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「壹」から始める古田史学・二十 磐井の事績 正木裕(会報154号)
「壹」から始める古田史学・二十二
磐井没後の九州王朝2
古田史学の会事務局長 正木裕
前号では、磐井没後も倭国(九州王朝)は存続し、葛子の時代には全国に屯倉が設置され、半島との戦に備えていたことを述べました。しかし、『日本書紀』を見る限り、新羅は着々と任那と称される半島南部の諸地域を支配下に置いていきます。今回は、そうした新羅の進出に対する倭国と半島の諸勢力の対応を述べ、任那復活戦を戦ったのはヤマトの欽明等ではなく倭国(九州王朝)の大王、おそらく磐井の後継者「筑紫の君葛子」と考えられることを述べます。
1、新羅・高句麗の攻勢で混乱する半島情勢
磐井の没後、新羅は任那諸国への攻勢を強め、さらに高句麗も南進をはかりますが、半島においてはこうした新羅・高句麗への対応は、決して「一枚岩」ではありませんでした。このことは、現地の「日本府」と称される倭国の官庁や、任那地域の諸の国の旱岐(かんき *諸国の王)、百済の聖明王の動向記事からわかります。(以下『書紀』記事を要約)
欽明二年(五四一)に聖明王は、倭国王(『書紀』では天皇)による任那復活(倭国の支配権を復活させること)の要請への対応を諸氏に諮りますが、任那諸国の王たちは「(任那復興を)再三新羅と協議したが(良き)答は得られない。天皇の意図に言葉を差し挟むつもりはないが(「誰か敢えて間いなび言もうさむ」)、任那の境は新羅に接しており、(事を荒立てて)卓淳等の国のように滅亡するのを恐れる。」と答えます。(*卓淳とくじゅん国等は五三〇年ごろに新羅に併合されている)
また、同年七月には安羅の日本府は新羅と計はかりごとを通じていた、任那と新羅が策を運めぐらしていたとあり、日本府の的臣いくはのおみに至っては欽明五年(五四四)に新羅の衣冠を着ていたとも書かれています。これは、倭国の現地機関は新羅との和議を進めていたことを意味します。
一方、百済自身は、新羅との和議には反対し、天皇の任那復活への行動要請を、任那の執事と日本府の執事を召して協議していますが、任那・日本府とも消極的で、実際に「任那復興」のため軍事行動を興すことはありませんでした。そうしているうち、高句麗は欽明七年(五四六)の陽原王即位以降南進策を進め、百済・新羅を脅かします。これに対し、欽明一二年(五五一)に聖明王は新羅と共に高句麗を討ちますが、新羅は欽明一四年(五五三)に、逆に高句麗と結んで百済を攻めます。
2、百済の対高句麗・新羅戦を支援したのは九州王朝
この事態をうけ、欽明一五年(五五四)に百済支援のため「筑紫」から「助けの軍、数一千・馬一百匹・船四〇隻」が派遣されます。軍は六月に戦地に到着しますが、その時に火箭で戦い函山城落城に貢献したのが「竹斯物部」莫奇委沙奇まがわさかです。また、さらに高句麗・新羅の連合軍と戦うためには「竹斯の嶋の上の諸の軍士いくさ」の派遣が要請されています。その戦闘で聖明王は新羅によって殺されてしまいますが、その際活躍するのも鞍橋君くらじのきみとよばれる「筑紫国造」で、鞍橋君は今も福岡県鞍手郡鞍手町の鞍橋神社に祀られています。
◆欽明一五年(五五四)六月。能く射る人・筑紫国造といふもの有り。進みて弓を彎ひき、占擬さしまかなひて新羅の騎卒の最も勇壯なる者を射落す。發はなつ箭やの利ときこと、乘れる鞍橋くらぼねの前後を通いとほして、其の被甲よろひの領會くびに及ぶ。・・尊び名付けて鞍橋《くじら 矩羅膩》の君と曰ふ。 さらに欽明一七年(五五六)には百済王子恵くゑいを「筑紫国の舟師ふないくさ」や「筑紫火の君」が本国に送っていきます。
◆欽明一七年(五五六)正月。阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣して、筑紫国の舟師を率て、衞まもり送りて国に達いたらしむ。別に筑紫火君《百済本記に云はく「筑紫の君の児、火中君の弟。」といふ》を遣して、勇士一千を率ゐて彌弖《みて 彌弖、津の名なり。》に衞り送らしむ。
これらの軍は皆ヤマトの天皇欽明が派遣したように書かれていますが、実際の戦闘ではこのようにヤマトの王家の影も形もありません。「筑紫火の君」が「筑紫の君の児」であれば、舟師や勇士を派遣したのは「筑紫の君」ということになります。それでは「筑紫の君」とは誰の事でしょうか。
『古事記』で磐井は「筑紫の君」と呼ばれ、『書紀』では磐井の子葛子も「筑紫の君」と呼ばれていますから、九州王朝の大王を意味すると考えられます。『書紀』に引用された『百済本記』に「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨みまかる」とある五三一年に磐井が没したなら、この時葛子が即位し、かつ、葛子は「太子」にあたらない年少の子だったことになります。五五六年は即位から二五年ですから、葛子はまだ存命(在位)し「筑紫の君」と呼ばれていた可能性が高いと思われます。(注)
3、任那滅亡と『書紀』記事の不思議
しかし、欽明二三年(五六二)に、遂に任那諸国は新羅に滅ぼされてしまいます。
◆『書紀』欽明二十三年(五六二)春正月に、新羅、任那の官家を打ち滅しつ。〈一本に云はく、二十一年(五六〇)に、任那滅ぶといふ。総ては任那と言ひ、別ては加羅国・安羅国・斯二岐しにき国・多羅国・卒麻そちま国・古嵯こさ国・子他した国・散半下さんはんげ国・乞飡こちさん国・稔禮にむれ国と言ふ。合せて十国なり。〉
これに対し、倭国は同年七月に、大将軍紀男麻呂を派遣し、新羅を討伐しようと試みましたが、男麻呂の警告に反した河辺臣の独走と新羅の偽計により逆襲を受けます。倭国造手彦は辛うじて逃走しましたが、将軍河辺臣他が虜になり、調吉士伊企儺いきなが殺される等大敗を喫しました。
『書紀』の問題はここからです。このように任那は五六〇年又は五六二年に亡び、それ以降任那が回復されたことはありません。にもかかわらず推古八年(六〇〇)には、その任那と新羅が「交戦」した記事があるのです。
◆①推古八年(六〇〇)春二月に、新羅と任那と相攻あひせむ。天皇、任那を救はむと欲す。
◆②是歳、境部臣に命ことおほせて大将軍とす。穂積臣を以て副将軍とす。〈並に名を闕もらせり。〉則ち万余の衆を将て、任那の為に新羅を撃つ。是に、直に新羅を指して、泛海ふねから往ゆく。乃すなわち新羅に到りて、五つの城を攻めて抜く。是に、新羅の王、惶かしこみて、白旗を挙げて、将軍の麾しるしのはたの下もとに到りて立つ。多多羅たたら・素奈羅すなら・弗知鬼ほちくゐ・委陀わだ・南加羅ありしひのから・阿羅羅あらら、六つの城を割きて、服したがはむと請まうす。時に、将軍、共に議はかりて曰はく、「新羅、罪を知りて服したがふ。強しひて撃たむは可よからじ」といふ。則ち奏し上ぐ。爰ここに天皇、更また、難波吉師神みわを新羅に遣す。復また、難波吉士木蓮子いたびを任那に遣す。並に事の状を検校かむがへしむ。爰ここに、新羅・任那、二つの国、使を遣して調貢みつきたてまつる。仍よりて表もうしぶみを奏りて曰さく、「天上に神有まします。地に天皇有まします。是の二神を除おきたまひては、何いずくにか亦畏かしこきこと有らむや。今より以後、相攻むること有らじ。且また般柁を乾ほさず、歳毎に必ず朝まうこむ」とまうす。則ち使を遣して将軍を召し還す。将軍等、新羅より至る。即ち新羅、亦任那を侵す。
欽明二十三年(五六二)に新羅に併合され、消滅した「任那」と、併合した「新羅」とが、三十八年後の推古八年(六〇〇)に「相攻む」といい、「新羅・任那、二つの国、使を遣して調貢みつきたてまつる」というのは、何としても不可解です。また、「万余の衆を将て、『任那の為に』新羅を撃つ」というのも、「任那の存在」が前提になっている詞であり、結局この記事は「任那滅亡前」の出来事としか考えられないのです。
4、「一運(六〇年)」繰り下げられていた任那救援戦
『書紀』では神功紀記事が「二運(一二〇年)」繰り上げられていることは良く知られており、これは『書紀』の編纂で、「干支の合う年に記事を移動(繰り上げ・繰り下げ)する手法が用いられた」ことを示しています。
そして、推古八年(六〇〇)二月の「一運(六〇年)」前の欽明元年(五四〇)九月には、新羅を討伐し任那を復興させるため半島に派遣する軍の、規模・陣容を検討した記事があるのです。
◆③欽明元年(五四〇)九月己卯(五日)に、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稲持・物部大連尾輿等従ふ。天皇、諸臣に問ひて曰はく、「幾許いくばくの軍卒いくさをもて、新羅を伐うつことを得む」(*どれ位の規模の軍を送れば新羅を討伐出来るのか)とのたまふ。物部大連尾輿等奏して曰はく、「少し許ばかりの軍卒をもちては、易たやすく征つべからず(*小規模の軍では討伐出来ない)」といふ。
つまり推古八年(六〇〇)記事が、「一運(六〇年)」前の欽明元年(五四〇)のものであれば、次のような事件の流れとなります。
(➀記事)推古八年(六〇〇)二月(本来は六〇年前の「欽明元年(五四〇)二月」)激化する新羅と任那の紛争(新羅の侵略)に対応し、二月に任那救援を企図しました。
(③記事)欽明元年(五四〇)九月に「軍容(陣立て)」を検討しました。しかし、「幾許の軍卒(少ない兵力)」では討伐は困難との結論となります。
(②記事)推古八年(六〇〇)是歳(本来は六〇年前の「欽明元年(五四〇)是年」)に、この判断を受け、大将軍境部臣らのもと、「万余の大軍」を以て任那の為に新羅を撃つことになったのです。
つまり、欽明元年二月に、新羅に侵略され窮している任那の救援を計画し、九月には新羅討伐に必要な軍容を検討しましたが、少ない兵力ではだめだと判断し、「万余の衆」という軍容を整えて新羅を攻めた。そして、この新羅討伐で勝利した結果、停戦(相攻むること有らじ)となり、新羅の朝貢も約束された、という「合理的な事態の推移」となるのです。
このように推古八年記事は、「一運(六〇年)」前の欽明元年から切り取られたものだったと考えれば、任那滅亡の遥か後年に新羅・任那が「相攻む」という矛盾は消滅するのです。
5、推古紀の任那滅亡記事も「一運(六〇年)」繰り下げられていた
このような考えを裏付けるのが推古三十一年(六二三)の「任那滅亡記事」です。(*『書紀』「天理本」による)
◆推古三十一年(六二三)是歳、新羅、任那を伐つ。任那、新羅に附きぬ。
推古三十一年とあるのですが、この岩波『日本書紀』が底本とする「天理本」は「推古三十年が空白」となっています。一方、「岩崎本」ではこの記事は推古三十年(六二二)のものとなっています。天文学者・暦学者小川清彦氏は「月朔干支の誤り」を検討し、天理本など諸本で「推古三十二・三十三年」とあるのは「岩崎本」の「推古三十一・三十二年」とあるのが正しい、つまり天理本は「一年繰り下がっている」ことを明らかにされています。(『日本書紀の暦日について』一九三八年頃)。三二年記事が本来三一年の記事なら、「推古三十一年(六二三)記事」の年次は必然的に誤りで「推古三〇年(六二二)の記事」となります。
従ってこの「任那滅亡」記事の「一運(六〇年)」前は五六二年が正しく、『書紀』の「欽明二十三年(五六二)春正月に、新羅、任那の官家を打ち滅しつ」という「任那滅亡記事」と見事に一致するのです。
6、任那支援の事績も繰り下げられていた
任那滅亡記事が「一運(六〇年)」繰り下げられていたなら、任那を新羅から護り、滅亡を防ぐための事績も、当然繰り下げられていることになります。この点、欽明二年(五四一)四月に任那諸国の官人と任那日本府の吉備臣が百済に赴き、百済聖明王と「倶ともに詔書を聴うけたまはる」との記事があります。(*一部略)
◆④欽明二年(五四一)四月に、安羅・加羅・卒麻そちま・散半奚さんはんげ・多羅・斯二岐しにき・子他した等(*の代表)と任那の日本府吉備臣と、百済に往赴ゆきて、倶ともに詔書を聴うけたまる。百済の聖明王、任那の旱岐かんき等に謂かたりて言はく、「日本の天皇の詔のたまふ所は、全ら、任那を復建せよといふを以てせり。」といふ。
不思議なことに、この記事では「倶に聴る」と「詔の受け手」の記事があるのに「詔書を宣した人物」の名がありません。ところが六〇年後の推古九年(六〇一)三月には、「坂本臣糠手」が「急ぎ任那を救え」との「詔」を宣るべく百済に派遣されているのです。そして、緊急で重要な詔であるのに、その後の経過は一切記されていません。
◆⑤推古九年(六〇一)三月戊子(五日)に、大伴連齧くひを高麗に遣し坂本臣糠手を百済に遣して、詔して曰はく、「急すみやかに任那を救へ」とのたまふ。
これも「一運(六〇年)」遡る欽明二年(五四一)のことなら、「三月」に坂本臣を派遣し、「四月」に、任那諸国王(旱岐)と日本府の吉備臣、百済聖明王らに、坂本臣が「任那を救へ」との詔を宣したことになり、月の並びも「三月派遣、四月宣詔」と順序通りとなります。「⑤の推古九年(六〇一)三月に、任那を救えと『言うよう』坂本臣が百済に派遣され」、「④の欽明二年(五四一)四月に、任那を復建せよと百済王らが『言われた』」という「六〇年」離れた二つの記事は、実際は同じ欽明二年(五四一)の記事として見事に整合しているのです。
そして、この詔は、欽明元年(五四〇)の停戦と朝貢の約束にもかかわらず、翌五四一年に再び任那侵略を始めた新羅に対し、倭国(九州王朝)は前年に奪還した阿羅羅(安羅)・多多羅(多羅)・南加羅(卒麻・子他等)等の任那諸国と百済に対し、一致して新羅と戦うよう要請したものとなるのです。
しかし、冒頭で述べたように、その詔を聴いた聖明王は欽明二年(五四一)七月条で、日本府が新羅と計はかりごとを通じていることを挙げ、「夫れ新羅の甘言に誑あざむくことを希ねがふは、天下の知る所なり。汝等妄みだりに信うけて、既に人の權はかりごとに墮おちき。」と述べています。これは、一方で百済に「任那復興」のための出兵を要請しながら、その反面、新羅にも使者を遣し「和議」交渉が進められていることを知り、強い不信感を表明したものです。
そして、「爰ここに恐るらくは、誣しひ欺あざむける網穽あみあなに陷おち罹かかりて、国を喪うしなひ、家を亡して、人の繋虜とりことならむことを」と新羅との和解への反対意見を表明し、「願はくは今其の隙間ひま、其の備へざるを佔うかがひて、一もはら兵を挙げて取らむ。」と和議ではなく強硬策を進言しています。
この欽明二年(五四一)七月の聖明王の進言を受け、本来は同年十一月に新羅出兵が議せられた記事が、六〇年後の推古九年(六〇一)十一月(五日)の次の記事に移されたと考えられるのです。
◆推古九年(六〇一)十一月甲申(五日)新羅を攻むることを議はかる。
このように、「無い」と思われていた欽明二年(五四一)四月の「詔を宣した人物」が、六〇年後の推古九年(六〇一)三月に見える坂本臣であり、坂本臣の百済派遣の「後日譚」が、六〇年前の欽明二年(五四一)四月・七月の記事と、推古九年(六〇一)十一月に記されていることがわかります。
逆に言えば欽明二年(五四一)三月から十一月までの記事が、欽明二年(五四一)四月・七月と、推古九年(六〇一)三月・十一月記事とに「分割」され記されていたことになるのです。
7、『日本書紀』が「創造」した歴史
結局、『書紀』欽明紀に任那救援戦を戦ったと書かれているのは、「筑紫の勢力」即ち「筑紫の君」と呼ばれた九州王朝の大王、おそらく磐井の後継者「筑紫君葛子」であり、推古紀の任那救援戦記事も、「一運(六〇年)」前の、九州王朝の「筑紫の君」の任那救援戦の記事を盗用したものだと考えられます。
『書紀』を編纂した大和朝廷は、この盗用によって、
◎磐井没後から推古までの六世紀を通じて、ヤマトの天皇たちが半島で戦い権勢をふるっていた。だから『隋書』に「新羅・百濟は皆俀(倭)を以って大国にして珍物多しと為す。並びに之を敬仰して、恒に使を通じて往来す」と記されるのだ。当然日出る処の天子「多利思北孤」も、推古天皇の摂政であるヤマトの「聖徳太子」のことなのだ。
という歴史を創造しようとしたのだと考えられます。
(注)筑紫の君の子の「筑紫火の君」は、千名を率いて半島に出陣するに相応しい年齢で、彼に命を下した親の「筑紫の君」は相当の高齢だが在位していたことになる。
8、消された九州王朝の重要な出来事
さらに一言加えれば、『書紀』の「天理本」は「推古三十年(六二二)」が空白で、「岩崎本」では推古三十年に「欽明二十三年(五六二)」の任那滅亡記事が繰り下げられていると述べました。つまり『書紀』のどの本にも、「推古三十年(六二二)の実際にあった事実」が書かれていないことになります。その推古三十年(六二二)は、釈迦三尊像光背銘から「上宮法皇(多利思北孤)」の崩御年であることがわかります。ちなみに、翌六二三年には九州年号が「仁王」と改元されています。従って、この年の九州王朝の史書には、多利思北孤や次代の「利」に関する多くの記事があったはずです。多利思北孤の葬儀には各国の使者も弔問に訪れたでしょうし、即位の式典も盛大におこなわれたことは確実です。『書紀』編者は、これら九州王朝にとり極めて重要な出来事の記事を「カット」し、六〇年前の任那滅亡記事で埋め、推古天皇の時代まで任那がヤマトの天皇家の支配下にあったように見せたのです。このように大和朝廷は、「真実の歴史の抹消」と「偽りの歴史の創作」を並行して行ったのだと言えるのです。ただ、六世紀を通じてヤマトの天皇たちが権勢をふるっていたとするには、六〇年後の推古紀に半島の任那救援戦記事を載せるだけでは不十分です。欽明から推古の間には、敏達・用明・崇峻の各天皇が存在しており、そこに任那や新羅の記事が無いのは不自然に感じられるからです。そこで『書紀』編者は「中間報告」のような記事を崇峻紀に「差し込んだ」のですが、これは次回に述べることにします。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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