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「壹」から始める古田史学・二十 磐井の事績 正木裕(会報154号)
「壹」から始める古田史学・十八
「磐井の乱」とは何か(2)
古田史学の会事務局長 正木裕
1、『書紀』の「磐井の乱」記事の真相
前回は、「磐井の乱」に関する古田武彦氏の「磐井の乱は継体の乱」とする旧説(注1)と、「乱そのものも無かった(造作だ)」(注2)とする新説を紹介しました。ただ、いずれにしても「『書紀』に記すような磐井の反乱はなかった」とすることに変わりはありません。そこで今回は『書紀』などの「磐井の乱の記事」はいったい何なのか、その真相を検討していきます。ここで注意すべきことは「造作」といっても二通りがあるということです。
一つは「『書紀』編者が全く新たに創作した」というもの。
二つは「『書紀』編者が別の記事を盗用・改変した」というものです。
古田氏は『盗まれた神話』で、『書紀』には九州王朝の歴史が盗用されているとし、九州王朝の筑紫平定説話と九州一円平定説話が、神功皇后紀の筑後平定説話と景行紀の熊襲遠征説話にそれぞれ盗用されている例をあげ、「磐井」に関しても、百済側の磐井に関する記事を継体紀に「接合」させていると述べています。こうした盗用・接合を疑いながら『書紀』記事を見ていきましょう。(前回掲載の『書紀』記事を参照しながら読んでください)
2、磐井は「武」を継ぐ倭国の大王だった
『書紀』では磐井の版図について「磐井、火・豊、二つの国に掩おそひ拠る」と書かれています。「掩」は「覆う」で、磐井は筑紫国造(君)ですから「筑紫(筑前と筑後)・肥(肥前と肥後)・豊(豊前と豊後)全体を『くまなく』支配していた」ことを示しています。
また、「高麗・百済・新羅・任那等の国の年としごとに職貢船(朝貢の船)を誘り致す」と、あたかも「だまして誘おびき寄せた」ように記しますが、これは「我が国の中心はヤマトの王権だから本来彼らはヤマトに貢ぐべきものだった」という『書紀』の「名分」による書き方です。半島諸国が「だまされ」て朝貢するなどありえず、真実は磐井が倭国の代表者であるから、「自主的」に毎年のようにこぞって朝貢したのです。
そして前回述べた通り、五世紀末から六世紀初頭の百済領域における北部九州様式の前方後円墳や出土物から、半島を平定した「倭王武」は通説でいう「近畿天皇家の雄略」ではなく九州の大王だと考えられます。従って「武」を継ぐ磐井が諸国から朝貢を受けるのは当然のことだったのです(注3)。そうであれば「近江毛野臣」が継体の指示で新羅討伐に渡海し、これを磐井が妨げるなどありえないことになります。つまり『書紀』に記す磐井による「毛野臣の渡海妨害」は「造作」だと考えられるのです。
3、磐井による「毛野臣の渡海妨害」は「造作」
これを証するのが「磐井の乱」の発端となった「毛野臣の渡海」の理由・原因です。『書紀』では、毛野臣は次のとおり新羅が併合した南加羅を復活させるため任那に派遣されたと書かれています。
◆継体二一年丁未(五二七)六月甲午(十三日)に、近江毛野臣、衆六万を率ひきいて、任那に往きて、新羅に破られし南加羅(*金官国とその周辺)・喙己呑とくとこんを為復かへし興建(た)てて、任那に合せむとす。
しかし、「新羅が南加羅を奪ったのは毛野の渡海以後の事で、ここの記述には誤りがある」(岩波『書紀』解説)のです。具体的には『書紀』では新羅の南加羅・喙己呑侵略は継体二三年(五二九)から二四年(五三〇)の事だと書かれています。
(四月)四村を抄ぬき掠かすむ。金官こむかん・背伐へぼつ・安多あた・委陀わだ、是を四村とす。
一本に云はく、多多羅たたら・須那羅すなむら・和多わた ・費智ほちを四村とす。
盡ことごとにに人物を將ゐて、入其の本国に入りぬ。或あつひとの曰はく
「多々羅等四村の掠められしは、毛野臣の過あやまりなり。」
◆継体二四年(五三〇)(九月)騰利枳牟羅とりきむら・布那牟羅ふなむち・牟雌枳牟羅むしきむら・阿夫羅あぶら・久知波多枳くちはたき五城を拔とる。(*二三年条の重複か)
「金官」は南加羅の国で、『書紀』ではその奪還のため毛野臣が派遣されることになったと記していますから、「毛野臣の渡海」は金官が奪われた継体二三年~二四年以降の事となるはずです。しかし、奪われた原因は「毛野臣の過ち(失政)」によるものとされていますから、毛野臣はそれ以前から任那に駐在していたことになります。「既に任那にいた毛野臣」が任那に渡海することなどありえません。従って「衆六万を率て、任那に往」ったのは別人ということになります。
この点前号で述べた通り、古田氏は継体二五年以前の記事は「三年間繰り下げ」る必要があるとしました。そして、「磐井の乱」が始まった継体二一年(五二七)六月記事が三年繰り下がり、継体二四年(五三〇)六月のことなら、四月に「毛野臣の過ち」によって新羅に破られた南加羅復興のために、「『書紀』で毛野臣に置き換えられた人物(X)」が衆六万を率て渡海した、或は渡海を企図したことになるのです。
「倭王武」の上表文には「昔より祖禰そでい躬みずから甲冑を擐つらぬき山川を跋渉し、寧処に遑いとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とあります。この上奏文からすれば、新羅討伐に赴いた、または赴こうとした人物「X」とは、倭王武の後継である「磐井」その人であり、『書紀』では「磐井」と「毛野臣」が入れ替えられている可能性が高いのではないでしょうか。
そうであれば、磐井の渡海を妨げようとしたのが「毛野臣」ということになります。なぜなら、磐井が来れば新羅に南加羅を奪われた「過ち」を罰せられるのは火を見るより明らかなのですから。
そして、継体二四年(五三〇)は『百済本記』に「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」とある辛亥(五三一)年三月の前年にあたるのです。
4、「磐井の悪行」は「毛野臣の悪行」
また、「磐井」を「毛野臣」に置き換えるなどの「人物を入れ替える」手法は、継体二一年(五二七)記事のみならず「磐井の乱記事全体」に用いられている可能性が高いのです。そして、これを証するのが「磐井の悪行」記事と、毛野臣が関与した一連の「加羅擾乱じょうらん」記事です。
『書紀』では磐井の乱の冒頭で、次のとおり「磐井がいかに悪人であるか」を記しています。(前号掲載の『書紀』記事を参照ください)
①陰ひそかに叛逆そむくことを謨はかる(ひそかに謀反を企てること)
②猶預うらもひして年を経ふる(心で思い、ぐずぐずして実行しないこと「岩波注」)
③事の成り難きを恐りて、恒に間隙すきを伺ふ(謀反が失敗しないようチャンスを待つこと)。
新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏たへよと(新羅と内通していた)
④任那に遣せる毛野臣の軍を遮り、乱語なめりごとし戦ひて受けず(暴言を吐いて毛野臣の軍を妨げ戦うこと)
⑤驕りて自ら矜たかぶる(傲慢でおごり昂ぶること)、
等です。
しかしこれらの悪行を示す「具体的な事実」は書かれていません。そして、これら一連の「悪行」は全て、継体二四年(五三〇)におきた「加羅擾乱」における「毛野臣」にあてはまるのです。
「加羅擾乱」とは継体二三年(五二九)~二四年の新羅による南加羅侵略に至る任那・百済・新羅の大規模な抗争を言います。ここで関連する『書紀』記事を挙げます。
(1)、継体二四年(五三〇)秋九月に、任那の使奏して云さく、「毛野臣、遂に久斯牟羅にして舍宅を起し造りて、淹留とどまりすむこと二歳、〈一本に三歳といふは、去来かよふ歳の数を連ぬ。〉政を聴くに懶(よそほしみ *怠ける・怠る)す。爰に日本人と任那の人との、頻しきりに児息こうめるを以て、諍訟決め難きを以て、元より能判ことわること無し。毛野臣、楽このみて誓湯うけゆ置きて曰はく、『実ならむ者は爛ず。虚あらむ者は、必ず爛れむ』といふ。是を以て、湯に投めして爛れ死ぬ者衆おほし。又吉備韓子那多利なたり・斯布利しふりを殺し、〈大日本おほやまとの人、蕃となりくにの女を娶りて生めるを、韓子とす。〉恒に人民を悩して、終に和解あまなふこと無し」とまうす。
(2)、是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣はして徴し入る。而に来肯まうきかへず(*拒否した)。願しのびに、河内母樹馬飼首御狩を以て、京みやこに奉詣まうでしめて、奏して曰さく、「臣、未だ勅の旨を成さずして、京郷みやこに還入まうでこば、労ねぎらへて往きて虚しくして帰るなり。慚しく悪きこと安いずくにか措かむ。伏して願はくば、陛下、国命を成して、朝に入りて、謝罪うへなひまうさむを待ちたまへ」とまうす。使を奉し後に、更自ら謨はかりて曰はく、「其れ調吉士つきのきしは、亦是皇華の使なり。若し吾より先だちて取帰りて、依実あるままに奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。乃ち調吉士を遣して、衆を率ひきゐて伊斯枳牟羅城いしきむらのさしを守らしむ。
(3)、是に、阿利斯等(ありしと *任那王)、其の細しく砕しきことを事として、期ちぎりし所を務めざることを知り、頻しきりに帰朝かへりまうでねと勧むれども、尚し還ること聴かず。
(4)、是に由りて、悉に行迹あるかたちを知りて、心に翻背かへりそむくことを生なす。
a、乃ち久礼斯己母くれしこもを遣して、新羅に使して兵を請はしむ。奴須久利なすくりを、百済に使して兵を請はしむ。
b、毛野臣、百済の兵来ると聞きて、背評に迎へ討つ。〈背評は地の名なり。亦の名は能備己富里なり。〉傷れ死ぬる者半なり。
c、百済、奴須久利を捉へて、杻・械・枷・鎖して、新羅と共に城を囲む。
d、阿利斯等を責め罵りて曰はく、「毛野臣を出すべし」といふ。毛野臣、城に嬰よりて自ら固む。勢いきほひ擒とりうべからず。
e、是に、二つの国、便たよりの地を図度はかりて、淹留へとどまること弦晦ひとつきになりぬ。城を筑きて還る。号けて久礼牟羅城くれむらのさしと曰ふ。還る時に触路みちならしに、騰利枳牟羅とりきむら・布那牟羅ふなむら・牟雌枳牟羅むしきむら・阿夫羅あぶら・久知波多枳くちはたき、五つの城を抜きとる。
(5)、冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、『毛野臣、人と為り傲もとり恨いすかはしくして治体まつりごとを閑ならはず。竟に和解あまなふこと無くして、加羅を擾乱さわがしつ。倜儻たかほに意の任にして、思ひて患を防がず』とまうす。
例えば磐井の悪行の➀の「陰に叛逆くことを謨る」、③の「恒に間隙すきを伺ふ」については、(4)記事の「翻背かへりそむく」記事があたります。これは、
㋐任那の使の奏上で毛野臣の非行を知った朝廷は、調吉士を派遣し召喚したが毛野臣は拒否した。
㋑任那王阿利斯等も、些末な理由を並び立て任務を懈怠した毛野臣に帰国を勧めたが応じなかった。
㋒毛野臣は「是に由りて」(このことで)必ず重い懲罰を受けるだろうこと(行迹・ゆくさき)を予想して叛意を抱いた、
というものです。岩波注は阿利斯等が叛意を抱いたかのように解釈していますが、阿利斯等に謀反の動機は全く無く、王命を拒否したことによる懲罰を恐れた毛野臣こそが、謀反を企てた人物に相応しいのです。
また、➁の「猶預うらもひして(*ぐずぐずとして決断しない)年を経た」とあるのは、(1)記事の任那の使の言に毛野臣は「政を聴くに懶す(怠ける)」とか「決め難きを以て、元より能判ことわること無し」とあります。
④の「乱語なめりごとし戦ひて受けず」ですが、これは磐井が毛野臣に、「今こそ使者つかひひとたれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器おなじけにして同食ものくらひき。安んぞ率爾にはかに使となりて、余をして爾が前に自伏したがはしめむ」と言って、逆らって戦った(「遂に戦ひて受けず」)ことを指します。
この「使者を拒否」したことについては、(2)記事で毛野臣の半島における悪行・不行状を知った朝廷が、「調吉士」を「皇華の使(勅使)」として派遣し、毛野臣に帰国を命じます。しかし、毛野臣は抵抗し帰国を拒否します。
従って、磐井の「今こそ使者たれ」以下の詞は「毛野臣が皇華の『使者』調吉士の命(勅命)を拒否したこと」に相応しく、『書紀』はこれを、「磐井が毛野臣に言ったこと」と「入れ替え」たのだと考えられます。『古事記』で「筑紫の君」とある磐井と、「近江の毛野臣」が同僚だったとは考えづらく、また、そのことを示す記事も全くありません。そもそも「武」を継ぐ磐井が毛野臣を友として「肩摩り肘触りつつ、共器にして同食」したとは考え難いことです。
そして、「遂に戦ひて受けず」とは、調吉士が帰国し毛野臣の非行と勅命に従わなかったことが奏上されれば、重い懲罰は必至となるため、これを恐れた毛野臣が調吉士に対し兵を挙げた(あるいは兵をあげて勅命を拒否した)事を示すものになるでしょう。そして勅使が毛野臣の返答の朝廷への奏上を後回しにして、勅命を拒否した毛野臣の要請で伊斯枳牟羅城を護ることなど到底考えられません。
そうであれば、「調吉士を遣して、衆を卒ひきゐて伊斯枳牟羅城を守らしむ」との記事は、本来は「毛野臣が衆を卒て調吉士から伊斯枳牟羅城を守った」のか、「調吉士が衆を卒て、戦う姿勢を見せた毛野臣から伊斯枳牟羅城を守った」のか、何れかだと考えられますが、毛野臣は「城によりて自ら固む(籠城した)(4)のd」とあることから、前者の可能性が高いと思われます。
また、⑤の「驕りて自ら矜ぶる」についていえば、(5)の「和解あまなふこと無くして、加羅を擾乱さわがしつ。倜儻たかほに意の任ままにして、思ひて患を防がず」があてはまります。
このように『書紀』に「磐井の悪行」と書かれている内容は、全て「毛野臣の悪行」にあてはまり、かつ「朝廷の命に従わず謀反を企図し戦った人物」と書かれているのも毛野臣でした。
5、「毛野臣の謀反」の内容も記されていた
そして、重要なことは、「毛野臣謀反の具体的な事実」が加羅擾乱記事(4)のa~eに記されていると考えられることです。
倭国の朝廷に謀反を企て戦おうとしたのが毛野臣であれば、新羅と百済に支援の出兵を求めることは十分考えられます(a)。ただ、百済は継体二三年三月に倭国朝廷から「多沙津」の割譲を受け、また百済の将軍は南加羅の領有に関する新羅・安羅との外交儀式において、毛野臣から軽視されたことに恨みを抱いたとありますから(注4)、毛野臣に加担するはずはありません。(注5)
◆継体二三年(五二九)春三月是の月に、遣物部伊勢連父根・吉士老等を遣して、津を以て百済王に賜ふ。
そこで百済は(b・c)に記すように毛野臣を攻め使者奴須久利を捉へ城を囲みます。
一方、新羅も出兵しますが毛野臣との戦いは記されず、使者久礼斯己母についても、捕虜にしたというような記事もありません。これは明らかに毛野臣の要請により派兵してきたことを意味するものです。「磐井の悪行」に「新羅との内通」が記されていますが、これも「毛野臣」の事と考えればよく理解できます。また、新羅・百済が南加羅を廻って「共同戦線を張る」ことは考え難く、「新羅と共に城を囲む」とは、毛野臣の籠城する(城によりて自ら固む)城を囲んで、百済と新羅がにらみ合いを続けたということではないでしょうか。
dの「阿利斯等を責め罵りて曰はく、『毛野臣を出すべし』といふ。(責罵阿利斯等曰、可出毛野臣)」も、百済が阿利斯等を責めるのは不自然で、本来は「阿利斯等責め罵りて曰はく、『毛野臣出いずべし』といふ。」、即ち阿利斯等が毛野臣に対し「籠城せず出てこい」と責めたというものだったと考えます。
結局「加羅擾乱」とは、
➀非行を指摘され帰国命令に従わなかった毛野臣が、重い懲罰を恐れ、倭国朝廷を裏切って新羅と結んだ。
➁百済と任那(阿利斯等)はこれに対抗したが籠城した毛野臣を討伐出来ず、新羅は「五つの城を抜きとる」という成果を得て戦線は膠着した、ということになるでしょう。もちろんその背景には新羅による南加羅併合の思惑があったことは疑えません。
そして、継体二四年(五三〇)一〇月に調吉士から報告を受けた「朝廷(九州王朝の磐井)」はこの情勢を打開し、南加羅を復興するため、衆六万を派遣して、あるいは自ら率ひきゐて、任那に出兵することになったのだと考えられます。
こうした、南加羅を新羅から奪還するための、九州王朝による半島派兵の経緯を、『書紀』編者は年次をずらし、人物を入れ替えることにより、全てヤマトの王権の事績であり、九州王朝の磐井をヤマトの配下でありながら新羅と内通し謀反を起こした人物に仕立て上げたことになるのです。
これが古田氏の「三年繰り下げるべきだ」という考えから導かれる「磐井の乱の記事の真相」だと考えられるでしょう。
次号では物部麁鹿火による「磐井討伐」や「領土分割」記事の真相を検討していきます。
(注2)「磐井の乱」はなかった(『古代に真実を求めて』第八集二〇〇五年)
(注3)従って、以下の「朝廷」とは筑紫の朝廷(九州王朝)を意味する。
(注4)毛野臣が百済・新羅・安羅を呼んだ外交儀式で「百済の使將軍君等堂の下に在り。凡て数月再三、堂の上に謨謀(はか)る。將軍君等、庭に在ることを恨む。」とある。
(注5)あるいは「百済に使して兵を請はしめた」のは阿利斯等か。
これは会報の公開です。
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