2020年 2月12日

古田史学会報

156号

1,神功紀(記)の
「麛坂王(かごさかおう)・
忍熊王(おしくまおう)の謀反」
 正木裕

2,九州王朝の「都督」と「評督」
 古賀達也

3,文献上の根拠なき
 「俀国=倭国」説
 日野智貴

4,卑弥呼のための舶載鏡
 大原重雄

5,梅花歌卅二首の序の新解釈
 正木裕

6,書評
小澤毅著
『古代宮都と関連遺跡の研究』
 古賀達也

7,「壹」から始める古田史学
 ・二十二
 磐井没後の九州王朝2
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,【令和二年、新年のご挨拶】
「古田史学の会」の事業にご協力を
古田史学の会・代表 古賀達也

9,割付担当の穴埋めヨタ話
『太平記』の中の壬申の乱

編集後記

 

古田史学会報一覧
ホームページ

割付担当の穴埋めヨタ話 玉依姫・考Ⅱ(会報153号)
割付担当の穴埋めヨタ話 「春秋」とは何か? 西村秀己 (会報162号)


割付担当の穴埋めヨタ話

『太平記』の中の壬申の乱

付 編集後記

高松市 西村秀己

 最初に白状すると『太平記』は子供向けの文学全集に収められたものを小学生の時に読んだだけであった。そこで河出書房新社日本古典文庫に収録されたものを読んでみることにした。(但し、この判の『太平記』は楠正行の最期で終わっているので、完全なものではない)
 ところが、読み進めるうちに次の箇所にぶつかった。

またわが国においては、天武天皇が大友皇子と天下を争われたみぎり、備中国の二万にまの郷というところで両軍は決戦に及びました。そのとき、天武天皇の御勢はわずか三百余騎、大友皇子は一万余騎で軍勢の差はまったく戦うまでもない状態でしたが、やおら何処からか現れたとも知れぬ颯爽たる軍勢二万余騎が、天皇の味方について大友皇子の軍勢を四方八方へ蹴散らしました。このことがあってから、その土地を二万の里と名づけたのです。(巻十六「多々良浜の合戦」河出書房新社日本古典文庫(15)山崎正和訳)

 備中國二万郷の地名縁起説話である。壬申の乱の折、何処からともなく現れた二万の軍勢が味方して天武側を勝利に導いたというものだ。 ところが二万郷の地名縁起は次のものが著名だ。それは備中國風土記逸文の邇磨鄕のものである。これは三善清行「意見封事十二箇条」より引用されたもので、以下の通りである。

臣、去る寛平五年、備中の介に任ぜられき。彼の國下道の郡に邇磨の郷あり。爰ここに彼の國の風土記を見るに、皇極天皇の六年、大唐の將軍、蘇定方、新羅の軍を率て百濟を伐ちき。百濟、使を遣はして救を乞ひき。天皇、筑紫に行幸して、救の兵を出さむとしたまひき。時に、天智天皇、皇太子たり、政まつりごとを攝ふさねたまひて、従ひ行でましき。路に下道の郡に宿りたまひ、一つの鄕の戸邑いへむらいたく盛りなるを見まして、天皇、詔を下して、試に此の鄕の軍士を徴したまふに、即ち勝すぐれたる兵二萬人を得たまひき。天皇、大く悅ばして、此の邑を名づけて二萬の鄕と曰ひき。後に改めて邇磨と曰ふ。其の後、天皇、筑紫の行宮に崩かくりたまひて、終に此の軍を遣らざりき。(岩波古典文学大系『風土記』)

 これは白村江の戦いの節に、中大兄皇子がこの郷で二万の軍士を徴兵した、それを以って郷の名前となったというものである。この「二萬人」を岩波の頭注では「多人数をいうための説話の上の人数」としているが、この文章に続く部分に三善清行は邇磨郷で徴集できる壮丁について、

①天平神護年中=千九百余人

②貞観の初め=七十余人

③清行着任時=老丁二人・正丁四人・中男三人「ありしのみ」

④延喜十一年=「一人もあることなし」

として、「皇極(正確には斉明)天皇六年庚申かのえさるより、延喜十一年辛未かのとひつじに至るまで、纔わずかに二百五十二年、衰弊すいへいの速すみやかなること、またすでにかくのごとし。一鄕をもてこれを推すに、天下の虚耗きょもう、掌たなごころを指して知るべし。

として、警鐘を鳴らしている。「一鄕をもてこれを推すに」とあるように清行はこの「二萬人」を実数として捉えている。
 勿論、この清行の嘆きは実人口の減少ではなく、荘園などに私有されていった結果の公地とそれに伴う公民の減少であろう。
 ところが、昭和二十七年に当時の二万村を含む一町四村の合併により成立した岡山県吉備郡真備町(現倉敷市真備町)の二〇〇四年一〇月の総人口は二二九〇四人(ウィキペディアによる)である。一町四村の合併で出来た真備町の内の二万村であるから現代の二万の人口は単純計算でおおよそ四〇〇〇人から五〇〇〇人。当時の推定人口は現代の二〇分の一以下であろうから、当時の二万郷は二〇〇人から二五〇人ということになる。これから壮丁を徴するとすれば②の七十余人が適正(百姓じんみんの苦しみは別として)ではあるまいか?但し、①の千九百余人があるから、断言は出来ないが、何れにしても「二万人」は備中一国全体からしても多大な人数と云わざるを得ない。
 とすれば、『太平記』の記述の方がリアルに思えてくる。『日本書紀』の戦闘は近畿に限られるが、壬申の乱と呼ばれる戦いは関ヶ原の合戦がそうであったように日本全国で行なわれたに違いなく、『太平記』の作者はその情報の一端を目にしたのではないだろうか?

 さて、さらに怖い話は続く。『太平記』のより古い写本では、この部分を、

吾朝ニハ天智天皇大友ノ皇子ト諍ヒ天下ヲ給てんかをあらそひたまひケルニ・・・

とするものが多い。岩波文庫の底本は西源寺本だが、この部分の「天武天皇」の脚注に

底本「天智天皇」を改める。次々行も同じ。

とするように西源寺本でも同様だ。壬申の乱の一次史料は『日本書紀』しかないし、それを信じる限りは「天智天皇と大友皇子が戦った」など虚妄でしかない。だが、『日本書紀』を本当にそこまで信用していいものか。さて。

 

編集後記

 いよいよ焼きが廻ってきたのかも知れません。編集途中で原稿の分量が足らないのに気付き正木さんに泣きついて、たった二日で素晴しい論考(梅花歌)を戴いたのですが、最終段階でさらに一頁分の計算間違いを発見。どうにかこうにか埋め合わせを致しました。ご寛恕の程を。尚、一頁は「割付担当の穴埋めヨタ話」シリーズでは最長です。高松市西村秀己


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"