されていない。これも不審である。」とし、「これらの不審は俀国=倭国と理解することにより解消する」というのが、「俀国=倭国」説の唯一の論拠である(註四参照)。
だが、「倭国伝」が存在しないことは「第二」の論点への反論がない限り「俀国=倭国」説の論拠とはなりえない。『隋書』における「倭国」が「分流政権」であった可能性への反論が、岡下氏の論稿には全く記されていない。
また「帝紀」に「俀国」の遣使記事がないことは「対等外交」を求めたから、で説明がつく。そもそも『宋書』における「倭の五王」記事にせよ、全ての朝貢記事が「帝紀」に記されているわけではない。一方、『宋書』では例えば倭王珍への「除正」記事については「倭国伝」では時間帯が不記載であるのに「帝紀」では日付付きで記している。つまり、「帝紀」においては「除正」を受けるなどして明確に中国の冊封体制下に入った国々の記述を優先的に記しているのである。
「第一」の論点について、岡下氏は「列伝の中だけ、倭を貶める目的で」書き換えたとしているが、その理由として「夷蛮の国が皇帝とどんな関わりあいを持ったか」を記すのが列伝の目的である、としている。しかし、仮に「俀国=倭国」であったとしたならば、「俀国」は例の「対等外交」の後で隋に「朝貢」した、ということになる。
「第四」の論点とも関係するが、「夷蛮の国が皇帝とどんな関わりあいを持ったか」を記すのが列伝の目的であるならば、どうして「かつて対等外交を求めてきた俀国が、大人しく朝貢してきた」のにそのことを「俀国伝」に記さないのか。それこそ「不審」である。
「第三」の論点については、古田氏がこれまで再三述べてきたことでもあるにもかかわらず、岡下氏は無視している。
「第五」の論点についても岡下氏は触れていない。「匈奴」を「恭奴」を書き換えた例は「発音の類似」があるからであって、発音が似ていない「倭」と「俀」には当てはまらない。
「倭国」の実態について
結果的に古田説を擁護することとなったが、古田氏の「倭国=大和政権」説にも問題がある。『日本書紀』には隋への朝貢記事が皆無であるからである。
『隋書』における「倭国」は「九州王朝でも、大和政権でもない政権」と考えるのが妥当であろう。それについては『隋書』の記事だけでは不明であるが、ただ古田氏が『梁書』における「扶桑国」が「関東王朝」である可能性に触れていたことがある(註六)。十分な論拠はないものの、九州王朝と大和政権以外に中国と国交を持った政権が存在した可能性は『梁書』における「文身国」「大漢国」「扶桑国」の記事からも充分推測できるものであり、その一つの候補として関東王朝を挙げることは出来ると考えられる。
まとめ
岡下氏の論稿の最大の問題点は、岡下氏の言う「不審」点は「同一であると考えなければ、解消できない」というものではなく、あくまで「同一であると考えると、解消できる」という程度のものであった、ということである。岡下氏の論稿は、氏の挙げた不審点を解消する「他の可能性」については全く検討もしていない。
「忽論靺鞨」の例を見ると明白なように「分流政権」の「列伝」は立てない、というのが『隋書』の編集方針である。そして、本稿で挙げた五つの論点を考慮すると「倭国」は「分流政権」であるから列伝が立てられなかった、とする方が合理的である。
註
一 定説の立場を示す一例を挙げると、現在使用されている文部科学省検定済みの全ての高校歴史教科書に引用されている『隋書』の「俀国」は「倭国」へと訂正されている。
三 古田武彦・倉田卓治(一九八八年)「古田史学と証明責任」『季節 第十二号』所収
四 岡下英男(二〇一九年)「『隋書』俀国伝を考える」『古田史学会報 155号』所収
五 古田武彦(一九八八年)「古典研究の根本問題―千歳竜彦氏に寄せて」『古代は沈黙せず』所収
六 古田武彦(一九八五年)『古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち』
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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